過去の雑感シリーズ

2010年

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事業仕分け
関東学院大学 
本間 英夫
 
 「2位じゃだめなのですか」日本が優位であったはずの技術力が、今や大きくそのポジションが低下しているのにもかかわらず、あまりにも不用意な発言である。新聞やその他の報道では、日本の技術は衰退する一方だとか、もはやものづくりの国じゃないとか、無責任なコメントが経済学者や有識者と言われる連中がマスコミでコメントし、多くの若者は、日本の未来に希望が持てず鬱状態になっている。
実際、大学卒の多くはものづくりの製造業への就職よりも、サービス業への就職が圧倒的に多い。10年以上前までは大学進学者の中で工学部への志願者は50万人位であったが、現在では20万人に減少している。理科離れがすさまじい勢いで進行し、多くの学生はサービス産業への志向が強くなってきている。
 日本の産業構造の変化で、サービス業の比率が8割にも達しようとしているようなので、全体としては製造業の割合は下がり、日本の基幹を担ってきたモノ作りの将来は決して明るくない。
 これまで培われてきた日本の技術水準は極めて高いはずだが、最近は、まずはコストありきで、如何にものを安く作るかが至上命令となっている。したがって、技術者は日夜不良対策や、歩留まりの向上のみに明け暮れ、有能な技術者は育たず、閉塞感が蔓延している。
さらには、バブル期以降、研究開発がおろそかになってきており、革新的な製品の開発が遅れ、その影響がかなり出てきている。精密機械、半導体、エレクトロニクス、造船技術、ロボットなどは世界一の技術力であり、車に関してはハイブリッド技術に追いつける外国企業はないとまで言われている。また、日本企業は変換率最高レベルの太陽光発電装置を作り画期的な進歩をとげてきた。
 しかしながら、政府の行政刷新会議の事業仕分けで科学技術・学術関係予算も縮減とかという耳慣れない言葉が飛び交い、ノーベル受賞者や工科系大学教員からも激しい批判が出た。批判は当然だが、あえて言うならば、科学技術の発明、発見は、必ずしも予算が潤沢であったところから生まれてくるわけではないことは確かである。その例に関しては「雑感シリーズ」でこれまでいく度となく、セレンディピティーからの大発明と説明してきている。しかしながら、仕分けと称して科学技術に素人の政治家がリーダーシップをとって一方的に、恣意的に決定するのはいかがなものか。科学技術の進歩には、まずは若い研究者がわくわく、情熱を持って研究に取り組めるような環境の整備は絶対に必要であろう。

創造力はいかにして
繰り返しになるが、アインシュタインがノーベル賞を受賞した光電効果の研究や、人類史上最も重要な発見の1つである相対性理論の研究では、ほとんど費用はかかっていない。特殊相対性理論を発表したときは、特許庁の局員であった。同じく、インテル社の8ビットCPUである8080用のBASIC言語は、ビル・ゲイツの大学時代の友人ポール・アレンが、コンピュータにロードするプログラムを作っていないことに気が付き、ポール・アレンが飛行機の中で作成している。
 また、Web上のサービスシステムである「はてな」は、大企業なら製作に数億円かかるだろうが、若い技術者が片手間に作ったもので、費用はほとんどかかっていない。はてなブックマークはオンラインでブックマークを保存・管理・共有できるオンラインブックマークサービスである。自宅のブラウザに保存するだけだったブックマークを、インターネット上に保存して管理・公開することができる。
この「はてなブックマーク」を活用すると、いつも見ているサイトや、自宅でみつけた面白い記事のブックマークを会社や学校、または、携帯からでも利用出来るようになる。このようにアイディアを中心とした大きな発見や発明は一番効率的で人間に与えられた天賦である。
したがって、費用のかかる分野には思い切って金をかけるようにして、画一的に予算を減らすのではなく、上述のように若い研究者が夢と希望を持てるような環境はぜひとも整備すべきである。
 また、公的予算とはほとんど関係のない研究者や技術者が懸命に、それぞれの分野で努力を重ねている。世界を変える発明、発見、製品は、そんな中からも数多く生まれるはずであり評価すべきである。
 
トップランナーの生き方
 表面処理業界の中でトップを走っていたエビナ電化の社長、海老名君が昨年暮れに急逝した。まさにこれからの日本の表面処理業界の担い手と期待していたのに誠に残念である。
海老名君はハイテクノの講師、表面技術協会の理事として、日本の表面処理業界のリーダーとなり活躍し、彼の経営方針や学会、産業界への貢献は極めて大きかった。
彼が亡くなる一週間前の昨年12月7日(月曜日)、昼過ぎから夕方の7時頃まで技術に対して大いに語り合った。彼は健康、特に食事に関してはストイックなまでに留意し、いつも元気に日々情熱を持って業務に、研究に邁進し、すばらしい成果を着実に上げていた。表面処理業界や学会にとってこれから益々貢献していただく矢先であったので大きな損失である。
 思い起こせば、もう35年前になるが、彼は現在ハイテクノが受け継いでいるJAMF上級表面処理講座の第8回生として一年間講座を積極的に受講していた。小生は講師、彼は受講生というスタンスであった。当時、この上級講座とは別にアメリカのめっき業界(NAMF)視察が行われていた。初めの2、3回は中村先生が団長として視察され、その後斎藤先生が数回その任に当たられていたが、一カ月の長期の視察旅行なので5回目くらいから小生がコーディネーターとして、梅雨時に視察旅行を行っていた。
 33年前にその視察旅行に彼が参加したことで、急速に親しくなった。その後この視察旅行は数回続いたがアメリカとの交流がマンネリ化し、しかもアメリカの企業はケミカルサプライヤーにほとんど依存するような体質であったので、中村先生の判断でNAMFから脱会することになり、その後は海老名君と10回以上になるが主に、ヨーロッパを中心として研究所やケミカルサプライヤーとの情報交換を企画してきた。
 彼は33年前、初めて視察に参加したあと、我々の研究室を訪れ、研究室にあった電子顕微鏡、等速電気泳動装置、紫外、可視分光装置などを全て自社で購入し、めっきは「カン」に頼るのではなく、分析や解析が大切であると悟った。それからは利益の一部を機器の整備にどんどんつぎ込み、現在では大学の研究室が持っていないような高性能なツールを揃え、この数年間は民間テレビ局をはじめNHKにも紹介され、さらに昨年の10月から12月にかけて2つの放送局から30分と45分のプログラムで技術や経営方針について紹介された。
 また、ドイツのベルリン工科大学の教授が、会社を訪れた時「大学よりもすばらしい機器を持っている」と感心していかれたことを思い起こす。また30年前、確か彼との2回目のアメリカ視察の折、吉野電化の吉野社長と日東社の安達さんとの3人が、プラめっき技術の成熟とともに、どんどん東南アジアに出ていくことに危機感を持ち、これからは電磁波シールドだと判断し、果敢に攻めの経営を展開した。我々の研究室では40年くらい前から、エンジニアリングプラスチックス、セラミックス、ガラスなどの材料へのめっき技術に着目し、応用研究をしていたので、彼が中心となり各企業のトップや技術の中核を担う人を10名くらい集めて、1年に2度くらいの頻度で研究室の進捗発表会を開いてきた。
 学生には産業界のトップから直接サジェッションしてもらうことになるし、集まったトップの企業の方々には、ホットな生のデーターに触れることになりこの研究会は8年前に表面工学研究所を構築する核になったのである。しかも彼は我々の行った基礎的な実験結果を参考にし、ほとんどの我々の実験をトレースし、自社内の工程に採用していった。
 また、このトレンディーには斎藤先生が表面処理の関連論文から主だった技術内容を抄録され、また特許も紹介されている。これらにも、毎月目を通し、それらの技術内容もトレースし、ケミカルサプライヤーから薬品を調達し、自社の工程内に積極的に採用していき、エレクトロニクス関連技術を「ハイテックめっきがなければローテック」と言わせるまでに地位を高めた。
 今から17年前、増子先生が表面技術協会の会長、小生が庶務理事の任に当たっていた折、増子先生が、これからは表面技術の担い手である若手の経営者の会を作る必要があると提案され、彼と吉野君が中心となって、早速準備委員会を開き、青年経営技術懇話会を立ち上げた。
 この会は当初、業界の重鎮や大学の先生方からも、2年もすれば潰れるよと揶揄されたものだったが、それを発展させた立役者はほかならぬ彼であった。
 以上のように学会にとっても、めっき業界にとっても、会社にとっても、多くの貢献をスピードプラスの標語のもとに、ダイナミックに展開してきた。21世紀のものづくり、下請け型から提案型産業への展開、新しいビジネスモデルとして、まさにこれからという時に真に残念ではあるが遺志は十分に受け継いでいかねばならない。
 

日本総鬱状態
関東学院大学 
本間英夫
 
抑うつなどの症状が続くうつ病の患者数(躁(そう)うつ病を含む)が、初めて100万人を超えたと昨年末話題になった。

患者調査によると、うつ病が大半を占める「気分障害」の患者数が、1996年から99年にかけては43万人台で、ほぼ横ばいだったが、2002年調査では71万1000人と急増し、08年調査では、104万1000人に達したという。
 この様に、10年足らずで倍増している。これは景気停滞が大きな要因であるが、精神科医が安易にうつ病の診断を出すことも影響しているし、さらには新しいタイプの抗うつ薬の発売の時期と重なるという。

人間だれでも、時には気持が滅入って鬱の状態になる。特に一昨年の大不況下では、仕事が好況時の半分以下で、企業によっては稼働率が70%以上低下した企業もある。したがって、多くの企業で、一時は金曜日から月曜日まで休みになり、ブルーマンデイどころか毎日鬱状態でその状況が数カ月間続いた。

ほとんどの企業は、その後、仕事は回復し7割から8割の稼働率になってきたが、給料、ボーナスは大きく低下し、派遣社員は整理され、生産の効率追求、不良対策に注力せざるを得ない状態である。したがって、従業員に対する負荷は大幅に高まり、生産に追われるだけで、仕事に対する充実感が薄れ、ほとんどが鬱状態になっている。

私自身も一昨年の9月頃から鬱状態が半年くらい続いた。それは生を受けて半世紀以上経過する中で初めて人間関係でのトラブルが原因であった。内容はあまりにも深刻なので、この種の紙面では紹介できないが、大学時代までは上下関係や利害関係は全くなかったし、人に利用されるとか騙されるとか、裏切られるとか、その種のことは全くない、今思い起こしても、楽しい青春時代であった。

その後、産業界を全く経験せずに、大学院修了後、大学の教員の道を歩むことになった。当時から、社会に出れば7人の敵がいると表現されていたが、競争心、闘争心などとは関係がなく、また人から裏切られるとか、騙されるということは、60代中頃まで、全くなかったと言っていい。

ストレスといえば中村先生から実験に関して「やったか!まだか!」と毎日のように言われてきたことぐらいだ。この種の激励は今になって思えば如何に実験を効率よくしかも的確にやるかを自分なりに工夫するようになっていったのでよかったと思っている。このように鬱など経験しない、純粋培養のような人生を送ってきた。しかし、人生の終局で初めて騙されたり、裏切られたりすると、おそらく誰でも鬱の状態になるだろう。

その感情が現れてからは睡眠も浅くなり、いつも睡眠不足で食欲はなくなり、いつも気分がすぐれなかった。その体の変調の原因は自分ではよくよくわかっているので、如何にその状況から脱するか考えてきた。

だが、自分自身の問題で鬱状態になるのであれば、自分を変えれば比較的簡単に直すことができるだろうが、相手から信頼を裏切られるようなことや、騙されることが起こると、それを解決するにはかなり困難を伴う。

現在は、やっとその問題を克服したが、人生の終局でこの種の経験をしたこと、またこの試練に立ち向かい、自分なりに克服する手段を見出したことを何らかの形で、一般論化して産業界の方々や学生には伝えていこうと思っている。そのようなわけで軽度の鬱は自分が努力すれば自然に治るのだろう。

しかしながら、最近の傾向としては、企業では早めに精神的に問題のある人には診断を促し、鬱を早く発見し、薬を飲めば治るという流れが続いており、アンケートや問診の結果から安易に判断し薬物治療を受けている面がある。だが薬物療法では精神的な面は完全に治癒しないだろう。

精神科医をやっている友達は薬を使わないし、禅の道場をひらき、ハリ治療や漢方を使うと言っていた。心の癒しや克服力を養うようなアドバイスをしている。この様に医師の中には安易な診断や処方を見直す動きも出つつあるようだ。

どこの企業でも従業員の中で、心の病による年間の休職者の数が増加し、2か月以上の長期休職者がふえている。これらの多くは、うつ病と診断されているという。

産業医は、ほとんど、「うつ病は無理に励まさず、休ませるのが良い」との見解で一致しているようであり、この種の啓発キャンペーンがうつ病患者を増加させている原因である。戦後、追いつけ追い越せの時代は、この種の精神的不安定な状態はあまり意識されていなかったし、この種のことを気にせず、がむしゃらにやってきたように思える。当時は上司や同僚が励ますことによって、復職させてきていたが、最近では軽症の患者にまで、医師が安易に鬱と診断し、その診断書を持ってきた本人が、自分は鬱なのだとの完全に暗示にかかり、しかも会社の中では上司も同僚も「腫れもの」を触るように、何も言えなくなってきていることで、本人は休み癖がついてしまい、怠惰になり、なかなか職場に復帰できないようになっている。

