過去の雑感シリーズ

2012年

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ホウ素フリー電気ニッケルめっきの進捗
関東学院大学
本間 英夫 
 
今月号は前号に引き続き、環境に優しい研究テーマの進捗状況の解説と、昨年12月に行った神奈川県と財団法人神奈川科学技術アカデミー(KAST)が共同で実施している「なるほど!体験出前教室 (神奈川県研究者・技術者等学校派遣事業)」のボランティア講師として、県内の中学校でめっき体験授業を行ったので紹介する。

ホウ素フリー電気ニッケルめっきの進捗

ホウ素フリーが叫ばれ始めてからずいぶん時間が経っているが、その対策としては未だに悩んでいるメーカーが多いと思われる。当研究センターでもその問題を解決すべく多くの実験を試みてきた。しかしながら、これが真打と呼べる解決策のない状況で、研究員の田代君らがこの改善法を検討していた。

現状のワット浴があまりにも世の中に浸透しているため、その研究自体が無駄であるとさえ考える周囲の意見が多くあった。しかしながら、水質汚濁防止法では2001年に排水規制が10mg/Lで規制され、対応策が固まるまでとして、2010年まで暫定策でめっき業者への緩和策が示されていた。

現在では使用地域、排水場所(海洋投棄、下水道への排水基準、土壌浸透)、総量、業種によって細かく基準値が分れて規制され、以前とは異なり、ホウ素に対する排水管理を徹底しなければならない点で大きな変化がもたらされた。また、めっきは特殊工程であるがゆえに、工程や薬液などの変更は簡単には出来ず、どのメーカーもその対応には苦労をされていると推察できる。

ニッケルめっきはクロームめっきの下地としての耐食性、電化製品の筐体や半導体部品のはんだ付け性の確保に欠かせないものであり、工業的にも重要な役割を果たしている。90年以上前から使用されてきたワット浴に匹敵する、あるいはそれ以上の性能を示すホウ素フリーの電気ニッケルめっきは、スルファミン酸ニッケルと酢酸から見出された。この概要をめっきの開発姿勢という観点からしてみたい。

電気ニッケルめっきに有機酸を添加する、ホウ酸を代替とする提案は1990年代のホウ素規制の際に多く報告されたが、臭気の問題等により、その性能について深く検討されることが少なかったように思われる。本研究は酢酸のみならず、他の有機酸のクエン酸浴などの確認も並行して行い、実験を進めていった。その間に長年使われ安定しているワット浴を超えるものは早々考えられるものではない、先達の結果を無視するのかと、小生からも酢酸浴での開発は不適であると指摘したほどであった。しかし、スタッフの田代君は酢酸のバッファー性の良さから絶対に安定しためっき膜が得られるのではないかと信じ、諦めずにその研究を継続した結果、後述するようなワット浴では得られなかった優れた性能を見出したのである。

イエスマンだけを周囲に配していては、決して成し得なかったことだと思う。当研究センターのスタッフは、それぞれユニークな個性を持っている。その個性を見極め、生かすことが出来なければならない。




金属表面技術誌に載っていたベル研での金めっき添加剤の発見の経緯を沖中裕先生が情実たっぷりに書かれていた話は私を初めスタッフは大好きで、いつも素直な気持ちで前向きにことを進めなければいけないと思っている。ベル研のある研究者が金めっきの研究をしている際に、突如として良いものが出たり出なかったりした。どうしてもその原因が分らず、何度も何度も繰り返し研究していたところ、ビーカーに時計皿の蓋をした際に、結晶性の良くなることがあることに気付いた。その原因は時計皿に含まれる鉛であることが分り、鉛を添加することを試みたが安定せず、同様な性質を持つ金属を何種類も添加し、最終的にタリウムを添加し、安定且つ、良好な結晶性の金めっき膜を得ることに成功したという話だった。既にその文献と出会い、25年以上経っているが、ベル研の研究者が、そのような地道で前向きな研究により、物事を発見していった経緯を知った時、研究者は皆同じ感覚を持っているのだなと励みになったものである。

今回の酢酸浴の開発においても同じような研究心が良い結果を招いたのではないかと思う。採取が難しい松茸にちなみ、「キノコ(松茸)は千人の股をくぐる」という。新発見とされた事例は実は再発見であって、「発見とは、誰もが見ているものを見て、誰も考えなかったことを考えることである」と言われる。

先達が綿密に研究しているので、そこには新しい発見は最早、見いだせないと、決めてかかるのではなく、諦めずに虚心坦懐に、事にあたることが大切である。

エンジニアの方々には、前向きに技術開発に励まれるよう願っているし、スタッフ一同応援したいと思う。

ここで、今回開発した酢酸添加のニッケルめっきの優れた点についてご紹介したい。


一、浴pH緩衝性が優れている。
   (pH4での緩衝性はワット浴の二倍、水酸化ナトリウム溶液添加より換算) 
 二、めっき応力はワット浴と比較して低い。(ワット浴より50~80%。)
 三、ピット発生が極めて少ない。(ワット浴よりも優れたピット抑制力)
 四、均一電着性に優れる。(ワット浴よりも30%程度良好)
 五、高電流密度でのめっき析出性が優れている
   (撹拌、ニッケル濃度調整で200A/dm2以上でのめっきが可能)
 六、硬度はホウ酸浴、クエン錯浴と比較して低い。(200~350Hv)
 七、はんだ濡れ性が良好(ワット浴と同等)


ラインでの連続作業で評価頂いた中では、均一電着性、析出速度について従来のワット浴と比べ大きな改善効果のあることが報告されている。

「薬液の建浴例」
 スルファミン酸ニッケル四水和物 400g/L
 塩化ニッケル六水和物 5g/L
 酢酸 20g/L
 浴温 65℃


 
現在、めっき膜の応力や析出効率の点について継続的にテストを行っている。今後はレジストを使用して加工することを踏まえ、中温(30~50℃)での検証を進める予定である。

 
その評価項目としては、①超高速性、②均一電着性、③結晶安定性、④折り曲げ性、⑤はんだ付け後の恒温放置後の強度変化、⑥耐食性、⑦ボンディング性(金あるいはパラジュウム下地として)、⑧樹脂密着性等である。

 
今後も継続的に評価を続け、必ずやホウ素フリーで、均一電着性と高速めっきの更なる向上が実現されると確信している。



「なるほど!体験出前教室」


この事業は、優れた技術、経験、知識等を有する研究者、技術者等の方々を講師(ボランティア)として県内小中学校・特別支援学校に派遣することにより、未来の科学技術における人材育成を目指すプログラムです。生徒ひとりひとりが体験的な授業を受けることにより、科学技術やものづくりに対する興味・関心を喚起することを目的としています(講師用実施手引きより)。

昨年の12月中旬、神奈川県とKASTから依頼され、表題のめっき体験授業を平塚市のある公立中学校の2年生を対象に行った。生徒数は1クラス約40名で3クラス約120名である。当研究センターのスタッフ・研修生、学生達と山本鍍金試験器の山本渡氏、秋山氏、小岩さん(旧姓小山田さん)の合計18名で生徒達に対応した。

皆さんは、「ボランティア活動保険」をご存じだろうか。ボランティア活動中の様々な事故による怪我や損害賠償責任を補償するもので、社会福祉法人全国社会福祉協議会がとりまとめている。KASTより必ず加入する様に連絡を受けたが、僅か数百円で最長一年間の補償期間があるので、ボランティアグループに所属されている方はご検討頂ければと思う。

