雑感シリーズ

関東学院大学  本間 英夫



環境の変化を振り返って

戦後60年になろうとしているが、50年位前までは河川の汚染はほとんどなかった。幼稚園に通っていた頃(昭和23年頃)だったか、あるいは小学生1,2年の頃までだったか記憶が薄れてきているが、私の住んでいた近くの(といっても2から3キロ先だが)駅の線路を渡った先に、幅3から4メールくらいの川が流れていた。

そこにはコンクリート作りの共同の洗濯場が作られていた。記憶が薄れているので定かではないが、当時の行動範囲から推測すると、その川の流域1キロ位毎にこの種の洗濯場があったと思う。川沿いを歩くとそこには捺染後の織物が流れにさらされていた。透明度が高く、日曜日になると鮒釣りに、また暑い季節は水泳もした。

このように、50年位前までは、日本中の何処においても自然と調和した生活、現在のように自然や環境を意識することなしに、完全に自然に浸りきった生活ができたのであろう。それからが日本の戦後復興と工業化が一挙に進んだ。

私の住んでいた富山県は立山連峰に抱かれた形態であり、水力を基にした電力が豊富で、工業化にはもってこいの立地である。アルマイトの工場はもとより金属加工、医薬品、化学薬品、食品、パルプ工場など立ち上がっていた。

したがって、原料を加工して製品にする過程で排ガスや廃水、廃棄物が出るので、その頃から急激に環境が悪くなったといえる。

時代考査上思い出したが、10年位前の同窓会で、同級生にジュラ(どのような当て字にしたか定かでないが)という変わった名前の妹がいたという。お父さんは富山大学の教授だったと聞いているので、アルミニュウム合金の研究をされていたのであろう。ジュラルミンは、すでに1906年にドイツ人により開発されていたので、おそらく我々の同級生のお父さんは戦時中に航空機材料の製造方法について検討を進められ、それがやっと完成し、成功を記念してジュラと命名したのだろう。その妹が2つくらい年下なので、終戦間近のことであったと思われる。

また中村先生は大学時代、学徒動員で研究助手のような形で富山県の魚津市の日本カーバイト工業に行かれていた。内容は忘れたが、コニカルビーカーに何十個もの試料を採取し、連日連夜滴定をやらされたという。

だから当時の学生は教育されたというよりも、こき使われたのだといわれていた。

ということになると、富山県は電力が豊富であったので、戦時中あるいは戦前から工業が盛んであったということになる。

しかし当時はまだ製造プロセスが今のように大量生産型ではなく、ある程度自然と調和し自然を破壊するまでは至っていなかったといえる。

以上が私の記憶をたどった戦後の工業化の背景だが、人それぞれに、それぞれの地域での自然環境がどのようであったかを語り合うのも良いのではないだろうか。

折角、記憶がよみがえったから、付け加えるが、大学在学中の数年間は浅草に住んでいた。

墨田川から漂ってくる臭気はすさまじいものであった。いわゆる嫌気性発酵でメタンガス、硫化水素が発生し、学生服の金ボタン(真鍮、黄銅)はすぐに硫化銅になり真っ黒になったものである。

浅草松屋デパートの店員のハンドバックやその他の銀製品は、硫化銀を形成し真っ黒になった。下宿に置かれていたタンスやその他の金具は銅製品が多く全て黒光りであった。

だが、その頃はまだ大学の前の平潟湾(現在は埋め立てられ柳町になっている)は、若干汚染が進んでいたようだったが、泳ごうと思えば泳げた。大学院で毎日研究にいそしんでいた頃(昭和41,2年頃か)大学の表通りは湾内に沿っていたので昼休み、先生がいないときにはハゼを釣ってきては、から揚げにしてみんなで食べたものだ。

時効だから話すが、そのときに使ったなべは、高価な大型の磁性皿で研究用目的ではなく、もっぱらハゼのから揚げ専用に使っていた。

それから数年して、学園紛争が勃発した。その頃から公害問題が全国的に、おおきくクローズアップされ、身近な例では、大学の前の湾が埋め立てられた数年後から、引き潮時の侍従川は、隅田川と同じく硫化水素の臭気が強くなった。

また、近くの湾内で釣れるハゼは、かなりの確率で腫瘍があり、奇形ハゼと騒がれだした。

当時、学生からつきつけられた環境に関する問題提起、それにともない研究室を志望してきた学生の意識は環境浄化研究に大きく展開していった。

もっとも私自身、神奈川県の工業試験所で、シアン化合物の酸化分解について、昭和38年から1年間卒業研究をしていたので、環境に対する意識はあったが。



環境にやさしい物づくり

めっきを中心とした表面処理の分野において、処理プロセスのほとんどが金属イオンを含んだ水溶液がベースである。しかも水洗工程でその処理薬品をきれいに除去しなければならない。

