関東学院大学材料・表面工学研究所

山田忠昭

特許と私


  研究所の事務局長をお願いしている山田さんは特許の業務に極めて明るい方である。そこで今月号では御本人の自己紹介を兼ねて特許に関する内容に言及して頂いた。(本間)

 新入社員研修は鉄鋼所らしく、塩をなめなめ転炉から湯を汲む作業が徹夜で行われた。まさに、熱射地獄の洗礼で始まった。
 研修が終わって、私の初仕事は超高圧発生装置の実用化であるダイヤモンド合成であった。
超高圧発生装置は、国の助成金で作ったもので、サイコロ状の圧力媒体を六方向から加圧するタイプであった。 数千気圧では圧力媒体は液体を使用するが、ダイヤモンド合成のように数万気圧が必要なものはパイロフェライトという鉱石を使う。
六方向から圧子(アンビル)によって、圧力をかけるとパイロフェライト鉱石はアンビルの隙間からはみ出てきて、ガスケットを形成し、圧力を内部に留める。
ダイヤモンド合成は、この圧力下で、カーボンスリーブにカーボン粉と触媒となるニッケル粉を混合して入れ、スリーブに電流を通すことにより、高温を発生させて行われる。 出来たダイヤモンドは宝石のダイヤモンドとは似ても似つかない、針状の結晶である。
この結晶形状の特性から、現在の工業用ダイヤモンドは天然ダイヤモンドを使用せず、人造ダイヤモンドが使用されている。 しかし、ダイヤモンドというとやはり宝石をイメージするのが一般的であり、私も宝石用ダイヤモンドを作ろうとしてみた。 製造方法は数千気圧で製造される人工水晶を模倣し、圧力媒体内部に温度勾配をつけて、種結晶を成長させる方法を超高圧下に取り入れた。
高圧下で温度勾配をつけた小さな炉を作り、低温部に種のダイヤモンド結晶を置き、高温部にクズダイヤモンドを配置した。そして、数日間、圧力と温度をかけた。
ところが、これが非常に危険な実験であった。
ダイヤモンド合成は高い圧力と温度が必要であるため、圧力と温度に耐えかねてアンビルが破損することがあった。
アンビルはタングステンとモリブデンの焼結合金であるが、高圧で破壊すると鉄板を突き破るほどの威力で飛び散る。特に、数日間、圧力と温度をかける実験では、徹夜で装置のそばにいるわけであるから恐怖の実験であった。
無事に実験を終了させ、種ダイヤモンドが大きく成長していることを期待しつつ、種ダイヤモンドを取り出して観察すると、ダイヤモンド表面に美しい逆三角錐の模様が多数観察された。よくよく観察すると種ダイヤモンドは溶け出し、表面に蝕孔が出来ていたのであった。
勿論、これは失敗した実験例であるが、工業用の人工ダイヤモンドの製造方法を確立させ、特許も出願して、工業化のための企画書を提出した。
しかし、当時、会社は二億円程度の企画書など鼻にも引っ掛けてくれなかった。
そのようなこともあり、麻耶山の中腹に位置し、自然そのものの中にあった研究所も、自分の我が儘で、辞めさせてもらい、自宅近くにある溶接棒事業部に移籍させてもらった。これを手始めに、後述するように、職場を転々とした。
 ふと、この原稿を書きながら書斎の上を見ると、基礎研究所を離れるときに所長からいただいた「誠意と努力」という色紙が目に入ってきた。
 移籍を願い出たとき、所長は「お金のことなら無利子、無担保、無催促で四〇〇万円貸す」と言われたことを思い出したが、今思うと阪神・淡路大震災が起こったのであるから、移動してよかったのかもしれない。
さて、基礎研究所から移籍させていただいたのが、溶接事業部であった。ここは全社のシェアーの五%しか売上げがないが、溶接業界では五〇%のシェアーを維持し続けているところである。
その事業部の特色は開発に人一倍お金を注いでいたことである。私が転籍したころ、一般的に開発費は多くても三%という時代に、売上げの八%以上という開発費を使っていた。 ここの研究システムも少し変わっていたのでご参考のためにご紹介したい。
研究員は実験をプランする。プランされたものは自動的に試作課のスタッフがプランに沿って、データを出してくれる。