当日の授業は二時限分と休憩を入れて約100分。先ず、小生の小学校低学年の頃に科学に目覚めた事や、iPAD等を使用してのめっき技術の重要性を話し、スタッフのクリス君、山本鍍金試験器の小岩さんからも生徒達の前で自身のめっきとの出会い等の話をして頂いた。その後、教壇で銅・ニッケル・金めっきの実演を行い、各10班に分かれ、鉄上の銅置換めっき、ハルセル黄銅板上に自分の名前を書く筆めっき(銅めっき)、不導体のCOP上に無電解ニッケルめっきを体験してもらった。最近、草食系男子という言葉を耳にするが、この中学校も女子生徒の方が全体的に元気であった印象が強い。今回のこの体験授業により、一人でも多くの生徒が科学(めっき)に目覚めてくれることを祈っている。

めっき化学に出あったのは
関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間英夫

研究員 コルドニエ クリス
 
今月号では、昨年の四月から研究センターの研究員として正式にスタッフとなった、クリス君の自己紹介と、前々号に引き続き、プラめっきの新しい展開としてUV以外の環境に優しい研究の進捗状況を紹介する。以下は彼の書いた文章に少しだけ手を入れた。

めっき化学に出あったのは、一昨年のJR東海在籍時でした。当時、形成したパラジウムの微細パターン上に無電解めっきで数ミクロン~サブミクロンの金属配線形成方法を研究していました。その関係で本間先生に相談させて頂いたのが、先生と私の最初の出会いでした。
 私はカナダの田舎町、カムルプス市で生まれ育ちました。高校卒業後、ビクトリア大学で物理学を専攻しました。卒業が近づく頃、人生の選択肢は就職か大学院進学と考えていました。しかし、どちらを選択するにしても、しばらく時間が掛かるだろうと考えてもいました。次の人生の章が始まる前に、自分の意識・存在している世界を理解し、生き方の視野を広げた方が大切であると思い、一年間ぐらいは言葉・生活・文化の違う国に行き、その生活に馴染みながら、周りの国々を巡るという冒険に出掛けることに決めました。
英会話等の仕事も簡単に出来て、治安が良く、生活レベルもそんなに悪くなさそうで、アルファベットも異なる日本はちょうど都合がよかった。そこで、1999年、日本に飛んで来ました。一年目は英会話を教えながら、日本語と日本人の心(精神)を学びながら、広島県で生活していました。(最初の二ヶ月は名古屋に居ました)もっと日本に馴染みたい心が強くなり、来日一年が近くなった頃、文部科学省の国際留学奨学金のことを耳にし、カナダに帰国するより、日本で大学院に進学することに決めました。

住んでいた福山市に近い岡山大学で、興味のある研究室を見付け、飛び込み的にその研究室の佐竹恭介先生に接触し、その後の5年間、博士前期・後期課程で、佐竹先生と木村勝先生にお世話になりました。その岡山大学では反応有機化学を専攻し、熱狂的に知識と知恵を取り込みました。主にアゼピンとアゼピニウムと言う一つの窒素を持つ7員環物質の反応性、電子移動、合成と特定等の研究をしていました。アゼピニウムとは6π電子を持つ、ベンゼンの様に芳香族特性を示す物質です。この物質から「芳香族性」の意味を更に深く学べ、アカデミアに高価値なテーマと感じました。アゼピン以外には、化学発光と電気発光の研究も行いました。大学での研究環境は結構自由だったので、何かに興味を持ち、やってみたいと思ったら、直ぐに実験をしていました。例えば、発光体の中の自由に回転できる結合を決まった位置で固定した場合は、その化合物の発光スペクトルにどのような影響を与えるのか調べました。また、光触媒とはどんなものか興味を持った時も、酸化チタンを直ぐ購入し、色んな実験を試みました。実際に行った実験で、そのときに良い結果が出なくても、何年後かに過去に気付いたことが役に立つ場合や、違う分野の問題解決につながったことがかなりあります。今、学生に伝えたいことの一つは「経験を積むほど自分の創造力の財産になる、失敗しても無駄な実験経験はない。」やってみると後々意外な価値もでてくる。
アカデミアを育成することは人類のライフスタイルを向上する財産ですが、もっと直接人類に役に立つことが大切と思い、博士課程後期の修了後、企業で活躍したい気持ちになりました。

次の人生章は、JR東海でノーベル賞候補の藤嶋昭先生が指導している機能材料研究グループに所属させて頂きました。その機能材料チームで主に光触媒の研究をしました。その中で平面構造を持つ金属錯体を使用し、新たな金属酸化物膜形成法と金属・金属酸化物の微細パターン形成法を発見しました。他に、独特な光誘起反応を示す、新たな二オブ酸ナトリウム光触媒化合物も発見できました。
機能材料グループでは、定時の間は指定された研究を行い、定時外に自分の意思で価値があると思う研究をする決まりがありました。大学時代と同様に自由に色々な実験ができて、その時に失敗と思われた結果の一部は今の研究環境に意外なところで役立っています。化学以外に、大切な社会経験になりました。

これまで5年間アカデミックな環境で活動し、その後の5年間を企業の環境で活動し、現在はアカデミアと産業界がうまく馴染んでいる環境と考えている当研究センターで活動させて頂いています。私的に今の組み合わせがちょうどいいと思います。2つの世界の合流点で、ユニークな経験が多く、両方の世界がお互いにより多く提供し合い、より強く人に役に立てると考えられます。
現在取り組んでいる研究テーマは多数。その中、フルアディティブ微細金属パターン形成、ガラス・ウエハ・PET・PEN・エポキシ上の、環境に優しい高密着めっきとダイレクトパターニング、めっきの添加剤合成、自己触媒性無電解金と銀めっき浴を研究させて頂いています。
人生が進むほど、今まで出会った人にお世話になったことを少しずつ意識し、人生が進むほど周りに感謝が増します。このサイクルで仕事のやる気も自然と増します。これが、仕事を手間ではなく、活き活きとできる様になる私の秘訣です。

子供の頃から自然界に興味津々でした。記憶がある限り、石、花、葉っぱ、空、色鉛筆、色々な溶液、の色はどういう仕組みでできているのか。庭に咲いたハーブ、発酵しているもの等の匂いは、元とどのように関連するのか。様々な機械はなぜ動くのか。氷は何で融けるのか。何故マッチを擦ると火がでるのか。質問が多すぎて、自身の納得する答えがみつからなかった。その時、いくら化学的に説明してもらっても、化学の基礎を理解していないと関連できない。
そこで小学生の頃から、手に入る物で、色々な実験をやりだした。お父さんは地質学の専攻で、大学院博士前期課程を修了していた。色々な石を集めに連れて行ってもらい、不思議な石を沢山持っていた。どの石はどんな環境でできたと、石から地球の歴史の読み方を教えてもらった。実際にやってみると、感覚として想像できる。その後、学校で数学と理論が現れたとき、「なるほど!」と簡単に覚えられる。関連があれば理論と数学の理解は簡単。それで、学校ではほとんど勉強していなかった。
10歳の頃、従兄に硝酸カリウムと過塩素酸塩を含む多数の薬品をもらいました。その薬品で金属、金属イオンと塩基の電位の違い、酸、アルカリ、pH、イオンと配位結合等の感覚をつかめました。その頃から知らずに、置換めっきを行ってよく遊んでいましたが、水素の発生方法や火薬になる組成も自ら発見しました。いい経験を重ねて、化学がとても面白くなりました。

小学生の頃から「化学者」になりたかった。しかし、私の人生で計画通りになったことはほとんどありません。小中学・高校のとき、勉強は好きではなく、中学の頃に溶接を好きになりました。化学者の道から溶接師に向かいました。また、高校最終年の下期に単位取得のため、1年生の物理学授業を受け、アインシュタインの相対性理論に出会い一目惚れしました。そこで、大学では物理学を専攻しました。次のターニングポイントは、日本への旅、日本の大学院に入学、JR東海機能材料チームに就職、関東学院大学材料・表面工学研究センターに転職する決意、全ては予測していなかった道です。しかし、不思議なことに、子供の頃からどうしてもなりたかった「化学者」になりました。そして、本間先生がよく言う「人のいく裏に道あり、花の山」の言葉の信者でもあります。
本間先生と知り合って「裏の道、花の山」、「人生のアイウエオ」等の共感できる話を聞いて、良いところに流れてきたと思いました。自分も他人も世界の技術の向上に貢献できるように、これからも今まで学んだことを他の人に教え、自身も勉強しながら、頑張ってみようと思います。私には研究室、寝る場所と駐車場があるだけで幸せです、収入は家族のためです。