果たしてこの現状でいいのだろうか。うつ病など気分障害の患者は、2000年代に入り急激に増加してきた背景には繰り返しになるが新規の抗うつ薬だと言う。抗うつ薬の年間販売高が170億円台だったが、1999年にSSRIが登場してから急伸して2007年では900億円を超え、このような急激な増加は欧米でも、この薬が発売された80年代後半から90年代初めにかけ、患者の増加がみられた。SSRIが発売に伴い、製薬企業による医師向けの講演会やインターネット、テレビCMなどのうつ病啓発キャンペーンが盛んになり、精神科受診の抵抗感が減った一方、一時的な気分の落ち込みまで、『病気ではないか』と思う人が増えている。ある調査によると、学生にテレビCMを見せた研究では、当然であるが、見なかった学生より「気分の落ち込みが続いたら積極的な治療が必要」と答え、CMの影響をうかがわせていると言う。うつ病は一般的に、きまじめで責任感が強い人が陥りやすいとされる。自殺に結びつくこともあり、早期発見・治療は自殺対策の柱のひとつにもなっている。ところが近年は、「自分より他人を責める」「職場以外では元気」など、様々なタイプもうつ病に含まれるようになった。そういえば企業内で、景気の停滞感からパワハラが横行しているようだが、まさに自分を責めるのではなく特に部下に対してかなりきついことをいう上司が増えていると言う。心当たりのある人は猛省されたい。またうつ病は検査数値で測れる身体疾患と違い、診断は難しい。このため、「抑うつ気分」などの症状が一定数以上あれば要件を満たす診断基準が普及した。「なぜそうなったか」は問われず、性格や日常的な悩みによる落ち込みでも診断され、かえって混乱を招いた面がある。

最近、医者の中には安易な投薬を懸念する声も出てきている。先に触れたように薬なしでも私のように自分なりに、鬱状態から脱却できるはずだ。私の友達はかなり前から薬物療法ではなく精神療法を行ってきたが、海外では軽症には、カウンセリングや運動などをすすめる治療指針も多くなってきている。企業の経営者はこの問題に対して消極的に対応するのではなく会社で働くそれぞれの立場の人たちが仕事に対して夢と、わくわく感、充実感が持てるようにしていけば鬱状態から脱却できると確信している。
 

「今時の若者は」
関東学院大学
本間 英夫 
 
 大英博物館に展示してあるロゼッタストーンに、「今時の若者は」と落書きがしてあると言うのはあまりにも有名で、古代から年配者は若い世代を愚痴っていた。最近の若者で言えば、「反省してまーす」と話題になった冬季オリンピックの國母選手は、服装や振る舞いに批判が集中していた。しかしながら、彼だけを責めるのは酷である。なぜなら、人は成長過程で色々学習し常識をわきまえていくもので、マスコミの報道を鵜呑みにするのではなく、温かく見守りアドバイスをしていけば良いだけの話である。

 自分も高等学校までは自宅から通学し、親や先生の目が煩わしかったが、大学に入学して、ひとり暮らしをするようになると自由で、寮生活時代はバンカラと言われ、いつも服装は乱れ、授業はよくサボったものだ。

しかしながら、専門科目は1科目が「良」で、あとは全て「優」であった。そのため、試験になると自分の席は決まっていて、応援団やその他自信のない連中が、私の周りに陣取ったものである。

 卒業式の式典には参加せず、中村先生は「本間はどうしたんだ」「あいつ将来大物になるぞ!」と私の同僚に言ったとの事であった。サンドイッチと紅茶の懇親パーティーにだけは「おーす!」と言って参加した。

また、大学院を修了した後も、30歳の半ば位までは、ほとんどネクタイなどすることはなく、いつもラフな服装であった。中村先生からも「バンカラプレイボーイ」と評されていたものだ。だが、やることだけはきちっと行っていたので、誰からもクレームは出なかった。

 このようなわけで、これまでは若者をネガティブに評価する話は避けていた。また、教育の語源は educeであり、能力を引き出すと言う事である。そのため、「専門は化学だから、俺は学生を大化けさせるのが教育者としてのやりがいである」と豪語してきた。

 しかしながら、ゆとり教育のせいか、私の行ってきた教育手法は、特にこの2年間、通用しなくなってきている。そこであえて最近の学生の気質に関して、大学を卒業後、企業に10年間勤め、その後社会人マスターとして2年間研究に励んできた、32歳の学生の目から現在の学生気質について書いてもらった。



 社会人として大学院へ入学し、学生生活を送っていますが、現在の大学生の心理や行動の変化に気づきます。私も大学を卒業して10年しか経っていないので、それ以前の世代の方々から見れば、まだまだ若輩者である私達世代についても言いたいこともあると思います。

ですが、あえて今回は社会人学生としての2年間の学生生活の中で、肌で感じた現在の大学生の現状について、私なりの感想を述べます。尚、現在の全ての学生がそうだとは思いませんし、全体的な傾向の中の一部の内容なので、非常に偏りのある見解や間違った認識がところどころあると思います。

 しかしながら、このような傾向が目立つ学生が多くなってきたことに実感を持っております。



 コミュニケーションを取ることが苦手

 テレビゲームやインターネットが一般的な文化として当たり前のように定着した現在、大学生においても実験終了後、一人でゲーム等に没頭する学生が多いように感じます。当然ながら、自分の部屋にこもり、一人の世界を満喫する。それはそれでいいのですが、その生活に浸るあまり、仲間や家族と飲んだり遊んだりする機会が極端に減少し、会話や表現能力が低下している原因のひとつではないかと感じます。

 かくいう私もゲーム世代の一人ですが、それはあくまでも暇つぶしであり、大勢の仲間と会って騒ぐほうが、仲間の考え方や理解が深まると考えています。しかしながら、仲間や相手に対して気を使わずに済むため、一人でいるほうが楽と考えてしまうのも事実です。



 努力せずにすぐあきらめる

 1987年以降に生まれた、いわゆる「ゆとり世代」が、もう大学4年生となりました。それ以前に生まれた人々もその影響を受けているように思えます。

 こういった世代で分けるのは、差別として捉えられるかもしれませんが、私はその方々が悪いとも思っていませんし、逆に被害者ではないのか、と考えたりもします。しかしながら、その影響を受けているようにしか思えない状況がしばしば見受けられます。

 まず、ゆとり教育とは、我々団塊ジュニア世代の詰め込み教育や受験戦争、さらに、いじめや落ちこぼれが社会問題となったことが背景となり提案された教育方針だと言われており、現在はその見直しがなされて話題となりました。しかしながら、ゆとりは、過度な競争社会に反発するように「落ちこぼれ=競争させない」といった風潮が強まり、私には到底理解できない現状があります。

具体例として、話を聞いて驚いたのですが、運動会の順位をつけない学校が増加しているようです。また、厳しい教育を受けてきた親の経験から、子供に叱ることができない問題や、親や子供の非を他人に転換する問題、さらには裕福な生活の中で何も不自由しない環境で育てられたいわゆる「温室育ち」の学生が増加しているように感じます。

 このような表現を行うと語弊があるかもしれませんが、私が肌で感じた中では、そういった「温室育ち」の学生が努力も苦労も何も経験しないまま、大学へ入学しているように思えてしかたありません。その結果、誰かに依存してしまい自分では決断できない学生も多くなってきたように思えます。また我々が常識だと思う事柄が年々通用しなくなり、それが顕在化してきていると嘆く方もいます。

 私の個人的な考え方ですが、本学だけでなく、まさに「ゆとり=ゆるみ」と思える状況が、しばしば見受けられます。



 企業のニーズと大学の教育

 企業は競争の激化をたどり、現在生き残るかどうかの岐路に立たされており、どうしても、生産性の向上や原価低減が求められます。さらに、労務費比率の低減目的や激動する状況の変化に耐えうるべく、海外進出、海外移管を進めています。そのような状況下において企業が新人を一から育てる余裕はないと感じております。

現在、企業が必要としているのは、コミュニケーション能力やモラルは当然のように求められ、さらに想像力豊かで、リーダーシップを発揮できる人材(いわゆる即戦力)であると考えます。

 一方、日本の大学進学率は、上昇の一途をたどっており、2009年度は高等学校卒業(もしくは同等の課程を修了)後、半数以上が大学に進学しています。しかしながら、その教育現場では、前述したように、進学動機やニーズの多様化、学力の低下、目的意識や勉学意欲に乏しい、また、挨拶ができない、時間を守らない、授業中の私語、携帯・メール、飲食等の社会常識の欠落・モラルの低下が著しいこと、さらに自主的・主体的な能力が未熟化している学生が増加しています。

 このように大学の教育現場と企業の求める人物像のギャップは、想像以上に開いており、深刻な状況に陥っていると感じます。そんな環境下で、競争を知らない学生が、はたして社会に順応出来るのでしょうか。

 最後に日本の少子高齢化は今に始まったわけではありませんが、確実に労働人口は減ります。現状のGDPを維持するためには、労働者一人当たりの生産性を向上する必要があります。無責任とは思いますが、私はそれに対する明確な答えを持ち合わせておりません。また、今回はあくまでも全体中の一部の話で、良い面も持ち合わせた学生も非常に多くいることも把握しています。



 以上、企業に10年勤めたのち、会社の経営者の判断でさらに高度な専門性を身につけるようにと、マスターコースに入って実績を上げてきた学生からの現在の学生気質について彼の思うところを書いてもらった。私自身も最近の学生に対してほとんど彼と同じ感想を持つのであえてコメントを入れなかった。



 若者に夢を

 近年、年功序列を守るために、若者が非正規雇用や半分以下の賃金で働かざるをえなくなっている。さらには、年功賃金やポストを維持するために、新規採用を絞り、派遣やフリーターで対応する状況になってきている。

 この様に多くの企業では、新規採用を絞らざるを得ない状況の中で、結局は若者が犠牲になり、将来の設計が出来ず、この事が晩婚化・少子化に繋がっている。

 子供手当や高校までの教育費無料化に向けて、現政府がマニフェストの実施と五兆円も必要とする実効性の低い大衆への迎合策をとっている.大局的には、まさにこれからを担う大学生の就職率を上げ、豊かな未来を作り上げていく若者が将来に対して夢を持てる政策に転換してもらいたいものだ。

 これまで、日本の企業で採用されてきた年功序列制度は、定年まで勤務し、不安なく人生設計出来たが、前述のように雇用体系が大きく崩れてきており、製造業で力をつけてきた、これからの日本の将来に対する不安が増幅されてきた。
 現実を直視すると、これまでのような高度成長は期待出来ないし、中国をはじめとした東南アジアの追い上げの中で、通産省もようやく韓国の サムソンやLGの躍進を見て対策に動き出した。
 年功序列の崩壊は、堺屋太一氏がすでに80年代後半に指摘していた。年功序列の崩壊から若者の未来に対する夢と希望を喪失させ、入社後3ヶ月、特に3年で辞めていく傾向が顕著になってきている。
 さらに、若者がこの様に短期間で会社を辞める理由は、マスコミの価値観や消費者としての存在に埋没しているからだと言われている。

消費の楽しみやマスコミ、特にテレビ文化の中で若者は育ってきており、自由で怠惰な生活を送ってきたため、企業に入って、定時に会社に行き、一定の規律の中で仕事をすることへの耐性が低くなってきている。
 中高年の年功序列を維持するために、多くの若者が犠牲となっている。また、就職も決まらず非正規雇用を余儀なくされ、賃金も正規社員の約半分に甘んじなければならない。それゆえ、結婚も出来ず、出生率は大幅に低下し、若者の人口が減少するため、年金制度も維持出来なくなってきている。

 デフレスパイラルと同じで、このままでは若者の将来に夢がない。企業の経営者はいち早くこれまでの経営を見直し、単なる既存のものづくりの効率追求だけに集中するのではなく、蓄積してきた技術力を大いに発揮するような体制にしていかねばならない。

日本はこれまでより、さらに技術志向にシフトしないと、韓国をはじめとして諸外国の後塵を拝することになる。下請け型から提案型、すなわち技術力を高めるべく学生の採用に当たっては、大学の偏差値や入社時の成績だけで判断するのではなく、きっちり育てた研究室からの採用に重心を置いてもらいたいものである。
 

大学教育現場の現状
関東学院大学
山下 嗣人
 
 18歳人口がピークを迎えた1990年頃の4年生大学への進学率は約25%であったが、進学率が50パーセントを超え、さらに推薦入学者が過半数を占めるようになった昨今、何の目的で入学したのか、何を勉強したいのか、無気力学生の多いことが指摘されている。

「じっくり考える力」を養うべき小学校低学年の学校教育に問題があると言われている。10歳の頃に一つの壁があって、分数が解けない、文章の意味が理解出来ない子供に分かれてしまうという。国語だけを教える塾の様子がテレビで紹介されていた。声を出して読み、読解力や理解力が身につくと、他の教科の成績も向上してくるそうである。彼らの作文を見ると、話題が豊富で表現力も豊かである。広い視点から深く観察・洞察している。低学年次の「マンガ」から、年齢とともに小説など読むように成長するという。本を読む習慣をつけることが大切と説いている。

 中央教育審議会は「基礎的な読解力や文章表現力などを習得させることも重要」と指摘し、2011年以降実施される新学習指導要領では、小学校~高校において、全教科で「言語活動の充実」を図るとしている。語彙を豊かにし、思考力や判断力、表現力を高めて「生きる力」を育むという。

 本学工学部では2004年度から、一年次の学生に対して、5~6名の小グループでのセミナーを必修で課している。その内容としては、「学生とは、学ぶ・仕事・生きることの意味、文章作成、演習問題、調査研究、プレゼン技術」などである。これらを双方向の授業形態で学習し、目的意識の高揚に努めているが、少人数教育であっても、机上での学習には限界があり、その効果は疑問視される。受験の経験がない推薦入学生は、「勉強の仕方、講義の聞き方、ノートのとり方」を知らないのである。推薦入試制度の弊害の一つである。

 数年前に関西の大学教授が学生の成績と教室内での着席場所の関係を調査し、新聞紙上に報告している。前から3分の1の学生の成績が最も良く、中程の3分の1、後ろの3分の1の順番に10ポイントずつ低下している。後方にいて、成績不良の学生は教員の講義が悪いと責任転換する。

 しかし、一人一テーマでの卒論を経験することで、自ら考えて行動できるようになる。研究成果を学会発表した学生や企業との共同研究を担当した学生は、研究開発の一端を担う責任感とも相まって著しく成長する。工学部教育の素晴らしさがここにある。