したがって、環境を害する一番大きな原因は、水洗水である。昭和40年くらいまでは環境に対する意識が低く、この水洗水は、ほとんどたれ流し状態であった。

大学の事業部で廃水処理の設備を導入されたのは、私がまだ大学の1,2年生のころだったのであろう。いずれ斎藤先生にはこれを機会に聞いて見なければならない。

神奈川県は、京浜工業地帯を中心とした工業県であるので、昭和40年代に入ってから、川崎を中心に煙もくもくで、長波長側の可視光線しか透過しなかった。

したがって、昼間から夕日といえば大げさになるが、遠くから眺めるとボーっと赤っぽく見えたものだ。

光化学スモッグ、四日市ゼンソク、SOx、NOx、PPMなどの用語をキーワードにした報道が頻繁にされるようになり、それに伴い住民意識も高まり企業の責任体制の確立へと進んでいった。

さらにその後、地球環境レベルではオゾン層の破壊、地球の温暖化(この温暖化は不可逆的で、このままでは2060年頃には北極の温度が0℃くらいになり、シベリア地方に氷結し閉じ込められているメタンガスが、大気に出てくると、もはや地球は絶滅とも言われている)に端を発して資源循環型の社会への移行との機運が高まってきている。

話が拡散するといけないので、ここでは電子部品のメーカーの関心事に絞って進める。電子部品業界でも最近「ゼロエミッション」と言う用語が使われるようになって来た。これは埋め立てや廃棄物ゼロを目標とするものであるという。製造プロセスで排出されたごみを、他の製造分野の原料としてリサイクル率100%で再利用しようというものだ。

これは、1992年地球サミットでサステーナブルデベロップメント(持続可能な開発)が採択されたことに端を発している。

電子部品を初めとして、製品が出来上がるまでには、たくさんの原料が使用され、また工程も複雑で廃棄物の再利用が叫ばれるようになってきたが、はたして100%再利用は可能だろうか。

これは、理想的にはそのようにしたい人間の願望だろうが、自然界の法則からは不可能なことなのである。

また電子機器から環境破壊物質の使用を制限し、環境配慮型部品の開発に注力してきている。

EU(欧州連合)では、鉛など6種類の環境破壊物質を規制するいわゆるRoHS指令(電子機器に対する特定有害物質の使用制限指令)が2006年7月から施行される。

これを受けて、日本の電子部品メーカーは4,5年前から鉛フリー化の検討を積極的に行ってきている。

数年前に欧州を視察した際に、日本の鉛のフリー化はトップレベルであると欧州の研究者は認めていたが、今もトップを走っている。

しかしながら、はんだの主成分はスズと鉛であり、その鉛を他の金属に置き換えるわけだが、特性を低下させないで代替材料となると、まだまだ難問が残る。

ゼロエミッション

資源循環型社会へとの潮流の中で、物づくりも大きく変化しなければならない。「ゼロエミッション」と言う用語が最近新聞にも時々見られるようになってきたが、この用語は「ゼロディスチャージ」とともに大きく取り上げられるようになってきた。

既に30年位前に、中村先生が中心となり、斎藤先生、小生、現在京浜島の団地で生産活動を続けられている企業の技術者、ケミカルサプライヤーが月に一度のペースで勉強会をしたものだ。

当時は、小生の研究室で中村先生の強力な指導力の下に、フットワークよく実験をこなし、その結果をベースに、廃水処理やリサイクルの工程を確立していった。

その中で、既にこのゼロエミッションやゼロディスチャージなる用語がアメリカの環境庁(EPA)から出されており、中村先生はその考えには自然界の法則(熱力学第2法則)から理屈に合わないと異議を唱えられていた。

工業社会においては、エネルギーを使用する以上はエントロピーが増大するわけで、したがって今後のポスト工業化社会においてエントロピーの増大速度を如何に低速化させるかにかかっている。

為政者も、経営者も、技術者も、一般市民も、この自然界の法則を理解していれば、何がポスト工業化社会で大切か、理解できるのではないかと思う。

先月の新聞に核燃料の再利用が出ていたが、再利用の費用が何倍もかかるようなものを推進するのは「おかしいぞ」と気づいてきているようだ。

また、車を軽量化すればエネルギーコストを大幅に削減できるということで、アルミニュウムを大いに利用しようとの動きがある。さらに、マグネシュウムは、アルミよりさらに軽いのでパソコンの筐体を始めとして色々な部分に使われだした。しかしながら、マグネシュウムの加工費はアルミニュウムよりさらに高価である。

上記の鉛レス化に関しても、従来のはんだに勝る特性は出ていない。また、はんだの融解温度も若干高くなるし、2元系および3元系にしても組成のコントロールが微妙である。     

現在使用されているプリント基板材料、搭載部品は共に220~30℃に耐えるように設計されているので、温度が10℃上がるだけでもプリント基板の耐熱性、搭載部品の耐熱性に対して大きな影響を及ぼす。したがって全ての材料を見直さねばならなくなる。

結局は、代替の材料に関して長期にわたって検討が進められてはいるが、コストだけが上昇し、大局的に見るとエントロピーの増大速度が加速されてしまってはまったく意味がない。

先日、ドイツから我々の研究所に招いた教授も、現在の鉛フリー化に疑問を投げかけていた。