環境に優しい研究テーマの紹介

我々は従来の材料表面の粗化および表面修飾の代替法として、前々号で大気下にて材料表面にUVを照射することで、表面を粗すことなく密着性に優れた導電層形成が可能となることを述べた。本号では、UV以外の環境に優しい研究テーマであるラジカル水およびオゾンマイクロ・ナノバブル水を用いた表面改質法を紹介する。
このラジカル水製造装置(クラボウ製)は、水中に溶存し難いオゾンを数10μmの超微細気泡マイクロバブルにすることで、高効率にオゾンを溶液中に溶解させることができる。更に、独自の紫外線反応塔を組み合わせ、溶存オゾンの全量を最適量の紫外線エネルギーと反応させ、酸化力の強いOHラジカル(ヒドロキシラジカル)へ効率よく変化させている。このOHラジカル自体の寿命は一般的にマイクロ秒と大変短いが、本装置は数分オーダーまで連鎖反応を持続させ、長寿命化を実現している。また、このOHラジカルの特徴として、洗浄時の除菌能力は次亜塩素酸ソーダ水の殺菌効果と同等以上の能力がある。即ち、化学薬品を一切使用しないため、環境に優しい表面改質技術である。工業的には、染色廃液の脱色やダイオキシン類などの難分解性有機物の酸化分解、市販のカット野菜などの洗浄にも使用されている。このOHラジカル水は、先に述べたUVとは異なり、サンプルの形状(凹凸)に関係無く、浸漬や噴射による表面改質が可能であり、経時的にもとの水に戻るので、薬剤などの残留が全く無く、非常に環境にも材料にも優しい手法である。
本手法の基本的な工程としては①ラジカル水処理、②脱脂、③触媒化、④無電解めっきの4工程から構成されている。エッチング工程をラジカル水処理に変えるだけでほとんどこれまでの前処理を変える必要が無いのはUVと同様である。
このラジカル水処理をABS樹脂のクロム酸エッチングに代替したところ、樹脂表面に微細な凹部が多数発現し、処理時間10分で0.6~0.8kN/mの密着強度が得られた。エッチング液やその後の回収・水洗の廃液処理費用の心配が全く無い点も環境配慮型の研究である。

もう一つの環境に優しい手法は、オゾンマイクロ・ナノバブル水による樹脂改質方法である。オゾン水での改質は、オゾン濃度100ppm程度で密着強度の高い皮膜が得られるが、生産性や環境面の観点から低濃度での適用が望ましい。そこで、ラジカル水では10μmであったバブルサイズをマイクロからナノサイズにすることにより、さらに水中にオゾン(1ppm程度)を停留・充満させ、樹脂表面に接触する頻度を増加させることにより、低濃度オゾンでも樹脂表面の改質効果が得られる。この処理をポリイミド樹脂に適用した結果、5分で1kN/m以上の高い密着強度が得られた。本研究は未だ、始めたばかりであり、密着メカニズム等はこれからの課題であるが、学会等で順次発表していくので、今後も注目して頂きたい。

「工学博士の思考法」
関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫 
 
研究者として、教育者として、私は四〇数年間、関東学院大学に勤務してきた。
 四月以降も、材料・表面工学研究所の所長として、産官学連携のさらなる進展のため、重責を担っていく。
五年前に「工学博士の思考法」と題して一冊の本にまとめたが、その後5年間の「雑感シリーズ」の原稿を基に、加筆修正し、日常の研究生活の中で感じたこと、産官学連携プロジェクトを推し進める過程で考えたこと、また、教育を担当する者として学生と交わってきた日々に頭に浮かんだことなどを更にまとめて「教育・研究と産学連携の軌跡」と題して大学の出版局から上梓することになった。
 原稿を読み起こしながら、本書をまとめていくにあたって、私は一つテーマを揚げた。
 それは「次世代に伝えたい言葉」をしっかりと刻もう、というものである。
 私は、閉塞感にある日本の表面処理関連の方々や若い人達にどうしても話しておきたいことを、しっかりと形にしたいと考えた。言葉を厳選しながら作業を進めたが、あれもこれもと、思いは募り、最終的には五十の提言となった。
 多くの人にとって、戸惑うことの多い時代である。日本のものづくりはどこに向かうのか、中小企業の明日はどうなるのか、次代を担う若者に希望はあるのか―。
 しかしながら、このような厳しい時代にも頭角を現す企業は、規模の大小にかかわらず、現に存在する。未来を真に明るくするには、いくつか、意識を大きく変えなければいけないことがある。これまでの方針を見直さなければ太刀打ちできないこともある。
 日本の製造業が、また、経営者を含めた働く人達が、次の一歩を決断をもって踏み出せるにはどうすればよいのか。私なりの考えを、五十の提言に託した。
 是非、ハイテクノの会員の皆様にお読みいただきたいが、ここではその内容を示します。
 第一章は「発想力よりも、時には粘り腰を」と題し、なによりまず伝えたい私の研究哲学、日々の生活理念をまとめた。
 第二章は「大発見するには、鉄則がある」。研究・開発に携わる人、製造部門に従事する人、すべてに読んでいただきたい。仕事に臨む中でこういう考えが大切であろうというポイントをつづった。
 第三章は「動かない組織を、どう動かすか」。経営戦略の要諦から、日常業務での留意点に関して、私の思うところを述べている。
 第四章そして第五章は、個人的な経験を含めて、私が教育と研究の生活をおくる中で思索を巡らせた数々をまとめたものである。とりわけ第五章は、若いみなさんにぜひ目を通していただきたい。ものづくりに携わりながらも迷いが出ている経営者や若者に向けて、私なりの励ましであり、アドバイスでもある。
 「最終講義」と題した最終章では、私の研究人生の軌跡をお伝えしながら、今後のものづくり、産官学連携のあり方について、私の考えを記している。
 本章につづった五十の提言のいくつかでも、みなさんの仕事生活に向けたヒントなり、明日への活力につながってくれればと願っています。

幻の原稿

本号が皆様に届く少し前、三月十日に最終講義を行うが、それ迄に出版できる様、原稿のチェックをしているところである。大学からの出版になるので次の原稿はカットされた。一般の出版社から個人の資格で出版する場合は問題なかったのであるが、その幻の原稿をそのまま紹介したい。