従って、我々に課せられた主な仕事はプランすることと、出てくるデータをもとに報告書を書くことである。従って、失敗した実験も克明に報告されるシステムが構築されていた。従って、後任者は、まず、先輩の報告書を読むことから業務が始まる。これらの報告書から、自ずと、特許が作成されていった。 私が溶接棒事業部に移籍してからしばらくして競合会社との間で特許戦争が始まった。
溶接棒事業部の特許室はしっかりしており、常に他社の特許をウオッチしているので、関連部署につぶす必要がある特許を割り当ててくる。
当時は全て手めくりで調査しなければならなかったので、一旦、この仕事が回ってくると、霞ヶ関にある特許庁に出向き、地下の売店で指サックを購入し、特許庁に保管されている資料を棚から取り出し、多量のページを捲った。まさに、後ろ向きの作業であり、膨大な時間のロスが生じる。
そんな後ろ向きの作業をするくらいなら、特許を出願する手間の方がはるかに楽であるし、競合相手に時間ロスを生じさせることを強要した方がよいという考え方を徹底的に植え込まれた。
そうこうする内に、競合相手との競争は熾烈を極め、競争相手の出したすばらしい製品に対抗するために研究チームは、毎晩十二時過ぎまで実験を続けた。しかし、一向に芳しい結果は見えてこなかった。
そして、ついに私は競合会社の製品を徹底的に解析し、そのデータをもとに特許を出願した。従って、競合会社の製品は私が出願した特許に引っかかるのは当然である。
特許が公開になると、しばらくして、競合会社からクロスライセンスの申し出があった。
この話はもう時効であろうから、ここに懺悔的に書かせていただいたが、特許とはどんなものかを知っていただきたいと思って書かいた。
従って、特許出願もしていないのにサンプル提供するとどのようなことになるかは皆様が考えていただけたらお分かりいただけると思う。
開発部の次は製品を管轄している技術部、そして、基礎研究部と移籍していく。
私のメインテーマは溶接の基礎研究で、大阪大学を中心に名古屋大学、東京大学とお付き合いしながら、学会活動を行った。 テーマはなぜ溶接のとき火花(スパッター)が飛び散るのか?溶接ワイヤはなぜ不規則に送給されるのか?溶接アルゴリズムなどであった。
勿論、この研究が溶接棒事業部のワイヤ材料開発や新しい分野の溶接機開発に大いに参考になったと自負している。ここでは日本の基礎研究について話したいところであるが、紙面の関係で割愛する。
溶接棒事業部で私が担当した接合方法はノンガス、炭酸ガス、MIG、プラズマ、ろう付、摩擦圧接、超音波、電子ビームやレーザと転々とした。そのお陰で、色々な金属に接することができたのは幸いであった。
一例を挙げると、原子炉の燃料を被覆するジルコニウム管のプラズマ溶接による高速化であり、リニアモーターカーの送電関係に使うアルミと銅の摩擦圧接やドイツのシュタイガーバルトの電子ビーム溶接機を用いて超電導用ビレットの真空封止に使った。また、社長賞を取ったのが超電導ローター用のインコネルの補修溶接材料の開発であった。
これらの技術開発は全て特許とかかわりを持っていた。
特許は、皆様よくご存知のように、強い特許と弱い特許がある。例えば、アルミと銅の摩擦圧接を例に取ると、特許を回転数や押し付け圧力などの製造方法でも取ることは可能であるが、現物で分かることが強い特許にするためのポイントであるため、接合部を切断し、丹念にSEMやEPMAで調べて、界面に非常に薄いが金属間化合物が存在していることを確認し、その厚みを規定して特許を取った。
さて、特許作成は、慣れれば、さほど時間はかからない。私でも多いときは年間十件以上の特許は出願していたことがある。 ちなみに、五年前に戦略的基盤技術高度化支援事業でプロジェクトリーダーをさせていただき、二・六億円の資金をいただいたが、プロジェクトリーダーの紹介を書くときに特許について記入する欄があり、当時、研究畑を離れて十五年が経過していたが、まだ五件の特許が生き残っていたので何とか形になったことを覚えている。