 学生の意識を変えるには、実践教育が大切であり、社会経験の場としての「インターンシップ」が有効である。社会と接する心構えを養う機会を一ヶ月程度体験した学生の「目の色が変わる」事を認める大学関係者が多い。この効用を正式なカリキュラムに取り入れている大学が増えている。40年前の大学では、夏休みに企業にて実習を行い、スムーズに就職が決まっていたように思う。

必修科目としてインターンシップを開講し、「何のために学ぶのか・生きるのか・働くのかなど」を体験させ、自己分析した上で世の中に送り出すことが必要と思われる。学生の眠りを覚まし、潜在能力を引き出すための教育が望まれる。そのためには、企業側のサポートが不可欠である。

 2011年度から、大学の教育課程に職業指導(キャリアガイダンス)を盛り込むことが義務化されると発表された。学生が自立して仕事を探し、社会人として通用するように、文部科学省が設置基準を改正し、大学側も支援体制の見直しに入るという。この背景には、厳しい雇用状況や職業・仕事の内容が変化して、大学の教育や学生支援が十分に対応できていないこと、新卒者の定着率の低さなどが挙げられている。

 学内に就職支援センターやキャリアセンターを開設して対応している大学が増えている。必修科目として、将来の進路を考えるカリキュラム、「社会で自分を活かして生きていく力」を入学時から4年生まで実施して、就職率100%を達成している大学がある。



注目されるインドの教育

 近年、インドの教育が注目され、その教育内容がテレビで紹介されていた。NASAの33%、マイクロソフトの33%、シリコンバレーの30%をインド人が占めている。インド人が優秀で、英語を自由に話せるからという。義務教育としては認められていないが、子どもにインド式教育を受けさせようとする親が急増している。国際感覚を身につけさせたいと、日本にあるインド学校、インディアン インターナショナルスクール ジャパンへの入学希望者が殺到しているという。インドの教育は厳格で、毎年進級テストがあり、小学生でも落第する子どもがいると聞く。

 インド教育の特徴として、①義務教育年齢とされる5歳児クラスでの会話、授業はすべて英語で行われる。インドでは1ダース、12桁を基本としているので、5歳で二桁の九九を習う。このクラスには日本人20%が含まれている。7歳児のクラスでは三桁の掛け算、8歳では四桁の掛け算を習う。日本のカリキュラムは3学年遅れているという。②IT教育も5歳から始めている。マウスを使って図面を描いて色をつける。キーボードを使って文字を打ち込む。12歳ではプログラミングを簡単にこなす。早期のコンピュータ教育の成果が世界のIT分野をリードする基盤となっているのであろう。③ヨガの授業がある。祈り、精神を整える。体を柔軟にし、呼吸を整え集中力を高める。脳と体をリラックスさせる。④午後には課外授業がある。週に一回、学年の垣根を越え、「チェス」などで遊びながら脳を鍛える。⑤1時間目の開始前に「アンセンブリー」というカリキュラムがおかれ、毎朝実行されている。最近の出来事やニュース、格言、意見などを校内放送で発表することである。その後に全員でインド国歌を斉唱して、連帯感を高めている。

 スピーチにより、「人前力」が身につくのだという。インド人が国際舞台で堂々とプレゼンしている姿を見ると、この教育の成果であることが納得できる。幼い子どもたちの高い吸収力・順応力を理詰めで効率よく活用しているのである。長野の小学校時代、行事があるたびに、全校生徒で県歌「信濃の国」を合唱したものです。長野新幹線や特急あさま号が運行される以前の長野へ向かう急行列車「信州号」の車内でも、この歌声が聞こえ、同郷の結束力を強く感じたものである。これらが郷土や自然を愛し、「国を大切にする心」につながるのではないかと思う。

 インド式教育システムは世界的に広がり、世界の基準になるであろうとも言われている。この教育制度を分析・評価し、「ゆとり教育」の失敗を反省して、各自が何をしたいのか、選択できる力を養うことができる教育システムを構築してほしいものである。



勉強とスポーツとの相関関係は?

 全国学力調査で常に好成績を残している秋田県や福井県は2009年の全国体力調査(握力、反復横跳び、持久走または20mシャトルラン、50m走、立ち幅跳び、ボール投げ、上体起こし、長座体前屈)の順位でも上位に連ねている。秋田県の小学生は2009年の全国学力調査で国語が1位、算数が2位であり、全国体力調査の結果は前回と同じ2位であった。秋田県教育委員会の分析によると、「学校教育を中心として、家庭や地域の教育力がしっかりしている」ことを要因として挙げている。秋田県では2007年に、学力と体力の関係を275校分抽出して分析した結果、学力成績が良いほど体力の結果も良く、ほぼ右肩上がりの相関関係が認められたという。

 学力と体力との関係にいち早く注目したのはイギリスである。学力低下が社会問題となった90年代、体育のモデル校での成績が上がったことに着目したのである。体育が「学校への帰属意識」、「学習意欲」、「授業態度」などを向上させると分析し、2002年から体育振興の政策が導入されている。発育発達学の専門家は、「日常的に体を動かしていれば、早寝早起きの生活習慣が身につきやすい。子どもの体調は良く、頑張れることが学習にもつながる」と分析している。「運動は脳を活性化して、意欲を高め、その波及効果として学力が上がる」と分析する学者もいる。

 一方、「親の年収により、勉強やスポーツの習い事への投資額が異なるので、家庭環境が反映されている」と慎重な見方をする教育社会学専門家のコメントもある。

 地域社会や近隣との連携が一般的に希薄と考えられる都市部の体力順位(小学5年と中学2年の男女の平均)は、東京41位、神奈川42位、大阪44位であり、秋田県の分析結果に一致する傾向も見られる。子どもたちの教育や成長は、学校、家庭および地域社会との連携・協力によってなされるものであり、昔は当然のことであった。



雑誌離れが加速、休刊ラッシュ

 書籍、雑誌の販売金額が1996年をピークに年々減少し、2009年のそれは21年ぶりに2兆円を下回ると推定されている。例年に比較して、ベストセラーが少なかったこともあるが、雑誌離れの加速が最大の原因とされている。最小限の情報や世の中の動向はインターネットで得ることができるので、新聞さえも購読していない若者が増えている。2008年の新刊の刊行点数は1989年の約2倍の7万6千点に倍増しているが、売れない本が次々と出版社へ返品されているという。このような状況から、休刊ラッシュが続いている。2009年は10月までに170誌が休刊している。

 学習研究社は小学生向け学年別雑誌の「学習(1946年創刊)」と「科学(1957年創刊)」が時代のニーズに合わないと判断して、2010年3月をもって休刊すると発表した。家庭に直接届けられる便利さ、九九を歌って覚えるカセットテープ、理科の教材などユニークな付録人気に支えられてきたが、少子化や主婦層の在宅率低下、子供たちの多様化、活字離れ、インターネットの普及などの影響を受け、最近では最盛期(1979年670万部)の10分の1以下という。小学館も学習雑誌「小学五年生」と「小学六年生」の休刊を発表している。

 雑誌「科学」を通して理科に興味を覚え、理系への進学を決めた子供たちも多いと思われる。「科学」の休刊は残念なことであり、理科離れがさらに進むのではと懸念される。一方、「まちの科学実験教室」は、様々な不思議な現象に目を輝かせる子どもたちの興奮でいっぱいだという。身近な道具を使い、遊びながら科学の原理を知ることができるので、「学校ではできない実験ができて面白い」という。進学塾も実験教室を開いている。東京農工大学の科学博物館では約20年前から子供科学教室を開いている。参加者数は増加傾向にあり、2009年は209人という。特に見学する保護者の増加が著しく、「大学の先生が理系の楽しさを分かりやすく教えてくれる」ことに期待しているようである。理科実験を楽しむ効用として、学研教室の担当者は、難しい理屈は言わないが、教科書で習った時、実験の経験があるので「知っている」と思えて自信になるのだという。

 大学の教育施設を地域社会の方々に開放する「ふれあい祭り」で、子どもたちに「レモン電池」の実験教室を開いたことがある。様々な果物と材料を組み合わせた電池を作製し、音の高さで電池特性を判断するものであるが、予期せぬ展開がおこり、子どもたちの豊かな想像力に驚かされたものである。夏休みの自由研究の題材として、ご父母の方々にも好評であった。

ノーベル物理賞の益川敏英教授は、子どもは本来「好奇心いっぱいであり、親はそれをつぶさないようにしてあげることが重要である」と述べている。「体験させる」、「経験させる」ことが大切なのである。

 本学科では、毎年7月に中高校生を対象とした「夢化学」を開講し、表面工学や生命科学分野の基礎・応用実験を体験していただいている。受験重視の中学・高等学校では、考える力を養う事が出来る科学系の実験を、殆どしていないようである。無限の可能性を占めている子どもたちに「科学の面白さや魅力」を伝え、この分野の将来を担う人材の育成に努力しなければと思っている。
 

就職浪人
関東学院大学
本間英夫
 
 昨年度大学新卒者の5人に1人は就職浪人となり、彼らはその後、どのような生活をしているのか、決して明るくはないはずである。我々の研究室の卒業生は幸いにもすべて100%就職が決まり巣立っていったが、ほかの研究室では決まらなかった学生がかなり多いようだ。
 ほとんどの大学では、先生方が学生に就職を世話するのではなく、学生自身がインターネットからエントリーしたり、大学の就職科の窓口で探すのが一般的である。情報化社会へのインフラが整ってきているので、いずれの企業もまずはパソコンを使ってインターネットを介してエントリーさせるようになってきている。リクナビと称するサイトにほとんどの企業が登録しているが、学生は企業の知名度から選んだり、また、実力以上の企業にエントリーする。
従って、有名企業には数千人の学生が殺到するという。また、これらの企業では第一関門として、エントリーした大学名で選出し、その後、インターネットを介して第1次試験の常識問題で、更に篩にかけられる。その後、やっと人事面接、次いで技術面接、役員面接と少なくとも2ヶ月くらい学生は拘束される事になる。
という事は、学生側に立つと、リスク回避から何社も同時に受験することになる。まず一次試験として、一般常識や性格テストが合否判定に大きく関わってくる。従って、一般常識が欠落している(私自身もそうだが)学生は、どこを受けても合格の判定は出ない。また性格テストでは、おそらく常識人が一番良い評価になると思うが、若い時は意外と性格が強く出るし、社会経験が少ない学生にとっては良い評価は得られないだろう。それ故、この種の試験で合格の判定を受ける学生は、どこを受験しても合格の判定になり、不合格の判定を受ける学生はどこを受けても不の判定が下ることになる。
 企業はその後、8月くらいから内内定の通知を出す事になるが、10月の就職解禁日に何れの企業も内定式を行うようだ。その時になって、大学と同じく歩留まりという表現が出てくる。一部の名の通った企業以外の多くの企業では、歩留まりが50%を大きく下回るらしい。そこで更に2次募集をするので就職試験時期は春と秋との2回の山、中には1月から3月ころまで持ち越され3つの山があるという。それゆえ内定すると学生を拘束するために企業は入社前の準備教育と称してレポートを提出させたり宿題を課している。それ故、その間は研究よりも此方を優先するので、これまた彼らの技術的な能力向上の大きな障害となる。
 先日、東京のビッグサイト近くのホテルで会合があるため出かけたが、何百人というリクルートスタイルの学生が、同じ手提げ袋を携えて、駅に向かっていた。手提げ袋に記された企業名から、ある証券会社の就職説明会があったのだろう。実際は、多くても百名足らずの採用枠のところに何千人もの学生が群がる事になる。有名企業は独自にこの種の説明会を数回開催し、多くの学生を集める。
 また中小の企業は合同説明会と称して、同じように数回開催している。従って、このようなリクルート活動に、連日学生は身を置く事になる。以前から何度も述べているが、4年生や大学院の修士二年生は、一番力をつけなければならない時期である。卒業研究、修士論文の作成のための研究や、自分の専門領域の勉学はそっちのけで、就職活動を続けている。これでは一番吸収力と技術力を上げる事の出来る大切な時期に、こんなばかげた時間を費やすのは国家的にも、各企業から見ても大きな損失である。
 何度も述べているが、企業の人事はこれまでの欠点だらけの採用方式を是正せねばならないことに早く気づいてもらいたいものだ。幸いなことにすでにいくつかの企業では、採用試験のこの種のITを駆使した方法から見直しがなされ、専門性のある領域では大学の偏差値ではなく研究室の力で評価する採用方式を取り入れるようになってきている。この手法はリスクが低く、いい人材を確保することができると気づき始めている。我々のように、学生に対して熱心に研究と教育を行ってきているものとしては、この種の見直しが企業で行われている事は大歓迎である。また、最近ではこんな言い方は嫌いなのだが社会の常識になっているので、あえてその言を借りれば、技術系特に理工学部では、一流大学はほぼ100%、2流では50%、3流では20%が大学院に進学している。企業側も能力の高い学生を採用と、大企業では大学院の修士課程修了者の採用が主になり、学卒は採用しなくなってきている。親にしてみると大学の4年間面倒を見てきたのに、さらに大学院までは面倒が見られないと、ほとんどの学生は貸与の奨学金、さらにはアルバイトで授業料や生活費を工面しているようであるが、それでは研究には集中できず中途半端になってしまう。今から10年以上前に自分の所属する化学科に奨学金の足しにと寄付したが先生方はそれを有効に使用する仕掛けを構築しようとはしてくれなかった。そこで6年前になるが神奈川文化賞を授賞した。その際に多くの企業からお祝いとの話があったがすべてお断りし大学に寄付していただくようにお願いした。副賞とあわせて3千万円近くになり、また我々の研究室の卒業生からも多額の寄付をいただき、トータルで5千万円近くになりそれを下に表面工学奨学金制度を大学に作っていただいた。この制度が出来てからは、毎年表面工学分野に進む大学院生4名に授業料相当額を負担できるので、少しでもアルバイトから解放され、研究に専念できる体制が構築されたのではと自負している。
基礎、応用、実用化
 学生と一緒に、これまで40年以上にわたって基礎、応用、実用化の研究を行ってきた。その成功例をいくつか紹介したいが、まず象徴的な例を次に紹介する。
 製品を生むためには、まずシーズをつかみ、その基礎的な研究、更にはその目的の性能を持ったものをつくる「応用」、そして大量生産体制をつくる「実用化」というステップを経る。応用から実用化の間には、資金調達や生産効率の改善など多くの課題がある。そこを乗り越えるのは非常に困難であり、デスバレー(死の谷)といわれる所以である。
 我々の大学は、50年以上前から自ら大学に工場を持ち、研究から実用化までを一貫して行ってきた。40年以上前から始まった代表的な技術が、プラスチックめっきで世界をリードしてきた。その後多くの経験と知識とあくなき情熱の下に、学生とともに研究が活発に行われ、実用化にいたる研究に着手してきた。これまでたくさんの例があるが、あらゆる研究を実用化する力の源には、若い頃の寝食を忘れて実験にある。
 30年前、中村先生が私のまとめた博士論文を見て「おい、これいけるぞ」と、即座に新しい工場を建てることになった。ビーカーでしか実験していなかったので、先生の思い切った判断にはひやひやしたが、その工場は一時70億円も稼ぐ製品を生み出した。その論文の中には現在研究所で進めているテーマのルーツが沢山あり、その後多くの実用化に繋がっている。エンジニアリングプラスチック上のめっき、セラミックス上のめっき、ガラス上のめっき、これらから派生した微細パターン形成、無電解複合めっき、など。
 また、ここでは15年前にある学生が出した失敗データから大きな成果につながった話を紹介したい。プラスチックめっきは、金属イオンが溶けた薬剤にプラスチックを沈めて行う。薬剤の働きで表面と金属イオンとの間で電子の受け渡しが起こり、金属が析出する。当時この薬剤に含まれていたホルマリンは人体に有害なため、その学生はホルマリンを使わないめっき技術を開発したいという。研究を始めて1年、「どうしても出来ませんテーマを変えたい」と進言してきた。そのときに持参したデータのなかに、細かい棘状になった銅がプラスチック表面に析出していた写真があった。
 その写真を見た瞬間「彼が目的としている研究には使えないが、金属と有機材料の密着性を上げるのには有効だ!」とひらめいた。
 パソコンの中に入っているCPUなど、超微細回路をつくるためには、当時のプラスチックめっき技術では密着性が不足していたため、そこに使えると考えた。すぐに特許を取り、実用化を進めたこの技術は、世界のCPU素材をセラミックスからプラスチックに変えるきっかけになった。このように産業を発展させる人材を育てる「コツ」を、学生にしばしば話すのだが「実験には失敗はない」「Do and see do not think too much」実験が思い切ってやれる環境を用意し、自由にやってもらうように仕向けている。得られた結果の中にはキラッと輝く現象が含まれており、これを見逃さないように、見つけ出すコツを伝授している。
 このように実用化のための技術と知恵を持つ人を育て続けてきた研究室として、すでに400名近くの学生が巣立っていった。本年は化学科創立50周年になる。我々の元で学んだ技術者たちの多くは、デスバレーを飛び越えて産業を発展させていると自負している。
 

