過去の雑感シリーズ

2011年

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卯の年を迎えて
関東学院大学材料・表面工学研究センター 
本間 英夫
 
ウサギはピョンピョン跳ねるので飛躍の年との期待を込めて新年を迎えた。

先ず皆さんにお断りしなければいけませんが、70歳近くにもなるとお付き合いも多くなって、何度か年賀状を出すのをやめると言ってきました。本年からは、遠く離れて滅多に会うことのない旧友達に、互いの消息を伝えることに限定し、賀状をしたためることにしました。何卒ご容赦を願います。



先ずは過去から未来へ

大学の知の活用と叫ばれるようになってきたが、本学ではすでに半世紀前から産学協同が実施されてきていたことは、先月号でも述べた。今月号では、少し言い足りなかったところと、さらに新しく構築した材料・表面工学研究センターについて述べることにした。

これまで40年以上にわたり中村先生の遺志をついで、関東学院大学は産学協同のルーツであると、自分なりに精いっぱい推進してきたつもりである。



学園紛争の始まり

学園紛争が勃発する前の数年間、専攻科に始まり、翌年大学院の一期生としてさらには助手として、大学に奉職することになりプラめっきの研究を行ってきた。特に、ボスである中村先生が事業部の部長と教授を兼務され、小生が助手になった頃から学園紛争が始まり、助手が結束して教授会のメンバーに入り民主化していこうとの運動が始まった。

工学部で5、6名の助手がいたが、60名程度で構成されていた教授会で、海の物とも山のものともつかない我々が、教授会のメンバーになることには反対であると述べた。その意見に対して当時、教授会の中で学生運動に協力的というか推進派の若い先生方は、猛烈に小生を糾弾したものだ。

当時、中村先生の部屋には学長初め2、3の大学の役職者が、紛争の解決策に相談に来られていた。先生のもとで小生は実学的な研究をしていたことから、活動家の学生は、小生に向かって、自分たちの運動に反対している助手だと、名指しで「産学協同粉砕」「助手の陰険な策動に断固抗議する」と誹謗したものである。



紛争の激化

学園紛争はロックアウト、長期休講、ついには国道16号線の封鎖とエスカレートし、事業部は大学から分離しないと得意先に多大な迷惑がかかると関東化成として独立することになる。その頃から学生と議論しても平行線で解決に至らず、連日連夜教授会が開かれたが話し合いでは解決できなかった。そこで、中村先生は懐に辞表を携え、機動隊導入を教授会で唱えられ紛争は解決した。

先生は47歳の若さで大学を去ることになる。その時「俺はやめて中小企業のコンピューター導入をはじめ指導育成に当たる。お前は大学に残れ」と、その後先生のサポートの下、産業界ともフェアーな付き合いをしてきた。 これまで40数年間で研究室を巣立っていったOB(400名以上)のほとんどは表面工学分野で活躍している。

また、全共闘の指導的立場にあった学生の中には、かなりの工業化学科の学生が活動していた。当時は学生運動家、体連、ノンポリと分けられていたが、いずれの学生とも付き合ったし、学生運動に携わっていた彼らとは真剣に論議したものだ。

彼らの主張は活動家から教育を受けているようであり、どことなく借りものであったが、その時の論議が自分の生き方に大きく影響している。

特に産学協同を進める上において、学生達の大学は企業の下請け機関ではないとのアピールには小生も共感し、その後企業との連携において常に意識するようになった。



紛争が明けて

紛争が解決した後、運動に積極的にかかわっていた学生の大半が、卒研生として小生の部屋に希望してきた。彼らはそれだけ純粋で、とても優秀で発想力のある学生たちであった。

現在産業界の中で、まだ何人か現役で活躍しており、今でも彼らとは付き合っている。

OB会に集まると当時を想い出し、本人達にはあらかじめ話していいか確認し「助手の陰険な策動に断固抗議すると赤ペンキで階段の壁に書いたのは彼だぞ」とか、「下宿に遊びに行ったらヘルメットが壁にかかっており、バレたか!と照れ笑いしたのは君だったね」など、今では和気あいあいと、当時のお互いの熱い想い出を語り合っている。



コンソーシアムの走り

事業部から独立した後も、本学の経済学部出身の遠藤さん(現在84歳)が社長をされていた頃は、経済成長が著しく、関東化成は活気があり、表面処理分野では日本のリーダー的存在であった。

大学では小生の研究室、産業界では中村先生を中心としたグループとの間で、日本初の世界に発信できる技術をとの意気込みで、リサイクルを中心としたコンソーシアムを構築し技術開発を進めてきた。

さらにはワンボードマイコンが市場に出るや否や、中村先生はそれに目をつけら、自動制御に活用するようになる。センサーの開発では、物理量のセンサーは当時からかなり使われていたが、化学量のセンサーの開発を我々の研究室で手掛けることになる。

また、廃水処理、無電解銅、無電解ニッケルなどの自動制御用のプリント基板は、関東化成で作成した。当時の大学院に進学していた学生と一緒にアセンブラや、マシンランゲージを習得し、また制御関係の専門学校を出た新進気鋭の技術者のもとでプリント基板を自作したものである。

小生も当時プリント基板の図面を見ながら回路をたどり、はんだ付けをしたものだが電話がかかってくると集中力が途切れ、どこまで部品をはんだで固定したか分からなくなるので、「先生はやらなくても俺たちでやるよ」ということになった。また制御プログラムのアイデアを皆で出し合い、毎日楽しく実験を行ったものである。



学位取得まで

これらの研究成果は1980年京都で表面処理の国際会議が開催され、そこで初めて英語で発表することになる。内容は小生のドクター論文の一部になった無電解ニッケルコンポジットめっきの自動制御で、下手な英語で発表したことを今でも鮮明に記憶している。

さらに、その次の年だったと思うが、無電解銅めっきの自動制御と題して、アメリカのセントルイスで開催された国際会議で発表した。その時は「本間、緊張するといけないぞ!」睡眠不足になるといけないからと、先生が常用していた睡眠薬ハルシオン(ハルシネーションは幻覚という意味)を飲んで寝ろと、またこの薬は酒を飲んでも大丈夫だと言うので、前日少し酒を飲んでからベッドについた。しかし、神経質な小生は眠れないどころか、幻覚が一晩中続き、発表時間になっても、のどが渇き大変な経験をした。話は戻すが、学園紛争後から一貫して研究してきた無電解銅めっきの高速化、および析出膜物性に関する研究もドクター論文中ではメインテーマーであった。



新規プリント基板製造工場建設

このドクター論文が中村先生の目にとまり、鋭い先見性のもとで「本間これはいけるぞ!」とプリント基板の新規製造方法をベースにした工場を、新たに関東化成の中に建設することになる。ビーカースケールでしか実験をしていなかったので、正直内心ひやひやであった。当時の学生と小生は基礎実験を、関東化成の技術者はぶっつけ本番のようなスケールアップ、無電解銅めっき液のコンピューターによる自動制御、特にプリント基板はめっきだけではなく、回路を形成する際のレジスト印刷技術の確立が急務であり、短期間のうちに形が出来上がって行った。これが電気めっきを用いないオール無電解めっきでプリント基板を作成する世界初のアディテブプロセスで80年代を制するとKAP-8と名付けられ、世界的に注目されるようになる。

残念ながら当時開発に携わった技術者の多くは関東化成を退職し、開発当初を語れるのは小生と斉藤先生しか残っていない。その頃から米国のIBM,ベル研の技術者をはじめ、イギリス、ドイツ、韓国、シンガポール、台湾、その他、全世界からひっきりなしに、東京の京浜島のめっき団地、関東化成および小生の研究室に訪ねてこられ、お互い研究開発について情報交換した。さらには、イギリス、アメリカ、韓国からこれまで10人以上の技術者が長期研修生として滞在したものである。特に、現在プリント基板の世界的なメーカーにまで成長した韓国の大徳電子の金社長は、今から30年近く前に3年間大学に籍を置き、関東化成および中村先生のオフィス、アズマで研修を積んだのである。

その後エレクトロニクス領域はすさまじい勢いで製品群が入れ替わり、新技術が展開され、評価道具は“金食い虫”ともいわれ、中小企業ではこの分野で積極的に投資し、利益をあげていくことはなかなか困難を伴うようであった。



転換期の判断

現在、プリント基板の製造方法の主流になっているビルドアップの研究会が、エレクトロニクス実装学会で立ち上がり、幸いにも小生が委員長として標準化に向けて会議を重ね、その一年後からビルドアップ工法はプリント基板製造の主流になっていった。この工法では無電解銅めっき技術が要素技術としてキーになるので、大手企業から関東化成でこのプロセスを導入して協力していただけないかとの要請があったが、すでに関東化成ではこの領域から撤退を余儀なくされ、技術開発よりも、生産性の向上に力点を置かねばならなかったようであった。したがって、その時期から小生は関東化成には出かける頻度は少なくなった。しかしながら、今から10年くらい前になるが、先月号に記したように、これでは会社の将来性に不安があると危機感を持たれるようになり、大学と協同で研究所を立ち上げようと言うことになったのである。生みの苦しみというか、実際に立ち上がるのには提案があってから3年も経過することになる。当時の学長が言っていたが「あの時先生(本間)が大学院の委員長として評議会のメンバーでなかったならば、現研究所の設立はまだまだ先であっただろう」と、十一月号の雑感では大学の事業部から関東化成の生い立ちに至る背景、および研究所の設立経緯を述べた。



新研究所の構築

さて、今回立ち上げることになった新研究センターも、時間がかかる事は重々覚悟を決めていた。今回センターを立ち上げるに当たり賛同いただいた産業界の経営者の多くは、真の意味での大学の独創的な研究に注力し、その成果を業界のために披露し、また実際にビジネス化できればと期待されている。

実際これまでに多くの新規プロセス、新規めっき浴開発を行い産業界に貢献してきた実績があるので、これからの日本の先端産業にとって欠かせない表面処理技術を中心にさらに幅を広げていきたい。したがって、これまでのウエットプロセスだけの研究開発だけでなくドライも視野に入れて材料開発に注力することにより、益々高度な技術をグローバルに展開していく研究環境を作っていく覚悟である。

これまで表面処理業界が手掛けてきた、装飾めっきの時代は終わり、色々な機能を付加しなければ、何の価値もない時代になった。これからは、ドライや塗装、コーティング、熱処理の技術を融合させて、センサーや高密度、最薄化などの社会のニーズに合った研究に切り替えなければならない。関東学院は、新しい未来志向、国際化の中で、よりオープンな研究機関に生まれ変わらなければ、価値のない研究機関となってしまう。

当面は今回構築した材料・表面工学研究センターでは基礎から応用、また北久里浜に8年前に設立した研究所では実用化と棲み分けることになったが、実際には基礎・応用さらには実用化まで一貫した本格的研究所の設立こそが、今一番社会に求められている。

18歳人口だけをターゲットにした大学教育から一歩先んじて、社会人の高度技術者の養成機関の機能を持たせれば、本学として特色のある研究所の構築になる。今回の賛同企業の多くは、短期的な成果を求めていない。これまで企業との連携スタンスは、マラソンレースで30年以上のお付き合いである。

本学は日本における唯一の表面工学に注力した産学協同のルーツであり、これからも大学にとってモデルとなるような研究所が構築できるように努力していきたい。すでにオフィスは整備され、実験室に評価道具がそろい、学生は生き生き研究に勤しんでいる。今一番気になっているのは、小生はもう歳だから愛をベースに学生を育て、また産業界から信頼される後継者をと願っている。
 

表面技術協会第123回講演大会
関東学院大学材料・表面工学研究センター 
山 下 嗣人
 
表面技術協会第123回講演大会が2011年3月17~18日に関東学院大学金沢八景キャンパスで開催されることになりました。発表件数は過去の最高数に近い217件に達し、最先端の表面技術に関する5件のシンポジウム、テクノプレゼンティション1件、本学大学院生による最新の研究発表20件が含まれています。基礎から応用に至る最先端の情報を得ることができますので、ハイテクノ会員の方々には、ぜひともご参加下さいますようお願いいたします。本間先生と私(山下)が現役として、本学で開催できる最後の大会でもあります。実行委員の方々のご協力を得て、魅力ある大会になるよう委員長としての責務を果たす所存です。

本学での講演大会は第63回(1981年3月)、第99回(1999年3月:本間実行委員長)に続いて3回目となります。春の講演大会会場は機械振興会館などの公共施設を使用していましたが、大会収支がマイナスになったことから、会場として大学を使用することになり、最初の試みとして、第63回大会の会場に関東学院大学が選ばれました。大学紛争前のキャンパス内には「関東学院事業部」と称する実習工場が併設されており、「青化銅めっきの工業化(中村・斉藤先生)」、無電解めっきの「混成電位論(斉藤先生)」、「プラスチック上へのめっき(中村・斉藤・本間先生)」が世界に先駆けて提案・開発された歴史ある場所です。これらの実績と伝統から関東学院大学で行われたものと理解しています。技術講演セッションが設けられたことも初めてであり、「八景の夕べ」とネーミングした若手ミキサーも盛会でありました。

本学の存在は学会誌を通して全国的に知られることとなり、また、多数の研究者や技術者が来校したことで、大学にとって絶好のPRとなりました。本間先生と私はともに30代で雑務係りを担当しました。懇親会は海の見える磯子のプリンスホテルを会場とすること、大学から貸し切りバスを出すことなど、長老先生の無理難題に困惑しながらも誠実に対応したものです。