溶接棒事業部から次は、通産省の外郭団体である財団法人に出向した。ここは技術者としてではなく、お役所相手のお仕事であった。
ここで私は、お役人のすごさを目の当たりにしたのは収穫であった。それまでは、新聞を読んで、お茶をすすって一日を終えるのが、お役人と思っていたが、本庁のキャリアーは、まるで、イメージが違い、日本を背負っている気概に溢れ、頭がよく、働き者の集団である。
財団法人では、金型の技術を後進国に政府開発援助(ODA)を行った。勿論、通産省、外務省、JICA、JETROや多くの企業の方々にサポートされながら、中国、香港やシンガポール等に技術者を派遣するお手伝いをさせていただいた。 今、思うと、二〇年前の日本は世界技術の最先端を走っていたような気になっていた。
しかし、現在はODAで援助していた国々に抜かれ、日本国内に空洞化が目立ってきた。まことにさびしい限りである。 しかし、今から二〇年前に、日本が空洞化することはすでに予測され、その調査を行うように通産省の担当課長から仰せ付かった。新聞情報をもとに分析した結果からも、現状が当然といえば当然の成り行きのような気もする。
日本に残る企業が今後どうするかは、各社将来を予測し、それに対応していく必要があろうし、開発なくして企業の存続はないというのが持論である。
財団法人の次はいままでに経験のない、環境関係会社の営業職であった。
今思うとこの時代が、自分を最も鍛えてくれたし、大変楽しい時代だった。同時に、趣味として、従来の囲碁や釣などに加え弓道を行うことも出来たことはラッキーだった。 今でも、その時の友達との付き合いが続いており、定期的に会うようにしている。
今月もそのうちの一人が、十年前にNECを退社したのを機会に箱根の金時山の麓に移り住んでいる。彼はすでに三〇〇〇回以上金時山に登っており、私も定期的に金時山に登るときに車を置かせてもらっている。
登山は五十五歳になってから本格的に始めたが、初心者同士で始めて八ヶ岳に登り、それから奥穂高、槍ヶ岳などにも登った。
富士山は、やはり日本一の山であるので、一生に一度は登っておきたいし、通勤時に江ノ電の車窓から見える山なので、逆に富士山の頂上から七里ヶ浜を見てみたいと思っている。
環境関係の次はめっき業の会社であった。
そこで与えられた仕事は特許業務と助成金業務であった。
ここで特許業務を十三年間行った。今までのように特許を出すことばかりではなく、特許を管理することになり、特許をより広範囲に見る必要があった。
たとえば、拒絶予告の対処は勿論、補正手続きも自分でおこなう必要があり、特許以外にも契約書類、意匠や商標などの知識も必要となった。
そこで、特許庁が行っている講習会に頻繁に参加させてもらったし、(独)工業所有権情報・研修館が行っていた特許流通促進事業で特許流通アドバイザー養成の講座四コース全てを受講させていただいた。この会社が教育に理解のある会社であったことに感謝している。
助成金業務は在籍の十三年間取り続けることが出来たことはラッキーであった。
その中の一つに科学技術振興機構の三億円の助成金があり、無事受託できたが、本間先生に大いにお世話になった。
そのご縁もあり、また、戦略的基盤技術高度化支援事業の助成金のときにもお世話になった。また、そのときご一緒した学生さんのご縁もあって現在、関東学院大学の材料・表面工学研究所にお世話になることになった。まさに、ご縁であり、お蔭様である。
現在、研究所では材料・表面工学研究所知的財産の取扱い覚書で特許を運用している。その骨子は研究所単独又は企業と共同で開発した案件を研究所(大学)の単願とすることである。これは大学でパテントプールすることで、研究所の会員企業の皆様が特許を使いやすくすることを意図としている。
私としては将来、関東学院大学がMITのように企業から頼られる骨太の大学になることを願っている。
現在の私が、学生さん、企業の皆様やスタッフの方々にこれまで私が蓄積してきた情報や技術を少しでも伝えられれば望外の喜びである。
最後に研究所で皆様と語らう楽しみを与えてくださった本間先生に深く感謝申し上げます。