編集後記

表面工学の権威にして、熱血の教育者としても知られる、本間英夫先生の最新刊が出来上がりました。
 先生がおまとめになった五十の提言。最初から順にたどっていってもいいですし、興味を惹いたところから読んでもいい構成となっています。迷いが出た時、すぐに助けとなりそうな提言もあれば(富山弁混じりで叱咤する本間先生の声が聴こえてきそうです)、頭の中にとどめておくと、ある時に大きな支えとなってくれそうな提言もあります。
 本書を編集するにあたり、本間先生と二十年近くの交流がある、中小企業の経営者の方とお会いしました。もちろん今も、先生が力を注いでおられる材料・表面工学研究センターの活動を支えるなど、親しいお付き合いを続けている方です。
 この経営者に「本間先生とはどのような人ですか」と伺ったところ、語ってくださった本間先生像が実に明快で、先生の行動哲学がそこからじわりと滲み出てくるかのようなものでした。本書の解説に代えて、ここでご紹介します。その経営者の語った言葉をそのまま掲載することにしましょう。
●分け隔てしない
 私が初めて先生にお会いしたのは二十年近く前です。めっきの研究で強い大学はどこかと調べたら、すぐに本間先生の名を知ることができました。面識は全くなかったのですが、電話をしたところ、「すぐに来なさい」と。私どものような中小企業にも、等距離で接してくれるのかと、驚きました。
●話もアクションも早い
 初対面なのに、先生の対応は極めて早いものでした。私からのお願いは「技術を教えていただきたい」「新卒の学生を紹介していただきたい」というものだったのですが、すぐに答えをくださった。しばらくして、先生から連絡が入り、「欧州への視察に行こう」と先生から直接電話を受けました。この視察旅行で、いろいろな企業メンバーと知り合えたのも、私の財産になりました。また、我が社では、すでに八名もの関東学院大学OBを採用するに至っています。その誰もが大きな戦力です。
●これではいけない、と常に考えている
 日本の産業界はこのままでは沈没する、と先生は日夜、精力的に動いておられます。ものづくりを大切にすれば、日本国内に生産拠点を置いたままでも、まだまだいけるのだ、と先生は強調されます。こうした思いに賛同するからこそ、私たち企業人と先生との交流が長く続いているのだと思います。
●大学再生への思いが強い
 材料・表面工学研究センターは、関東学院大学の一組織です。本間先生は「大学に、この研究拠点を置くことの意味」をいつも仰います。技術者を育てる素地が大学にはある、中長期的な視点に立てば、継続性という意味で、大学がこうした組織をもつことは大きい、というのです。大学の持つ力、大学の魅力を、もう一度復興させたい―先生のそうした信念がひしひしと伝わってきます。
●クリーンである
 こういうお話をするのもなんですが、先生はお金にとてもクリーンな方です。かつて、ご自身の研究功績が認められて賞を受けた時の賞金も、すべて寄付され、基金に回したと聞きました。その一方で、先生は自費を惜しげもなく使っておられる。いつでしたか、大学院生を海外の学会に送り出すために、何人分もの旅費をポケットマネーから捻出していました。だからこそ、いざ、材料・表面工学研究センターを立ち上げるという時にも、この不況下であるにもかかわらず、すぐさま三〇社を超える企業がはせ参じたのだと思います。
●情熱の人
 日本の産業界を育て、人を育てるということに、心底熱心な方です。それは確実に伝わるものです。だからでしょう、毎年の研究室OB会の出席者は、かなりの多数に上っているそうです。それはそうですね。OB会に顔を出せば、そこは表面工学の最前線にいる人達が集う空間なわけですから。 

 以上のようなお話を、経営者の方から伺いました。本間先生は常々、「閉じこもるな」と力を込めて言われます。先生ご自身がいつも外に目を向けていて、数々の企業の困難を救ってきたからこそ、門下生にも、企業人に向けても、こう仰るのでしょう。
 先生は二〇一二年三月、最終講義の時を迎えます。しかしながら、先生の挑戦はこれからもまだまだ続きます。日本がこういう局面であるだけに、先生のさらなるご活躍を待ち望む方は、これまでにもまして多くなりそうです。
 本書を手にした方、みなさんが、明日のものづくりへの希望を見出せますように。
以上が編集後記で幻の原稿となった内容である。大学からの出版なのであまりにも本人を自画自賛しているような内容なので「没」になったわけである。お読みいただいて是非この本書を紹介いただきたい。一般の書店からも購入いただけますが、大学の出版局からの発売となっておりますので、大学の窓口の関学サービスを通して一括購入いただきますと10%割引となります。是非FAXまたはメールで申し込みいただきますようお願いいたします。
是非、企業でまとめて購入いただければ幸いです。

申し込み先
株式会社 関学サービス
TEL :045‐701‐2257
FAX :045‐784‐2462
e-mail:kobai@kk-ks.co.jp
担当者:荒井 光浩

これまでの活動状況
関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫
 
 ハイテクノの会員企業には3月中旬に拙書「教育研究と産学連携の軌跡」を献本しました。
本来はトレンディーの3月号と同時に配布すべきでしたが、一部の方々には混乱を招いたようでご容赦ください。
拙書に示しておりますように大学の研究センターが4月から研究所に昇格しました。
またハイテクノの講師を担当していただいている高井先生は3月末日に名古屋大学を定年退官され4月から本学の大学院教授、および我々の研究所の副所長として着任されます。
当初の計画では小生が本年3月に完全退職になるので、高井先生を所長としてお迎えする予定で大学と交渉してきました。
しかし、諸般の事情により大学としては規約を変えて小生に特別な称号を与え所長として残し、その間産業界の皆様に、高井先生の素晴らしさを理解いただき、いずれは所長に就任いただくのが良いとの結論に達しました。
大学では小生と高井先生には下記のように、これまでの活動状況が紹介されました。
 
本間英夫教授は、無電解および電気めっきを基本とした湿式成膜による機能性薄膜の創製について、過去40年以上研究を続けており、関連学会、公的研究機関ならびに産業界から大きな評価を得ている。
この分野に関して本学は産学協同のルーツであり、本間教授は大学院の一期生として、48年くらい前から当時収益事業として設立されていためっき事業部で研究されていたプラスチックめっきの応用技術に参画し、世界に先駆けてプラスチックめっきの実用化に貢献した。
 この研究成果を皮切りに、助手として本学に奉職してから現在に至るまで、プリント配線板作製のための高密度実装用微細めっき技術の研究開発を精力的に行っている。
この技術は、電子機器の小型化に大きく寄与する技術として世界的にも高く評価されている。
さらにガラス上の金属薄膜形成、平滑基板への密着に優れた薄膜形成および微細配線加工、各種セラミック材料のメタライジング、電鋳技術のMEMSへの応用とめっき技術分野全般の研究開発など多くの功績があり、この分野については、世界的にも第一人者である。
これら一連の研究成果が認められ、表面処関連技術での世界で最も権威のあるワークニック賞、および無電解めっき技術に関する卓越した研究業績が評価され米国電気化学会電解部門研究賞を始めとして、国内関連学会の論文賞、技術賞、神奈川文化賞、その他多くの賞を受賞している。
 この間、工業化学科、物質生命科学科の教員として学生の指導育成にあたり研究室を巣立っていった学生は学部生400名以上、大学院博士前期課程修了者約70名、後期課程修了者20名であり、卒業生は特にエレクトロニクス関連産業界でめっきを中心とした技術者として活躍している。
表面処理技術の応用分野は発展の一途をたどり、プラスチックへのめっき技術は自動車の部品や携帯電話の軽量化に、電子部品製造分野ではプリント配線板の高密度実装・微細化の発展に、さらには半導体のナノーオーダーの回路形成に応用され、これらの技術に大きく貢献している。
本学においては、平成17年から5年間ハイテクリサーチ整備事業のプロジェクトリーダーとして研究を牽引してきている。
また10年前に関東化成工業と表面工学研究所を立ち上げ、さらには本学の研究機構が整備された際に、125周年記念事業として産業界から寄付金を仰ぎ、賛同企業約40社からの研究費をもとに、横浜市工業支援センター内に本学の材料・表面工学研究センターを立ち上げ、神奈川県、横浜市の公的研究機関とも連携し産学官との研究開発に大きく貢献している。
社会および学会活動としては、文科省および経産省化学関連財団理事、経産省管轄公害委員、サポイン委員長、臨時審議委員、特許庁高密度配線板調査委員長、神奈川県技術アドバイザー、環境調和型研究顧問、技術審議委員、関連学会会長、副会長、編集委員長、庶務理事など歴任している。
学内では、大学評議委員、大学院委員長、大学院工学研究科委員長、入試局次長、工業化学科科長、工業化学科二部主任など務め、教育研究の推進に貢献している。
 以上の成果、貢献から、本間英夫教授は材料・表面工学研究センター所長としての活躍が期待され、特別栄誉教授の資格が十分であると認定するに至り、ここに推薦いたします。
 高井治教授は、環境およびバイオに関する時代の要請を先取りして、低環境負荷プロセスによる薄膜形成・表面改質について他の追従を許さない研究を行い、プラズマプロセス、自己組織化プロセスなどによる機能性薄膜・表面の創製に関して、世界をリードする数多くの独創的な業績を挙げてきた。これらは、以下の6つに大別される。