同一大学で3回も開催することは異例ですが、本学表面工学分野の研究が活発に行われ、その成果が高く評価されていることに他なりません。最近では、紫外線を用いて樹脂の最表面のみ改質して、めっき皮膜との密着性を高める画期的な前処理法を開発しています。この伝統を継続すべき、材料・表面工学研究センターを拠点として、新たな展開を図っていきたいと思います。



表面技術協会との関わり

 金属表面技術協会(現表面技術協会)第37回講演大会が私(山下)の学会デビューであり、初めて掲載された論文はVol.21で、40年も前のことである。「ニッケルめっき浴におけるハロゲンイオンの影響」と題した論文で、臭化物イオンのニッケルアノード溶出促進効果が塩化物イオンのそれと同等でありながら、電析ニッケルの内部応力を低下させることを見出した。これにより、電鋳用ニッケルめっき浴の成分として、臭化ニッケルが用いられるようになった。

 学会では先輩方の発表を聴講して、プレゼン方法、構成(ストーリー)、図表の効果的な説明などを学ぶことができた。研究論文の書き方は2~3報投稿することで習得できた。何回書いても、その経験を活かすことができない昨今の学生気質は理解し難い。意識の欠如、向上心や責任感が足りないのである。「本を読まない」ことも一因と思われる。  

最近の若者は「外に目を向けない」と言われて久しいが、私の助手時代は、「他流試合(学会で発表)」を積極的に実践したものです。公務員として、研究成果を公表して批判を受けることは当然のことでした。

 金属表面技術誌の編集委員になったのは、関東学院大学に勤務し始めた1979年である。投稿者の論文を査読することにより、起承転結、論旨、表現方法などを改めて勉強したものです。何よりも委員の方々と出会い、特集号の企画や編集業務を対等の立場で論議できたことは極めて有意義で、月一回の会議が待ち遠しかった。その後、編集主査として、編集の調整、原稿の最終チェツク、却下論文に対する取り扱いなどの経験を積んで、編集委員長となった。本誌は協会の顔であり、会員の方々との情報交換や重要な接点の場でもある。各委員の貴重な意見をお聞ききした上で、総合的に判断することの大切さを学ばせていただいた。

 事業委員長、セミナー企画委員長、会計理事、部会代表幹事などを務め、現在は関東支部長をお引き受けし、本年二月で二年間の任期を終えようとしている。第123回大会実行委員長を全うすることにより、長年お世話になった表面技術協会に少しでもご恩返しができるものと思っている。

関東学院大学 材料・表面工学研究センター

本間 英夫

昨年は、人生の中で一番精神的な苦難と試練の年であった。そのとき「サーバント・リーダーシップ」という言葉に遭遇した。これは、68歳になって初めて接した言葉であるが、本学の校訓である「人になれ奉仕せよ」の実践版であった。まさに、このコンセプトこそ閉塞感にさいなまれている日本の産業界のパラダイムシフトであり、大げさな言い方になるかもしれないが、社会貢献をベースにした豊かに生きる『解』だと、晴れやかな気持ちになった。                これまで大学の校訓を意識してきたが、このサーバント・リーダーシップについて、インターネットで検索していくうちに、これこそ21世紀の新しい時代のリーダーシップのアプローチだと、皆様に紹介したくなった。

最近多くの企業ではリーダーが目的を達成するために、上からの強圧的なパワハラに近い命令で、中には現代版蟹工船とまで揶揄されるような生産性のみを追求し、従業員は単に生活の糧を得るための仕事で、日々の仕事に充実感はなく閉塞状態に陥っている状態が多く見受けられるようになってきている。               この「サーバント・リーダーシップ」は、これまでの大量生産、大量消費型で通用してきた支配型のリーダーシップスタイルとは異なり、21世紀の新しいリーダーシップへの転換である。「サーバント・リーダーシップ」の提唱者であるロバート・K・グリーンリーフをインターネットで検索してみたので、簡単に紹介してみたい。       父親は、地域社会でさまざまな貢献をし、謙虚でとても正直な人であり、本人にとってサーバント・リーダーのモデルでもあった。

ロバート・グリーンリーフはその後、当時世界で最大規模の通信会社AT&Tに就職し、マネジメントの研究や開発、教育の任にあたっている。退職前にはマサチューセッツ工科大学やハーバード・ビジネス・スクールを初め、そのほか幾つかの大学の講義を担当し、AT&Tを早期退職後、教育コンサルタントとして第2の人生を歩み始め、応用倫理研究センターを1964年に創設している。

リーダーシップの研究を通して『サーバント・リーダー』という言葉を生み出し、66歳の1970年には『リーダーとしてのサーバント』というタイトルでエッセイを発表し、米国におけるサーバント・リーダーシップの認知度を上げ、1990年に亡くなるまで執筆活動を続けた。

サーバント・リーダーシップの著書のなかで、真のリーダーは皆に信頼され、まず人々に奉仕することが先決であると述べている。今日サーバント・リーダーシップを推進するグリーンリーフセンターの本部はインディアナポリスにあり、現在11ヶ国で活動するロバート・グリーンリーフの書籍は数十ヶ国語に翻訳されており、マネジメントと組織、道徳的権限、ビジネスの直感、意思決定一致、他のトピックなどへのアイデアは、今でも世界的に高い評価を受けている。ロバート・グリーンリーフの考え方はピーター・ドラッカーからも「私が出逢った中で最も賢い人」と称賛されている。

サーバント・リーダーはまずサーバントである。それは生まれながらに持つ奉仕したい感情であり、奉仕が第一である。 人は仕事のために存在すると同様に、仕事は人のために存在する。夢を持たなければ何も起こらない。何か偉大なことがおきるには、そこに夢がなければならない。偉大なことの背景には、偉大な夢をもった夢見る人がいる。夢見る人より、それを夢に終わらせず実際に起こすことも必要だが、まず夢ありきであると説いている。

以上の引用のように、サーバントとは、召使いという意味ではなく「仕える者、奉仕する者」という意味で、利他(自分を犠牲にしても他人の利益を図る)の心が根底にあり、相手に奉仕する。このコンセプトがまさに、21世紀のリーダーの資質になる。皆が明確なビジョンと奉仕の心を持ち、お互いの知恵が最大限に引き出すことができたなら、その企業はおおきく発展するであろう。

これまでの上からの命令によるリーダーシップより、はるかに生産性は向上してくるであろうし、技術開発では自由な発想のもとに、ゆとりと充実感から、仕事が楽しく、いつも言っている幸運な発見にも遭遇しやすくなるであろう。
 米国では、スターバックス、サウスウエスト航空、フェデラルエクスプレス、ウォルマート、TDIなど優れた企業がサーバント・リーダーシップを企業活動の基本理念とし、サーバント・リーダーシップを社員が実践して成果をあげていると言う。社員は真にリーダーと思える人についていこうとし、そのリーダーの元では目標の実現に向けて本気で頑張るものだ。 近年の成功企業の多くはサーバントリーダーに率いられているのは、当然のことであろう。
 

おおらかに、おだやかに
関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫 
 
『先生最近の雑感の話題は暗いですね!』家内いわく『貴方、最近顔付きが悪くなったわよ』と、自分の精神状態が文章、態度、特に顔に表れる。

学生や先生方、お付き合いをしている企業経営者や技術者の前で、家族の前で、平常心を装っても表情、特に顔に感情が正直に表れてしまう。そういえば、ケーブルテレビで「カリスマドッグトレーナ サブタイトル(犬の気持ちわかります)」という番組が昨年10月頃から2ヶ月くらい連日、かみつく犬、吠え続ける犬、主人の命令に従わない犬等の調教の様子が紹介されていた。

どんなに獰猛でも、歯をむき出しにして吠えたり、かみついたりする犬でも、一週間くらいの訓練で優しく従順な犬になる。攻撃的な顔から柔和な顔に大きく変わる。同じように自分も精神的に不安定な時は、顔にその感情が大きく現れていたのではと、大いに反省した。

一月号の雑感で冒頭、本年から年賀状は一部の旧友だけに限ると宣言したのも、落ち込んだ精神状態から書く気にならなかったからである。集中力、持続力は大きく低下していた。

また、一月の中旬だったと思うが、ある先生とお会いし、長時間いろんな話題で話す機会があった。その時、自分の悩みを打ち明けたのだが、即座に『本間先生、おおらかに、おおらかに、行きましょうよ』とその時、何か自分自身の悩みが一挙に吹き飛んだ。



研究をベースとしての学生との交流

これまで学生と向き合う時は気取らず、権威づけず、自然体であまり距離を置かずに付き合ってきた。若い頃は兄貴として、中年以降ではおじさんから、お父さんのような気持ちで、自分の気持ちをそのまま伝え、相談にも乗ってきた。

学生にとっては深刻な問題や、彼らの将来について真剣に語り合えるような関係を維持できるように努力してきた。彼らとは一方的に教育者面して自分の考えを押し付けるのではなく、いろんな話題から彼らに問題の解決能力をつけてもらいたかったし、正しい倫理観を持ってもらいたかった。更に、彼らとの会話を通して、自分自身教わることも多かった。

この様に、研究を通しての論議よりも、むしろ話題は如何に充実した人生を送るか、本学の大先輩の一人として学生と付き合ってきた。巣立っていった後輩はすでに400名を越えており、学生と私との間の関係は、ある面では不思議なくらい親子以上に親密になれた。

学生との関係は、利害関係が全くないし、気を張ることもなく、彼らが人間的にも成長してくれることを願っての純粋な関係である。

ところが、学生や旧友以外であまりお付き合いが無かった人と信頼関係を築くのはなかなか難しい。それぞれのキャリアー、過去の経験は千差万別であり、個々人の人生観、キャラクターが出来上がっている。

十人十色いろんな価値観を認めねばならない。お節介になったり、自分の考えを押し付けたりすることは厳に慎まねばならない。自分自身が誠実な生き方をしていればいい。騙されても騙すなとの心情である。



技術の伝承

最近は学生との年齢差が親父というよりも、お祖父さんになってしまったので、ケーススタディーとして、いろんな話題を提供し、自分の過去の経験を交えながら学生と意見交換するように努めている。技術は実験と結果の積み重ねである。我々も先達の経験の上に基礎から研究を進めてきた。しかしながら、その分野の技術が成熟期に入ると後進の研究者たちは、「これはそういうものだ」との先入観を持ち、「なぜそうなっているのか」という疑問を持たず、受け入れてしまう。したがって、なにか不具合が発生した場合でも、問題解決能力が低い。そこで、特に最近学生や若手の企業技術者に対して技術の伝承や研究開発能力を向上する方法をと模索していた。

昨年末、清川メッキの社長の発案で、企業の技術者向けに「創造の軌跡」と題して2ヶ月に一度のペースで学生と取り組んできた研究について語る機会を作るよう提案があった。

そこで、40年以上にわたって研究してきたオリジナルペーパー200報以上あるので、すべてPDFのファイルとして、報文を大きく分野別に分けた。後は、それぞれの担当の学生や企業の技術者を決め、研究内容を説明してもらい、そのあと小生が研究の意図や発想の経緯をコメントする方法を来月くらいから実行する予定である。



展望が開けない政策

日本経済はこれまでリーマン・ショックから脱しても、デフレ、円高、株安(最近少し回復)と危機は尽きないが、最近ようやく企業は明るさが見えてきているようだ。

しかしながら依然として全体的にみると産業界は稼ぐ力を失い、個人は雇用や所得に不安を抱え、国は税収減にあえいでいる。予算の半分以上が赤字国債に依存すると言った危機的な状況である。

それにもかかわらず政党間の駆け引きが続き、国際的な信頼も大きく低下している。迅速に国をあげての成長の道を描き直さないと、活力も豊かさも希望もない。

多くの企業経営者は、頼みの綱は輸出とばかりに生産の海外移管、海外生産拡大、国内工場の縮小などの見直しがなされている。

果たしてこの様な状況は健全なのか。国内は消費が大きく停滞し物価が下がるデフレスパイラルに陥っている。輸出に関しても、80円前半の円高で企業が予想する今後の成長率は年0.2%程度と試算されては、企業は脱日本と考えてもいたしかたない状況である。



政策のミスリード

尖閣列島、北方領土、普天間基地など全く解決策や見通しが立っていない。また子供手当、高速道路無料化、その他大衆に迎合した人気取り、票とりマニュフェストを掲げた民主党政権、公約が破たんしているにも拘らず認めようとはしない体制。さらには、一部にニッポンの製造業への決別や、成長は不要との声もある。このままでは子孫が国の借金を返すために働く国になってしまう。

電機や自動車などの産業が支払った給与総額は約25兆円と言われているが、これらの産業がこぞって海外にシフトしたら、大きく成長がストップしてしまう。最近の話題として、ある電機メーカーがコメを投入して、それがパンになる炊パン器?ゴパンと称して発売され、それが大人気で一年くらい予約が入ったと言われていた。

それなら国内に生産拠点を構築すれば、雇用促進にもなり経済効果が上がるのだが、中国に工場を新設したと言う。この話題は半年以上前のことで、その後の状況は定かでないが、企業は利益を追求するために人件費を抑え利益を優先したのであろうが、日本の食文化から出たものであれば日本で生産し、日本の雇用を促すほうが、長期的にも消費の促進にも大きな効果をもたらすのに近視眼的になっているように思える。

企業の業績の不振では、国の税収も伸びない。税金の配分が優先され、企業に負担を課す政策より、企業を優遇する法人税減税と輸出促進策のように、企業への手助けは将来の経済成長へ向けたステップになり民間が稼いで雇用を増やすと期待されている。

市場機能を生かして経済のパイを増やし、そこから配分の資源を生み出すような策が必要である。例を挙げるとサムスン電子はシャープより年2千億分の余裕資金があるとされる。そのサムスン電子は最近、20年までに売上高を4倍にする経営計画を固めたと言う。韓国政府が欧州と結んだ自由貿易協定では薄型テレビで14%、自動車で10%の関税がなくなる。その結果、GDPは3%上がるという。グローバルな勝ち組は国内雇用も増やしやすい。

新興国の台頭

日米欧の競り合いにアジアなど新興国が加わり国際競争は新たな局面にあり優遇策を講じて企業に活力が出るようにすべきである。急激な円高は企業の輸出競争力を損なう。国内経済のデフレ圧力にもなりかねない。円相場は安定が最優先で、慎重な発言が重要、疎いなどと言っているようでは見放されてしまう。アジア勢が追い上げる中でも、環境やロボットなどの最先端で日本は抜群の技術力を持っているはずだ。また、日用品や食品分野でグローバル化する企業も多くなってきている。日本はこれから先、何で稼いで行くのか。日本のように人口が減る国で子供手当に代表される家計部門への分配にばかり政策が偏っているようでは発展性が無い。企業が利益をあげなければ、一般家庭も回復しない。つけを子孫に残すのではなく全産業分野の雇用を促進し、明るい未来を拓くように積極策を為政者には模索してほしい。

次号は山下先生に担当していただくが、次々号では研究センターでの最近の研究成果を紹介する予定である。キーワードは「高速めっき」と「水による環境に優しい表面修飾」。久しぶりに研究をベースにした、明るい夢のある話題にしたい。乞うご期待!!
 