化学科創立50周年
関東学院大学
本間英夫

 
 本学に工業化学科が設立されて本年で丁度50年になり、5月末に記念式典が開催される事が2月頃に決まっていたため、式典が終了してから研究室のOB会もやればいいと、3月の終わり頃から研究室のOBに連絡する事にした。
 今回は主目的が記念式典であり、参加会費は記念誌の発行代も含まれているため、当然嵩む事になる。そこで、研究室のOB会費は3000円として、不足分は自分で負担する事にした。
 これまでは、OB会を開催する際に、各年代のOBの幹事役や学生に手伝ってもらって、手紙や往復はがきなどで連絡して来たが、今回は殆ど一人でメールアドレスの分かった研究室のOBに連絡した。メールでの連絡は便利だし、費用も掛からない。
 しかしながら、今まで中村・本間研究室を巣立っていったOBは350名以上になるが、年代が上になるにつれて、メールアドレスを所有していない比率が高まる。また、記念式典に関しては、同窓会から正式にはがきで連絡がなされているし、2年後の完全リタイヤの時に最終講義をやる事になるので、今回はメールだけで連絡をしてみた。
 その結果、130名程度が集まる事になった。OB会では、初めから懇親会を始めるよりも、この50年間の歴史を皆に語るのがいいだろうと考え、30分くらい時間を作った。
 
わが表面工学研究室のルーツ
 工業化学科設立にあたって、分析化学実験と表面処理の授業を担当される事になった中村実先生は、昭和31年に機械科の講師として赴任されていた。大学では既に、収益事業の一環として、事業部を立ち上げ、めっき工場が稼働し、特にトヨタ自動車のバンパーのめっきが行われており、出来上がった製品の品質は、産業界から高い評価を受けていた。
 それは当時、経験と勘の技能に頼っていた作業から、中村先生が大学に赴任される以前から、横浜市職員として技術的な指導をされていた。また、最新の技術を導入すると共に、綿密に分析管理を行う事により、良品率を飛躍的に増加させたからである。従って、当時から分析管理や評価のための実験室が整備されており、工業化学科の設立時には、中村先生が分析実験を担当する事につながっている。
 それから3、4年後、世界に先駆けてプラスチック上のめっきの工業化が成され、益々分析や解析の必要性が高まり、赤外分光、ガスクロ、紫外可視分光光度計が揃えられていった。昭和39年に、私は二期生として卒研に配属される事になったが、当時はプラめっきがスタートしたばかりでトラブルが続き、配属された卒研生の内3名は大学で研究をし、多くは杉田の工業試験所で研究を行う事になった。
 工業試験所からは、今井雄一先生と田中克己先生に非常勤講師として来て頂いていた。また、分析化学の講義は、防衛大学の笠木先生が担当され、内容はかなり高度であった。私自身は工業試験所で卒研を行った後、大学に戻り専攻科、大学院へと進んだ。その間、中村先生は多忙を極め、ほとんど卒研生と私の間で研究が進められた。
 さらに、私が助手に任命されたその年から、学園紛争が徐々に激化し、学生は産学協同路線反対と、キャンパスをロックアウトし、16号線にバリケードを張るに至った。殆どの先生は、毅然とした態度が取れず、紛争は過激さを増し、学生との話し合いでは、解決の糸口は全く見いだせなかった。中村先生は、勇断を持って機動隊導入を教授会でアピールされ、紛争は解決した。
 しかし、残念ながら、それを契機に昭和45年位だったと思うが、先生は大学を去る事になる。それは、中村先生が47歳の時であり、私はまだ助手で、28歳の頃であった。その後、中村先生は大学院の教授としての籍を残され、先生の指導の下、研究室を運営する事になる。
 また、神奈川県の工業試験所への卒研生の派遣は、その後も10年程続いた。私はまだ教員として駆け出しであったが、毎年10名程度の学生と分析研究室のメンバーとして研究に勤しんだ。
 その後カリキュラムの見直しがなされ、教員の数も増え、それぞれ先生個人の名前の研究室に分かれていき、分析研究室から表面処理を中心とした本間研究室へと変わっていった。

本間研究室から表面工学研究室へ
 分析研究室の流れの項目の中でも触れた様に、我々の研究室は中村先生の後を受け継ぎ、産学協同を実践してきたユニークな研究室である。
 我々の大学では、今から50年以上前から大学の中で、木工とめっきの2つの事業を行っていた。その事業部で働く若者の多くは、昼間キャンパス内の工場で働き、夜は本学の高等学校または大学で勉学に勤しんでいた。
 木工工場の製品は、学院の机、椅子などは勿論、家具類は横浜の高島屋の注文を受けていた。めっき工場は、特にバンパーを始めとした車載用のめっき加工が行われていた。
 中村先生の、回顧録や「為せば成る」の本中でお書きになっているが、本学のめっき工場が技術的な難問にぶつかった際、当時、横浜の指導所に居られた先生を大学事業部の技術担当者が訪ね、幾度となくアドバイスを頂いたとの事である。
 それがきっかけとなり、先生が本学の機械科の助教授及び事業部の部長として奉職されたのが、昭和31年の事である。それから、事業部の技術力は急速に向上し、数年後には、学会から技術賞を授与され、学院の創始者である坂田祐先生が代表して受賞されている。
 さらに数年後には、プラスチックス上のめっきを世界に先駆けて工業化された事は、あまりにも有名である。また、現ハイテクノの社長である斎藤先生(2005年位まで非常勤講師、表面処理担当)は、その技術の鍵になっている無電解銅めっきを電気化学的に明らかにされ、混成電位論を提唱された。
 この理論は、日本では殆ど評価されなかったが、アメリカの学会で評価され、一躍有名になった。このような理由で、斎藤先生からは、「たまには英語で論文を書くように」とのアドバイスを受けていた。
 従って、研究室を受け継いだ後は、卒研生と共に英語の輪講会を欠かさず行っており、「継続は力なり」で誇りとしている事の一つである。実際、国際的に活躍している卒業生も多い。
 研究室では、すでに40年前から、産学協同に重きを置いた研究が進められており、しかも、世界に先駆けて工業化に成功したプラめっきの研究成果は、すべて公表し特許は取らなかった。
 なぜ特許を取らなかったかは、大学の校訓「人になれ奉仕せよ」を実践したもので、中村先生の回顧録に詳しく書かれている。私は米国の学会で、これまで何度か招待講演を受けてきたが、その度に下手な英語で本学の産学協同の歴史を必ず枕に話してきた。その際、「あなたの大学はスタンフォードのミニチュア版だね」と言われたものである。
 工業化学科設立以来、10数年間は5号館1階の実験室で、学生実験と卒研が一緒に行なわれてきた。その後、新しく実験棟が建てられた事によって、各教員がほぼ同一面積の実験室を持つ様になった。
 さらにその後、工学本館が建てられ、教員の研究室も出来た。このように研究、教育環境が整備され、研究室にも活気が出てきた。また、昭和40年代前半から、水に関する環境化学的研究が10数年以上行われた。この間、日本の水処理の権威であられた、今井雄一先生が化学科設立当初から非常勤講師として、また、先生が勤務されていた、神奈川工業試験所で、多くの我々研究室の卒研生がお世話になった。
 しかしながら、杉田にあった研究所が、海老名への移転に伴い、工業試験所との関係は一時的に希薄になった。
 その後、エレクトロニクスを中心とした先端技術と、表面処理の関連が極めて深くなり、エンジニアリングプラスチックのメタライジング、電磁波シールド用メタライジング、湿式法による磁気膜形成、ガラス、セラミックスのメタライジング、プリント回路形成技術、エレクトロニクス実装技術などの、基礎から応用にいたる研究に注力するようになった。
 この様に、研究室のテーマが多岐にわたるようになり、他大学、工業試験所等との共同研究、関連学協会及び業界との積極的な接触が行われる様になってきた。
 その後、今から8年前になるが、大学と関東化成との間で表面工学研究所を設立し、現在はスタッフ5名と学生15名位がアクティブに研究に勤しんでいる。また、今から5年前に文科省にハイテクリサーチプロジェクトを申請し、採択され、10人の化学関連及び電気関連の先生方が参画し大きな成果を上げてきた。
 以上、研究室の歴史的背景をかいつまんで述べたが、これまでに350名以上の学生が研究室を巣立っていった。大学院のマスターコースの修了者も50人を超え、さらにはドクターコースの設立に伴い、コースドクター17名、論文博士3名輩出している。それを基盤にして、現在の研究室と表面工学研究所がある。これは何にも勝る無形の財産であり、さらに研究室と研究所の継続が大学の発展にもつながると確信している。まさにこの原稿をまとめている時に、エレクトロニクス実装学会から学会賞受賞の連絡が入った。OB諸君の地道な研究成果が評価されたもので、小生が代表して受賞するので学会から送られてきた推薦文を下記に示す。

高密度実装用先端的微細めっき技術の研究開発への貢献
 本間教授は、プラスチックめっきの工業化の草分けであり、さらに、ガラス上の金属薄膜形成、平滑基板への密着に優れた薄膜形成及び微細配線加工、各種セラミックス材料のメタライジング、各種微粒子へのメタライジング、電鋳技術のMEMSへの応用とめっき技術分野全般の研究開発などの多くの功績があり、この分野については、世界的にも第1人者であります。
 なかでも、プリント配線板のマイクロビアへの銅めっきフィリング技術開発に取り組み、工業化出来るまで技術確立して多大なる貢献をされております。この高密度実装用微細めっき技術の研究開発については、技術開発の創生期から取り組まれ、それを工業化出来るまで確実な技術に仕上げた事は、今日の多ピン化・狭ピッチ化が進む半導体のパッケージサブストレートへの実装を容易にし、BGA・CSPやSIP・POP等の普及加速の原動力となっております。
 また、これら先進パッケージを実装するマザーボードでも当該技術は広く応用されており、電子機器の小型化に大きく寄与する技術として世界的にも高く評価されております。
 また、本間教授は、当学会の過去に配線板製造技術員会の委員長やビルドアップ配線板研究会の主査など多くの技術委員会の指導的立場で技術調査活動を推進いただいた功績あります。さらに、2000~2001年に当学会の常任理事も務められ、当学会の発展にもご尽力いただいております。
 さらに、大学での研究および教育に従事する一方で、自ら開発しためっき技術を基にベンチャー企業である表面工学研究所を設立し、技術普及にも取り組まれ、日本の産業界育成にも大きな貢献をされております。
 このように、実装分野における優れた技術開発に貢献された本間教授に学会賞を授与する事を推薦致します。
 

電子メールの活用
関東学院大学
本間英夫
 
電子メールをコミュニケーションツールとして使い始めたのは何時頃からだったか、10数年になると思うが、もう忘れてしまった。現在は、1日に50から60件位のメールを受信し、その内、返信しなければならないメールは、およそ35件から40件位。後は、学会などからのお知らせや、広告宣伝とジャンクメールである。いずれにしても、今や連絡には欠かせないツールとなっている。

