雑感シリーズ

関東学院大学  本間 英夫

                                                      

2年ぶりの海外視察

 2年前のあの忌まわしい9月11日の事件当日はヨーロッパ視察中であった。

その後は、国際テロの可能性が高く大学からも海外の出張は控えるようにとの指示が出ていた。  

したがって、海外の幾つかの学会に出席予定であったが全てキャンセル。1年あまり経過した頃、大学の海外出張禁止も解除された。その直後、中国で国際会議が開催されることになり、研究室の5、6名と学生を参加する予定であった。発表するチャンスと着々と準備を進めていた。しかしながら、今度はSARSが拡散しだし、急遽この国際会議は延期になった。従って、今回の東欧の視察は2年ぶりということになる。しかも表協の現職会長さらには、大学院工学研究科委員長の職についていることもあり、比較的短期の10日間で予定を組んだ。大学は夏休み中であったし、また出席した産業界のメンバーは連休をうまく利用したので実質5日間だけ会社をはなれたことになる。

今回一緒に参加した吉野電化の吉野社長が東欧に関する政治および経済状況を書かれているので、本人の了解のもとに主要部分だけをほぼ転載する形をとった。



1度は地図から消えた国ポーランド

「東欧」という言葉は英語圏の人々の言う Eastern Europe にほぼ合致している。それはロシアとドイツの間の諸国という意味で、当時ソ連よりも西の社会主義国を指しており、本来東独も含まれている極めて政治的な概念である。

 先ず最初に訪れたポーランドは、現在ほぼ単一民族国家をなしている。ポーランド人は、チェコ人やスロバキア人と同じく西スラブ人に属する。東ヨーロッパの北部に位置するポーランドは、北はバルト海に面し、南のスロバキア国境沿いの山脈地を除けば平原の国といってよい。  

ポーランドの語源は Pola (野原、畑) に由来し、事実ワルシャワでタワーに登って見回したが、360度が地平線の世界であった。

ポーランドの歴史は紀元前10世紀くらいまで遡ることができるが、この国ほど栄華衰勢を極めたのも珍しいと言える。ポーランドほど国境線が変動し、時代と共に国の姿を大きく変えてきた国は見当たらない。なかんずく第二次世界大戦後の国境線変更は、ポーランド領土の地理的な中心が約250㎞も西進すると言う極めて大幅なものであった。

15~17世紀、穀物の輸出により東欧の大国となったポーランドは、国土をバルト海から黒海にまで拡大。16世紀末には首都をワルシャワに移し、17世紀には一時モスクワまで進出するほどの繁栄を見せている。

17世紀後半になると国土は荒廃し無政府状態となり、周辺のロシア、プロイセン、オーストリアなどの国々が内政に干渉するようになり、改革が断行されるようになった。

 1772年から1795年の間に3度にわたる分割・割譲の結果、ついにポーランドは世界地図上から姿を消してしまうのである。次にポーランドが地図上に現れるのは、約100年後の第一次世界対戦の終了を待たねばならなかった。   

その後待望の独立をするが、第2次世界大戦によってポーランドは再びドイツとソ連により分割、占領されている。大戦後、ソ連圏に組み込まれたポーランドの悲劇はその後も続くが、連帯運動によって自由化運動は活発化し、1989年、旧ソ連圏で最初の非社会主義政権が発足した。

 現在のポーランドにとってもっとも大きな課題は、経済と外交政策の2点に絞られるが、いずれもEU加盟を抜きにしては論ぜられない。事実、今回ポーランド訪問中にも所々にEU加盟準備事務局の看板が見受けられた。EUに加盟するためには、所謂EUスタンダードをクリアーするか、少なくても僅差に止める必要がある。

其の為にも最低限として、医療、教育、年金制度、国家行政の4つの分野で構造改革が必要とされるが、その結果、財政は予想以上に圧迫され膨大な財政赤字に苦しんでいる。又ポーランドは多大な貿易赤字を抱えており、昨年(2002年度)の赤字額は、71億300万USドルにのぼる。

 失業率も高く、平均で16%、特に高い地域では30%にも達している。これらは従来の鉱工業、農業地域が最も苦境に陥っている事を顕著に著わしており、政府はこれらの地域を経済特別区に指定している。1995年以後、これらの地域では日本の投資を含め、現実に着実に、工場立地が進められ、いすゞ自動車のディーゼルエンジンの工場や、西部地域にはトヨタの部品工場が設立され、この地域の失業率の低下に日本も貢献している。

 ポーランド産業の未来を考察してみると、より競争力を高める為には、構造改革を推進し、知識を基本とする経営を行う一方で、ポーランド最大の強みである比較的安価な労働力を維持する事が必要である。事実、今回の視察でも了解できたが、ポーランドの労働力に関しては、能力が高く、勤勉で、ドイツの6分の1から、4分の1と安い。



チェコ共和国 “えっ、いつ別れたの?”