大地震当日の行動
関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫
 
3月11日、誰もが経験したことのない観測史上最大の大地震。前日は湯河原で大学の一泊の懇親会に出席後、翌朝の地震当日、帝国ホテルで開催される表協分科会の経営者ミーティング(SYMTEC)に向かった。

地下鉄に乗り換え、都営地下鉄三田駅の手前で急停車、車両が妙に揺らいでいる。「地震がありました。しばらくお待ちください。」車両が10分ほどストップしていたが、不安げな表情もなく乗客は静まり返っていた。その間、何度も間欠的な大きな揺らぎが続いた。

そのうちに震度6点何がしとのアナウンスがあり車内は初めてざわめく。地下鉄の車両内では地上とは異なり揺れがかなり緩和されるのであろう。三田駅に徐行運転で到着したので下車し、時間に遅れるといけないとタクシーに乗り換える。その時点ではもう余震は来ないだろうと、それほど不安ではないような状況であった。

ところがタクシーに乗ってしばらくすると、ゆさゆさと余震が始まる。ビルの屋上の大きなアンテナは共振して弓のようにしなる。車の中は狭い空間だし、タイヤが緩衝して妙に不安はない。その時点で道路の両サイドの歩道にはビルから屋外に飛び出した人であふれている。センターラインの緑地帯にも多くの人があふれんばかりだ。ビル街では防災意識が高く、日頃訓練されているのであろうヘルメットを着用しているサラリーマンが多い。ほとんど車は動かないが、その間、何度も余震があり、ほんの数キロ先のホテルに到着するまで1時間以上かかった。

ミーティングが開催される時間をすでに1時間以上も過ぎており、ロビーは人でごった返し、エスカレーター、エレベーターはすべてストップ、3階の会場まではホテルの係りの人が誘導してくれた。すでに、幹事の判断でミーティングは中止となっていた。中止とともに何人かの幹事は帰ったと言う。全国から集まる会合であったので10人くらいは残留しており、さらに自分よりも遅れてタクシーで会場に来た人も数人いた。

携帯電話で連絡を取ろうとしても、全く電話が通じない。ワンセグでテレビを見ていると、刻々と入ってくる情報でかなり大変であることが分かる。交通機関のほとんどがストップしているので、今日はその会場で泊ってもいいとの判断がホテル側から出された。

その間も何度も余震が続き、天井のシャンデリアが大きく揺らぐ。ホテルの耐震性は保証されており緊急時の避難所に指定されているので1階のロビー、2階の会議室は避難してきた人でごった返す。折角、全国各地から表面処理関連の経営者が集まってきているので雑談で終わるのではなく、何人か話題提供してはと提案したが、そのような雰囲気にはならなかった。もう少しリーダーシップを発揮して、そのような雰囲気を作ろうとも思ったが、自分が主催している会議ではないので控えることにした。しかし、時間が経過する中で余震はあるが、ほとんど不安が無いので、短時間でも話題提供や情報交換をすればという考えが頭をよぎったが時間だけは確実に経過していった。そのうちに地方から来ていた経営者は、それぞれ明朝まで帰る為に新幹線や航空機の予約や、羽田近くのホテルの予約などインターネットにアクセスしていたので、話をする雰囲気は完全になくなった。8時過ぎからは、それぞれ東京近郊の人は自宅に帰るとか、地方から来ていた人は予約していたホテルに行くとか、それぞれ自分なりに判断し行動していた。

最後にホテルに残ったのは横浜方面では日本フィルタの社長と私、愛知県からの刈谷めっきの社長、富山県から来ていたユニゾーンの専務、京都から来ていたメテック北村の社長と事務局の寺沢さんで、ホテルで仮眠をとることに覚悟を決めた。エビナ電化の海老名君は自宅がそれほど遠くないので奥さんが車で迎えに来ると言う。10時ころ海老名君の奥さんがホテルの近くまで来れたと言うので、海老名君が私を自宅まで送るとの提案をした。奥さんの話によると彼の自宅からホテルまで2時間くらいだったと言うので、それから横浜まで高速に乗れば時間はかからないだろうと甘い判断をした。当初の提案は日本フイルターの社長と飛行機で羽田から帰る刈谷めっきの社長とが同乗し、刈谷めっきの社長は海老名君の自宅に泊まり、日本フイルターの社長と私を自宅まで送ろうと言うことであった。両社長はホテルの会議室で仮眠をとると固辞したが、遅くとも10時過ぎには帰れるだろうと同乗することになる。これが大きな判断ミスで海老名君の自宅までおそらく10キロくらいだろうが、4時間もかかった。これでは横浜まで送ってもらうのは、到底無理と判断し、泊めていただくことになる。仮眠をとり朝7時過ぎに羽田へ向かう刈谷めっきの社長を海老名君が車で送り、日本フイルターの社長と私の二人は、東横線の鈍行で横浜へ、そこで別れて私は京急線で自宅近くの駅まで行き、駐車場に置いてあった車に乗り換え、家にたどり着いたのは10時頃であった。帰宅困難者と言われた人は何百万人にも上るだろう。皆さんにはそれぞれの当日から翌日にかけてのストーリーがある。結果的にはホテルに残らざるを得なかった、ユニゾーンの専務と京都から参加していたメテック北村の社長はジタバタせず一番、いい判断をしている。ユニゾーンの専務に翌日電話したが、京都に着いたところで、これから前原経由で帰ると言う。ということはメテック北村の社長も無事京都に帰っている。東京近郊から来ていた社長連中では4時間以上徒歩で自宅にたどり着いた人もいる。非常時の適切な判断は難しい。こんな些細なことで多くの紙面をとってしまったことをご容赦願いたい。

今回の震災がこれまでにない1000年に一度の地震だと言われるが、地震の被害だけであれば、乱暴な言い方であるが日本の建築技術が優れているので、それほど大きな被害にはならなかったであろう。ところが、時々刻々と入る報道で徐々に東北地方の悲惨な状況が伝えられ、津波、それに伴う原子力発電所の停止により世界で初めての大きな被害となっていることを知り戦慄を覚える。この様な危機的な状況がテレビやメールで知るにつれて早速、表協の学会が本学であることになっていたので、中止にすべきだと実行委員長である山下先生および表協の事務局に連絡した。その2日後に学会の講演会は中止になった。また、東北地方には沢山の我々の関連する大手の企業や中小の企業がある。メールや電話で連絡を取ったが全く通じない。4,5日後にやっと連絡が取れるようになったが、知り合いの企業数社では壊滅状態の工場があると言う。また、毎日多くの方々から安否の情報が入る。外国の友人(韓国、中国、アメリカ、イスラエル、ドイツ)からも見舞いや激励のメールが入る。生まれ故郷の幼馴染みから電話やメールが入り、この様な時に友情の厚さに感動を覚える。

ノー天気なたわごとを言うな!とのお叱りを受けるのを覚悟で記すが、東北の悲惨な状況、人間の英知の到達できない、自然の猛威この現実を冷静に受け止め、落ち着いたら、これから夢のある技術の提案を、少しでも日本の明るい未来を提案できる技術を最後の奉仕の気持ちで専念していくつもりである。大学の卒業式、入学式も中止になり3月27日までは休講になったが、研究センターは幸いにも地盤が強く、ほとんどダメージが無かった。そこで学生には自宅で怠惰な生活をするよりもセンターに来て、午前中は英会話を中心とした学習、昼からは実験の計画など話し合おうと連絡した。多くの意識の高い学生は早速行動に就いた。私自身、歳をとった。後、何年、生きられるか分からないが残された期間、研究と教育をベースに奉仕していく覚悟である。



今こそ強いリーダーシップを

政治不信、凶悪事件、うつや自殺者の増加、就職問題、格差社会、企業不祥事の数々、さらには、経済的にも、世界的な大不況に喘いでいる最中、今回の大災害が起こってしまった。この困難な状況を打破して、夢と希望と勇気を与えるには、組織の長はもちろんのこと、人を率いる全ての人が、強いリーダーシップを発揮することが重要である。今回の原発の危機対応に関して、傍観者である我々は何とでもコメントできるが、現場に従事している人たちは命をかけて対応している。しかし迅速で的確な対応となると有識者がコメントしているように管理社会の弊害が指摘されている。今回の大災害の起こる前、昨年12月の中頃に「マネージメント信仰が会社を壊す」という本が発刊された。発刊一カ月後にさらに増刷りされていた。管理され硬直化したマネージメントだけでは迅速な危機管理、また、これまでの経済情勢の混迷を解決できない。今まさに強いリーダーシップを発揮せねばならない。今回の原発も含め混迷を招いた原因は管理された社会でのリーダーシップのあり方に問題がある。他人を率いる立場になると、強いリーダーシップとそれを誠実に受け入れる従業員の強力な絆で結ばれた協力体制が重要である。企業においては、かつて右肩上がりの経済環境下にあって、あまりリーダーシップを意識しなくても成功してきた。これからは被災地を救う、国を救う、皆が一丸となってそれぞれの立場で何が出来るか行動をすべきである。一万人以上もの犠牲者、何十万にも及ぶ何もかも失った人たち、被災地の惨憺たる状況を知るにつけ政治家は早い段階で挙党一致のもと、政治的な駆け引きなどやっているような余裕はないはずだ。

日本で電力の原発の依存度は30%を超えており日本全体で56基?の原発があると言う。地震大国での原発、耐震性は絶対に大丈夫との安全神話が脆くも崩れた。今回の事故で原発反対との声が出ているが、既存の原発をストップすることは出来ないし、これからも資源の無い日本では原発の依存度を低下させることはできない。絶対ということは言えないが、今回の経験を生かしてさらに安全な原発を進めねばならない。その間、日本は海洋大国で海底には次世代のエネルギーと言われるメタンハイドライドが100年分くらい埋蔵されていると言う。ニッケルの豊富なマンガン団塊やレアメタルなど海底資源の開発を含め、今回の経験を生かして日本の技術力の底力を発揮してもらいたい。我々も表面処理や材料の領域で微力ながら貢献していくよう努力する。

  

強いリーダーシップと社員の絆

本日は3月19日、今回被災で大打撃を受けた東新工業の山崎社長からのメールをほぼ原文のまま紹介する。素晴らしい強いリーダーシップと従業員それぞれの一丸となった対応である。



この度の大地震に際し、先生初め皆様には大変なご心配をお掛けし、また暖かい励ましや援助のお話しを頂き深く感謝申し上げます。私もいわき工場に滞在中に地震に遭遇致しましたが、幸い社員、その家族にも1人の怪我人もなく、お陰様で全員の無事を確認できました。いわきの社員のうち、社員4名が津波で家を失っております。

また、いわき工場の工場長の実家が、岩手県山田町にありご両親、奥様のご両親共に数日間連絡が取れませんでしたが、全員の無事が確認でき安心しております。因みに、ご両親は車で山に逃げる途中に津波に巻き込まれ、5キロ流されたそうですが、幸いに引き波の時に大木に引っかかり助かったそうですが、目の前で何人もの方が引き波につれて行かれたそうです。工場の状況は工場の天井の一部が剥がれたり、事務棟の一部がかなり被害を受けていますが、生産設備については断線等が若干あったものの復旧できております。廃水設備には全く異常はなく、廃液の流出、配管の割れもなく何よりでした。三進さんの設備が良かったのか?世間様に顔向けできない状況は回避されたことで皆一安心でした。地震翌日の土曜、日曜には8割以上の社員が出社してくれ、徹夜で復旧作業を進めてくれました。当初、水もないガスもない(電気は切れませんでした)状況で、少なからずどの家も被害がある中で復旧を進めてくれた社員には、ただただ頭が下がるのみ、感謝の言葉もありません。幸い、農家の者も数名居り、井戸水があったり、山の湧き水があったりと、厳しい状況の中で、毎日大量のおにぎりを炊き出ししてくれたり、水を大量に持ってきてくれたりと大変に助かりました。改めて、社員の絆や愛社精神に頭が下がりました。因みに未だに水道は復旧していないので、殆どの社員が未だに風呂に入れないばかりか洗面も満足に出来ない状態です。