15年近く前までは、電話での応対が多かったが、今では迅速性、利便性から多くの要件はメールで対応している。したがって、大学のオフィスや自宅からの固定電話でのやり取りは、めっきり減った。

ただし、電子メールでのやり取りは便利だが、誤解を生みやすい一面もあるので、複雑で説明に時間を要する内容は、電話で会話すれば、電子メールで生じるような誤解は無くなる。

電子メールでは、ちょっとした表現で人を傷つけたり、内容について思わぬ受け取り方をされたりすることも多いと言う。中には、電子メールでやり取りをしているうちに、ささいな意見の食い違いから話がもつれ合い、お互い不信感を持ってしまう場合だってあり得る。

私自身はどちらかというと、人と向き合って話す時は相手を見て、正義感に燃えて直球勝負することが最近多くなってきたが、メールでは感情が伝わらないので、気遣いをする一方で、細心の注意を払っているつもりだ。

しかしながら、気遣いをしているつもりでも、中には挑戦的で、全く引き下がろうとしない人もいて辛い思いをした経験もある。その人とは、面談しても挑戦的で、先輩をリスペクトする気持ちが欠落しているようで、今でも、しこりが残っている。

幸か不幸か、感情的に、挑戦的にやり取りしたメールの入ったパソコンは、ウイルスに侵され残っていない。しかしながら、自分の記憶の中では、その人とのやりとりがあまりにも理不尽で強烈だったので、今でも暗い記憶として残っている。

同じく、自分では気付かないが、誤解されたり、相手を無自覚なうちに傷つけたりしていることもあるのではないかと危惧している。

この原稿を書いているさなかに、ある友人から、「さてさて」と題して「周辺はいろいろと忙しいですなあ・・・」と、ここに示した通りの短いメールが来た。これはまさに、初めから小生に対して、シニカルな意味を込めての、メールである。そこで、「他人の不幸は蜜の味というが、そのような傍観者的な視点から見ないようにお願いしたい」と、短く返答しすぐに電話した。

本人は不在であったので何度も電話し、数時間後に連絡が取れ、本人の部屋に行き、「周辺はいろいろと忙しいですなあ・・・」の内容の説明をした。彼は即座に自分の傍観者的な気持ちに立っていたことに対して、「申し訳なかった」と謝った後、比較的長いメールで「他山の石」というのは肝に銘じておかないといけないとの気持ちを伝えてきた。

本人とは40年来の付き合いなので、なんでもざっくばらんに話をしたり、ある時は激論にもなったりするが、極めて仲のいい同僚である。
 この様に、電子メールはコミュニケーション手段として、重要なツールになってきているのだが、普段から送信内容が相手に失礼にならないように、文章は吟味すべきである。

そこで、電子メールの送受信で誤解が生じないようにするには、どのような配慮が必要か自分なりの考えを示す。


誤解のない電子メールでの送信のコツ
 なぜ、電子メールでのやりとりは誤解を生じやすいのか、その原因は、フェイストゥフェイスのコミュニケーションよりも伝達情報量が少ないことに起因する。したがって、業務連絡などの知らせは、手短に書くように心掛ける。また、時間のかかる相談や自分の意見をメールで述べるのは極力避けて、簡単なメールの後、本人に直接会うか、または電話で話すのがいい。

長いメールを書いても忙しい人はうんざりするだろうし、自分が一生懸命に思いを伝えようとしても、読むのに時間がかかるだけで効果が低い。
 我々のコミュニケーションは、言葉に加え、相手の表情や声のトーン、五感をフル活用して集めている。小生は若い時に無茶をし、歯の健康には全く留意していなかった。「80歳‐20本」などには全くおぼつかなく、多くの人工物?を口の中に入れている。

したがって、滑舌が悪く、講義や講演や打ち合わせ等で、相手に理解されていないのではないかと、それを確認する目的と、最近英語のヒアリングを怠っていたので、ICレコーダーを購入した。

10年位前に購入したICレコーダーは、録音時間が短かったが、今の製品はなんと24時間も録音出来る。そこで、学生との打ち合わせ内容を録音してみた。

自分では、ある程度標準語を使っているつもりだったが、50年も横浜にいるのにもかかわらず、生まれ故郷の富山弁のアクセントは抜けていないし、早口で聞き難く、これではと思ったが、もう意識しても修正出来ないと、諦めた。

結論として、フェイストゥフェイスでコミュニケートしていると、五感を駆使しているので、少し位滑舌が悪く、方言のアクセントが混ざっていても通じているのであると自己肯定。

要は、現代社会ではコミュニケーションが不足しがちなので、極力直接会って話をしたり、電話で話したりするのがいいと言うのが小生の結論である。

電子メールに不足している情報
 人との情報交換で伝わる情報は、「顔の表情が55%」「声の質や大きさやテンポが38%」「話す言葉の内容が7%」の割合になるというコミュニケーションの法則をメルビアンの法則というらしい。
 すなわち、情報の多くは言語のほかに、非言語の情報も大きな役割を果たしているということを示している。左記の私の同僚とのやりとりにおけるお互いの誤解は、非言語情報が電子メールでは欠落するからである。
 電子メールのコミュニケーションでは、表情や声のトーンは伝えられない。電子メールでは、言語情報のみで情報を判断し、不足情報を類推しなければならない。そこで、ビックリマークやハートマークなど、何種類かのマークを駆使して、感情面を和らげるようにしているが実情である。

したがって、メールではネガティブな内容は喧嘩別れをする場合はいいだろうが、そうでなければ否定的な内容は極力避けたほうがいい。
 以上のように、電子メールで誤解が生まれるのは、ネガティブな内容の時なので、電子メールを送信する時にはよくよく注意するようにしたい。
 また、電子メールを送信する時の心構えとして、相手が誤解しそうな内容の場合は、内容を吟味し、ネガティブな内容を避けるように努める。
 また、電子メールを読んで感情的になった時には、すぐに返信すると感情に任せた文面になってしまうので、誤解が生じやすい。時間を置くことで、気持ちを落ち着かせることも必要である。

また、相手からの電子メールを冷静に読み直してみると、相手が本当に伝えたかった内容に気付く場合もある。電子メールだけではなく、その他いろんな場面で感情的になった時は、一日置くと自分の気持ちが落ち着き、意外と感情的にならないものである。

電子メールのCCの功罪

仕事内容を共有するためには、メインの送信者以外の関連の人にはCC(カーボンコピー)で送ることが常である。

経過が分かるし、場合によっては推移を見て、メールのやり取りをしている当人たちに、サジェッションしたり、軌道修正をしたり出来る。

我々の研究所のスタッフや学生との間では、研究の進捗や内容について、研究やクライアントとのやりとりを共有するために、グループごとにCCを入れるようにしている。この中で注意せねばならないのは、情報が不足している内容や、ネガティブな内容を電子メールで送ると、誤解や人間関係の悪化を招く恐れがある。
 電子メールのやりとりで誤解が生じるようであれば、電話や対面によるコミュニケーションに迅速に切り替えるようにせねばならない。最近、小生の周りでいろんなことが起こり、2月号には若干鬱になり、この試練を乗り越えてきたと述べた。まさに、実際に直接話をすることで、ささいな意見の食い違いだったと分かることがよくあることだ。

たまたま、ネットサーフィンをしていた際に、まさに、「電子メールでの誤解を防ぐには」という内容が出ていた。その中の一部を紹介すると、「相手の言いたいことを否定して自分の意見を主張するのは、新たな誤解を生みやすい。人の意見は千差万別だ。相手の考えに理解を示した上で、自分の主張をする。誤解を防ぎながら、自分の主張を伝えることができるだろう。相手の言いたいことを考えることで主張にも一理あると気付く場合もある。」
 電子メールは、一度に多数の人に配信でき、情報の伝達時間も短縮できるので、仕事に大きなメリットをもたらす。その半面、誤解が生じた時の影響も大きくなってしまう。
 読者諸氏も電子メールにネガティブな内容が含まれている場合は、注意し、意識して見直してみましょう。

意見の食い違いによる誤解は、ちょっとした気遣いで解消できるし、相手とのスムーズな意思疎通を図ることにつながっていくと確信している。



電子メールや電話に対するレスポンスの早さ

メールで連絡した際に、素早く応答してくる人ほど、大学においても、産業界においてもアクティビティーが高い。

私自身は、メールを携帯電話には転送するようにしていないが、大学のオフィス、実験室、研究所のオフィス、自宅にそれぞれパソコンを配置して、何時もメールを送受信可能な状態にしている。また、海外出張は勿論、国内で一泊以上する場合は、必ずパソコンを携行し、何時もメールをチェックできるようにしている。

携帯電話に転送すると、もっと便利かもしれないが、ジャンクメールも多いので、携帯電話の メール機能は使用しないで、専ら発信専用の電話として使用してきた。

また、最近は車も快適性が高くなり、ブルー トゥース対応になっており、ハンドフリーで通話が出来る。誰もいない空間の中では頭がすっきりしていて、どんどん会話が弾むように思える。便利な道具になったと驚いている。

自宅から、大学および研究所への移動時には何時も学生への連絡、スタッフへの連絡、企業の方々との連絡と、時間を有効に使うことが出来る。

私はどちらかというとせっかちな性格で、思いついたら即座にメールや電話をする。

しかしながら、何度こちらが連絡しても電話がほとんどつながらないし、また、メールをしても返信が遅い人がいる。この様に、連絡のとりにくい人は、このスピード重視の時代、よっぽど雲上人でない限り、謙虚に猛省されたい。
 

神奈川表面技術研究会
関東学院大学
山下 嗣人
 
 昭和40年代、神奈川県には「神奈川県めっき技術研究会」がありました。私が研究者としてスタートした昭和45年頃、東北大学金属工学科の著名な先生の講演を拝聴する機会がありました。金属の組織や腐食防食専門の理論的な内容でしたが、杉田の旧神奈川工業試験所の薄暗い3人掛けの教室は聴講者で満席でありました。早く行かないと座る席がなかったと、長老の社長から聞いたことがありました。当時としては貴重な情報源だったのでしょう。このような組織は他県になく、研究会で得た情報や技術をもって、神奈川県は表面処理技術レベルの最も高い県と評価されていたそうです。

研究会は昭和50年に閉会しましたが、表面処理技術、ニーズの多様化に対応するための情報交換、技術向上および研究開発などを目的として、昭和58年11月に「神奈川表面技術研究会」として、研究者、技術者、専業者、材料・設備メーカーなどの会員82名をもって発足しました。翌年5月の第1回総会後の研究会では、中村先生が「めっき工業の将来と研究会のあり方」と題して、将来の動向を見据えた示唆に富む基調講演をされました。

以来、年5回の研究会と1回の見学会を基本とし、その企画は十数名からなる理事・委員が担当して、会員の事業・専門性を考慮し、かつ、時代に合致したテーマが取り上げられてきました。最近では、環境や法規制に関する実務的内容が多かったように思いますが、2009年6月、私が会長に就任したのを機会に、アカデミックな内容、すなわち、表面処理技術の基礎(理論・原理・測定・分析・解析・評価)と応用、将来展望や最先端のめっき技術、電解液およびめっき皮膜の構造解析と機能化などの広範囲な分野への展開を考えているところです。

2010年度総会後の研究会では、本間先生に「ハイテクを支える最先端の表面技術」と題する基調講演をしていただきました。関東学院大学が世界に先駆けて開発した「プラめっき」の誕生から、「紫外線を用いた画期的な環境調和型前処理法」の開発に至るまで、エレクトロニクス産業を支える様々なハイテク分野の成果を含めてお聞ききすることができ、聴講者に「夢と希望」、さらには「勇気と元気」を与えてくださり、いつまでも余韻が残りました。

研究会発足時の目的の一つである「研究開発」を実現するために、神奈川県産業技術センター、横浜市工業技術支援センターならびに関東学院大学との連携を図り、初心者や高度技術者を対象とした実習セミナーを共催開講することも検討中です。

昨年末、横浜市工業技術支援センター、横浜金沢産業連絡協議会と関東学院大学が、地域の産業振興および中小製造業の人材育成を目的として、産学官連携推進、産業連携推進の協定を、それぞれ締結しました。中村先生、本間先生のご業績により、国内外で高く評価されている「表面工学分野」との連携が、特に期待されています。神奈川表面技術研究会も、地域企業や神奈川めっき組合との連携を積極的に図り、存在価値を高めたいと考えています。

本研究会の事務局は設立以来、横浜市工業技術支援センター内にありましたが、諸般の事情により、2010年度から、私の研究室(関東学院大学工学部物質生命科学科応用電気化学研究室)に移転しました。横浜市工業技術支援センターの前身は、中村先生が最初にお勤めされた「横浜市立輸出工芸指導所」であり、神奈川表面技術研究会の初代会長は、私の横浜国立大学工学部助手時代の指導教授鶴岡先生でした。両先生の名声に恥じないよう、本研究会を発展させなければと責務を果たすべき、新たに歩み始めているところです。現在の会員数は63名である。

 

表面技術協会関東支部

 表面技術協会には、北海道・東北・関東・中部・関西・九州の六支部があります。支部の目的は、地域の活性化を図り、会員増強に協力することにある。関東支部は一都九県(東京・神奈川・千葉・埼玉・山梨・新潟・長野・群馬・栃木・茨城)から構成されており、全会員数の52パーセントを占めています。協会の会員数はピーク時の4000人から、約70%にまで減少していますので、支部活動を活性化し、魅力ある協会にしなければなりません。会員の半数を占める関東支部の責任は重大なのです。

年間の事業は、主査と幹事が企画し、支部単独の講演会、実習セミナーの他、他研究部会との共催による講演会や見学会などを通して、教育啓蒙活動を行っています。関東支部は地域が広いので、二分割することが話題に取り上げられたこと、活動が低調であるとの噂を耳にしていたので、私が支部長となった2009年度は他支部に負けない活動を、東京、神奈川、千葉、栃木および長野地区などで展開しました。第120回講演大会(2009年9月)は、関東支部の担当でサーテック2009と同時に幕張メッセで開催をしました。景気の悪さが懸念されましたが、参加者は例年の秋季大会よりも多く、安堵しました。