(1)窒化物系エレクトロクロミック薄膜の創製と調光デバイスへの応用

 1982年、世界ではじめて窒化物でエレクトロクロミック(EC)現象が生じることをイオンプレーティングで作製した窒化インジウム薄膜で見いだし、その機構の解明を行った。
本EC現象は、従来のEC材料とは異なり、表面での吸着機構によるため、早い応答速度が得られる。窒化スズ薄膜でも、同様のEC現象を見いだした。
窒化物薄膜では、赤外域においても光吸収の可逆的変化があり、赤外域での透過・吸収の制御へも応用できる。  
現在、可逆的な色変化を用いるスマートウインドウ、サングラス、光学フィルター、電子ペーパーなどへの応用展開をはかっている。


(2)高ガスバリア性硬質・透明シリカ薄膜の低温創製とプラスチック基材への応用

 世界に先駆け、有機シリコン原料を用い、プラズマCVDにより、透明で緻密なシリカ系薄膜の室温付近での低温成膜法を研究した。
硬さがガラスと同等以上の可視域での透明性に優れたシリカ膜をプラスチック基板に被覆し、民間会社との共同研究によりプラスチックの表面硬質化に貢献している。
当初、プラスチックレンズの表面硬質化へ応用され、現在は、自動車、新幹線などの車両のプラスチック・ウインドーにも応用されようとしている。一方、本薄膜は、プラスチック基材へ酸素および水蒸気の透過を軽減あるいは防止するガスバリア膜へと展開され、現在、ペットボトルへ応用されている。



(3)炭素系超硬質薄膜の創製と工具・金型・機械部品・バイオデバイスへの応用

ダイヤモンド・ライク・カーボン(DLC)、アモルファス窒化炭素など炭素系超硬質薄膜の作製を研究し、DLCの産業界での普及に多大な貢献を果たした。
民間企業との共同研究により、DLC膜は、当初、赤外域での反射防止膜へ実用化され、今では自動車部品に広範囲に使用されている。
また、プラズマプロセシングを用い、各種窒化炭素膜の作製を行ってきた。開発された炭素系薄膜は、生体適合性に高く、現在では、工具、金型、機械部品などへの応用のみならず、バイオ関係の製品に応用されている。




(4)希土類金属窒化物薄膜の創製と耐摩耗部品への応用

 希土類金属の窒化物については、ほとんど研究がなされていなかった。
窒素アークプラズマ中へ希土類金属を電子ビ
ーム法で蒸発させ、その窒化物を合成する手法を確立した。
セレン、イットリウム、サマリウムなど各種希土類金属の窒化物を合成し、その組成、構造、物性を明らかにした。
この内、窒化セレン、窒化イットリウムは、硬度が窒化チタンより高く、耐摩耗性に優れていることが判明し、機械部品への適用できる。




(5)透明・超はっ水薄膜の創製と光学・自動車部品、バイオ・電子デバイスへの応用

 希土類金属の窒化物については、ほとんど研究がなされていなかった。
窒素アークプラズマ中へ希土類金属を電子ビ
ーム法で蒸発させ、その窒化物を合成する手法を確立した。
有期シリコン化合物を原料にして、マイクロ波プラズマCVDにより、透明で、かつ水滴接触角が150度以上の透明・超はっ水薄膜の創製に世界ではじめて成功した。
この薄膜の堆積は室温付近の温度ででき、耐熱性に弱いプラスチック、紙などをはじめ、半導体、金属、セラミックス、ガラスなど多くの基板に作製できる。
現在、光学・自動車部品、バイオ・電子デバイスなどの製品に応用されようとしている。
また、超はっ水領域/超親水領域のパターン化基板を作製し、プリント基板回路形成、ナノ/マイクロ粒子選択的集積、細胞アレイ・毛細血管形成、三次元立体細胞培養などさまざまな分野へ応用している。


(6)有機シラン系自己組織化単分子膜の創製とナノ・マイクロパターニングへの応用

有機シラン系自己組織化単分子膜を、CVDを用いて形成する手法を発展させ、産業界への応用展開を進めている。
当初、基板の大きさが1 cm角、堆積温度100~150℃、堆積時間1~2時間であったのを、触媒を使用する方法を開発し、現在では、A2サイズの大面積基板に、室温付近で、1分間で堆積させることが行える。  
本単分子膜をレジストとして用い、パターニングを行い、シリコンのエッチング、金属ナノワイヤーの形成、ナノ粒子の位置選択的析出、DNA・細胞アレイの形成、人工細胞膜の作製、書き換え可能な分子メモリーの作製など、幅広い分野で応用できることを実証した。
 以上、高井治教授は35年以上にわたり、一貫して各種機能性薄膜・表面の創製と応用に関する研究を深い洞察力を持って進め、その成果は極めて本質的・独創的であり、また、提示されたデータやモデルは、世界中の当該研究者にバイブルとして用いられている。
特に、各種機能性薄膜の開発手法の発明、また開発した機能性薄膜の実用化を達成したことなどは、薄膜研究の歴史に残る世界に誇るに足る卓越したものである。
これらの業績は400編を越える学術論文として刊行されている。
高井先生は、上記の功績により、永井学術賞(1998年)、表面技術協会論文賞(2000年)、同協会賞(2006年)、日本学術振興会プラズマ材料科学賞(2000年)、アルゼンチン共和国原子力委員会(CNEA)功績賞(2007)、国際協力機構(JICA)理事長表彰(2008年)、韓国表面工学会功績賞(2010年)、英国物理学会フェロー(2004年)、応用物理学会フェロー(2009年)、文部科学省政策科学研究所・ナイスステップな研究者2010(2010年)など数多くの賞を受賞している。
 上記のように、高井 治先生は、材料・表面工学分野において、世界を代表する研究者として活躍しておられ我々の研究所の副所長として先ずは着任いただきますが、今まで手掛けてきためっきを中心としたウエットプロセスにドライプロセスの研究開発が加わり研究所の昇格に伴ない21世紀を担う技術提案を進めていく。
 

特許と私
材料表面工学研究所
山田忠昭 
 
  研究所の事務局長をお願いしている山田さんは特許の業務に極めて明るい方である。そこで今月号では御本人の自己紹介を兼ねて特許に関する内容に言及して頂いた。(本間)