皆さんもご存知のように福島第一原発の事故により、当初22日までの休業予定を今月一杯としております。いわき工場の位置は、福島第一原発から42キロの場所にあり、屋内退避30キロ圏内に在住する社員も数多く居ます。これも、水がないために井戸水を持っている社員が連絡を取り合って、持って行ってくれていますので助かっています。コネクターメーカーからは21日からの操業を求められていますが、私の使命として社員を危険に晒す訳にはゆきません。然しながら、早急に復興し稼がないことには、家を失った社員の生活を再建出来ないことも事実です。このことは奇麗事ばかりでなく、毎日いわきの社員に感謝の言葉と共に伝えました。いわきでは流言デマが流れ、放射能の知識がないばかりにパニック状態に陥っていることも事実です。当社では、清川さんに頂いた情報、先生に頂いた情報を社員に流し安心させてはおりますが、町全体を包む空気がそれをも駆逐する勢いで、不安ばかりが広がっているようです。一昨日より、めっき用の治具、在庫品をいわきから脱出させる社員に横浜に運んでもらっており、横浜では各メーカーの要請で不眠不休での加工が続いています。横浜の社員にしても、計画停電のために朝3時起きで、徒歩で通勤と言う者も数多くおり、誰も文句も言わずに休みもなく対応してくれ、これまた頭が下がるばかり、感謝の言葉もありません。横浜本社は、近くに横浜市大病院があるため停電はありません。小さいお子さんがいる者、避難命令地域の家族から優先に横浜に疎開させており、会社の近くのアパートマンションは、現在東新村?と化しています。

私もいわきの工場がひと段落付いた15日の夜中に、一般道を使いながら10時間かけて戻って参りました。途中の北茨城辺りの港町は津波の爪痕で地獄のような光景でした。先ほどいわきから到着した社員の話では、いわきではガソリンはもちろん、食料も底をついてきており、お店は何処も閉まっており、水道は出ない、給水所に行くにもガスがない、30キロ圏外でも放射能が怖くて外に出ないと、まるでゴーストタウンのような状況とのことです。この地震で危機管理の重要さ、社員の有難味、皆様のご芳情を感じ入った次第です。被災された方、避難所で厳しい生活を強いられている方もまだまだ沢山いらっしゃいます。一日も早く物資の供給が開始され、原発の安全宣言が出されることを祈っています。私共もこの状況に負けず頑張ります。最後に手前味噌で恐縮ですが、地震時に私がいわき工場に居たこと、陣頭指揮で社員を落ち着かせたこと、社員の安全、家族の安否を第一に優先することを常に宣言したこと、あらゆる原発情報を流してあげたこと、そして日頃から一枚岩の結束を謳い社員間の情報共有と絆が強かったこと、ある意味体育会系の上下関係がきっちりしており、指揮命令系統が出来ていたこと等が良い面に働きました。やはり、経営者は社員のため、その家族のため、そして地域、社会のためとの姿勢を日頃から実践することが、非常時の結束を生むことが実感させられました。
 

山下研究室のアクティビィティ
関東学院大学
山下 嗣人 
 
山下嗣人研究室は昭和54年4月に発足し、電極反応の基礎と応用、エネルギー変換化学(電池)、機能性薄膜の創製と表面改質、工業電解プロセス、腐食・防食などの研究を行っている。卒業生は約200名(大学院修了生64名)を数えているが、最近では表面技術業界で活躍する卒業生が増えている。2011年度の研究室は研究員3名(博士研究員2名、修士研究員1名)、大学院博士後期課程2名(社会人)、博士前期課程6名、卒論生4名から構成されている。社会人学生が在籍しているので、研究室の雰囲気は学究的、厳格である。

電気化学の理論に基づく、電極反応・速度論、電極/水溶液界面特性などの基礎的研究を、応用研究としては、二酸化炭素を排出しない酸素-水素燃料電池、ニッケル-水素電池、リチウムイオン電池、殺菌および抗菌用触媒電極の開発など、クリーンエネルギーや環境に関わる研究を進めている。また、電気化学的手法によるナノメートルスケールの機能性薄膜を作製し、その構造解析、特性評価と機能発現機構を解析している。さらには、最新の走査型電気化学顕微鏡を用いて、ビアフィリング用添加剤の微小凹凸部における吸着・作用機構を解明している。

白金プローブ電極をカソード凹凸表面の30マイクロメートルに近接させて、電析電位を測定し、その挙動から、PEG+Cl-は凸部の電析を抑制し、一方、SPSは凹部の電析を促進させることを明らかにしている。本手法を電析に適用したのは、山下研究室が初めてである。今後は、材料・表面工学研究センターにて、各種めっき浴への展開を図る予定である。

 本間先生を代表者とした「次世代高密度電子回路技術を視野に入れたナノスケール構造体の創製技術の開発」の研究が、平成17年度(平成17年~21年度)文部科学省私立大学学術研究高度化事業(ハイテク・リサーチ・センター整備事業)に採択され、山下研究室は「電気化学的手法によるマイクロからナノスケールの構造体の作製と超高密度配線への応用」を担当し、以下の6テーマについて研究を行った。

1)銅の電析反応過程における添加剤作用機構の解明、2)平滑な銅箔と配線板樹脂基材との接着機構、3)電気化学的手法によるニッケル-リン結晶質/非晶質系多層膜の創製と特性、4)パラジウム-コバルト合金系ナノ多層膜の創製と機能発現機構、5)レーザー照射による表面改質と電子デバイスへの応用(防衛大学との共同研究)、6)活性炭を用いた高性能電気二重層キャパシタの開発(横浜国立大学との共同研究)。

最新の電気化学ならびに構造解析機器を利用して研究を展開することができ、著書、研究論文、解説、研究報告、執筆、国際会議、国内学会など、平成17年度~22年度の6年間に312件発表している。これらの成果として、表面技術協会賞、日本材料科学会論文賞(平成19年、22年)、日本材料科学会若手研究者討論会優秀賞(博士後期課程学生2回)、表面技術協会進歩賞(博士後期課程修了生)など受賞している。

ハイテク・リサーチ・センター事業での研究に恵まれたこと、研鑽・努力された卒業生にも深く感謝する次第である。



学位論文への道

 学位論文のご指導をしていただくことになった外島先生からは、東北大学では、研究指導を受けて完成させるのであって、学位論文の審査のみはしない、将来は学位を与える立場になるので審査は特別厳しいこと、学位論文内には審査付学術論文が10報含まれる(1報は外国雑誌)ことが基準であるといわれた。学位を早く取得したいのら、○○大学の○○教授、○○大学の○○教授を紹介します。しかし、「本当に勉強したいのなら、東北大学には、いろんな専門分野の先生がおられるのでいいですよ」、とも言われた。私は迷わず、外島先生にお願いすることにしたが、この選択に間違いはなかった。

 亜鉛を二次電池へ利用する場合の課題であった「充電時の樹枝状晶・放電時の不動態化防止」に関する研究論文は、すでに日本化学会誌や金属表面技術誌などに9報掲載済みであったが、電池は休止(使われていない)状態におかれる期間が長いので、このときの電極/溶液界面における挙動と、休止電位近傍における浅い充放電特性を解析することになった。

休止電位近傍とは、そのプラスマイナス数mV範囲であったが、幸運にも電位を1mVずつ制御できる「ポテンシャルスイーパー」が発売された。この装置を使用して、カソード・アノード分極特性を休止電位を含めて正確に求めることができた。電極の前処理、基板の形態と構造、溶液のアニオン種、溶存ガス、光などの影響を詳細、かつ精度を高めて解析し、電気化学的平衡論、電極反応の安定性という基礎電気化学分野の課題をクリヤーすることができ、外島先生の信頼を得ることができた。

次に、交流インピーダンス法を用いて電極反応機構を解析することになったが、当時インピーダンス測定装置は国内では販売されておらず、たまたま回路に詳しい大学院生が文献を参照しながら組み立てた「アドミッタンス(インピーダンスの逆数)測定装置」を用い、電極電位をパラメータとして、アニオン種の異なる亜鉛水溶液における電極反応過程および速度論、電極/水溶液界面特性を解析することができた。そして、通産省ムーンライト計画の新型電池電力貯蔵システムのテーマであった亜鉛-ハロゲン電池への応用を含めた「亜鉛の電極反応に関する工学的研究」と題する学位論文が完成し、「Doctor Zinc」が誕生した。東北新幹線が開通する以前のことである。

学位論文の本審査会は、応用化学科・化学工学科・非水溶液研究所・応用物理教室教授の前で1時間発表(プラスマイナス1分以内であることは、当日主査から教えられた)して、質疑応答を受ける形式であった。公聴会の雰囲気ではなく、「審査を受けている」という厳しさを体験した。学位論文の成果は、電力貯蔵用電池をはじめ、水銀を使用しない一次電池用亜鉛負極の開発や本四連絡橋内斜張橋ケーブル(亜鉛めっき鉄筋)の防食へと展開されたのである。

亜鉛の研究は、横浜国立大学教授の鶴岡先生が東大冶金教室の小川芳樹教授(湯川秀樹先生のお兄さん)からいただいた大切なテーマであり、先生は高純度亜鉛の電解製錬、私がそれを電池へ応用する研究で学位取得ができたことに対し、「小川先生も草葉の陰で喜んで下さるであろう」との鶴岡先生のお言葉を思い出す。

「幸運をつかむチャンスは誰にもある」と、2010年ノーベル化学賞の鈴木 章教授は、おっしゃっている。その機会を活かせるかどうかは、「日頃の努力と謙虚さ、注意深さで、真面目に努力すること」であるという。フェライトの研究で文化勲章を受賞された著名な先生のお話を拝聴したことがあった。「人生には数回のチャンスが誰にも平等にあります。手を伸ばせば届く頭の上にまできています。これを掴むことができるか否かによって、その人の人生が変わります。それには常に研鑽・努力することが大切です」という内容であった。また、社会で成功するには、「運が良くて楽観的な人である。悲観的で自己猜疑心の強い人は絶対に成功しない」と、松下幸之助社長は語っている。

私の約40年間の研究生活を総括してみると、恩師や指導教授、同僚、学会・社会活動を通しての友人、研究室の学生にも恵まれて、まさしく「運が良かった」の一言に尽きる。



若者よ!外に目を向けよう

 英国の教育専門誌が発表した2010年度の世界大学ランキングによると、日本の大学の凋落が顕著である。前年度は上位200位までに11大学が入っていたのが、わずか5大学に減少している。一方、中国本土6大学、香港、韓国、台湾など、アジアの他大学が躍進している。凋落の背景には「ゆとり教育」の影響や海外への留学生の減少が挙げられ、教育界、社会全体の「内向き志向」が一要因といわれる。

米国への留学生は1997年以降右肩下がりで、2010年には3万人を割っている。この数値は前年比14%減である。海外旅行に出かける日本の若者も10年間で34%も減少している。対照的に中国・インドの留学生は10.5~12.5万人、韓国のそれは7万人を超えており、前年比10~20%増である。

才能を伸ばすためには、若い頃に様々な経験を積むことが不可欠である。帰国後の就職活動が心配で、海外留学を避ける若者が多いという。年々前倒しとなる就職戦線に乗り遅れることへの危惧が最大の理由である。就活に追われる学生には海外へ目を向ける余裕がないのである。しかし、留学経験者によると、いろいろな国の人たちとの出会いが視野を広め、大学生活を豊かにしている。また、日本と比較にならないほど厳しい教育を受けた経験が財産になっているという。米国では大学院へ進学する場合、さらなる成長と見聞を広めるために他大学へ行くケースが多く、実際に成長する確立が極めて高い。中国からの留学生は、「もっと付加価値の高い仕事をしたい」と意識が高く、意欲的である。企業は国際的に通用する人材を求めている。次世代を担う若者に、「外に飛び出そう」と言いたい。

米国のリベラルアーツ大学に留学する学生のために返済なしの給付型奨学金を出してきた「グルー・バンクロフト基金」が高校教員を対象にした初の米国大学視察ツアーを昨年末に実施している。海外に長期留学する学生が減る中で、まず、留学の意義を高校教員に肌で感じて、理解してほしいのだという。

東大数物連携宇宙研究機構では、午後3時から1時間恒例の「ティータイム」が始まる。約70名の研究者の半数が外国人で専門も様々だという。村山機構長は、「研究は一つの見方やアプローチだけでは行き詰る。異分野の研究者と交じり合い、新鮮な視点、手法を持ち込み合ってこそ活性化する」と述べている。異質な者が交われば、従来にない発想が生まれるのである。

就活時期見直しの動きが経済界内部から提案され、大手商社は2013年春入社の新卒から、採用試験の開始を4年生の夏以降に遅らせる方向で検討を始めているが、教育者の立場からは歓迎すべきことである。就活に備えて業種や職種を絞り、目標に向かって勉強した人は就活で成功している。隠れた名企業を探す努力も必要である。企業は社会人として望まれる「諸問題を解決する能力」をもった質の高い学生を採用してほしいものである。  

偏差値による評価が導入される以前の大学には、いろんなタイプの学生が全国的規模で集まってきた。情報量が少ない時代であったので、地域独特の文化や歴史、習慣・考え方の違いを学ぶことができた。目的を抱いて進学してきたその頃の学生は、意欲を持って勉強し、また、学部や学科の垣根を超えての部活、サークル、研究会活動により、人格形成のみならず心身ともに健康な学生生活を送ることができたと思う。「知育・徳育・体育」が実践された良き時代であった。

