雑感シリーズ(6月号)

関東学院大学 本間 英夫    



今回の未曾有の震災を契機に日本の技術の強さを再認識し、世界に向かってアピールする時である。おりしも震災後の一カ月後、外国から日本に来るのを控えているさなか、カリフォルニア工科大学から教授2名が共同研究の打ち合わせにやってきた。それは昨年韓国で招待講演を受け、その際に枕に我々の大学の産学協同の考え方を語ったことがきっかけであった。そこで、再度中村先生から継承されてきた産学協同の取り組みに関する内容を述べることにしたい。

 

産学協同の軌跡

大学と産業界が共同で研究や技術者教育を促進する「産学連携」のアプローチは、いまや非常にポピュラーになってきており、もはや熱心に取り組まない大学を探すのが難しいくらいである。だが、いまを遡ること約半世紀に、本学内に設置された実習工場が事業部となり、それが関東化成工業という企業に発展していった。

当時は、産学連携という言葉もなかったのが実情であった。日本において産学連携の草分けは、実は本学なのである。まずは事業部時代に中村先生を中心に開発された「青化銅めっき」の実用化技術が、自動車用バンパーの低コストライン生産を実現。続いて、事業部時代に現ハイテクノ社長の斎藤先生(40年近くの長きにわたって本学の非常勤講師を担当)が「無電解めっき」の理論を提唱され、世界に先駆けてプラスチック上にめっきを施す技術を初めて実用化。世界の自動車の外・内装が金属からプラスチックに置き換わり、その後この技術をベースにエレクトロニクスに不可欠な半導体と基板の接続もはんだづけの時代から飛躍的に効率化した。本学の産学連携で生まれたこの2つのめっき技術が世界をリードしたのである。私は本学工学部の2期生さらには大学院の一期生としてこのプラめっきの開発当初からかかわらせていただいた。当時は昼夜を忘れて土曜も日曜もなしに後輩とともに実験に勤しんだ。中村先生は「やったか!まだか!」の連続で大変であったが自分がいま世界で初めてのことをやっているのだと思うと、ワクワクする気持ちを抑えられなかった。

「いい技術はオープンに」それが本学の研究者魂である。ここで見逃せないのは、世界の産業界に大きなインパクトを与えた「プラめっき」の技術に関しては、中村先生の意向で特許を取らずに公開したことである。もちろん申請すれば特許を取れるだけの技術だったし、当然、莫大な収益が大学に入ったはずである。せっかく産学連携を推進した意味も薄れるのではないだろうかと思われるだろうが、当時はアンチパテントの時代であった。したがって、大学発の技術だからせっかくの素晴らしい技術を囲い込むことを敢えてせず、広く普及させるのが当然であるとの考えられたのであった。公開はもちろん、日本各地から多くの公的機関の研究者、民間の技術者が来られたが、詳しく技術を伝授した。中には、ここまで教えてもらっていいのかと驚く方もいた。でも、本学の卒業生を初めとして多くの方々は理解されているように、本学の校訓は「人になれ奉仕せよ」であり、その教えを象徴的に実践されてきたのである。

最近は、特許を取り巻く状況は変わってきたが、研究成果を広く公表すべきだという心意気がいまも本学に息づいている。以上述べてきたように、半世紀以上も前に産学連携を実践してきていたのだが、私が助手になった頃から学園紛争が全国的に激しさを増してきていた。しかも本学は事業部を持っていたので学生からは産学共同路線粉砕と激しい突き上げがあり、彼らと幾度も話しをしたが全くの平行線であった。大学のキャンパスにはバリケード、立て看板、一年間に渡る休講、さらには16号線の封鎖に至り、もはや大学内で事業部の運営が出来ないと事業部を独立させることになった。それが現在北久里浜にある関東化成なのである。その事件を契機に中村先生は47歳の若さで大学を去ることになる。その後は学生と表面工学分野の火を消してはいけないと、特に環境と無電解めっきの研究に注力するようになってきた。



研究所の構築

その後30年くらい経過し、今から10年くらい前に関東化成の工場の中に大学との共同で研究所を立ち上げたいとの要望が関東化成からあり、2年くらいかけて現在関東化成の役員になっている豊田君が中心になり、表面工学研究所を立ち上げた。さらには昨年2010年、新たな展開に踏み出した。横浜市経済観光局と包括協定を締結したことを受け、横浜市工業技術支援センター内に関東学院大学材料・表面工学研究センターを開設した。この横浜市工業技術支援センターのルーツはなんと50年以上前に中村先生が本学においでになる前に奉職されておられた商工奨励館から出発したのであり、そこに研究拠点を構築することになったのは、神の身業のような不思議さを感じる。