 昨年9月初旬、斉藤先生、本間先生のご協力を得て、関東学院大学金沢八景キャンパスにて、「電解めっき薄膜の作製と構造解析―ウエットプロセスの基礎および最先端の講義と実習セミナー」を開講しました。初日は、電気めっきの基礎と応用(斉藤先生)、ハイテクを支える最先端のめっき(本間先生)、電気化学的手法による薄膜作製と解析(山下)の講義を、二日目は、分極・インピーダンス測定と解析、電解によるめっき皮膜の作製と構造解析などの実習を行いました。さらに、最新機器のXPS(X線光電子分光)、AES(オージェ分光)、SECM(走査型電気化学顕微鏡)などのデモ実験と研究施設の見学も行い、好評でした。

2010年度は、10月26日(火)~27日(水)に関東学院大学金沢八景キャンパスで、「電気化学測定法の表面技術への応用―添加剤作用機構の電気化学的および構造学的解析」と題する実習セミナーを、また、12月16日(木)~17日(金)には関東学院大学表面工学研究所を会場として、初心者向けの講義と実習からなる「めっき基礎実習講座」を開講する予定です。これらの詳細につきましては、表面技術誌9月・10月号の会告に掲載されますので、ご覧下さい。 

関東学院大学には、ハイテク・リサーチ・センター整備事業で設置した最新の解析機器がありますので、これらを使用しての実習セミナーは、研究者や技術者の教育に大いに役立つものと確信しております。

関東支部では、10月15日(金)に栃木県産業技術センターで、11月26日には都内での若手研究者による魅力ある講演会が予定されています。また、表面技術協会第123回講演大会は2011年3月17日(木)~18日(金)に関東学院大学で開催されます。ハイテクノ会員方々のご参加をお待ちしています。

外で遊ぶ子どもほど探究心が育つ

 子ども時代の自然体験は人生の財産という。自然に触れたり、子ども同士で遊んだりした体験が豊かなほど物事への関心や意欲が強く、高学歴・高収入となる調査結果を(独法)国立青少年教育振興機構が発表している。調査に携わった千葉大学明石教授の分析によると、「遊び」は仲間うちのルールづくりなどを通じて、人とつき合う力や意思決定力を育てる。自然に触れて驚くと、「なぜ」という疑問が生まれ、探究心や好奇心を育てる。こうした体験が学力などに結びついているのではないかと結論している。

調査は、「海や川で泳ぐ」、「かくれんぼやカンけりで遊ぶ」、「弱い者いじめやケンカを注意したり、やめさせたりする」といった子ども時代の体験について、20~60代の方々へのアンケートを基に点数化して分析された結果である。点数の上位層は大学・大学院卒が過半数を占め、年収は700万円以上と高いことが示されている。ただし、私達の頃の大学進学率は10%以下であり、生活環境も異なるので、年代層によっては、必ずしも一致しないと思われる。

 長野県佐久市に生まれ育った私の小学生時代にはプールがなく、千曲川で泳いだものです。真夏といっても上流域の水は冷たく、冷えた体を土手の石垣で温め、太陽の有難さを肌で感じて幸せに思いました。冬の一時限は毎日のように田んぼでのスケートを楽しみました。チャンバラごっこもしたが、暗黙のルールが守られていたのであろう、怪我をすることはなく、友達と楽しい時間を共有したものです。上級生から下級生へと、命令系統が自然に決められ、それを疑うこともなく、素直に受け入れたものです。遊びの中にも秩序なるものができていたようです。

中学時代の職業家庭科の時間、男子は校内の草花の手入れ、2~3kmも離れた田畑へ鍬を担いで出かけ、田植えや稲刈りもしました。教育の一環として、当然のことと思って行動したものであり、教育目標や指導方針が重要であることを示している。「人が人を教育する」という、教育の偉大さ、無限の可能性に感銘を受け、高校教師を目指した頃には考えてもみなかったことでした。

 小学生の1月下旬には寒中休み、6月初旬には田植え休み、10月初旬には稲刈り休みがありました。子どもたちは、率先して手伝いをし、働く喜びや仕事の大切さを体得したものです。手伝いや外遊びの体験に乏しい最近の学生には、「何のために働くのか」理解できず、また、社会人に必要な「コミュニケーション」も図れないようです。

収穫の秋には、全校生徒による落穂拾いや校庭に実った胡桃取りなど、今でも楽しい思い出として心に残っています。野山や千曲川を歩いての昆虫採集や草花採取(理科)、野外写生(図工)遠足など、四季折々の行事と情景に触れての生活の中から、自然を敬う心を学びました。

 子ども時代には、いろいろなことにチャレンジし、その体験を活かして、探究心、広い心、穏健中庸、さらには正しい判断力を養い、わが国の発展を担う貴重な人材として、成長してほしいものである。
 

最近の話題から
関東学院大学
本間 英夫
 
LED照明

省エネで長寿命とのキャッチフレーズの下、 LED(発光ダイオード)電球市場がにわかに拡大してきており、我々の業界の中でも、LED関連のセラミックス基板、リフレクター、接点部品のめっきに着手した企業は超多忙である。
 2010年5月のLED電球の販売数量を示す指数が、09年7月の1に対して55に、金額ベースでは48に達し、現在では大手各社のコスト競争から価格が急速に下がっている。

 発売当初、価格が1万円前後であったのに対し、10年1月の平均価格が約3700円に、5月には約2950円にまで下落している。さらには、低価格帯モデルの投入で価格面でも手が届きやすくなってきた。それでも一般の白熱電球と比べ、価格はかなり高いが、長寿命で消費電力も大幅に低いため、消費者の「エコ意識」の高まりと、これまでの電球とそのまま取り替えることが出来る便利性から売り上げが伸びている。これらのことから、東芝ライテックではすでに国内での白熱電球の生産を中止している。

しかしながら、LED電球を実際に使用してみると、これまでの白熱電球とは違い、色々問題があるようで、市場の拡大と共にLED電球への苦情や相談も増えている。国民生活センターに寄せられた苦情の具体的な内容を挙げると、「10年間使用出来るというので買ったのに、すぐに切れた」、「調光用LED電球を買ったが、暗くすると明かりがチラつく。メーカーに問い合わせたところ、難しい商品なので性能にバラつきがあると言われた」、「明るさの表示には60ワットとあったのに、実際には40ワットの明るさしかなかった。メーカーは表示を明確にすべきだ」「光が広がらない」、「重くて照明器具にあわない」等々。

 従来の白熱電球とLED電球では、外見は同じように見えるが仕組みが全然違う。白熱電球は、電球の中にある抵抗の高いフィラメントに電流が流れることにより、1000度以上の熱と光を放出するが、LED電球の場合は発光ダイオードを用いているため、それほど多くの熱は発生しない。それでも熱が蓄積すると寿命が大きく低下するため、熱をいかに逃がすか工夫が成されている。一般的には電源や熱を逃すために、電球ソケットの上部を金属アルミニウムをベースとした放熱板で帯状に覆っているため重たくなってしまう。また、リフレクターとしては銀の皮膜が一番優れているのだが、腐食しやすいため、銀合金や他の金属の皮膜について検討されている。

さらには、白熱電球の光は全方向に広がるのに対し、LED電球は指向性が高い。そのため、光の当たり方が白熱電球とは随分異なる。例えば、ペンダントライトや横付け、斜め付けのLED照明器具を使う場合は少し暗く感じる。しかしながら、省エネ、長寿命をアピールし、一般家庭よりも公共の場所の照明器具に積極的に採用されている。これからは、さらなるLEDの高輝度化、効率の高い放熱、リフレクターの改良が鍵となる。

 LEDの発光原理は蛍光灯とは異なり、電気エネルギーを直接光エネルギーに変換するため、熱の発生も少なく蛍光灯よりもさらに発光効率は高い。照明の入力エネルギーに対する可視光変換の割合を比較すると、白熱電球10%、蛍光灯25%、LEDは32%、寿命はそれぞれ1千時間、1万時間、4万時間で、いずれはほとんどの照明がLEDに取って代わるであろう。



iPadの魅力

アップルが2010年5月28日に日本で発売した「iPad」は、携帯電話でもなく、パソコンでもなく、まったく新しいタイプのデバイスである。このデバイスの部品のほとんどは、残念ながら日本製ではない。

発売当初は、ノートパソコンが必要なくなるのだろうとまで言われ、初日は長蛇の列であったとニュース報道がなされていた。しかしながら、iPhoneにしても iPadにしても、若い時のように新しいものにすぐに飛びつくような元気はなくなってきた。

息子が早速購入してきたiPadは、730g(Wi-Fi + 3Gモデル、Wi-Fiモデルは680g)で、1kgを切る軽量なモバイルノートと比べれば、全体が画面になっており、これまでのノートパソコンよりさらに薄く、手ごろなサイズである。9.7インチという画面で、メールを読むのも、インターネットを見るのもケータイなどより見やすく疲れない。起動は、瞬時に行われ、ノートパソコンよりも気軽に脇に抱えて持ち歩ける。その特徴を生かして、電子書籍としての機能が充実していると言う。アップルと同様に、アマゾンからも電子書籍端末キンドルが発売された。これからは、書籍の多くは電子化されていくと言われている。

しかしながら、我々のような年配者はやはり紙ベースがいい。だが、学会誌の一部はすでに電子化されており、いずれは全て電子化され、学会にも大変革が起こるのであろうか。ペーパーレスの時代が来ると言われているが、紙ベースのほうが読み返しやマーキングが容易だし、記憶に残り易いと言うのが実感である。

今回開発されたプロセッサーの処理速度と バッテリー持続時間が、ユーザーの魅力を倍増させている。今後はさらに、マルチタスクのOSが実装されるようだし、iPad向けの高機能アプリケーションがますます増えるだろう。      

これまでは、パソコンを持ち歩くときにバッテリーの消耗がいつも気になっていたが、1日中持ち歩いてもバッテリー切れを気にしなくていいため、今後は、「モバイルマシン」としてユーザーが増えていくだろう。しかしながら現在のところ、私の周り(スタッフおよび学生20名以上になるが)ではほとんど普及していない。



ノートパソコンの代わりになるか

上記のような利便性から、iPadはノートパソコンとの置き換えが可能だろうか。  

今まさに、パソコンに向かって雑感を書いているが、それをiPadで書いてみると、ソフトウェアのキーボードは、わずかにタッチするだけで入力され、パソコンのキーボードと比べると、どうしてもミスタッチが多く、何度も修正が必要となる。

また、横置きの場合、ソフトウェアのキーボードは画面の半分近くを占めてしまう。外付けキーボードを使えばかなり快適になると言うが(いずれ試してみたいと思う)、iPadの特徴であるハンディーさがなくなる。この種の問題は、さらなるOSやアプリケーションの補強充実により解決されていくだろうが、現時点ではiPadはノートパソコンの代わりにはならないのではと考えている。

私にとってパソコンは、原稿の執筆には必携であり、大学のオフィスや自宅、あるいは山小屋で作業することが多い。



次世代の通信規格「LTE」

携帯電話は、メール機能、音楽再生機能、デジカメ機能など、多機能化が進んでいるが、新たな展開として、次世代の通信規格LTEがNTTドコモ、KDDI、ソフトバンクモバイル、イー・モバイルの携帯電話4社で、2010年10月以降にサービスを始める見通しだと発表された。LTEとは、「Long Term Evolution」の略称で、2010年頃から世界中でのサービスが見込まれている携帯電話の通信規格である。現在普及しているW-CDMAやCDMA2000といった第3世代携帯電話(3G)と、将来登場する第4世代携帯電話(4G)との間の技術であるため、LTEは第3.9世代携帯電話(3.9G)とも呼ばれている。
 LTEの最大の魅力は、携帯電話でも光ブロードバンド(FTTH)並みの通信速度が実現でき、これまで家庭やオフィスなどの屋内で使用していた固定回線での高速インターネットが屋外でも可能となる。また、オンラインゲームや動画再生などが、従来の携帯電話よりもスムーズに表示できるようになる。携帯電話はこれからも進化を続ける。さらに高速、大容量の通信が実現すれば、一瞬で音楽のダウンロードができ、スムーズな動画像を併用した通話が可能になる。また、伝送遅延、待ち受けからの通信状態への遅延を低減する技術も盛り込まれており、使い勝手も向上するものと期待されている。

これまで、情報処理速度の高速化や高集積化のためにLSIの微細化が行われてきたが、微細化に伴う配線遅延の問題から、層間絶縁膜としてさらに誘電率(ε)の低い材料が求められるようになってきた。

さらに、使用する周波数の高周波化により伝送損失が増大するため、絶縁膜には低誘電損失特性が求められる。絶縁膜として従来用いられてきたポリイミド樹脂は、誘電率が高く、次世代の材料に適しているとは言えない。そこで、誘電率および誘電正接(tanδ)の低い材料への配線形成が求められるようになってきた。しかも、信号のやり取りの要となる銅配線は、これまでのサブミクロン~ミクロンオーダーでの粗化によるアンカー効果による密着を得る手法では、もはや対応できなくなる。誘電率の低い材料に対して、素材の平滑性を維持しながら銅を成膜する技術が重要になってきた。我々がこれまで検討してきた、UVを用いた有機材料の表面改質技術の実用化が近いと確信している。
 

日本の国際競争力
関東学院大学
本間英夫
 
 日本は80年代から90年代前半にかけて、国際競争力はトップであった。ところが、その後競争力は急速に低下し、スイスのIMD(経営開発国際研究所)が公表した「2010年世界競争力年鑑」では、日本の競争力は27位まで落ち込んだ。

この凋落の原因としては、負の20年と言われて久しいが、日本経済が長期デフレ状況から抜け出せず、莫大な財政赤字を抱え、しかも他国と比較して法人税率が高いため、企業の活力が出てこない事に基づいていると言われている。