大学には「大学にしかできない深い教養や幅広い視野をもって自己を確立する」大学本来の役割が求められている。大学進学率が50%を超えた今、専門分野の高度な教育・研究は大学院に移行することになろう。関東学院大学でも学部と大学院の改革が模索されている。
 

産学協同の軌跡
関東学院大学
本間英夫

 
今回の未曾有の震災を契機に日本の技術の強さを再認識し、世界に向かってアピールする時である。おりしも震災後の一カ月後、外国から日本に来るのを控えているさなか、カリフォルニア工科大学から教授2名が共同研究の打ち合わせにやってきた。それは昨年韓国で招待講演を受け、その際に枕に我々の大学の産学協同の考え方を語ったことがきっかけであった。そこで、再度中村先生から継承されてきた産学協同の取り組みに関する内容を述べることにしたい。

 

産学協同の軌跡

大学と産業界が共同で研究や技術者教育を促進する「産学連携」のアプローチは、いまや非常にポピュラーになってきており、もはや熱心に取り組まない大学を探すのが難しいくらいである。だが、いまを遡ること約半世紀に、本学内に設置された実習工場が事業部となり、それが関東化成工業という企業に発展していった。

当時は、産学連携という言葉もなかったのが実情であった。日本において産学連携の草分けは、実は本学なのである。まずは事業部時代に中村先生を中心に開発された「青化銅めっき」の実用化技術が、自動車用バンパーの低コストライン生産を実現。続いて、事業部時代に現ハイテクノ社長の斎藤先生(40年近くの長きにわたって本学の非常勤講師を担当)が「無電解めっき」の理論を提唱され、世界に先駆けてプラスチック上にめっきを施す技術を初めて実用化。世界の自動車の外・内装が金属からプラスチックに置き換わり、その後この技術をベースにエレクトロニクスに不可欠な半導体と基板の接続もはんだづけの時代から飛躍的に効率化した。本学の産学連携で生まれたこの2つのめっき技術が世界をリードしたのである。私は本学工学部の2期生さらには大学院の一期生としてこのプラめっきの開発当初からかかわらせていただいた。当時は昼夜を忘れて土曜も日曜もなしに後輩とともに実験に勤しんだ。中村先生は「やったか!まだか!」の連続で大変であったが自分がいま世界で初めてのことをやっているのだと思うと、ワクワクする気持ちを抑えられなかった。

「いい技術はオープンに」それが本学の研究者魂である。ここで見逃せないのは、世界の産業界に大きなインパクトを与えた「プラめっき」の技術に関しては、中村先生の意向で特許を取らずに公開したことである。もちろん申請すれば特許を取れるだけの技術だったし、当然、莫大な収益が大学に入ったはずである。せっかく産学連携を推進した意味も薄れるのではないだろうかと思われるだろうが、当時はアンチパテントの時代であった。したがって、大学発の技術だからせっかくの素晴らしい技術を囲い込むことを敢えてせず、広く普及させるのが当然であるとの考えられたのであった。公開はもちろん、日本各地から多くの公的機関の研究者、民間の技術者が来られたが、詳しく技術を伝授した。中には、ここまで教えてもらっていいのかと驚く方もいた。でも、本学の卒業生を初めとして多くの方々は理解されているように、本学の校訓は「人になれ奉仕せよ」であり、その教えを象徴的に実践されてきたのである。

最近は、特許を取り巻く状況は変わってきたが、研究成果を広く公表すべきだという心意気がいまも本学に息づいている。以上述べてきたように、半世紀以上も前に産学連携を実践してきていたのだが、私が助手になった頃から学園紛争が全国的に激しさを増してきていた。しかも本学は事業部を持っていたので学生からは産学共同路線粉砕と激しい突き上げがあり、彼らと幾度も話しをしたが全くの平行線であった。大学のキャンパスにはバリケード、立て看板、一年間に渡る休講、さらには16号線の封鎖に至り、もはや大学内で事業部の運営が出来ないと事業部を独立させることになった。それが現在北久里浜にある関東化成なのである。その事件を契機に中村先生は47歳の若さで大学を去ることになる。その後は学生と表面工学分野の火を消してはいけないと、特に環境と無電解めっきの研究に注力するようになってきた。



研究所の構築

その後30年くらい経過し、今から10年くらい前に関東化成の工場の中に大学との共同で研究所を立ち上げたいとの要望が関東化成からあり、2年くらいかけて現在関東化成の役員になっている豊田君が中心になり、表面工学研究所を立ち上げた。さらには昨年2010年、新たな展開に踏み出した。横浜市経済観光局と包括協定を締結したことを受け、横浜市工業技術支援センター内に関東学院大学材料・表面工学研究センターを開設した。この横浜市工業技術支援センターのルーツはなんと50年以上前に中村先生が本学においでになる前に奉職されておられた商工奨励館から出発したのであり、そこに研究拠点を構築することになったのは、神の身業のような不思議さを感じる。

日本の製造業が生き残るためには、より高度で難易度の高い最先端技術分野での研究が必須である。そのためには、産学連携の枠に収まらない、自治体も含めた産官学の連携を構築せねばならない。センターはそうしたイメージを実現する拠点となる。運営費は、ものづくりの根幹を支える企業を中心とした企業が協賛金として供出してくれた浄財で賄っている。自由で闊達な研究を行うために、行政からの助成金は当てにしない。長年産学連携の現場で中村先生に鍛えられ、培ってきた信頼と人脈があり、工程のクローズド化とリサイクル化を徹底した、インテリジェントな21世紀のめっき技術をとその準備は整ってきている。昨年5人の教授と学生15人の体制でセンターはスタート。「ものづくりは人づくり」「ハイテック、めっきなければローテック」「Do and See! Don't Think Too Much!」……と、日ごろから学生にはわくわく楽しく研究できる環境を作り出すことに腐心している。座右の銘は「Ever Onward, Never Give up!」



ビーカーから工場へ

世界中の研究者が日々努力し、さまざまな技術が生み出されているが、私たちの手元に実際の製品として届くものはごくわずかである。ビーカーの中では再現できても、いざ工場で大量生産となると、活用できない技術がたくさんある。ものづくりにおいては基礎的な研究、さらには応用研究、そして大量生産に繋がる実用化のステップを踏む。しかし、応用から実用化の間には、資金調達や生産効率の改善など多くの課題がある。そこを乗り越えるのは極めて困難で、デスバレー(死の谷)といわれる所以である。その中で我々の研究室ではこれまで実用化実験に力を入れ、活用できそうならすぐに工場で実用化してきた。

沢山の例があるが、これまでも何度か触れたが、もう20年近く前になるがある学生が出した失敗データがある。あらゆる結果を実用化に導くプラスチックめっきには浴中に含まれているホルマリンは人体に有害なため、その学生はホルマリンを使わないめっき技術を研究のテーマーとしていた。研究を始めて1年、「どうしてもできません」と持ってきたのは細かい棘とげ状になった表面の写真だった。ところがそれを見た私は目的の研究には使えないが、他の目的に応用できると閃いた。実用化を進めたこの技術は、世界中のCPU素材をセラミックスからプラスチックに変えるきっかけとなった。この開発当時はすでにアンチパテントからプロパテントの時代になっていたが、本学でまだ知財部のような仕掛けがなかったので個人として特許を取るしかすべがなかった。

したがって、関連企業と特許の共同出願をした。それが多額のロイアリティーに繋がりすべて大学に寄付をし、奨学金として使用してもらうことにした。その後、学生諸君との長年にわたる研究の成果が評価されて、神奈川県文化賞を受賞し、その際に頂いた副賞もすべて大学に寄付した。さらには多くの産業界の方々からお祝い金をとの話があったがすべてお断りし、出来れば表面工学部門の大学院に進学する学生の奨学金として寄付していただきたいとお願いした結果、多額の寄付金が集まった。また卒業生もこの趣旨に賛同してくれて毎年4人の大学院進学者に授業料相当額を奨学金として出せるようになってきた。本年からはこの枠を6人に増やし、さらに充実させるべく現在奔走している。私は常々、産業を発展させる人材を育てるに当たって実験には失敗はない、何かそこには面白い現象が隠されているぞと学生に語り、実験が楽しくやれる環境を構築してきた。

学生とともに行ってきた研究を実用化する力の源には、若いころの経験が沢山あるが最後に象徴的な例をあげよう。30年以上前になるが、助教授の頃作成中の博士論文を当時中村先生が見て、「おい、これいけるぞ」と、即座に新しい工場を建てる決断を先生はしてしまった。正直ビーカーでしか実験を行っていなかったので、これが本当に実用化されるのか内心びくびくしていた。しかしその工場は一時主力製品を生み出したし、世界的にも評価される技術になっていった。このほかにも多くの実例があるが、実用化のための技術と知恵を持つ人を育て続けてきたが、この震災を契機に新たな気持ちで技術開発に再度注力していく。
 

現場経験に基づく考え方
関東学院大学 材料・表面工学研究センター
本間英夫
研究員 梅田 泰
 
今月号では、3月から研究センターの研究員として正式にスタッフとなった、梅田君の自己紹介と彼の20年以上にわたる現場を中心とした技術で培われてきた考え方を紹介する。以下は彼の書いた文章に少しだけ手を入れた。

いつの時代も若い威勢の良いリーダーが求められている。近頃の若い人を見る時、彼らが未来に対し、意外に悲観的な考えを持っている人を多く見かけることがある。その反面、私たちの時代では、えられなかったようなグローバルな大きな夢を持っている人も少なからずいる。

このような状況はいつの時代も同じとよく聞くが、私の10代であったいまから40年位前は、ご飯もろくに食べられない中で若者が未来について考えていた時代であり、現在の豊富に腹が満たされた状況の中とでは、考え方に大きな差が出てくるのだと思う。しかし、これからの若者にも自信を持って未来に向かって歩いて貰いたい。そして幸せな生活を掴んでほしい。大きな幸せを掴むチャンスは全ての人に与えられているはずである。私は知識が豊富な訳でもないし、十分な資産があるわけでもないが、幸せを大いに感じている。幸せを感じながら生きるという点について今迄の私の経験について話をすることでその一助となればと思う。

私の生まれた昭和32年の横浜は、まだ戦後の残骸が少し町に残っており、町の中心部には駐留している米兵や、その家族の多くが華やかに闊歩していたころであった。まさに日本における占領軍の全盛期である。日本人は、その姿を見ていつかはあのアメリカ人たちのように豊かな生活が出来るようになりたいと希望を持っていた。自動車、芝生の青々生えた大きな家、立派な電化製品(三種の神器 テレビ、冷蔵後、洗濯機)を持つことが大きなステータスだった。戦後の日本人は豊かになることを全ての人が目標に頑張ったのである。その甲斐あって昭和四十年代には多くの人が立派な家電とある程度の豊かな生活が出来るようになり、国力もついてきて、生活はそこそこ立派になってきたが、住宅はウサギ小屋のようと、外国からは揶揄されてもいた。戦後の復興からこのように豊かで安定した生活が定着してきたかに見えたが、昭和四十七年にオイルショックが起こり、日本経済は大きく方向修正を迫られることになった。石油の供給が減るのではないかとの憶測から、全ての生活用品の生産が出来なくなっては困ると、トイレットペーパーまで買い占められ、世の中から消えてしまい大混乱となった。その後はさらに経済は拡大し、土地や株への投資熱から山林の土地までが値上がりするというバブル経済となり、それを抑制すべく金融引き締めにより、1990年には日本経済のバブルの崩壊が始まり20年以上の景気低迷、大きな回復が無いままに2008年リーマンショックの影響を受け、大きな経済危機を迎えた。その際も日本国民はその都度の山を乗り越えてきた。

私個人は昭和53年に労働省の職業訓練短期大学校を卒業し、埼玉の自動車向け亜鉛ダイカスト部品を中心としためっき工場を皮切りに、横浜の防衛関連の航空機や飛翔体の制御部品などをめっきする工場、その後、父親が経営する半導体部材のめっき工場に23年間働いた。トータル28年間めっき作業に従事した。その中で特に23年間働いた半導体部材工場では、引っかけ冶具作業から製造部長、開発部長を経験したことで、今の研究職と言う私の新たな人生を得られたことに感謝している。仕事では失敗することも多かったが、皆と力を出し合って完成させた仕事にはいつも喜びがあり、次の仕事への自信となった。あるとき自分の仕事の採算を強く気にするよりも、得意先の利益を考えることで大きな信頼を得られることに気が付いた。全ての仕事がそうではないが、それまで以上に利益が上がる経験をした。また、職場においては私本人が同じ気持ちで事に当たっているときは他人(部下)の失敗も自分の失敗として理解できるが、頼みっ放しの仕事では相手に不満ばかりが残ることに気が付いた。

