雑感シリーズ(11月号)

関東学院大学  本間 英夫



教育問題

教育は「国家百年の大計」といわれる中で、如何に改善すべきか、今まさに大きく揺れ動いている。現在、教育に問われているのは、失われつつある倫理観やモラルの欠如である。また、天然資源に乏しい日本がこれからも技術立国として先進諸国の一翼を担っていくとすれば、頭脳を資源として、如何に貢献していけるか。

我々の関連する製造業を中心とした産業界の発展には、よき人材が集まらねばならない。従って、教育は直接的に将来を大きく左右するので読者すべてが無関心でいられない問題である。内容が少し硬いが教育の現状と将来に関して述べてみたい。



ゆとり教育の反省

中央教育審議会は、「ゆとり教育」から「確かな学力の向上」に転換し、自分の考えを文章や言葉で表現する「言語力」を全教科で育成していく方針を固め、今年度中に学習指導要領の改定を予定している。2003年に行われた国際学習到達度調査(PISA)では、文章表現力や思考力を測る「読解力」の順位が、日本は8位から14位に下落している。1980年代だったかの調査では学力は日本がトップレベルであったと記憶しているが、ゆとり教育の名の下で中学や高等学校での教育科目が3割も削減されれば当然学力は低下するであろう。

実際に大学の教育現場を担当していて学生の基礎学力低下には愕然とする。

学力低下の背景には、学校5日制の完全実施など、学習内容を大幅に削減した「ゆとり教育」が、小中学校では2002年度から、高校では03年度から施行されたことに基づいている。

先の国際学力調査の結果を見るまでもなく、「ゆとり教育」からの脱却を図らなければならないことは明白である。

中教審や教育委員会、現場を担当する教育者が推進してきた「ゆとり」とは一体何だったのか。

確かに詰め込み教育の反省からの教育改革は了解できるが、詰め込み教育が良くないから、それではゆとり教育へというのでは論理が飛躍的、短絡的である。

教育の本来的な問題と、将来を担う青少年の教育には何が必要であるのかといった論議は勿論であるが、実際現場で指導に当たっている先生方が情熱を燃やせる制度の確立のほうこそ大切なはずである。

中教審では「言葉は学力向上のために欠かせない手段」と位置づけ、小学校低学年から、国語だけでなくすべての教育活動を通じて言語力を育成する必要があると判断した。小学校低学年では、体験学習で感じたことを作文にまとめるなど、発表などの学習を重視。中学の理科では、予想や仮説を立てた上で実験や観察を行い、結果を論述させる。体育の授業でも、筋道を立てて練習計画や作戦を考え、状況に応じて修正させる訓練を積むことを想定している。

この様にゆとり教育の見直しが喫緊の課題として指摘されたが、ゆとり教育推進の背景には団塊世代から始まった受験戦争に端を発している。厳しい受験体制の中で中高生はストレスを蓄積させ、非行やいじめの原因にもなっているといわれてきた。
 しかし現実は、高校全入運動の結果、高等学校を選ばなければ、全員どこかの高校には入学できるようになってきた。

従って、受験勉強に追われているのは、一部の生徒だけで、全体としては熾烈な競争とか受験地獄というほどではない。現に公立高校にも推薦入試が導入され、学科試験のない推薦を狙う生徒が増えたことから、ほとんど受験勉強をしない生徒が大量に入学し、中学生が熱心に勉強しなくなったとも言われている。
 また、高校生が大学受験に追われているという世間的な常識も若干修正を要する。一般入試に挑戦するのは全体の3割程度にすぎない。しかも、少子化時代を迎えて、募集人員と受験生の数はほぼ同じ、しかも受験科目の削減、一芸入試、推薦入学、OA入試などのあの手この手の応募方法を導入した結果、ごく一部の大学だけが一般入試の競争倍率が高いだけで、かつてのような激しい受験戦争は収束しつつある。

さらには大学を受験しない5割の高校生にとって、出席さえすれば単位が取れる科目が多くなってきている。このように大切な基礎固めの時期に、「ゆとり」という名の下に、切磋琢磨する気概がなく怠惰な生活に堕して、高校生からすでに充実感や将来の夢を失う体質になっている。