 最近、ガラパゴス化という言葉を度々耳にするが、これは南米ガラパゴス諸島に生息するゾウガメやイグアナなどが、海に囲まれた完全に閉鎖された環境の中で、特異な進化をとげてきた状況と、日本企業の技術力が、独自に進化してきた状況とを絡ませてガラパゴス化と言っているのである。
 このガラパゴス化の典型例が携帯電話で、高度な技術力とサービスを保持しているにも関わらず、国内市場だけで特異かつ独自に進化した結果、世界市場とは大きく乖離し、世界標準になれなかったのである。

この様に、日本の技術力や競争力の強みが一人歩きをしてしまい、強みが弱みになり、日本の経済力も大きく低下し、これまでの終身雇用制度や年功序列の賃金体系、人事制度などにまで見直がなされるようになってきている。

 日本の技術のガラパゴス的進化として、上記の携帯電話の他、産業用ロボット、テレビゲーム、カラオケ、アニメなど枚挙にいとまがない。まず海外で開発され、それが日本で改良進化し、グローバル商品になったものも少なくない。このように、日本のモノづくりの技術は、世界の中で大きな強みを持ってきたはずだ。

しかしながら、この強みが一人歩きをして、ガラパゴス化と揶揄されるようになったのは、強みを生かせていない事に起因している。日本は「戦略が無い」と言われているように、独自に進化した技術やサービス、商品をグローバル展開する手法に長けていないのである。



次代を見据えた中長期戦略を

 日本の携帯電話は、電子部品の軽薄短小をベースに多くの機能を付加し、常に数年先を見据えて発展してきている。通信インフラも10兆円以上かけて整備されている中で、先進性を生かして世界市場に打って出る戦略性が必要である。

国内市場と世界市場を常にウォッチしていかないと、技術力はありながら、ビジョンや戦略がなく、場当たり的な海外進出に留まってしまう。その一方で、欧州の通信企業は、中長期的なビジョンを見据えて、展開している。

日本における携帯電話の普及率はほぼ100%と言われるが、昨今の少子高齢化の中で、国内市場は伸び悩み、新興国をはじめとする海外市場への進出が必須となってきている。

 このように、日本の通信業界や携帯電話業界は、技術力では優れているが、「世界標準の取得に先手を打つ」という戦略を取らず、日本標準にこだわったため、世界から孤立してしまったのである。今後、次世代をリードできる技術を如何に世界に広めて行くかがポイントになるだろう。



日本の技術標準をデファクトスタンダードへ

 上記のように、1990年代以降、日本は技術、企業戦略、ビジネスモデル、産業構造などに対して、国家的な視点で課題を捉えず、現在に至っていると指摘されている。

携帯電話業界における戦略ミスとして、具体的な例を挙げると、日本はNTTを中心に、世界で最も進んだPDCと呼ばれる技術標準を開発したのに対し、欧州メーカーでは、各国に共通のGSMと呼ばれる欧州基準を作り、その採用を世界に呼び掛けた。

結果的に、アジアを含めたほとんどの国々で、このGSMが採用され、世界標準になった事で、日本製の携帯電話は海外に進出できなくなった。

この様に、日本企業は優れた技術を持ちながらも、戦略ミスが原因で大きく立ち遅れてしまっている。

今後、日本の通信業界が、次世代技術の分野で世界標準を作り出せるかどうかにかかっているが、LTE(Long Term Evolution)もしくはSuper 3Gと呼ばれる、次世代の通信規格が1つの大きなトピックとなっている。これらは、本年10月以降にサービスが開始されると8月上旬の新聞に報道された。



この技術の魅力

LTEとは、W-CDMAの高速化規格の事で、NTTドコモは、第3世代携帯電話の上位版という意味を込めてSuper 3Gと呼んでいる。

複数のアンテナを利用する事で高速化し、100Mbps以上の高速通信が可能になるLTEは、いわばFTTHの無線版。屋外など、どこにいてもストレスなくインターネットを利用できる環境を提供可能となる。

LTEの魅力は、高速サービスが提供可能となるだけでなく、現在のW-CDMAで利用している周波数帯をそのまま利用できるため、既存の設備に大きな変更がいらない。さらには、遅延がほとんどないため、動きの早いゲームも可能になる。

スマートフォンや電子ブック端末といった大容量のコンテンツ利用が多いモバイルネット端末の普及で、通信量が増大する事を見越し、世界に先駆けて本格的サービスを開始するという。日本独自規格のままで終わった2Gの「PDC」、さらには世界に先駆けて実用化が始まった3GのW-CDMA(サービス名は「FOMA」)の反省の上に立って、世界の標準化が意識されている。

ドコモは、ガラパゴス化の元凶とも言えるSIMロック(携帯端末を他の通信会社で使わせないようにする装置)を解除する方針を明らかにした。これまでの垂直統合の一角がオープンになり、日本の携帯業界にも新風を吹き込む可能性はある。
 ドコモとソフトバンクの協力関係のもと、IP(インターネットプロトコル)ベースで、オープンなインターネットとLTEのメリットを活かして行けば、これまで築き上げてきた通信のインフラがそのまま使えるため、大容量のモバイルインターネットが使用可能な国として、世界をリードできると期待されている。

 

関東学院大学における表面工学のルーツと今後の展開
関東学院大学
山下嗣人

 
 工業化学科が創設された翌年の昭和36年4月、金沢大学名誉教授の横山盛彰先生が教授として着任され、物理化学の講義が開講され、翌年には電気化学の講義も開講された。 

横山先生は、横浜高等工業学校(現横浜国立大学工学部)電気化学科助教授時代にドイツ、スイス、イギリス、アメリカなどへ一年半留学され、本邦に電気化学を紹介した人として評価された方である。その後、校長として金沢高等工業学校(現金沢大学工学部)へご栄転され、新制大学の学長就任要請(静岡・山梨・山形大学)を強く辞退し、金沢大学工学部長を務め、名教育者として退官されたのです。その後、横浜高等工業学校電気化学科時代の教え子であられた中村実先生(本間教授の恩師)のご尽力により、本学科へお招きする事ができたのです。ここに電気化学・表面工学の原点があります。

表面工学分野は中村・本間両先生のご業績により、国内外で高く評価されている大学の「宝」であるから、特化すべきとの声も聞こえる。この伝統を後世に伝承するため、本間先生が信頼関係を築かれた産業界との強力な人脈を通して、新たな展開を図っておられる。

2010年10月、表面工学分野の基礎研究を行うための「材料・表面工学研究センター」を横浜市工業技術支援センター内に開設し、25日にキックオフミーティングが行われ、関心・期待の高さが示された。さらには「専門職大学院(表面工学)」の開講が模索されている。本間・山下両研究室の大学院修了生は150名を超え、博士後期課程在学生5名は、電気化学・表面工学専修に所属(本間研究室3名、山下研究室2名)し、いずれも社会人である。大学院学生数の実績や教授陣の優れた研究業績と受賞歴、学会・社会における活動、卒業生の活躍、産業界・学会・公設機関からの強い要請など、有利な条件が揃っている。本間先生をサポートする学内外のマル合教授やスタッフの人材確保も慎重に進められている。なお、現存の表面工学研究所は、実用化・製品化に至る最新技術分野を展開していく事になる。大学側からは本間先生が技術顧問、私が副所長として参画し、両研究所が連携を図りながら歩む事になっている。

横山先生と私の出会いは、2年生の物理化学演習の時間であった。教室内を周りながら指導をされていた先生から、「君の出身地はどこか?」と尋ねられた事に始まる。先生は松本のご出身である。長野県人は、明治時代からの特色ある「信濃教育」や県歌「信濃の国」で知られるように同郷意識が強い。やがて、教員志望ならば「物理化学」を勉強するのが良いと勧められ、横山研究室で「電気化学」を専攻する事になった。

高校教員一級免許を取得するための専攻科を修了した後、横浜国立大学電気化学科研究生となり、進むべき道を模索していたが、助手に採用される幸運に恵まれ、国家公務員として大学での研究生活が始まった。研究テーマの一つであった亜鉛は、一次電池の負極に使用されているが、自動車による大気汚染が社会問題として取り上げられ始めた昭和40年代後半、二次電池化が話題となった。リチウム電池が世に出る以前に一回の充電で走行距離150Kmを達成するには、80Wh/Kgのエネルギー密度が必要で、空気-亜鉛電池がそれを満たす唯一の電池であった。

「めっき」とは異なり、放電時に生成した亜鉛酸化物表面には、充電時に還元析出した亜鉛は樹枝状に成長しやすく、脱落や短絡の原因となり、サイクル寿命が短命であった。昭和49年10月、日本化学会の秋季年会で、「樹枝状析出と不動態化防止」に関して発表した際に、東北大学工学部の外島教授から、「オーソドックスな研究が大切である」との暖かいコメントを賜った。この一言が、数年後に「学位論文」のご指導をしていただくきっかけとなった。この頃に研鑽した電気化学的平衡論・速度論、電気化学測定法を応用しての電極反応や電極/水溶液界面現象を解析した経験が、ハイテクを支えている「最先端の機能めっき」を側面からサポートする事に役立っている。

外島先生は、横山校長が着任する2年前に金沢高等工業学校をご卒業、東京工業大学に進学して電気化学を専攻されている。東工大では中村先生の2年ほど先輩になられる。不思議なご縁と出会いがあって、今の私があります。関東学院大学の表面工学には、横浜国立大学と東京工業大学「電気化学」の流れがあるのです。 

  

子供たちの将来への夢

 第一生命保険が幼児を含む小学生低学年の子供たちを対象に、毎年恒例で行っている「大人になったらなりたいもの」の調査で、人気の高かった上位の職業が発表されている。男の子の一位とニ位は例年と同様に野球選手とサッカー選手である。近年のノーベル物理・化学賞受賞の影響と思われるが、学者・博士が四位(前年は三位)に、警察官・刑事(前年十四位)や学校の先生(習い事の先生)などの公務員系が順位を上げて、ベストテンにランクされている。その一方で、調査を始めた1989年以降、常に人気が高かった「パイロット」が外れている。利用者離れによる業績不振や経営再建中の課題などを敏感に捉えているのかもしれない。

第一生命の分析によると、「憧れよりも安定した職業を意識しだしたのかもしれない」としている。夢よりも現実志向型のようである。私たちの頃は、数少ない遊びの中から、電車の運転手や車掌さん、野球選手に夢を抱く子供たちが多かったように思う。

 女の子の一位は13年連続で「食べ物屋さん」、以下、保育園・幼稚園の先生、看護師さん、歌手・タレントと続いている。男性と比較して、職業の選択範囲が限られている事も一因と思われるが、例年とほぼ同じ順位である。大手予備校の分析によると、女子学生は偏差値でなく、将来の仕事・職種を決め、自分が学べる学科・学部、そして大学を選んで進学してくるのだという。目的意識が高い女子学生は真面目に勉強し、優秀な成績を修めて、卒業式で総代を務めるケースが極めて多い。

 教員であった父は、都会に行く事を勧めた。母は「公務員の給料は安定していて、暮らすのに必要な最低限は保障されているから」と、田舎での生活を望んだが、中学三年生の修学旅行で訪れた「鎌倉・江の島・横浜」に憧れと希望を抱いたのかも知れない。

経営の神様「松下幸之助」は面接の際、今までの人生で、「自分は運がよかった」と答えた人のみを採用したといわれる。現在の私の生活を考えれば、正しく「運がよく」、最善の選択であったと思う。

 

生まれ変わったら就きたい職業 

 「夢と憧れ」を語った子ども時代とは異なり、人生経験を積んだ40歳以上の人に「生まれ変わって、20歳からの人生をやり直せるとしたら、何になりたいですか?」とのアンケートに対して、三千人余の回答が寄せられている(回答者の平均年齢は約55歳)。

 その職業の第一位は「大学教授・研究者」で25%の人が選んでいる。二位は「医師」、三位は「弁護士」、四位は「パイロット」、五位は「学芸員」、六位は「公務員」と、高学歴や高収入をイメージする職業が続いている。単なる憧れよりも、具体像を描きつつも夢半ばで挫折したほろ苦い思い出が多く寄せられている。また、人生の経験を積んだ上で「やはり、この仕事がいいだろう」と、冷静に選んでいるようである。

 十位以下の職業には、⑬作家、⑭カメラマン、⑮画家・芸術家、⑱伝統工芸職人が並んでいる。比較的手堅い職業が占めたトップテンとは様相が異なり、幼少期の夢への思いが残っているようである。

 2005年に開設された「13歳のハローワーク」では、職業の実情や職への就き方などを紹介している。利用者は中高生が多数を占めているという。本年6月のアクセス数による「人気職業ランキング」では、①中学・高校教諭、②パティシエ、③保育士、④ファッションデザイナー、⑤プロスポーツ選手、⑥看護師、⑦公務員、⑧漫画家、⑨小学教諭、⑩医師となっている。教員や看護師、公務員などの現実的な選択をしているが、2000年から導入された「総合学習」での授業(職業体験などキャリア教育)の影響が大きいと言われている。

キャリア教育は、2011年度から大学にも導入される予定であるが、現状の問題点を精査し、社会・産業界の動向や要望を踏まえ、さらには将来を展望しての適切なカリキュラムに基づく「職業像」を机上の学習だけでなく、実践体得させる事が必要である。その効果を期待したいが、それ以前に、挨拶ができない、礼儀を知らない、約束が守れない、コミュニケーションが図れないなど最低限の基本を身につけておく必要があろう。

 横浜市教育委員会では、中学生のための「礼儀・作法読本」を作成し、一年生に配っている。内容は「おはようございます・いただきます」の挨拶、食事・交通マナーなど多岐にわたっている。以前は家庭や地域で自然に身につけたマナーを「家庭には任せられない」と判断したという。社会で役立つように、  学校現場で実践教育してほしいものである。



理系出身者は文系出身者より高収入?