開発業務に携わったときは、開発技術や、資金の調達や人材の確保についても経験をした。開発と言えども、テスト品の納期があり、会社に何度も泊まり、二日で36時間作業などと言うようなことを繰り返し、多くの新しい製品を生み出して行った。その中で、生みの苦しみのないものは仕事の寿命が短く、途中で大きな問題が発生し、苦しむことが多かった。製品の生みの苦しみはいつも体力勝負のようなところがあり、もうこれ以上は出来ないと思ったところで、ポッと新しいアイデアが浮かび、解決に結びつくことが多かった。いつもやりぬいた後に答えが見つかるのだ。途中で諦めたものは、次からはなかなか取り掛かることが出来なくなってしまう。製造の不良の問題や、開発の生みの苦しみ意外に人間関係の悩みも多く経験した。量産で成功した際に、利益を開発費に配分してくれると約束したことがあった。しかしながら最終的に利益が出た際に、経営側からその部署だけ利益が出ても配分する訳にはいかないとか、利益が出ている部署を自分の担当から外されてしまうなどの処置をされてしまったこともあった。その当時は約束と違う事に腹が立ったが、これは経営側だけが悪いということだけではなく、私自身が相手にうまく理解を得られるような言動が出来なかったために最終的にこのようなことが起きてしまったと解釈している。

このようなことを経験している人が今読んでくれている人の中にもいるのではないだろか。自分だけの論理を通そうとすることで相手は反発し、力あるものはどうしても押さえておかなければならないと思ってしまう。うまくコミュニケーションが取れていればこのような誤解も生まれなかった筈である。新しい商品を世の中に提供することは、大きな苦労があると思うが、スタッフ、得意先と製品完成の際に必ず大きな喜びを分かち合うことが出来るはずである。是非若い人たちは開発という渦の中に飛び込んで常に自分への新たな世界を模索してほしい。

今年3月11日午後2時46分に東北、東関東を襲った千年ぶりと言われる大地震により、近年経験をしたことのない想像を絶する大規模な被害が齎された。死者、行方不明者を含め二万六千人の尊い命が失われ、四十万戸以上の住居が地震と津波の影響で破壊されてしまった。被災者はもちろんであるが、国民全体が大きな悲しみに包まれた。今回の被害は通常の建造物だけでなく、原子力発電所にも大きなダメージを受けたために、大きな範囲で放射能汚染の影響があり、国民の不安はただならず状況にある。しかし、こんな状況の中で国家間の協力だけでなく、外国の個人からも被災地への心温まる支援があり、人間愛を感じることによる大きな心のよりどころを感じた人は少なくなかったと思う。私たちは今回の被災に対し多くの問題にぶつかるだろうが、これからの日本を創造し、問題を皆で解決していく必要がある。そのためには解決していくための能力だけでなく、一歩前に足を踏み出す勇気が必要になってくる。一歩足を踏み出すことで大失敗をしてリスクを抱えてしまうかもしれない、だがリスクを回避するために何もしない人がいたとしたら、それは人間として正しい事なのだろうか。何もリスクを冒さずには大きな改革はありえず、前に進むことは出来ないと思う。そんな時代を乗り越えて行く若者に単なる技術的な対応だけでなく、メンタルや体調管理についても提案をしたいと思う。

以上梅田君の現場経験に基づく考え方を書いてもらった。彼は開発業務の先頭に立ってきていたのでセンターでは大きな戦力になっている。
 

若者及び中年層へ
関東学院大学 材料・表面工学研究センター
本間英夫
研究員 梅田  泰
 
我々の若いころは技術開発に夢があった。皆、前向きに真剣に取り組んできた。ところが、この20年を振り返ってみると成熟から停滞、技術よりもコストが優先し、多くの若者は技術関連の仕事に対して夢も、情熱も失っているように思えてならない。そこで、これまでの経験から最近の閉塞状態から脱却するには、ごく常識的な内容になってしまうが、若者及び中年層を鼓舞する意味で幾つか梅田君と論議した考えを述べてみたい。



①技術関連の仕事では自分の意見をもち、上を向いて進む。また、協調性を常に意識する。

自分の置かれている立場でどのようなことをどのように進めて行こうか自問自答しよう。いつも辛いことが多くつまらない日々ばかりで研究や技術関連の仕事への情熱が失われていないだろうか。確かに毎日ニュースを見ていると、技術の海外移転、コスト優先などから日本の技術関連の仕事は今後どうなるのかと不安になる。この閉塞状態を打破するには、国家レベルでは勿論、個人レベルからも強い積極的な姿勢が必要である。最初はうまくいかなくても向上心を持って毎日少しずつ進めて行くと必ず前進していくはずである。自分なりのアイデアで前進するための提案ができる人間になろう。しかし、自分だけがうまく行けば良いのではなく周りの人も幸せになれるように考えよう。



②計画を持って事を進め、常にPDCA(計画,実行、評価、改善)のサイクルで先に進んで行こう。計画通りいかないからといって諦めることはない。絶対成功すると信じよう。

自分は成功する人間であるというシナリオは描けているだろうか。先行きへの不安が多く、消極的になる人が多い。成功するだけが人生ではないが、目標が無ければ自分が進んで行くべき道を定めるのは非常に難しい。まずは自分がどのように技術の仕事を進めるかアイデアが出た段階で成功するか感覚的にわかるものだ。最近の傾向であるが、人の言われた通りしかできない指示待ち型でいいのか少し考えてほしい。下働きは常に命令されて動くため、自分の思い通りのリズムでは技術関連の仕事が出来ない。自ら進んで仕事をしない限り満足を得ることはできないことを知っておいてほしい。

成熟して停滞した社会において若者も中年層も、いつも愚痴ばかり言っている人が多くなってきた。研究や技術開発の設計にあたっては、ある程度の先見性と綿密さが無ければ思い通りの成果は得られない。若いうちにはなかなか気付かないが、多くの意志の強い人は節目、節目で目標を再設定し、常に実験や研究の進捗や解析を十分に理解するように努めている。計画通りにいくことが望ましいがその通りに行かなかったとしてもそこには新しい発見がある場合が多い。常に挑戦し目標に達することを忘れないでほしい。



③自分の能力を信じよう。ここで終わりということはない。いつも進んで事を進める努力をしよう。

例えば入社したばかりの右も左も分からない時には、技術開発の一部だけを担当することになるだろうが、一つ一つの役割を大事にし、失敗を恐れず直面する問題を解決して行こう。能力はここで終わりということはない。精神力を鍛えれば無限大の可能性を持っているのだ。限界があるとすればそれは自己規制してしまっているのだ。どんなことにでもチャレンジし、何時も自分から進んで物事を進めて行こう。その途中で失敗をすることがあるかもしれないが、失敗を恐れず次から次へのチャレンジする力をつけよう。また、失敗と思っている中に新しい発見が潜んでいることが多い。



④自分の今置かれている立場だけでなく、相手の色々な立場、他の世界のこともバランス良く調査、研究をしよう。それには情報を与えてくれる仲間が必要。

何かをやろうとすると一人ではなかなか事を進めることが出来ない。仲間と協調し相手の立場に配慮する。何事も強引に進めようとすると、相手が力を出し切れず大きな力とならない。周囲の情報を集めバランスの取れた方法を常に調査しよう。その方法やタイミングは大変難しいが経験を重ねることで培われる。そんな技術を身に付けて色々な分野の人とも協力しあい、また日本の中だけでなく世界に仲間を持ち、大きな視野を広げよう。言葉がしゃべれないからと外国の仲間を持つことに苦手意識はないだろうか。紙に絵を書いてもコミュニケーションは取れる。ここでは名前を控えるが、今も表面処理業界で活躍している全く英語が出来ないが、アメリカを初めとしてどこへでも臆することなく出かける後輩がいる。しかし、言葉がしゃべれることでより深い情報のやり取りがスムーズに出来ることは確かである。普段から必要な言語のスキルを磨こう。特に英語は世界の共通語であるので意識して日常会話くらいは出来るように日頃から訓練しておこう。



⑤最後まで諦めない忍耐力を付けよう。大変だからこそ大きな成功を体験できるのだ。

これまで手掛けたことのない新しい技術関連の仕事を成功させるためには大きな困難が待っている。目標に向かって、なかなか先に進めないことがあるかもしれないが、その壁を常に突き崩す努力を出来るようにしよう。失敗した時には次にそのまま体当たりするのではなく、なぜ失敗したか考え直し、失敗しない方法を色々な角度から考えてみる。解決策は簡単には見つからないことが多いだろうが必ず見つけ出すという意思を持とう。もうこれ以上体力が持たない、でも何とかしなければいけない限界状態になると不思議と解決策が見つかることが多い。発想も同じで、ぎりぎり限界の時に閃いて新しい技術開発に繋がったことが多い。また、若い時の成功体験は、その後の人生に大きな影響を与える。成功の経験のない人は成功への喜びの経験がないので、自分からリスクを跳ね除けて先に進むことに躊躇しがちである。小さな成功の積み重ねから大きな成功が導かれる。



⑥何事を行うにも体(健康)が重要だが、いつも健康で調子が良いとは限らない。どんな時でも自分をコントロール出来るようにしよう。

社会人は責任を持って技術の業務にあたらねばいけない。

人間である以上絶対に病気をしないということはない。風邪を絶対に引かない人はいない。しかし、不摂生で風邪や腹痛を起こして休んでしまう社員がいたら、一緒に働いている人はどのように思うだろうか。休む際に肩代わりをすることで相手に負担が掛るという気遣いも必要だ。自分の体を常に管理し、病気に掛りにくい体を作ろう。最近は体調管理が出来ていない若者が多くなってきている。時には体調が悪くても仕事に立ち向かって行かなければいけない事にしばしば遭遇する。その時には自分の体力の極限を知り、うまくコントロール出来るようにしよう。倒れてしまう限界を知っていないと、かえって迷惑をかけてしまう。体が弱い人ほど体調のコントロールが出来るように努力し、仕事に穴を開けないよう健康管理能力を身に付けよう。病弱では集中力や持続力は大きく低下し、またいいアイデアもう浮かんでこない。しかし、あえて付け加えておくが病気になってしまった場合は勇気をもって休養を取ることも必要である。
 

愛情と感謝の気持ち、利他の精神で
関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫
 
研究センターを構築してそろそろ一年になる。技術開発の担い手になるスタッフは田代君、梅田君、クリス君の3名となり、大学院および学部卒研生、さらには企業からの研修生と常時十数名が研究開発に注力する体制が整ってきた。研究センターで取り組んでいるテーマについては次号あたりから紹介していきたい。



愛情と感謝の気持ち、利他の精神で、

人生の「あいうえお」「あ」は愛、「い」は意志、「う」は運、「え」は縁、「お」は恩と言われるように先ず愛をベースに人に仕えること、奉仕の精神が大切だと学生やスタッフには、事あるごとに語っている。誰かの為になる仕事を喜べるようになろう。愛情を持って仕事をしていると周囲の人も同じように愛情を持てるようになる。自分の気持ちをうまく発信しながらことを進めよう。相手が必ずいつかその気持ちを理解してくれるはずである。

自分の顔は自分よりも周りの人が見る時間の方が長い。自分がどのような行動をしているか客観的に見ることはあまりないかもしれない。コミュニケーションは相手が理解出来て、初めて成り立つもので、相手がどのように理解したか、確認しながら事を進めることが重要である。意外と相手の立場になって考えてみると、自分の価値判断だけを押しつけ強引に進めていたのではないかと反省することが多い。

事業にしても技術にしても、管理職の中には、我田引水で自分が成功に結びつけたと誇る人が見受けられる。職人のように一人の技量による場合は別として、その仕事の実際の推進者や協力者に感謝の気持ちを持っていないと、理解も信頼も得られなくなってしまう。目先の功績や利益追求だけに固執せず、長期的視野に立って強い信頼関係が生まれるように心掛けねばならない。

そんな戯言をと言われるかもしれないが、大震災、その後の原発事故、すでに半年経過しているがまだまだ明日が見えてこない中で、被害に遭われた方々の忍耐強さ、絆に基づく希望、あきらめ、深い喪失感、悲しみ、憤怒等、これこそ自分がその立場になって考えてみると、国の対応の遅さにはイライラするし、個人として関われることの限界と虚しさを感じる。

被災地向けに寄付した人は多いと思うが、それがまだ有効に使われていないようである。国の為政者は強いリーダーシップのもと、復興税やその他、サポート体制が急がれる。日本は地震大国であり、将来に向けて、地震対策、津波対策、原発の対応、エネルギー資源の確保等が最重要課題である。それと並行して産業活性化、自由貿易、行政改革など迅速な対応をせねばならない。

震災から半年を経過してやっと政治家の間で協調体制が整ってきたようだ。日本人は忍耐強く、冷静で、協調性があり、日本人が忘れかけていた豊かな心が復活してきたとか、価値観が震災を契機に変わってきたとコメントされているが、被災地の人は他人事のようなコメントに対してどのように思うだろうか。そんなことより挙国一致で迅速に希望が持て安心できるような環境を整えねばならない。



続く就職難、超氷河期

多くの学生は、9月下旬になっても、未だに就職活動が続いている。20年くらい前までは、ほとんどの学生は希望する企業に難なく入れた。また、安定した給料と福利厚生を得るにはと、大企業に就職が偏りがちであった。しかし、この20年で大きくその傾向が崩れてきた。

企業の規模にかかわらず、その企業から期待されて入社し、自分自身でその会社を発展させる気概を持って働くという生き方は充実感がある。経営者と従業員が一体となり、充実感の持てる仕事が出来れば、それが社会の貢献にも繋がっていく。そんな醍醐味を持った生き方を出来る人間が今必要とされている。国内の製造業が衰退する中で、国内平均で約7割が従業員数300人以下の中小企業で、日本の産業を支えている。問題がある時こそ、渦中に立ち向かい、解決する力をつけて実践力のある人材になるように心掛けよう。

