1998年7月


雑感
        関東学院大学  本間英夫

 サッカー部の部長経験三年目

大学からサッカー部の部長をやるようにいわれてから早三年目に入りました。はじめに当時の学生部部長から是非お願いしますと言われたときは、なぜ私のような素人がやらねばならないのか疑問に思いました。
研究室には一六、七名の学生を抱えて研究教育がおろそかになってはいけないとの思いがありましたが、サッカーは準強化チームでこれからブームになるので大学としても強化していきたいのだと、又熱い奴はいないかと探した結果選んだのだと言われ、その気になってしまいました。
当時の私の部屋の大学院生はこれには反対で、「先生、研究がおろそかになってしまいますよ」と、心配していました。
前部長と話してみると、一週間に一、二回または忙しければ行かなくても良いんだと、又、単に学生と大学とのつなぎ役だからそんなに負担にはなりませんよ、とのことで気楽に承諾することにしました。ただ、私はちゃらんぽらんのところもありますが一度引き受けたからには徹底的にやってみようとの考えもありました。
さて、辞令が下りてから部室にいって見ましたが、なんと我々が三〇年前にクラブ活動で使っていた部室が現在でも使われており、したがってこの三〇年の間で補修工事はあったにしても、たこ部屋のようなものでした。一六畳くらいの部屋の中にはサッカーシューズがあちこちに、泥がべっとり付いたまま散乱しています。又靴の底に泥を付けたままで部室に出入りしているため、床のコンクリートの上が何ミリ、いや何センチもの泥の層で覆われていました。その部室に選手、最上級生が七、八人着替えをしているところでした。私の顔を見ても、挨拶するわけでもなく、どこの親父が来たというような顔と態度をしている。殆どの学生が長髪で、しかも茶髪、耳にはリングが、首にはネックレスが、指にもリングを付けている。キャプテンを探し、今度部長になったからよろしくと、その日はそれでひとまず実験室に戻りました。
これは大変なことになったぞ!先ず彼らの心をつかまねばならない。
私は大学生の時は文化部の観光事業研究部に所属していました。当時、私はこれからのビジネスの一つの柱は観光事業だと思っていたからです。でも、体連系のセンスも大いに持っていたと思います。
当時は応援団の団長以下かなりの団員がキャンパスで見かけると「おーす」と皆、私に向かって声をかけ一礼してくれたものです。
なぜかというと、もう時効ですからちょっとだけ説明しますが、何時も定期試験になると私が教室に入る前に私の席が決まっており、回りは応援団の連中が陣取っていました。私は何時も2B位の濃いめの鉛筆で答案を書いたものです。もう、これ以上、言わなくても、お判りのことと思います。
と言うわけでキャンパス内は肩で風を切って大きな顔で幅を利かせていたものです。センスとしてはあの今では余り見られなくなったバンカラな雰囲気は私にとってぴったりなのです。ところが部室に行ってみると前述のような調子なので、体連も変わったものだとビックリしました。
よーし、先ず、四年生と話し合い、どんなチームを作りたいのか、現在までの戦績はどうなのか、その他、何度か食事をしながら私との信頼関係を作るように努力しました。
練習は毎日殆ど欠かさず、用事がない限り見にゆくようにしました。部員全部で四〇人近くいましたが、なるべく全員の名前を覚える努力をしました。また、年間を通じて幾つかの大会があります。それらの試合は殆ど毎週日曜日たまには土曜日のこともありますが、部長になってからは、土、日無しで、彼らとつきあうことにしました。
学生との間に徐々に信頼関係が芽生え、私の言うことを皆が聞くようになってきました。その頃になってから私は、もう少し部室を綺麗にするよう、泥を全てかき出しシューズを整頓するようマネジャーに促しました。
それまでは練習が終わるとタバコを吸う学生が多かったのですが、心肺機能が低下するからと禁煙にしました。また部室の中の用品があまりないので掃除道具を始め、連絡用の白板やその他を自腹を切って負担することにしました。
強化クラブではないので大学の体育連合会から出る金は僅かで、なんと年間二〇万円だけです。後は全て部員からの部費で運営しているのです。従って、細かい用品は購入できなかったようです。
又、大学の方針とかで、クラブの本拠地を私どもがいる六浦から小田原キャンパスに三から四年計画で移転するとのこと。そうなると小田原にも部員をおかなければならなくなり、それらの選手が本校に練習に来るときは交通費がかなり負担となります。これも私が昨年までは一部を私費でまかなってやることにしました。本年は小田原の部員が増え全て交通費を援助するとなると、それだけでも大変な金額になってしまいます。それに小生が部長を引き受けている間はいいですが、他の方に変わったときにこれは余り良い慣習ではないと判断しました。
いったん部長を引き受けたからには無責任に放り投げることもできないし、引き受けた以上は何かだまされたような気持ちもありましたが、これも結果を出さないと大学からの補助は出ないとのことなので、私の出来る限りのことを徹底してやろうと心に決めたわけです。
信頼関係が出て来るにつれて、私はサッカーのことはわかりませんが、選手は皆かなりのスキルを持っていますので、後は精神的な求心力を付けてやればかなりのところまで持っていけるのではないかと思いました。監督はいたにはいたのですが、アトランタオリンピックの女子チームのコーチに専念されていたので、殆ど指導はしてもらっていませんでした。
それでも神奈川県の一部リーグの中でいつもかなりの成績を上げることが出来ました。しかし、決勝戦ではいつも東海大学と戦いましたが、後半戦で体力を消耗し惜しいところまで行くのですが、敗退していました。
私が部長になって二年目、監督にも少し時間的な余裕が出てきて指導の頻度は上がりましたが、大学からの補助が何もないので監督は自分の将来に対して非常に不安を持っていました。私も何度となく大学に掛け合いましたが余りよい返事はもらえませんでした。そうこうしている内に、監督に外部から声がかかり、残念でしたが監督の給料まで私が払うことが出来ず、この二月で退かれることになりました。
現在は監督不在のまま、選手主導でチーム作りをやり始めました。三月のはじめ頃から、総理大臣杯の県予選が始まり、私が名前だけの監督になって試合の前後に激励したりコメントをしているだけですが、順当に勝ち進み、部長になってから一度も勝てなかった東海大学に、決勝戦で初めて二対〇で勝利を収めることが出来ました。
また六月の初めから神奈川県大会(知事杯)が始まりました。一応、順当とはいえないまでも決勝戦まで勝ち進みました。ディフェンスの主力が怪我で三回戦からでられなかったことも敗因でしたが残念ながら二対一で負けてしまいました。これからは、更に上位のチームと戦い、充実したクラブ生活を送れるよう少しでも彼らのために努力していきたいと思っています。
また、大学院生が心配していた本業の研究が阻害されることはなく、逆にマネージメントは研究もクラブ活動も共通点がたくさんあることが解り逆に自信が出てきました。ちなみに研究のことに関しては三月号に紹介した通りです。