日本の製造業が生き残るためには、より高度で難易度の高い最先端技術分野での研究が必須である。そのためには、産学連携の枠に収まらない、自治体も含めた産官学の連携を構築せねばならない。センターはそうしたイメージを実現する拠点となる。運営費は、ものづくりの根幹を支える企業を中心とした企業が協賛金として供出してくれた浄財で賄っている。自由で闊達な研究を行うために、行政からの助成金は当てにしない。長年産学連携の現場で中村先生に鍛えられ、培ってきた信頼と人脈があり、工程のクローズド化とリサイクル化を徹底した、インテリジェントな21世紀のめっき技術をとその準備は整ってきている。昨年5人の教授と学生15人の体制でセンターはスタート。「ものづくりは人づくり」「ハイテック、めっきなければローテック」「Do and See! Don't Think Too Much!」……と、日ごろから学生にはわくわく楽しく研究できる環境を作り出すことに腐心している。座右の銘は「Ever Onward, Never Give up!」



ビーカーから工場へ

世界中の研究者が日々努力し、さまざまな技術が生み出されているが、私たちの手元に実際の製品として届くものはごくわずかである。ビーカーの中では再現できても、いざ工場で大量生産となると、活用できない技術がたくさんある。ものづくりにおいては基礎的な研究、さらには応用研究、そして大量生産に繋がる実用化のステップを踏む。しかし、応用から実用化の間には、資金調達や生産効率の改善など多くの課題がある。そこを乗り越えるのは極めて困難で、デスバレー(死の谷)といわれる所以である。その中で我々の研究室ではこれまで実用化実験に力を入れ、活用できそうならすぐに工場で実用化してきた。

沢山の例があるが、これまでも何度か触れたが、もう20年近く前になるがある学生が出した失敗データがある。あらゆる結果を実用化に導くプラスチックめっきには浴中に含まれているホルマリンは人体に有害なため、その学生はホルマリンを使わないめっき技術を研究のテーマーとしていた。研究を始めて1年、「どうしてもできません」と持ってきたのは細かい棘とげ状になった表面の写真だった。ところがそれを見た私は目的の研究には使えないが、他の目的に応用できると閃いた。実用化を進めたこの技術は、世界中のCPU素材をセラミックスからプラスチックに変えるきっかけとなった。この開発当時はすでにアンチパテントからプロパテントの時代になっていたが、本学でまだ知財部のような仕掛けがなかったので個人として特許を取るしかすべがなかった。

したがって、関連企業と特許の共同出願をした。それが多額のロイアリティーに繋がりすべて大学に寄付をし、奨学金として使用してもらうことにした。その後、学生諸君との長年にわたる研究の成果が評価されて、神奈川県文化賞を受賞し、その際に頂いた副賞もすべて大学に寄付した。さらには多くの産業界の方々からお祝い金をとの話があったがすべてお断りし、出来れば表面工学部門の大学院に進学する学生の奨学金として寄付していただきたいとお願いした結果、多額の寄付金が集まった。また卒業生もこの趣旨に賛同してくれて毎年4人の大学院進学者に授業料相当額を奨学金として出せるようになってきた。本年からはこの枠を6人に増やし、さらに充実させるべく現在奔走している。私は常々、産業を発展させる人材を育てるに当たって実験には失敗はない、何かそこには面白い現象が隠されているぞと学生に語り、実験が楽しくやれる環境を構築してきた。

学生とともに行ってきた研究を実用化する力の源には、若いころの経験が沢山あるが最後に象徴的な例をあげよう。30年以上前になるが、助教授の頃作成中の博士論文を当時中村先生が見て、「おい、これいけるぞ」と、即座に新しい工場を建てる決断を先生はしてしまった。正直ビーカーでしか実験を行っていなかったので、これが本当に実用化されるのか内心びくびくしていた。しかしその工場は一時主力製品を生み出したし、世界的にも評価される技術になっていった。このほかにも多くの実例があるが、実用化のための技術と知恵を持つ人を育て続けてきたが、この震災を契機に新たな気持ちで技術開発に再度注力していく。