 次に訪問した、チェコスロバキアは、1993年1月に、チェコ共和国、スロバキア共和国に、それぞれ分離独立したが、歴史的に見れば、逆にチェコとスロバキアがくっついていた期間の方が短い。チェコとスロバキアは民族的にも、歴史的にも、かなり違った道を歩んできたし、国が隣り合わせだと言う事を除けば、合併する必然性は何もなかったと言っても過言ではない。

 1918年以後、両国はしばらくチェコスロバキアとして歩み始めるが、ポーランドと同じようにドイツから様々な迫害を受け、実質的な支配下におかれた。その後はソ連の支配下におかれ、55年ワルシャワ条約加盟後は、60年に国名を「チェコスロバキア社会主義共和国」と改め、次第に筋金入りの共産国に変貌していく。しかしながら、共産化したチェコスロバキアの経済は、早くも60年代後半には行き詰まってしまい、中央政府は大胆な経済自由化路線をとることになる。68年の、所謂「プラハの春」と言う経済改革で、これは計画経済をベースとする共産主義経済とは相容れない物であった。  

この自由化の波が他の東欧諸国に飛び火する事を恐れたソ連は、力ずくでそれを阻止すべく軍隊を派遣し、チェコスロバキア全土を掌握した。以後チェコスロバキアは完全にソ連のコントロールの下に置かれることになった。

 しかしながら、ソ連のペレストロイカの影響で、80年代後半に入ると自由主義を唱える市民運動が活発化し、共産党内部からも改革派が台頭してくる。89年には自由化、民主化を唱える「市民フォーラム」が結成され、その大衆の動きに押される形で、共産党政権は同年末、無血で崩壊した。この政変は非暴力的に滑らかに行われた為、「ビロード革命」とよばれている。 

 共産主義崩壊後、何回かの自由選挙を行う内に、まもなく政権内部で地方の主張が強くなり、関係がギクシャクしてきた。 

92年の総選挙では、それぞれ主張の異なる政党が、チェコ、スロバキア双方で選出され、分裂傾向が加速された。92年末、チェコのクラウス市民民主党党首と、スロバキアのメチアル民主スロバキア運動議長が、チェコとスロバキアの連邦を解消する事を話し合いで決定し、その後、それぞれチェコ共和国、スロバキア共和国として独立する。あまりにもスムーズに別れたので、これを「ビロード離婚」と呼んでいる。いずれにしても驚愕に値するのは、この連邦解消の際も、共産党崩壊の際も、一滴の血も流さず、話し合いで問題解決をした事である。

 その後、チェコは、「欧州への回帰」を標榜し、歴史年表的にはポーランドの動きと表裏一対をなしている。

経済面では、90年代半ばには順調な成長を見せ、新聞等で「チェコ経済の奇跡」とも呼ばれた。しかしながら、経済の好調に支えられ大量に流入した外国資本が、生産性の改善とは引き合わない賃上げと、誤った投資、不正な蓄財に使われてしまった。

この結果、民間消費が過剰な伸びを見せるとともに、貿易収支赤字は拡大をつづけ、好調な観光収入を含めても経常収支は、97年には、対GDP比7.1%の赤字となった。これらを踏まえ、政府は97年に財政支出削減と賃金抑制を柱とした内需抑制策を導入し、為替を完全フロート制へ移行させた。これらの処置により為替は安定を取り戻し、貿易赤字も縮小傾向に転じた。経常収支赤字は98年には対GDP比2.2%へ縮小し、国際収支上の問題は一応の解決をみたのである。