 新入社員研修は鉄鋼所らしく、塩をなめなめ転炉から湯を汲む作業が徹夜で行われた。まさに、熱射地獄の洗礼で始まった。
 研修が終わって、私の初仕事は超高圧発生装置の実用化であるダイヤモンド合成であった。
超高圧発生装置は、国の助成金で作ったもので、サイコロ状の圧力媒体を六方向から加圧するタイプであった。 数千気圧では圧力媒体は液体を使用するが、ダイヤモンド合成のように数万気圧が必要なものはパイロフェライトという鉱石を使う。
六方向から圧子(アンビル)によって、圧力をかけるとパイロフェライト鉱石はアンビルの隙間からはみ出てきて、ガスケットを形成し、圧力を内部に留める。
ダイヤモンド合成は、この圧力下で、カーボンスリーブにカーボン粉と触媒となるニッケル粉を混合して入れ、スリーブに電流を通すことにより、高温を発生させて行われる。 出来たダイヤモンドは宝石のダイヤモンドとは似ても似つかない、針状の結晶である。
この結晶形状の特性から、現在の工業用ダイヤモンドは天然ダイヤモンドを使用せず、人造ダイヤモンドが使用されている。 しかし、ダイヤモンドというとやはり宝石をイメージするのが一般的であり、私も宝石用ダイヤモンドを作ろうとしてみた。 製造方法は数千気圧で製造される人工水晶を模倣し、圧力媒体内部に温度勾配をつけて、種結晶を成長させる方法を超高圧下に取り入れた。
高圧下で温度勾配をつけた小さな炉を作り、低温部に種のダイヤモンド結晶を置き、高温部にクズダイヤモンドを配置した。そして、数日間、圧力と温度をかけた。
ところが、これが非常に危険な実験であった。
ダイヤモンド合成は高い圧力と温度が必要であるため、圧力と温度に耐えかねてアンビルが破損することがあった。
アンビルはタングステンとモリブデンの焼結合金であるが、高圧で破壊すると鉄板を突き破るほどの威力で飛び散る。特に、数日間、圧力と温度をかける実験では、徹夜で装置のそばにいるわけであるから恐怖の実験であった。
無事に実験を終了させ、種ダイヤモンドが大きく成長していることを期待しつつ、種ダイヤモンドを取り出して観察すると、ダイヤモンド表面に美しい逆三角錐の模様が多数観察された。よくよく観察すると種ダイヤモンドは溶け出し、表面に蝕孔が出来ていたのであった。
勿論、これは失敗した実験例であるが、工業用の人工ダイヤモンドの製造方法を確立させ、特許も出願して、工業化のための企画書を提出した。
しかし、当時、会社は二億円程度の企画書など鼻にも引っ掛けてくれなかった。
そのようなこともあり、麻耶山の中腹に位置し、自然そのものの中にあった研究所も、自分の我が儘で、辞めさせてもらい、自宅近くにある溶接棒事業部に移籍させてもらった。これを手始めに、後述するように、職場を転々とした。
 ふと、この原稿を書きながら書斎の上を見ると、基礎研究所を離れるときに所長からいただいた「誠意と努力」という色紙が目に入ってきた。
 移籍を願い出たとき、所長は「お金のことなら無利子、無担保、無催促で四〇〇万円貸す」と言われたことを思い出したが、今思うと阪神・淡路大震災が起こったのであるから、移動してよかったのかもしれない。
さて、基礎研究所から移籍させていただいたのが、溶接事業部であった。ここは全社のシェアーの五%しか売上げがないが、溶接業界では五〇%のシェアーを維持し続けているところである。
その事業部の特色は開発に人一倍お金を注いでいたことである。私が転籍したころ、一般的に開発費は多くても三%という時代に、売上げの八%以上という開発費を使っていた。 ここの研究システムも少し変わっていたのでご参考のためにご紹介したい。
研究員は実験をプランする。プランされたものは自動的に試作課のスタッフがプランに沿って、データを出してくれる。
従って、我々に課せられた主な仕事はプランすることと、出てくるデータをもとに報告書を書くことである。従って、失敗した実験も克明に報告されるシステムが構築されていた。従って、後任者は、まず、先輩の報告書を読むことから業務が始まる。これらの報告書から、自ずと、特許が作成されていった。 私が溶接棒事業部に移籍してからしばらくして競合会社との間で特許戦争が始まった。
溶接棒事業部の特許室はしっかりしており、常に他社の特許をウオッチしているので、関連部署につぶす必要がある特許を割り当ててくる。
当時は全て手めくりで調査しなければならなかったので、一旦、この仕事が回ってくると、霞ヶ関にある特許庁に出向き、地下の売店で指サックを購入し、特許庁に保管されている資料を棚から取り出し、多量のページを捲った。まさに、後ろ向きの作業であり、膨大な時間のロスが生じる。
そんな後ろ向きの作業をするくらいなら、特許を出願する手間の方がはるかに楽であるし、競合相手に時間ロスを生じさせることを強要した方がよいという考え方を徹底的に植え込まれた。
そうこうする内に、競合相手との競争は熾烈を極め、競争相手の出したすばらしい製品に対抗するために研究チームは、毎晩十二時過ぎまで実験を続けた。しかし、一向に芳しい結果は見えてこなかった。
そして、ついに私は競合会社の製品を徹底的に解析し、そのデータをもとに特許を出願した。従って、競合会社の製品は私が出願した特許に引っかかるのは当然である。
特許が公開になると、しばらくして、競合会社からクロスライセンスの申し出があった。
この話はもう時効であろうから、ここに懺悔的に書かせていただいたが、特許とはどんなものかを知っていただきたいと思って書かいた。
従って、特許出願もしていないのにサンプル提供するとどのようなことになるかは皆様が考えていただけたらお分かりいただけると思う。
開発部の次は製品を管轄している技術部、そして、基礎研究部と移籍していく。
私のメインテーマは溶接の基礎研究で、大阪大学を中心に名古屋大学、東京大学とお付き合いしながら、学会活動を行った。 テーマはなぜ溶接のとき火花(スパッター)が飛び散るのか?溶接ワイヤはなぜ不規則に送給されるのか?溶接アルゴリズムなどであった。
勿論、この研究が溶接棒事業部のワイヤ材料開発や新しい分野の溶接機開発に大いに参考になったと自負している。ここでは日本の基礎研究について話したいところであるが、紙面の関係で割愛する。
溶接棒事業部で私が担当した接合方法はノンガス、炭酸ガス、MIG、プラズマ、ろう付、摩擦圧接、超音波、電子ビームやレーザと転々とした。そのお陰で、色々な金属に接することができたのは幸いであった。
一例を挙げると、原子炉の燃料を被覆するジルコニウム管のプラズマ溶接による高速化であり、リニアモーターカーの送電関係に使うアルミと銅の摩擦圧接やドイツのシュタイガーバルトの電子ビーム溶接機を用いて超電導用ビレットの真空封止に使った。また、社長賞を取ったのが超電導ローター用のインコネルの補修溶接材料の開発であった。
これらの技術開発は全て特許とかかわりを持っていた。
特許は、皆様よくご存知のように、強い特許と弱い特許がある。例えば、アルミと銅の摩擦圧接を例に取ると、特許を回転数や押し付け圧力などの製造方法でも取ることは可能であるが、現物で分かることが強い特許にするためのポイントであるため、接合部を切断し、丹念にSEMやEPMAで調べて、界面に非常に薄いが金属間化合物が存在していることを確認し、その厚みを規定して特許を取った。
さて、特許作成は、慣れれば、さほど時間はかからない。私でも多いときは年間十件以上の特許は出願していたことがある。 ちなみに、五年前に戦略的基盤技術高度化支援事業でプロジェクトリーダーをさせていただき、二・六億円の資金をいただいたが、プロジェクトリーダーの紹介を書くときに特許について記入する欄があり、当時、研究畑を離れて十五年が経過していたが、まだ五件の特許が生き残っていたので何とか形になったことを覚えている。
溶接棒事業部から次は、通産省の外郭団体である財団法人に出向した。ここは技術者としてではなく、お役所相手のお仕事であった。
ここで私は、お役人のすごさを目の当たりにしたのは収穫であった。それまでは、新聞を読んで、お茶をすすって一日を終えるのが、お役人と思っていたが、本庁のキャリアーは、まるで、イメージが違い、日本を背負っている気概に溢れ、頭がよく、働き者の集団である。
財団法人では、金型の技術を後進国に政府開発援助(ODA)を行った。勿論、通産省、外務省、JICA、JETROや多くの企業の方々にサポートされながら、中国、香港やシンガポール等に技術者を派遣するお手伝いをさせていただいた。 今、思うと、二〇年前の日本は世界技術の最先端を走っていたような気になっていた。
しかし、現在はODAで援助していた国々に抜かれ、日本国内に空洞化が目立ってきた。まことにさびしい限りである。 しかし、今から二〇年前に、日本が空洞化することはすでに予測され、その調査を行うように通産省の担当課長から仰せ付かった。新聞情報をもとに分析した結果からも、現状が当然といえば当然の成り行きのような気もする。
日本に残る企業が今後どうするかは、各社将来を予測し、それに対応していく必要があろうし、開発なくして企業の存続はないというのが持論である。
財団法人の次はいままでに経験のない、環境関係会社の営業職であった。
今思うとこの時代が、自分を最も鍛えてくれたし、大変楽しい時代だった。同時に、趣味として、従来の囲碁や釣などに加え弓道を行うことも出来たことはラッキーだった。 今でも、その時の友達との付き合いが続いており、定期的に会うようにしている。
今月もそのうちの一人が、十年前にNECを退社したのを機会に箱根の金時山の麓に移り住んでいる。彼はすでに三〇〇〇回以上金時山に登っており、私も定期的に金時山に登るときに車を置かせてもらっている。
登山は五十五歳になってから本格的に始めたが、初心者同士で始めて八ヶ岳に登り、それから奥穂高、槍ヶ岳などにも登った。
富士山は、やはり日本一の山であるので、一生に一度は登っておきたいし、通勤時に江ノ電の車窓から見える山なので、逆に富士山の頂上から七里ヶ浜を見てみたいと思っている。
環境関係の次はめっき業の会社であった。
そこで与えられた仕事は特許業務と助成金業務であった。
ここで特許業務を十三年間行った。今までのように特許を出すことばかりではなく、特許を管理することになり、特許をより広範囲に見る必要があった。
たとえば、拒絶予告の対処は勿論、補正手続きも自分でおこなう必要があり、特許以外にも契約書類、意匠や商標などの知識も必要となった。
そこで、特許庁が行っている講習会に頻繁に参加させてもらったし、(独)工業所有権情報・研修館が行っていた特許流通促進事業で特許流通アドバイザー養成の講座四コース全てを受講させていただいた。この会社が教育に理解のある会社であったことに感謝している。
助成金業務は在籍の十三年間取り続けることが出来たことはラッキーであった。
その中の一つに科学技術振興機構の三億円の助成金があり、無事受託できたが、本間先生に大いにお世話になった。
そのご縁もあり、また、戦略的基盤技術高度化支援事業の助成金のときにもお世話になった。また、そのときご一緒した学生さんのご縁もあって現在、関東学院大学の材料・表面工学研究所にお世話になることになった。まさに、ご縁であり、お蔭様である。
現在、研究所では材料・表面工学研究所知的財産の取扱い覚書で特許を運用している。その骨子は研究所単独又は企業と共同で開発した案件を研究所(大学)の単願とすることである。これは大学でパテントプールすることで、研究所の会員企業の皆様が特許を使いやすくすることを意図としている。
私としては将来、関東学院大学がMITのように企業から頼られる骨太の大学になることを願っている。
現在の私が、学生さん、企業の皆様やスタッフの方々にこれまで私が蓄積してきた情報や技術を少しでも伝えられれば望外の喜びである。
最後に研究所で皆様と語らう楽しみを与えてくださった本間先生に深く感謝申し上げます。