これまで下請け型産業から提案型産業への転換とアピールしてきたが最近では大手の企業よりも中小で技術力のある企業が大きく伸びてきている。



日本が輸出立国である以上海外の動きや、海外での生活も視野に入れる必要がある

世界の経済の様子が大きく変化してきている。GDPのランクは、ここ30年以上一位アメリカ、二位日本、三位ドイツとなっていたが昨年二位の座を中国に明け渡した。中国の経済成長は見ての通りだが、この成長は中国国内での活動だけではない。アメリカ本土でも中国人の活躍は目覚ましいものがある。シリコンバレーの三割が中国系であることや、ODAが支援するアフリカの街に次々とチャイナタウンが出来ている。これは中国人が自分たちの世界を広げようと努力しているからだ。また、中国だけでなく、東南アジアや中東諸国などの経済成長の伸び率が上がっている。円高が続き、日本の中小の製造業も海外へ進出せざるを得ない状況がある。バイタリティーがある国が成長していくことは明らかであり、今後の日本の発展には、若い人が海外での生活も視野に入れ、自分の生活設計が立てられるよう準備が必要である。伸びた国は繁栄し、下降していく国は衰退してしまう。

現在の日本は借金漬けで負債総額は1000兆円にもなろうとしており、国民一人当たりにすると、1千700万円以上になる。成長路線をとらないで負債を削減することは困難であり、島国日本がさらに成長するには、物質収支から考えて、技術を中心とした輸出の拡大しかない。それには一面的な捉え方であるかもしれないが、技術に対する評価を再考せねばならない。現状は先ずはコストありきで、コスト意識が高すぎて優秀な技術者はやる気をなくしている。日本の技術力の強さを経営者は認識し、海外に技術移転せざるを得ない場合にも、知財が有効に機能する体制を構築せねばならない。あまり言いたくないが20年くらい前まで学会や研究会で共にしていた技術者の多くが、個人資格で海外に出稼ぎに出ている現状を知るにつけ、誰もが家族と別れて単身で稼ごうと思っている訳ではないはずだ。国内でシニアが活躍出来る環境を考えてもらいたいものである。



プロフェショナルの仕事

プロとはある分野において、社内はもちろん、広く社外でも第一線で通用する専門知識、実務能力を持ち、自らその分野で価値を生み出すための戦略や方策を立案し、実践できる人材を指す。プロフェッショナルというのはどのようなことが自分の身の回りに起きても、ブレのない仕事が出来る人のことであろう。

経営者や管理者になったとしても、現場が判る人間になれるよう心掛ける必要がある。現場主義に徹すれば、経営者や管理者となった時に内容を大局的に判断する力が発揮される。

若い人達がこれからいろいろな試練に突き当たり、その問題を解決して行くことになると思う。 充実感を持ってわくわく楽しく、また廻りの人間も幸せに出来るようなプロフェショナルな仕事が出来るよう努力してもらいたい。

半世紀近くハイテクノの講座が続けられてきたが、これからも表面処理全般の厚い講師陣と共に技術を伝承し、若者に新しい時代に向かっての示唆を与えていけるよう努力する。
 

来年世界経済の大氷河期が来ると杞憂する
荏原ユージライト株式会社  
代表取締役兼CEO  粕谷 佳允
 
今年の九月十一日にアメリカの同時多発テロから十年、日本の大震災・大津波の被害から半年が経とうとしています。

アメリカのこの十年は失われた十年という人がいますが、本当にアメリカの一国支配力の低下と簡単には片付けられない程アメリカの政治影響力とドルをはじめとする金融支配力を喪失させてしまったのです。その原因はイラクやアフガン戦争によるドルと人命の浪費とリーマンショックに見られるような金融政策の大失敗にあると思います。その間ドル紙幣を乱発し続けた結果、アメリカ経済は現在恐慌寸前にあると思います。アメリカの金融危機がギリシアやイタリアなどヨーロッパ各国に津波のように押し寄せていると私は思います。したがって、ドルへの不信感からユーロ通貨も相対的にその信用を失いつつあるのです。

日本の異常な円高は何も日本が強い立場にいるからではなく、海外資産の蓄積と貿易依存度が案外世界レベルから見れば低いことに起因していると聞いているのです。また、デフレの中で考えれば金利がアメリカやEU諸国より比較的に高いことが円買いを促進させている要因だと専門家から聞いています。

一方で最近中国各地を訪問して感じたことは、中国の経済活動は金融の大幅引き締めにあって食料品と石油の異常な値上がりと相まって相当苦しくなっている様子でありました。この傾向は来年も続くことを今から覚悟しておいたほうがよいと考えています。韓国のサムスン、LGも来年の見通しは全くたたないため、リストラや投資を相次いでキャンセルしていると聞いています。中国も韓国も結局のところ、アメリカ依存度が大きく、ドル安とアメリカ経済の停滞に大きく影響されているのだと私は考えています。要するに、世界はアメリカの方向を一極主義で見ていてはだめで、アメリカ離れ、ドル離れしないとやってゆけなくなっているのでしょう。来年のことを言うと鬼が笑うといいますが、二〇一二年(辰年)はかつて私たちが経験したことのない世界経済の大氷河期となるのであろうか。私は自分の会社の将来のこと、増税の雰囲気の日本経済の危うさなど、取り越し苦労であってほしいと一方では、思うのであります。

また、来年はアメリカ、ロシア、中国、フランスなど、世界の大国のトップ交代の時期と重なっています。これも世界が安定しない要因となっているのです。

野田新首相は東日本の大震災と大津波の復興や原発問題、及び西日本の大豪雨による大変な被害の復旧という二重、三重の困難に早くも対応しなければならず、大変な重責を負うことになり、気の毒なぐらいです。円高対策を含め経済的、外交的課題も合わせて処理しなければ日本の将来はないと思います。いずれにしても資金がなければ問題の解決策がとれないことは誰の目にも明らかなのです。消費税の10%アップと建設国債の発行が一番よい施策だと断言しております。所得税と法人税の増税は愚か者の考え方です。

今年のような大地震や大洪水で日本各地が大きな被害を受けたのは、今回が初めてではありません。推古天皇の御代即ち聖徳太子が活躍された時期にそのような国難とも云えるべき出来事がありました。その時、聖徳太子は大胆な政策をとって国民を救いました。その時全国の朝廷の倉は勿論、全国各地の国守の倉も開かせ、悲田院を開き、施薬院を設けました。公共事業として全国に橋や寺を創設して仏教の普及と社会資本の整備に奔走したと聞いております。後世、光明皇后も聖徳太子に習って、悲田院と施薬院を開設し、飢餓と疫病に苦しむ国民を救済したのです。

大阪の四天王寺などは、外国の使節を出迎えるためにわざと堂々とした建造物として作られたものです。復興のために遣隋使を派遣し、新しい技術や知識の導入にも力を入れたため、多くの外国人を難波津に上陸させ、日本の力量を誇示したからです。内政とは別に、外交交渉にも十分気を配っているのです。新しい国作りに着手し、先進国だった中国に学びました。野田新首相も新しい国作りをするぐらいの大きな気持ちでリーダーシップを発揮して成功すれば、一〇〇年後、二百年後、聖徳太子同様紙幣の顔となるかもしれません。

天智天皇の後、大友皇子を大津で破って飛鳥浄御原に新しい朝廷を開いた天武天皇は、毎年のごとくその余震ともいうべき大小の地震に16回も見舞われていました。天武十三年十月十四日(DC684年十一月二十九日)白鳳大地震という現在の云うところの東南海、南海、東海連続型大地震に見舞われたと「日本書紀」にも記載されています。白鳳大地震については、色々な地震の大家が研究されているので興味があれば読んでください。今の土佐湾はその時大陥没してできたといわれています。20m近い大津波に襲われ、土佐の3分の1が水没したらしいのです。

天武天皇以降大和朝廷の財政は大変だったろうし、情報伝達機関の未発達を考えれば大変な死者や行方不明者も出たであろうと思うと、今回の東日本大震災より悲劇的状況であったろうと思わざるを得ません。従って、最近大小の地震が頻発するなか、東南海、南海、東海連続大地震の可能性も否定できないのです。あらゆる意味で国民が一致団結してこれらの国難を克服していかなければならないですが、野田新首相には、三党合意などといった妥協的なものではなく、本当の意味の超法規的な決断力をもってできる限り早く今回の復旧復興を済ませて、中国やロシアが狙う国土の保全のための大胆な施策をしてもらいたいです。特に、海軍力の強化のため空母をはじめ多くの艦艇や攻撃機の国産化などに踏み切らねばならないと思います。これは国土防衛のためであり、アメリカの軍事力依存から脱却し、本当の意味の自前の軍事力の強化が必要です。何という勇ましい保守的な考え方の持ち主かと揶揄されようとも、私は自分の国は自分達で守る気概が今の日本人には欠けていると思うのです。国土を守るということは子孫に対する私たちの責任です。 

私は平和主義者ですが、東京の下町で3月10日の東京大空襲で一夜にして10万人の人が焼死した戦争の痛ましさや不幸を子どもの頃いやというほど身を以って体験したからなおさらです。世界不況後必ず大戦がある。これは人間が動物だからです。企業も生き残るための戦略を真剣に考え直さねばなりません。経済がグローバル化し、国境がなくなったため、企業間の戦いはもっと苛烈となると覚悟しています。

私は経営者の一人として、来年こそ自分の見識が問われると思い、一極集中型ではなく、新分野をはじめとする多極分散型の経営を目指す考え方です。色々な国々の企業との協力関係の構築と大学や研究機関との連携を含めた事業の多角化に生き残りを図ろうと考えて、社員一同団結して社業の発展に努力邁進いたします。



今月号の雑感シリーズでは、ハイテクノ維持会員である荏原ユージライト株式会社代表取締役粕谷佳允様にお願いし、会社のHPに九月十三日付で掲載された経営者メッセージを特別寄稿として転載させていただいた。

(関東学院大学 本間 英夫)
 

最新めっき技術講習会
関東学院大学材料・表面工学研究センター  
本間英夫
研究員 田代雄彦

 
今月号では、今年の一月から研究センターの研究員として正式にスタッフとなった、田代君の自己紹介とはじめて横浜市と共催で行った「最新めっき技術講習会」について紹介する。以下は彼の書いた文章に少しだけ手を入れた。

私は静岡県東部の沼津市で生まれ育ちました。私の通った小学校と中学校は、道路一つ隔て隣接した学校で、周りは全て田んぼという立地でした。そんな自然のある中、子供の頃は学校の宿題はそっちのけで、川に海に山に遊びまわっており、廊下に立たされたり、正座させられたりと、今でいう問題児だった気がします。現在と違い当時は、鉄拳制裁は当たり前で、先生に物差しでビンタをされた友達も居ましたが、校内暴力は一切なく、伸び伸びと育ったと思います。

 そんな私が一大決心をした出来事がありました。それは中学入学直後の実力テストでした。一学年三クラスと少ない生徒数でしたが、その順位は下から十番くらいの三桁だったと記憶しています。「このままでは駄目だ!」と思った私は、宿題の時間を除いて、毎日五時間勉強することに決めました。しかし、勉強自体ほとんどしたことが無かったので、何をどうしていいのか分からない。取り敢えず、教科書を読むことにしたのですが、知らないことだらけで、当時流行の蛍光マーカーでチェックすると、文章全てに多彩な色が付く有り様でした。

 そんな当時の座右の銘は、「ローマは一日にしてならず」、「努力に勝る天才なし」という言葉でした。自分は馬鹿だから努力するしかない、そう自分に言い聞かせて日々勉強を続けました。その甲斐あってか、一学期末の成績は学年の上位三十名に手が届くところまでになりました。また、勉強を習慣付けることで、自然に集中力が養われ、授業を良く聞く様にもなりました。この毎日五時間勉強を一年続けたのですが、二学年になると授業中にある程度理解でき、集中力も増した分、勉強時間は二時間程度に減り、成績も一桁と二桁程度に安定しました。元読売巨人軍の王貞治氏の言葉に「努力が報われないことなどあるのだろうか。報われない努力があるとすれば、それはまだ努力と呼べない」と世界の本塁打王が語った様に、やはり努力は必ず報われるのです。


本間先生は私のことを健康オタクと言います。私の朝は、四時過ぎに起き、直ぐ水を一~二杯飲みます。胃に水が入って大腸を刺激し、この刺激が腸を動かすので、副交感神経を活性化し、自律神経のバランスが良くなり、一日を快適に過ごせるそうで、毎日実践しています。基本的に水分は一日に四リッター程度飲みます。財宝温泉水を三、お茶を一の割合です。お茶は月替りで、肝臓に良いとか、目に良いと妻が持たせてくれ、とても感謝しています。次にノニジュースを少量飲み、ヤクルトかヨーグルトを飲みます。一昔前の日本の食卓には、味噌汁や納豆や漬物など、醗酵食品を食事の中に普通に取り入れていたと思いますが、生活習慣や食事の多様化により日本人に必要なものが摂取出来ていない気がします。朝食は具が梅干しの玄米おにぎり二個、バナナ一本と無糖のコーヒー一杯です。玄米は一日に必要なミネラルが摂取でき、コーヒーのカフェインはアルツハイマー予防に効果的です。そして、週末は半日ファスティングを専用のファスティングジュースを使用して行います。近年、長寿に体内のミトコンドリアの量が関係していることが解明され、この量を増やすのにもファスティングは有効です。この様な生活を習慣化した結果、若い頃は重度の便秘症で、冬は膝から下の感覚が無くなる程の冷え症だったのですが、現在それらの症状は全くありません。