2000年以降は積極的な外資導入に牽引される形で2~3%台の成長を続ける一方、財政赤字削減といった構造的問題に取り組んでいる。

 直近のチェコ経済は、欧州経済の景気停滞及びコルナ高基調の影響が顕在化しつつあり、成長の速度は緩まりつつある。2002年の実質経済成長率は2.0%となり、2000年の3.3%、2001年の3.1%に比較しても経済成長率が明らかに鈍化しているものの、2003年上四半期は2.2%と若干上昇している。雇用情勢は此処2,3年間、失業率8%から9%半ばの間を上下していたが、2003年は9%台後半から10%台と高水準で推移している。  

現在、外国からのチェコへの直接投資は、良質な労働力と中欧への拠点といった地理的好条件を背景に急増しており、2002年には93億ドルの外国資本がチェコに流入した。国別では、やはりドイツが、累計で31.6%になり突出しており、ついでオランダ16.9%、オーストリア10.0%となっています。日・チェコ経済関係においては、特に自動車関連メーカーの進出が加速しており、我々視察の間も、東海理化の新鋭工場を垣間見る機会も得た。現在進出済みの自動車関連を列挙しても、豊田合成、豊田通商、小糸製作所、光洋精工、デンソー、古河電工、トライス、東海理化などの進出を受け、当に真打のように、 2001年12月トヨタ自動車とPSAプジョー・シトロエン社が合弁により小型自動車組み立て工場を建設する事を決定している。その後も2002年には、富士機工、高田工業、シミズ工業、アイシン精機、住友金属工業、ダイキン工業、オイレス工業などが進出している。

 いずれにしても、EU加盟に向けて解決しなければならない難問は山ずみであるが、共産勢力を一掃してしまった国家のリーダ達の平均年齢は非常に若く、日本の明治時代を髣髴とさせるような処がある。19世紀後半にたどり着いた工業先進国のレベルに追いつけるか否かは、これら若い指導者の双肩にかかっていると思われる。

赤い東欧の終焉: 1989年社会主義の崩壊

 ソ連を中心とする共産主義諸国でも、不況や冷戦による軍備拡張競争の結果として、各国経済は疲弊し限界に見舞われていた。そんな時にゴルバチョフがソ連の指導者として登場、改革(ペレストイカ)に着手し、アメリカにも和解を呼びかけた。こうなった以上、自由化の波は、あたかも水は低きに流れるように、再び、元の状態には戻せない。他の社会主義国にも改革の雰囲気が飛び火し、東ヨーロッパ全体で、1989年に東欧民主革命が起き、東ヨーロッパの共産主義政府は次々に崩壊し「ベルリンの壁」も無血で取り壊され、冷戦の歴史が終わった。結論的に言えば、ソ連にゴルバチョフという新しい指導者が誕生したという国際環境の変化の他に、体制変換への動きを加速した何よりも大きな理由は、社会主義経済が機能不全に陥り、資本主義に対する優位性を示せないどころか、国民の基本的生活も保障できない状態に陥ったのである。



まとめ: 20世紀人類の試行錯誤

 今回の東欧訪問により、20世紀に人類が経験した政治と経済の大きな仕組みの、激しい変動の歴史に触れることができた。  

かつては、ヨーロッパの大国であった「ポーランド」、大きな歴史のひずみの中で暗い過去を刻んだアウシュヴィツ。民族は纏まってこそ一つの国、それを取り戻した「チェコ」。社会主義経済の終わりを、その体制の最後の指導者により迎えることとなり、その結果としてベルリンの壁が崩れ去った「旧東ドイツ」。多くのかつての共産主義国がそうであるように、政治面で共産主義から自由主義へ、経済面で計画経済から市場経済へという20世紀後半の大きな流れの中で、様々な施策を行いながら21世紀の明日に向かって進んでいる、

 世界が一つの大きな経済圏になっていく中で、政治の重要性を見つめながらこの世紀を生きていく必要があると今回の旅行から感じた。

   

神奈川文化賞

十一月三日(文化の日)に思いもよらず、科学技術部門受賞の栄に浴することになった。

この部門での受賞者は、四人目であるとのこと。本学が産学協同のルーツであり中村先生や斉藤先生を始めとする大先達が築かれた表面技術の伝統を大学の校訓“人になれ、奉仕せよ”に従って、地道に実践してきた結果である。この栄誉を大学から巣立っていった先輩・後輩とともに祝いたい。