研究所のその後の展開
関東学院大学材料・表面工学研究所
本間英夫

 
国立大学では数年前に法人化されて以来、自ら大学が企業や市場ニーズに沿って、研究活動に力がそそがれるようになってきた。したがって産業界のニーズを意識して研究が実施されるようになり、研究によっては事業化につながる可能性は高くなり企業側も大学の知を活用するような機運が大きく盛り上がってきている。
これは学生にとっても、より実践的な研究開発を通して力をつけることになり、教育や研究という観点からも有効な手法である。我々はこの様なスタンスで実学的な内容を中心に学生を育てるよう研究活動を進めてすでに40年が経過している。ただいつも研究を推進するに当たって念頭に置くことは大学が企業の下請けとなり研究をするのではなく、我々が積極的にこれからの高度技術の基礎から応用に至る研究活動を大学から発信していくという意気込みと使命感を常に意識している。
多くの地方大学では、地域の産業活性に貢献する役割を担うようになってきている。企業と大学側が共同研究を行い企業側にとっては利潤を追求するという従来の産学官連携の枠組みから研究室に企業の人材を派遣して技術者を育成したり、大学側が人材育成セミナーを開催して企業経営者の後継者を育てると言ったプログラム展開である。これまで20人のドクターを育ててきたがすべて社会人ドクターである。マスターには80人くらい育ててきている。彼らの多くは就職した後、企業からマスターやドクターのコース生として研究所にて研究に勤しんできている。
さらには大学の研究機関の役割としては、産業界でコンソーシアムを構築し「企業間連携」を推進することも重要になってきた。
産学連携において大学側は一企業の利益につながる研究ではなく、関連領域の産業界全体に貢献できるようなテーマーを選択し、そのような体制を維持していくことが産学連携の公正で大学としては重要な役割である。
企業経営者は、世界経済の低迷、超円高、震災、タイの洪水被害、海外展開等、何重苦ものり越えねばならず苦戦を強いられてはいるが、ピンチがチャンスの意気込みで果敢にチャレンジしてもらいたい。
私自身は70歳を過ぎてまだまだ現役で産業界に貢献しようとの意気込みがあるが、若い技術者の芽をつぶすことなく技術を如何に伝承していくかに腐心せねばならない。IT化、デジタル化により何事もマニュアル化すればいいと躍起になっているようだがルーチンの作業は綿密に誰にでもわかるようにマニュアル化すべきであるが、技術開発にまでそのような考えを入れているようでは、先が思いやられる。創造すること、技術の面白さ、やりがいを後進に伝えるような教育指導するようにしている。また、企業経営者とは対話の機会を大幅に増やすよう、大学の授業が無くなったので、会社を訪問したり研究所に来ていただいたり、または経営者向けの講演会なども実行していく。これまでも「本間の言うことを実行してみよう」と経営者がトップダウンで号令をかけて成功した例がいくつもある。
大学の知を活用すれば一企業では「ヒト、モノ、カネ」が不十分でも、情熱と誠意をもって事にあたればいい結果をもたらすものである。
この数カ月は大学附置の研究所を設立してきた背景とスタッフについて紹介してきた。これまで我々が注力してきたウエットを中心とした表面処理に加え、この4月から高井先生が本学に着任され、研究所を中心に国内外に活躍いただく下地が整ってきた。4月号に紹介したように高井先生は超撥水材料の研究をベースに電子材料、バイオ、医療材料と多岐にわたる領域に展開され世界的に高く評価されている。研究所長としてお迎えする予定であったが、諸般の事情により数年は副所長として研究所の研究内容をつかんでいただき御自身のこれまで長期にわたり実績をあげてこられた分野と我々がこれまで進めてきた領域の融合を図りさらに魅力のある研究開発が進むと確信している。現在、材料科学分野の国際学会の副会長で来年から会長に就任予定であり、さらには文科省関連、経産省関連を初め多くの役職にあたられている。表面工学分野に厚みを増し、文科省の科研費を初め外部資金の獲得、大学院の教育研究に対しても大きく貢献いただけ、本学にとっては計り知れない効果をあげるであろう。また、ハイテクノの上級表面処理講座の講師としてこれまでは年に一度の講義をお願いしていたが、科目名の変更や新企画を推進し若手の有能な技術者も動員してハイテクノ会員企業に貢献したい。


研究所時代の特許の取り扱いとこれからの特許申請の考え方。

研究所設立して2年を経過しその間に申請した特許が10件以上にのぼるがすべて特許の申請は単独出願にしている。この様な出願の仕方に切り替えたのはこれまでは、幾つかの企業との共願が主であったので、色々問題が発生していた。そこでセンター立ち上げ後は単独出願をベースに、さらに電子申請のシステムを導入して出願するようになってきた。企業との共同研究の場合でも原則関東学院の単願とした。発明者には名前は入れて貢献度によってロイヤリティーを配分するやり方に対して企業経営者からも賛同いただいているし、大手の企業の技術者は反対すると思ったが、よく説明すると皆さんが納得してくれ、この様なやり方には反対する人はいない。事務を担当していただいている山田さんは5月号に紹介したように特許申請には明るい。ハイテクノの会員企業の方々にも相談に乗っていただける。


教育講座.およびハイテクノの社会人教育講座

昨年8月に実技を伴う講座を横浜市のセンターと合同で開催したが募集2,3日で定員を超えたので9月に再度講座を開催することになり、これも通知後数日で定員となった実績から現在ハイテクノで40年以上に渡って開催されてきた上級めっき講座にくわえさらに他の実習付きの講座やシンポジュウムなどの共同企画を行うことも考えている。


研究開発の進め方および企業からの研究生の受け入れ.