 理系出身者の収入が、文系出身者より高い傾向にある事が京都大学や同志社大学などのグループによる調査で明らかになった。インターネットで回答された20~60代1632人(平均年齢43歳)を分析したところ、文系出身988人の平均年収583万円に対して、理系出身者644人のそれは681万円であった。年代別、大学の難易度別、企業規模別、男女別で分析した結果、理系出身者の収入がすべて上回っている。理系のほうが選択できる職種の幅が広く、また、転職しても収入が下がり難いからではないかとみられている。

他の調査による約2000件(出身大学は全国国公私立180校)の結果でも文系551万円、理系639万円と、理系の年収が高い。理系の中では工学部が最も高く、理学部>薬学部>農学部の順である。文系では法学部が最も高く、経済学部>商学部>社会学部>文学部の順である。これらの傾向には、男女の比率が反映されているとの分析結果もある。事実、男性の比率が極めて高い工学部(男女の比率90:10)の収入が最も高く、一方、女性の比率が高い文学部(男女の比率25:75)の収入が最も低い。

 理系の授業料は高く、実験・卒論に追われてアルバイトもできない、文系よりも年収が低い(製造業のそれは非製造業より数%低い)。このような背景が、若者の文系志向を促す一因と私達理系の教員は解釈していたが、理系の年収が高いという事実が明らかになれば、本年のノーベル化学賞受賞の快挙も相まって、理工系受験者数の増加、さらには偏差値の上昇に繋がり、優秀な学生確保が期待できる。

理系の学問や研究成果が地球温暖化や環境・資源・食糧難・感染症など世界が直面する諸問題を解決し、また、産業界の発展にも貢献して、明るい未来が開けるであろう。大学側が現状と将来展望を積極的にアピールしてほしいものである。
 

新たな展開
関東学院大学
本間 英夫
 
十一月号の雑感シリーズは山下先生に担当して頂き、我々の大学の電気化学をベースとした工業化学科設立から材料・表面工学研究センターの開設に至る背景について、私とは違う視点から書いていただいた。読者の皆様には、本学の電気化学の強みと特色をさらに深くご理解いただけたと確信している。

これまでは、中村先生の遺志を受け継ぎ、小生がほぼ毎月雑感シリーズを書いてきたが、これからは山下先生をはじめとして、新研究センターの担い手の先生方に、教育、研究、技術やその他、色々な角度から述べて頂き、さらに魅力的なシリーズになればと期待している。

今月号では、本学の伝統である表面工学部門について再度回顧し、さらに新年号では新研究  センター設立の背景と二一世紀にふさわしい 魅力ある研究センターに関する抱負を述べる事にした。



表面工学研究所の設立背景

今から十年以上前になるが、本学の事業部から独立した関東化成工業の敷地に、大学と共同で表面工学研究所を構築する話が持ち上がった。それは、関東化成工業が誕生してから三十年が経過した年の事だった。

その三十周年を記念して発刊された記念誌には、当時の関東学院の理事長が、「関東学院大学は本年創立五十周年を迎えるが、関東化成工業が三十周年といっても、本学院の事業部であった時代を加えると、実質五十年である。私は、学校が事業を行っても良いという事を大事にし、産学協同の道を益々進んでいきたいと思う。特に、めっきの専門家である本学院の本間先生の新しい技術に大いに期待している。関東学院は研究のみならず、前向きに産学協同に乗り出していく所存である」と語られている。

この式典の数ヶ月前、小生は五十八歳であったが当時の関東化成工業の坂本社長と対談形式で歴史的背景と今後の技術のあり方について語っている。その内容に少し説明を加え、表面工学研究所を構築してきた背景を思い起こしてみた。



産学協同による「めっき」技術が原点

関東化成工業の原点は、関東学院の事業部時代に開発された「めっき」技術である。その第一歩は金属への「めっき」で、当時としては画期的な技術である「青化銅めっき」を中村実先生が開発され、工業化された。

これは、今で言う低コスト化技術の草分けであり、「めっき」の自動ライン化を可能にするものであった。この技術を基に、関東電気自動車工業(現 関東自動車工業)と自動車用バンパーへの「めっき」の取引が始まった。

次に、中村先生、斎藤囲先生(現ハイテクノ社長)を中心に、「プラスチック上のめっき」の工業化を世界に先駆けて成功させ、関東自動車工業を通じトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)との取引が始まった。この二つの偉大な技術が、関東学院の事業部によって生まれ、今日の関東化成工業の礎となっている。

この様に、「産学協同」がすでに半世紀前から実施されていた訳である。しかも、この二つの「めっき」技術は完全に世界をリードしていた。

「光沢青化銅めっき」の開発により、銅めっき後のバフ研磨を省く事が可能となった。また、「プラめっき」の開発には、私自身も深く関わってきた。当時、同志社の大学院を中退し、本学に戻った私は、プラスチックに「めっき」が出来ると言う事に感動し、後に関東化成のメンバーとなった先輩達と研究していた。「世界で初めての事をやっている」という自負心から、大学院時代や助手時代には、ワクワクしながら昼夜を忘れ、日曜日も無しに、実験に勤しんだものである。

中村先生が晩年よく話題にされていたが、開発期間当初は不良の山で、毎月百万円程度の赤字を出していたが、学院の創立者で理事長であった坂田祐先生にご理解を頂き開発が続行できたことが成功に繋がったとのことである。

しかも、「プラめっき」の技術は特許を取らず公表したのも、学校の校訓である「人になれ、奉仕せよ」の精神に基づいている。

現在、世界的に認められている「プラめっき」のキーとなる無電解めっきの理論は、中村先生が、東京オリンピックの年(一九六四年)、事業部の技術のトップであった齊藤先生(当時三一歳)を横浜国大の修士課程に送り込んだ事に始まる。

今から四十五年以上も前の事であり、今でこそ、社会人が修士課程や博士課程に入って技術開発を進めるようになってきているが、当時としてはほとんど日本では例を見ない事であった。これは中村先生が、すでに先進諸国と対等の関係で研究開発を進めていく必要性と、母校である横浜国大の電気化学のポテンシャルの高さを認識されていたからである。

齊藤先生が、無電解銅めっきの研究を通して見出した混成電位論は、後年世界中の注目を集める事になる。その論文の一部、銅錯体の配位数や安定度等の項目は、私が同志社から戻った後、本学の専攻科在学中に手伝っている。

この論文で理論付けられた「無電解銅めっき」技術は、その後の実装技術の発展に大きく貢献することになる。私はその翌年、本学に大学院が開設され工業化学科の一期生となった。また、当時事業部で働いていた多くの人たちは、本学院の夜学の高等学校や大学で学んでいた。

産学協同のルーツはこのように理想的な形で進んでいたが、残念ながら七十年安保闘争から、学園紛争が激化し、「産学協同路線粉砕」が掲げられ、これを阻止すべく、助手であった私はいつも矢面に立ち、学生と論議を重ねたが、いつも平行線であった。ついには中村先生が大学を去られ、事業部は関東化成として独立する事になる。



環境問題への取組み

この頃から、公害問題に対する取り組み方が変わってきていた。廃水処理からめっき工程をクローズド化する。つまり今で言う有用物質を回収してリサイクルする技術の開発である。

このころ、研究室での基礎研究を推進する為には、様々な道具が必要となり、それらの道具を作ってくれたのが関東化成の工機部であった。中村先生が設計した「京浜島めっき工業団地」は、これらの技術の集大成である。この様に、「めっき」に関わる技術では常に世界をリードしてきた。

世界中の「めっき」に関わる経営者や技術者が、中村先生、斎藤先生、私を通して頻繁に京浜島のめっき工業団地や関東化成の視察に来たものである。この様にして「産学協同」が関東化成工業を大きく発展させてきた。



最先端技術の開発および実用化

これ以降も、中村先生の指導の下、関東化成工業と画期的な開発を行なってきた。この頃から、コンピュータが盛んにもてはやされるようになってきていた。当時はまだ大型コンピュータが全盛で、様々な事を試みたが、行き着いた所はワンボードのマイコンであった。このマイコンに着目し、マイコンで制御されためっきラインの開発・実用化を行ってきた。

私が中村先生のアドバイスで「無電解めっき」に特化して博士論文を視野に入れて研究し始めたのはこの頃からである。

特に、『高速無電解銅めっき』の研究と、マイコンの組み合わせは私の博士論文の主要項目であり、数年後、関東化成の「KAP‐8」の開発に繋がり、この技術は、神奈川県の第一回工業技術開発大賞を受賞し、日本をはじめ世界各国で特許を取得することになった。

開発の過程では、セレンディピティー(偶然に運よく見つける才能)が、威力を発揮した。学生にはいつも実験を行うときはよく観察するようにアドバイスしているがセレンディピティー的なセンスは極めて大切である。「KAP‐8」と同時期に行なっていた「コンポジットめっき」の開発も、このセレンディピティーのセンスが発揮され、湯水のようにアイデアが湧き出てきたものである。このコンポジットめっきは現在よく使われている機能めっきの走りである。

このように、事業部時代を含め、常に「めっき」技術の最先端を走り、これらの技術を広く世間に公表し、汎用技術として役立っている。



「産学協同」のスタンス

私の基本姿勢は、関東学院の校訓にもあるように『人になれ、奉仕せよ』の精神で、研究開発した成果は広く公表すべきとのスタンスで取り組んできた。実際に大学で受けていた委託研究にしても、基本的にニュートラルな立場を貫くために、出来るだけオブリゲーションを少なくし将来、役に立つであろう技術開発に注力してきた。しかも、二十一世紀の日本の製造業を考えたとき、世界で生き残って行く為には、より難易度の高い、最先端を走る技術分野での研究開発が重要である。

坂本元社長は、研究開発には、ある程度の資金やスタッフが必要で、その意味では、特許の共同出願の様な事を考えて体制を整備しなければならない。そういう点では学校側の体制を含め変化は必要であり、共同で開発するにしても全てがオープンになっては、他社にアヘッド出来なくなり、企業として成り立たなくなるのではないかと

私の考え方には少し異論を唱えられた。また、企業と学校の契約と言う形で、成果を共有していく体制や、共同研究・委託研究を積極的に進めるには、スタッフや資材を充実させる事が必要ではとの提案があり、関東化成の三十周年を記念して研究所構築の計画が大きく前進する事となった。



「技術の関東化成の再構築」

以下に対談の内容をそのまま紹介する。

〈坂本〉今、先生は数多くのテーマに取り組んでおられますが、二十一世紀へ向かって関東化成が取り組むべきテーマについてご指導下さい。

〈本間〉日本の製造業の活き残りの道は、先程話しましたように、より高度な、難易度の高い最先端技術という事になります。「めっき」の分野でも、大きな市場が期待出来ます。昨年(一九九八年)、米国IBM社が採用を発表したダマシンプロセスは、半導体の回路形成を従来のアルミ配線から銅めっき配線へ換えて、高速化を図ると言うものです。

又、半導体と基板の接続方法でもめっきが有力視されています。従来のハンダによる接続から、半導体へめっきでバンプを形成、あるいは基板側へめっきでバンプを形成する方法です。このように、「めっき」技術の最先端は現在の所、エレクトロニクス分野で大いに注目されています。

そして、これらの技術は、ドライめっきの延長線では困難なレベルになっています。ウェットの技術が無ければ実現出来ません。そこに関東化成の持っているポテンシャルの高い「めっき」技術の活躍する場があり、関東化成にはその能力が充分にあります。

当然、私も含め、学校とのタイアップで開発する体制を関東化成もより強固に推進される事を期待しています。

中村先生がかつてこんな事を言っておられました。『ハイテックめっきが無ければローテック』。まさにその言葉通りの世界になってきています。

〈坂本〉「めっき」がハイテクの世界で見直されている訳ですね。関東化成も開発部隊の体制を見直し整備いたします。そして、これから「技術の関東化成」を改めて構築したいと思います。

それともう一つ、忘れてはならない事があります。自動車の世界でもそうですが「環境」でハッキリとした意思表示が絶対条件となっています。

〈本間〉昭和四十年代から「めっき」は公害の元祖みたいに言われて来ました。

その中で、様々な環境対策を実施してきました。産業廃棄物としての処理から工程内のクローズド化、そしてリサイクル化にもいち早く取組んできました。

今後、更に注力しなければならない課題として、環境にも、働く人にも優しい薬品・工程などの開発です。研究室では、今までもこれからも常に、その事を意識して取り組んでいきます。



インテリジェント&クリーンな「二十一世紀のめっき工場」

〈坂本〉近い将来、「二十一世紀のめっき工場」を造りたいと思いますが、その時のコンセプトはどのような事でしょうか。

〈本間〉「インテリジェント化」と「徹底的なクリーン化」です。優秀な人材と大胆な投資によりこれらは可能です。特にクリーン化技術は雰囲気だけでなく、ろ過技術等も考えるべきです。関東化成は人材的にも、技術的にも、充分にその力を持っています。チャレンジして下さい。



以上のように関東化成の三十周年に際して、大学と関東化成の間での産学協同の再構築の必要性から、その三年後(二〇〇二年)、関東学院大学表面工学研究所が開設された。

多くの企業から御支援頂き、研究成果に関しては、契約企業には研究会などを通して討議し、その基礎技術を取り込んで発展した企業は何社にも上る。学生が中心となって研究してきた内容は、広く公に公表してきた。

しかしながら、リーマンショックを契機に、今まさに産業界は変革の時を迎え、大学も大きく変わらねばならない。

幸いにも大学の研究機構の御尽力で、昨年十二月に横浜市と大学との間で産学連携の協定が結ばれた。それを契機に、三十社以上の企業から賛同を頂き、横浜市の工業技術支援センター内に大学の新研究センターを構築する事となった。

十月二五日に、賛同頂いた企業向けにキックオフミーティングを開催したが、百名近くの方々に出席いただいた。

これからは、大学の「知」の活用がキーになるが、産業界との信頼関係をベースに、より緊密に連携し、「ものづくりは人づくり」高度な技術者の養成の場として、また、魅力ある基礎から応用に至る研究所に育てていきたい。