関東学院大学材料・表面工学研究所
盧(ノ) 柱亨(ジュヒョン)
  今年で私が日本に来てから、ちょうど二十年目を迎えた。一寸の光陰のような二十年という年月を振り返ってみると、長いようで短い時間であったが、私の人生において、もっとも大事なことをもたらしてくれたと思う。
《私が日本での留学を決めた理由》
期待半分‥心配半分‥で始めた身寄りのない外国、日本での留学生生活は、毎日が新しいことへの挑戦であり、悟りでもあり、感謝に満ちた日々であった。
 その私が日本での留学を決めたのは、ある日、学生会館の掲示板に貼られていた『冬季日本語特別講義』を知らせる一枚のポスターだった。『あなたも冬休みの最後には自由に日本語が話せる』との宣伝文句は、英語だけではなく日本語の材料工学の専門書を読まなければならない私にとっては福音のようなものであった。それから始まった冬休みの毎日午前中四時間の日本語の講義は、日本語だけではなく、日本の文化や社会を知りたくもなり、翌年夏休みに大学で実施する熊本県芦北郡でのホームステイ・プログラムに参加することになった。
 しかし、熊本空港に着き、ホストファミリーと初めて対面した際には、生まれて初めて外国に出て緊張したせいなのか、何日前から準備してきた挨拶や自己紹介を全て忘れてしまい『はじめまして、盧と申します』と言った以外、頭の中が真っ白になってしまった。冬休みの間、一所懸命日本語を勉強したから日本人と会話ができると自信満々だった自分がどれほど大きな誤算をしていたのかがわかったその時の挫折感は今にも鮮明に覚えている。幸いにも私がお世話になったホストファミリーは、外国からの学生を受け入れた経験が多い家族であり、できるだけ初歩的な単語を使いながらゆっくり話してくださったのにもかかわらず、ホームステイの最初の一週間は、『すみません。ありがとうございます。お腹すいた。』以外はほとんど話せなく、何も耳に入ってこない状態が続き、日本語での会話よりは『笑ってごまかす技』を習得してしまった。
 日本語の習得よりは日本の文化や習慣に慣れてきた十五日間のホームステイも終わり、韓国に帰る前日の夕食後、どうしても感謝の気持ちを伝えたかったので、夜遅くまで辞書を引きながら一所懸命準備したメモを見ながら身振り手振りで感謝の気持ちを伝えることがやっと出来るようになったが、その悔しさと恥ずかしさのあまり、韓国に帰って来てからは、日本語の勉強にもっと励むようになった。
《日本での大学院生活》
それから三年後、大阪大学の大学院に進学することになり、半導体デバイスの基盤技術であるエピタキシャル成長(Epitaxial Growth)を中心に量子ナノ構造の形成や分析を専門としてきた。化合物半導体ウェハの上に、Ⅲ族とⅤ族の元素を分子線として供給し、ある機能を持つ半導体薄膜を成長させる分子線エピタキシ(MBE ; Molecular Beam Epitaxy)法と原子レベルまで観測が可能な走査型トンネル顕微鏡(STM/STS ; Scanning Tunneling Microscopy /Spectroscopy)技術を用いて、Displayや光通信などに応用できる光デバイスについて学んだ。
 大学院での研究は、学術的な勉強はもちろんのこと、一つのテーマを持つ二人の大学院生が研究の進め方から始め、実験計画に沿ったスケジュール管理を円滑にしながら一つ一つの問題解決していく能力も身に着けるような一般の大学の研究室とは思えない厳しい指導を受け、不満も多く自分は運が悪い奴と考えたこともあった。 しかし、その大学院時代の厳しさは一人前の研究者としての身になり、社会人になってからは自分から積極的に外部との技術や情報を交換しながら時代の流れに応じた研究を進めて行けるような能力の試金石になったことに大変感謝している。
《社会人になってからの成功と失敗》
学位取得後、五年間の横浜国立大学での助手時代には、大学本来の学生指導だけではなく自分の力でも研究費を獲得しなければならない状況でもあったが、大学院時代に受けた先生の厳しい指導が非常に役に立つものであった。そして、工学部全体で唯一、科研費・若手研究を二回も連続して獲得することができたことや周りの先生達にも恵まれ、科研費特定領域の総括班のメンバーとして大型研究プロジェクトの企画からスケジュール作成、実行、成果報告まで研究推進の力とノウハウを得ることもできた。
 共同研究先であった横河電気に転職してからは、世界最高速の光通信モジュール開発プロジェクトの一員となり、今までほぼ難しいと言われていた量産型MBEシステムを導入し、より高性能・高品質の半導体デバイスの大量生産を可能とする成果を上げて来た。また、40Gbps光通信用Photo diodeモジュールの高周波線路・回路の設計や製造工程の自動化に対応できる材料選定や設計にも主導的に行い、自分が設計・開発した製品が国内外通信ベンダーに採用される達成の喜びを感じたこともある。しかし、当時の成功に安住してしまい次世代技術開発のチャンスを逃してしまった経営陣の判断ミスにより多くのメンバー達も痛い失敗を経験することになった。
《大学院時代からの夢への挑戦と失敗》