当時の私の家庭は裕福とは言えず、姉が私立高校に入学したこともあり、私立高校進学は絶対駄目だと両親に言われていました。そこで、国立高専と公立高校を受験したのですが、国立高専は見事不合格、公立高校に通うことになりました。高校受験での挫折、努力が未だ足りなったのです。次の挫折は大学受験、国立大学をまたも不合格、浪人することになりました。翌年、希望の大学を受験も失敗、滑り止めで受けた関東学院大学の特待生試験の一般で引っ掛りました。私立は金銭面で苦しかった筈ですが、それでも両親と姉のお蔭で、大学を無事に四年で卒業することが出来ました。今でもとても感謝しています。今考えると、これらの挫折が無ければ、私は本間先生と出会っていなかったのですから、人生は「七転び八起き」、不思議な縁を感じます。その後、本間先生の紹介でメルテックスという表面処理薬品メーカーに入社し、研究部に配属され、私の表面工学との結び付きが始まりました。

入社当時の直属の上司は、与えられた仕事の他、アンダーザテーブルでの研究を承認して頂けたので、無電解ニッケルめっきの基礎研究を始めました。数年後、技術顧問として福田豊氏が研究部に配属され、氏の紹介で金材研の分析装置を使用できる機会に恵まれました。また、都立大学の渡辺徹先生(現芝浦工大)をご紹介頂き、その研究室に一年間研究生として通えたのも貴重な体験でした。メルテックス在籍時に研究論文をファーストで二報、北海道大学の安住和久先生の研究論文三報の連名に入れて頂けたお蔭で、関東学院大学大学院工学研究科博士後期課程工業化学専攻に社会人として飛び級で入学出来ました。人間とは「人」の「間」と書きますが、私は様々な方々と出会い、良い人間関係に恵まれたと思います。

入学後二年間は、社会人と二足の草鞋を履いていましたが、諸事情により十三年勤めた会社を辞め、会社から授業料を七割負担して頂いていたので、大学も辞めるつもりでした。しかし、当時の下郡社長は「そのまま続けて学位をとりなさい」と仰って下さいました。私はそのお言葉に感激したことを今でも覚えています。そして、本間先生や当時の学生達に多大なご迷惑をお掛けしながら、無事三年で学位を取得出来ました。これも本間先生はじめ当時の学生達、社長や上司、同僚のご理解とご指導の賜物と感謝しています。


 産学協同で新しい研究所を設立するとの事から、関東化成工業に入社し、関東学院大学表面工学研究所に出向することになりました。ここでは、前職と異なり、常に学生達と一緒に研究をしなければなりません。学生の生活面や研究の指導など不慣れなことばかりで大変でした。中には素直でない学生もおり、人間関係の難しさを痛感したものでした。ちょうどこの時期に家を購入、結婚し、妻と犬との共同生活が始まり、私の生活環境は大きく変わりました。

周りを変えることが出来なくても、自分は変わることが出来る。そんな出来事が一昨年ありました。それは母親の死です。そして、その直後の父親の癌発症です。(手術は無事成功し、現在は元気です)それまで親はいつまでも居ると勝手に妄想していたのですが、現実を突き付けられました。私も親も年をとるのです。その時、「命」とは何だろうか?と真剣に考えました。私の結論は、「命とはエネルギーの盛衰」ではないかと考えました。赤ちゃんは何もしゃべらなくても、周りの人に幸福感を与える正のエネルギーを持っています。それが次第に、少年、青年、壮年という様にエネルギーの色が赤色、青色、灰色と変わっていきます。

人の感情を表す「喜怒哀楽」という言葉がありますが、この中で一番エネルギーを使うのが「怒」です。一生涯のエネルギー量が決まっているのであれば、「怒ること」は命を縮めることに繋がるのです。そこで、私はなるべく怒らない様に、汚い言葉も使わないように気を付けています。また、「忙しい」とは「心」を「亡くす」と書きます。ですから、極力この言葉も使わない様に気を付けています。言葉には力があります。昔から「言霊」と言われている所以です。


当研究センターの協力企業に「学びに引退なし」というスローガンを掲げている会社があります。この言葉を目にした時、私は衝撃を受けました。戦前、戦後を通して日本の教育界の最大の人物と云われた森信三氏の「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず一瞬遅すぎない時に。」という言葉を思い出しました。人間だけでなく言葉も同じではないかと思います。ちょうど個人的に色々と悩んでいた時に、この言葉に出逢ったので、精神的に救われた思いでした。人は生涯学び続けるべきで、時々休んでも、前に進むべきであると気付いたのです。そこで、昨年末に約九年勤めた関東化成工業を辞め、本間先生のご指導を仰ぐことを決心しました。当初は自己都合で退職届を提出したのですが、福原会長、田中社長のお計らいにより、会社都合で退職出来ることになりました。私はつくづく周りの人達に恵まれていると感じました。


 今年の八月上旬、横浜市の工業技術支援センターと共催で行った「最新めっき技術講習会」では、座学と実技の二日間コースを企画しました。実技は実際のめっき液の建浴から数種類のめっき材料を選択し、めっき体験出来るコースとしました。募集人員二十名のところ、数日で定員オーバーする盛況ぶりで、要望が多かったため、九月に再募集するほどでした。実技の経験者が私一人でしたので、学生時代に経験している中丸君と和久田君を招集し(本間先生の下で学位取得)、本間先生、スタッフの梅田さん、学生達と協力して無事に実技を修了することが出来ました。また、裏方として頑張って頂いたスタッフの山田さん、クリスさんや支援センターの方々にも、この場をお借りしてお礼を述べたいと思います。「ありがとうございました!そして、ご苦労様でした!」

 講習会の最終日にアンケートをとったところ、「社会人大学または大学院があったら」の問いに、内容にもよるが通いたいと回答した方々が三五%もおりました。少子高齢化で大学の経営が危ぶまれていますが、社会人も対象にした新しい大学の姿を想像できます。

 表面工学とは、非常に広範な分野であり、私もまだまだ分からないことばかりですが、本間先生はじめ、スタッフの方々や学生達のご指導を仰ぎながら、日々成長して行けたらと思います。最後に私の敬愛する福沢諭吉翁の「心訓」という言葉を紹介したいと思います。当たり前の事ですが、人間として常に意識し、忘れてはならない大事なことだと思います。そして、この七つの心訓には順番がありません。この全てを優先させることが重要と考えています。

一、世の中で一番楽しく立派な事は

一生涯を貫く仕事を持つという事です。

一、世の中で一番みじめな事は

人間としての教養のない事です。

一、世の中で一番さびしい事は

する仕事のない事です。

一、世の中で一番みにくい事は

他人の生活をうらやむ事です。

一、世の中で一番尊い事は

人の為に奉仕し決して恩にきせない事です。

一、世の中で一番美しい事は

すべての者に愛情を持つという事です。

一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です。
 

プラメッキの新しい展開
関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫
 
これまで数回にわたり産学連携のルーツやその重要性をアピールしてきたが、一番重要な研究の進捗について語ってこなかったので、久しぶりに数回に分けて現在の研究の進捗状況を解説することにした。

プラメッキの新しい展開

昭和38年から39年にさかのぼるが中村先生、斉藤先生が中心となられ、本学でABS樹脂上のめっきプロセスが世界に先駆けて工業化された。当時、専攻科から大学院の学生であった私自身もこの開発に携わることができたことについては、これまで何度かに渡り語ってきた。
 プラめっきは、クロム酸や過マンガン酸などの強力な酸化剤を用いて、基板表面にサブミクロンからミクロンオーダーの凹部を多数形成し、絶縁層と導電層とのアンカー効果により密着性を得る方法で当時としては画期的な方法であった。しかしながら、六価クロムを含むクロム酸処理や過マンガン酸は人体への影響や環境への負荷などの問題点が挙げられていた。
 さらにこのプラめっきが工業化された直後の今から45年くらい前になるが、プリント基板の回路形成はサブトラクティブ法といわれる銅張り板にインクで回路を形成しインクの付着していない銅の露出している個所をエッチングして100ミクロン程度の回路を形成する方法が主流であった。
  40年くらい前になるが、ECSというアメリカの電気化学関連の論文誌にUV光を用いて選択的に回路を形成する方法が掲載されていた。それによるとマスクを用いて100ミクロン程度の回路を描く手法であった。これは面白いと当時の学生と、さらに細かい回路形成が出来ないか挑戦することにした。しかし樹脂材料に密着性の良好な金属を成膜するには先に記したように、ミクロンオーダーの凹凸をエッチングにより形成する必要がある。当時は半導体の最小線幅は1ミクロン程度で光学メーカーとレジストメーカーにお願いして石英に1ミクロンから100ミクロン程度の解像力パターンを作成していただいた。
  石英のマスクパターンを介して選択的にUV光を照射して樹脂表面に1ミクロン程度のパターンを形成することは、これまでのミクロンオーダーでエッチングした表面では不可能である。そこでほんの数秒間だけABS樹脂をクロム酸のエッチング液に浸漬することにより、密着を犠牲にして1ミクロンの回路が形成できるかトライしてみた。
 UVの照射時間やそれに続く前処理条件を変えながら無電解めっきをしていると、ある条件できちっと回路が浮かび上がってきた。しかし密着を犠牲にしているので、めっき後の洗浄で回路はすぐに剥離するものと思っていた。しかし、洗浄後も回路は剥離せず1ミクロンまで回路を形成することが出来た。これがきっかけとなり、その後UVを用いて微細回路形成の実験に着手することになる。
 そこでこの偶然の発見がヒントになり平滑な樹脂材料へのめっき法を検討してきた中で、本号ではフレキシブルやフイルムベースへのUV照射による平滑面への高い密着を得る手法について報告する。

平滑面へ密着性に優れたプロセスの進捗

昨今の情報ネットワークの進歩は目覚しく、取り扱う情報は大容量化・多様化しており、その伝送速度はより高いBit Rateを扱うことにより、演算処理を行うMPUクロック数も高くなるため、通信速度の高速化が求められている。
 また、通信分野においては高度情報化社会に対応するため、通信周波数の高周波化が進んでいる。信号伝搬速度は基材の比誘電率が小さいと速くなる。また、伝送損失は周波数が高くなるにつれ大きくなり、また誘電正接が小さいほど高周波領域では小さくなる。このことから、今後の高速伝送、高周波領域に使用されるPCB、FPC基板には低誘電率(低ε)、低誘電損失(低tanδ)および低吸湿性など優れた特性を持った材料が求められる。
 一方で、基材の特性だけでなく、誘電体損の原因の一つとして回路の平滑性が挙げられる。これまで金属/基材間の密着を得るために数μmの凹凸を過マンガン酸処理などで形成されてきたが、高周波対応や信号品質の向上(伝播速度の向上や低伝送損失など)が求められるようになり、表皮効果の影響が無視できなくなっている。
 このような背景から、今後求められる高速伝送、高周波基板の製造においては、優れた材料特性を持った基材上に、基材と回路の界面が平滑な回路の形成が理想であり、そのためのさまざま研究がなされている。
 しかしながら、平滑回路の形成と良好な密着力の導体形成は相反するため、基材および導体形成技術においてこれまでにない技術開発が必要とされる。
 我々はめっき前処理として、従来の材料表面の粗化および表面修飾の代替法として、先に述べたように大気下にて材料表面にUVを照射することで、表面を粗らすことなく密着性に優れた密着層形成の可能性に注力してきた。
 優れた電気特性を持つ材料としてポリテトラフルオロエチレン(以下、PTFE)が挙げられるが、PTFEは化学的に極めて安定な材料であり、密着を得るための表面修飾手段としては金属ナトリウムの処理が採用されているが極めて危険であるし、成型性が悪く、高価である。さらに、廃棄後は焼却時にフッ化水素ガスが発生することなどから産業廃棄物として取り扱われている。
 そこで、次世代の高速伝送、高周波基板材料としてPTFEに非常に近い電気特性を持ったシクロオレフィンポリマー(以下、COP)と、また現在最も広くフレキシブル基板材料として用いられているポリイミドの代替として、より優れた電気特性を持つ液晶ポリマー(以下、LCP)へのUVを用いた新規のプロセスについて着目してきた。特にCOPに関してはUV照射以外に、プラズマ処理、薬剤エッチング、エキシマレーザー、コロナ放電などについても検討を行ってきたが、その中でも大気下でのUV照射が最も良好な結果が得られた。
 本手法の基本的な工程としては①UV照射、②脱脂、③触媒化、④無電解めっきの4工程から構成されている。エッチング工程をUV光照射に変えるだけでほとんどこれまでの前処理を変える必要が無い。また、UV照射後、表面の状態にはほとんど変化は認められず、断面観察から絶縁層と導電層の間に20から100nm程度の析出させた金属と樹脂の混合層が確認され、これが密着に大きく寄与していることが分かった。さらにUV照射によるこの混合層形成のメカニズムを解明するため、最新の分析ツールを用いて調べた結果、大気下にてUV照射することで発生するオゾンおよび活性酸素により、材料表面の最外層の分子結合が切断され低分子化されていた。この反応は時間経過とともに材料内部に進行していき、続くアルカリ脱脂処理によって一部の低分子化された化合物が溶出し、改質されたナノサイズの隙間内部から、めっき反応が進行していることを確認した。当初は密着性は満足できる値が得られなかったが、前処理および無電解めっき液を工夫することで、素材平滑面上に優れた密着性を持った導電層形成が可能となった。
 これまでの一連の研究で、UV照射法によって対応可能な材料、めっき処理の条件、密着強度、密着メカニズム、反応機構が、明らかになっている。次号ではUV以外のさらに環境に優しい方法の最新の検討結果を報告する。