今こそ学びが将来どのように役立っていくのか、人生の大切な青少年期に、何をやっておかねばならないかを先生方は熱く生徒に語らねばならない。しかし、これまでの教育制度下では、青少年に本来の教育の意味を理解させ、納得させることが出来る能力を持っている先生が、どれくらいいるのだろうか。教育委員会の規制が厳しく画一的で、昔のようにいろんなキャラクターの名物先生というのが少なくなっているように思える。

学習に関する他国との比較調査でも、日本の子供が家庭で学習する時間は少なくなってきている。十数年前、日本の子供の学習時間が世界一であったのに、驚くほど勉強しなくなっている。
 また、中高生の6割以上が月に1冊の本も読んでいないという。これは国際的に見ても最低レベルであり、知識が少ないと思考も広がらず、中教審の言う「生きる力」はまったく育たないのが現状である。

先生方もこの事態を打開するには、受験だけに焦点を絞った教育ではなく、中高時代に絶対に必要な基礎、教養を身につけるよう生徒に自覚させ、教育に反映させる意気込みが必要である。それにしても、厳しい受験戦争を経験し、真の教育とは何かを認識できないまま、大学や大学院を修了し、ほとんど社会経験のないまま、すぐに教員になった人たちに、そこまでの要求は難しい。

思い切ってこれまでの教員採用試験を修正し、教員はいろんな社会経験、指導実績を持った極端に言えば40代以上、更には、すでにリタイアし、青少年の教育に情熱を燃やしたいと考えている人たちが教育現場に立てるようになれば教育現場が活性化されてくるであろう。


道徳教育の重要性

初等教育から高等教育まで、次代を担う生徒や学生に対して、これまでの知識詰め込み方の方法から、本来的に基礎、教養として必要な科目を通して豊かな人間性、高い発想性を養うには何が大切か、評価法を含めて見直す必要がある。また、道徳教育は初等、中等教育において絶対に導入されねばならない。

 これまでは、教育に対する道徳教育は低く扱われ、また道徳に関しては何を持って優秀とするか判定できないという。何もすべての科目をテストで判定する必要はないはずである。

人間誰でも必要に感じたもの、また興味があるものには序列化を意識しないはずである。これまでの基幹になる科目に関しての知識詰め込み方、極端な言い方をすれば暗記能力に優れた生徒が優秀とされてきた評価法や価値観を変えていかねばならない。
 これまでは点数に表れない能力に関しては評価されず、どれだけがんばっても達成感が無く、無気力になる青少年が増えた。実は点数に表れない能力が将来的には最も必要な能力であるのに、先生方にはその認識がない。これまでの暗記中心の点数至上主義から豊かな人間性と考える力を養成する教育方法に切り替えていく必要がある。

道徳や倫理をベースにした教育をと唱えれば、戦前の教育勅語を連想し、全体主義とか帝国主義、思想教育に繋がるとの過度のアレルギー症状や反発があり、この種の教育はなされてこなかった。

逆に個性を尊重する教育が推進されてきたが、それは理想かもしれないが学校教育では、問題が多い。個性の尊重と自主性から高校の履修で必修科目を削減し、選択制が導入されているようだが、多くの問題を抱えている。

特に選択教科を増やすと生徒間の信頼関係、帰属意識、学習意欲が失われていく。単位制を導入した高校では中退率が高いという現実があり、個性化という美名の下で学校の崩壊を導いている。
 中教審は選択制の意義として、個性化のほかにカリキュラムの選択は主体的に学ぶ姿勢や意欲を身につけさせるとしているが、この様な提案は、これまでの知識詰め込み方教育で優秀者とされてきた有識者の提案であり、ほとんどの生徒は主体性といってもその判断能力がない。

知識だけを詰め込む教育の下では、何を学びたいかという判断は出来ない。その意味では高等学校までは選択科目は極力少なくし、ほとんどの基礎科目は必修にすべきである。選択性になると多くの生徒は苦手の科目は避け、得意な科目や単位が容易に取れる科目に集中することになってしまう。
 この様に個性を尊重する教育は集団の中ではうまく事が運ばないし、逆に反教育的な結果となる。
 自主性尊重の教育を行うという理想のもと、多くの学校で受験指導や生活指導の撤廃、制服の自由化、校則の大幅な緩和等が行われた結果、生徒の生活態度は大きく乱れた。これは戦後民主教育の大きな間違いである。

冒頭にも述べたように教育は「国家百年の大計」といわれるように、今後の教育を如何に改善していくかは極めて重要な問題である。