その後、大学院時代から交流のあった先生より量子ドット・レーザを製品化するプロジェクトへの誘いがあり、内閣府から約七〇億円の支援を受け、東京大学の研究室で生まれた量子ドットと言う新しい理論と技術を富士通研究所のノウハウと資本で実際の製品に繋ぐためのベンチャーをスピンアウトさせるメンバーとなった。もちろんベンチャーと言うリスクを背負うことになるが、大学院時代から研究してきた技術を世界で初めて製品化に繋げる夢を実現できるチャンスと思い、挑戦することに決心した。
 量子ドットは、ナノレベルの三次元構造を持っており、優れたエネルギー閉じ込め効果により低消費電力、高速発振、高温動作が可能な発光デバイス作製への道が開ける夢のデバイスでもある。まずは、量子ドットウェハの大量生産のハードルを乗り越えるために量産型MBE装置の導入し、事前に何の操作もなく平坦なウェハの上にある条件で分子線を当てることにより分子と分子との間に伸び縮みの力で量子ドットが自己形成できるウェハの生産体制を整った。次なる小型化・高出力化のハードルを乗り越えるためには、3D-CADで設計したデータから解析可能なモデルを作り、いろんな材料や形状を組み合わせたケースを解析し、その中から最適なものを見出す設計・解析システム構築に挑んだ。更に、一つのモデルを解析するためには長時間を要することが多く、サーバーと離れた場所からもシミュレータの状況をチェックしながら、その場での新しい条件の反映も可能とする遠隔管理システムを構築することによる効率向上も図った。このCAD/CAEシステムを用いた伝熱・構造解析結果をモジュールの材料選定や設計にフィードバックさせることにより、三パターンのサンプルを試作するだけで量子ドット・レーザ モジュールの小型化や放熱効率向上と共に、高安定性・高出力化など性能改善の成果があった。
 しかし、ここでまた更なる試練と失敗が訪れてきた。リーマンショックから始まった世界的な不況と日本の半導体業界の低迷などによる価格低下とコスト削減の失敗などが主な原因であった。
《成功と失敗の科学》
このように、成功と失敗を繰り返すローラーコースター人生の中で得られた教訓は、三つの『にん』である。
 ある組織を構成する『人』は、その組織の未来を左右するもっとも大事な決め手であり、部下は上司を、上司は部下を『認』める強い信頼関係を築けば、どんな逆境に遭遇しても『忍』ぶ(我慢)ことが出来ると考えている。
 更に、大学と企業の研究所の両方での経験からは、基礎的な学問を中心とする大学での研究・教育の観点からもっと視野を広げ、自分の専門分野のみならず様々な分野の知識または技術を探求・融合し、急激に変化していくIT社会のニーズに瞬時適応しながら社会に貢献できる研究者としての思考と姿勢が必要であることを切実に感じた。
 また、大学の研究室で生まれた理論や研究成果が学術的な範囲だけにとどまることなく、実際の我々の生活や産業分野に応用することができるように企業や外部機関との親密な連携・共同研究開発を活発に行うことにより、社会貢献や大学の役割を広げていくことにも大きく貢献できるようにしたい。即ち、自分が研究してきたことを応用するためには、その知識だけではなく、製品として世の中に出すためのコスト、材料の選定などを考慮した設計技術やシミュレーションなどによる予測と更なる高効率化を実現できるスキルを持つ人材を教育することにも重点を置きたい。
 大学・大学院での教育と研究に従事することは、学生時代から持っている夢と情熱であるから、いつも「科学する目」を持ち「研究する姿勢と良識」を兼備した若者を養成することに一生懸命努力したい。   更に日本と韓国、両国間の先端技術交流のため韓国の大学や研究機関や産業界を問わず、互いに親密な関係を保ちながら積極的な情報交換・学術交流などを通して、電子材料と表面工学分野の未来を拓いて行く創造的な基礎技術の発展や国際化にも一層大きな役割を担いたいと考えている。

 以上、今月号では6月から研究所のスタッフになっていただいた盧さんに執筆いただいた。お読みいただいてお分かりいただけたと思いますが、極めて研究開発能力に優れた方で我々の仲間として今後大いに貢献いただけるものと確信している。盧さんは1990年代後半のポスドク1万人計画の申し子のような存在である。現在ポスドクは16000人程度になり極めて能力の高い方々が迷える子羊のように安定雇用が確保できない現状は忌々しきことである。
 90年代当時から大学院の定員を増やし、研究予算を増やし、博士号取得者を増やした政策であった。戦後、1960年代~80年代、高度成長とバブルにのって、西洋のものまねをしながら、急成長をとげた大学・研究業界が当面の規模とレベルを維持したまま生き残り、社会に定着していくために打ち出された政策であった。
 その後のポスドク問題、これらは、文科行政の大失策であるという言い方もされる。また、さらには成果主義・効率主義に偏った評価による予算配分、成果欲しさの無理矢理な産学官連携が叫ばれだした。我々はこれまでも何度も述べているように半世紀以上の産学連携の実績を持っているので、これから大いに特色ある研究所として仕えていきたい。-本間