現在研究所で実質的に研究を行うスタッフは3名(田代、梅田、クリス)と 大学院生(後期コース3名、前期コース9名、)学部生3名、研修生5名で研究活動に勤しみ、実質的には本間とスタッフが指導に当たっている。 現在企業から派遣されている技術者には企業からの研究テーマよりもむしろ研究所でのオリジナルなテーマーで研究をしていただいている。 このように、スタッフ、学生、企業の研究生を入れると最大人数で20名以上になり、実験のスペースは狭隘となり、横浜市の工業支援センター内の実験室を3部屋使用している。研究設備もようやく整備されてきた。


連携事業について

カリフォルニア州立大学(アルバイン校)との提携に関しても、一年の協議のすえこの6月から2名派遣する。積層MEMSを初めとして、色々多伎に渡るテーマーが提案されている。 さらには国際センターからの要請に基づき上海応用技術学院、タイのチュラロンコン大学との連携も具体的になってきた。 

奨学金制度の充実

表面工学奨学金(8年前に神奈川文化賞の副賞をベースに企業およびOBからの寄付)毎年4名に授業料相当分を授与してきたが、本年から材料・表面工学奨学金と改め6名選定。 これまでの原資に浄財の5%程度とロイアリティー収入の一部で補填して奨学金制度をさらに充実させていきたい。

日本製の家電製品の衰退
関東学院大学材料・表面工学研究所
本間英夫
 
国際的な金融危機、政治の混迷のさなか、日本における電子材料を中心に工業生産が音を立てるように崩れていると感じていたが今回この件に関し、我々の研究所で論議してもらった。スタッフは、それぞれ30年以上の技術経験があり、お互い忌憚のない意見を述べてもらい、その中でこれは記録に残そうと思った内容をまとめてみた。

日本製の家電製品の衰退

テレビを例に挙げれば一時期は海外のホテルに行けば多くは日本製であった。しかし現在は殆どのメーカーが赤字に転落し、直接の生産から撤退と言う記事紙面を騒がせている。中国、韓国、台湾などの方々と話す機会が多いが、日本の技術は非常に高いがマーケティングの点で詰めが甘いのではないかと指摘される。日本の商品開発は技術内容ばかりを見ていて、海外の現地人が求めているものを良く理解できていないのではないかと。
価格が安ければ多少ライフが短くても納得できる。技術水準が高く、価格帯も安いと言う事であれば良いのだが、過剰な品質で値段が高いのでは必然的にマーケットは減ってしまうと言う。確かに品質が良いことは消費者にとってありがたいことだが、過剰品質であれば競争力を失ってしまう。現地の要望がうまくモノづくりの現場に伝わっていない。また、開発に至っては業績が芳しくないため、大幅な改善が出来なくなっている。
思い切った改善をして失敗をしたら、職場を追われることを気にするあまり、実績のあるもの以外に手を出せなくなっているのだ。
この様に、日本の開発担当者の多くはチャレンジ精神を失い、新しい提案に対し、それは実績があるのかと尋ねる始末である。

半導体産業の衰退 ファブレス化の是非

半導体に関しても、新しい開発に対し成功しなかった場合の責任を逃れるために、台湾の外注メーカーに初めのテスト生産を頼み、うまく行ったら国内で生産するつもりが、初期10枚のウエハ加工では装置にムダ金を出せないので外注し、100枚、1,000枚でも装置に手が出せず、10,000枚のオーダーが出た際に、そろそろはじめようかと思ったら製造技術が手元に何もなく、結局は量産も外注に出すことになってしまったのが現在の半導体事業の状況ではないだろうか。

恐怖を乗り越え、額に汗せずに製造をすることなどありえないのだと我々は考えている。

このような日本の開発に対しての消極的な態度は、殆どの方が知っているはずなのに業界で大きく警鐘を鳴らす人がいない。

ファブレスが先進国の王道であると考え、そのようなことを言ってはいけないと言うことなのだろうか。

教育面ではゆとり教育や横並び教育により、特色ある人間が出てこないようにしてしまっている。 このような教育体系ではファブレスで外注し、且つ自国で利益が上げられるようなアイデアを持つ人間はなかなか生まれてこない。

日本流の職場環境

アメリカはファブレスで大きな利益を上げている人も多いが、不景気の際に職場を追われ不安な生活を追っている人も多い。日本人は今迄の終身雇用の習慣から会社業績の変化で解雇されることに慣れていない。人を思いやる気持ちが強く、職場で困っている人がいれば自分の技術を伝授する習慣があり品質向上への意欲は他国よりも優れていると感じているが、このままの社会環境が続けば昭和初期の労働者の意見無視の経営スタイルに戻り、多くの社員の良い意見が得られないのではないだろうか。

スタッフの一人である梅田君は、アメリカの半導体製造装置メーカーに5年間在籍した経験から、日本の会社との違いを衝撃的に感じたと言う。すなわち、日本には仕事の中での上下関係が強い。例えば何々君これはどうなっているのかねと言う仕事。本人はアイデアを持たず部下に内容を聞くだけの仕事を持つ。多くの海外のメーカーでは男女の区別が無く、平社員が社長を呼ぶ時も名前で呼び合う。

日本ではかなり小さい単位の会社でなければ、そのようなコミニュケーションは取れないだろう。スピィディーに現場の必要な改善を指示できるようにするには、普段からの職場を読み取る技術を養っていなければならないはずである。 それが出来ている会社は現状でも伸びているような気がしている。

日本の製造業の再構築

今後の日本はとにかく製造技術を再度構築し、ファブレスを推進するのか、製造業を残すのか政府も巻き込んで教育も含めて取り組む必要があると思っている。 色々問題を持っているとは聞くがシャープのパートナーとなった台湾の鴻海精密工業は世界のパソコンのほとんどを請け負う。低賃金であることから中国に工場群を増やし、その代表格であるは深センに四十万人従業員を抱える工場を筆頭に、中国の三十三の都市に合計約百万人の従業員を抱えている。

さらに、ソニーなどから欧州、メキシコなどの工場を買収し、世界中で展開するマンモス企業に成長した。鴻海精密工業はもともと、コネクタの製造がメインの工場で、2000年には五千億円ほどだった売上高が今や九兆円を超え、日本のどの家電メーカーよりも巨大な存在になった。台湾と中国は同じ民族であることもあるが、相手方を理解できるから現地で事業を伸ばすことが出来たのだろう。

鴻海精密の社長がアメリカのDell社の仕事を取るようになったのも、若干30歳であった当時のDellオーナーを台湾のEMSを案内する機会を得て、自ら案内役を買って出て自分の工場も案内する機会を得た。そのことが、現在の大きな発展の契機になり、且つDellの発展にも寄与したと言う話である。

現在の九兆円の売り上げは自前の力だけでなく買収を繰り返し大きくなったものであるが、まず自分の利益を考えるのではなく、相手の利益を考える中で自分の発展を探る度量が日本企業には求められているのではないだろうか。

先ずはコストありきからの脱却

海外の競争相手は直向きに製造業と向き合っている。額に汗することなくことを進めようとすれば、この先も我々は良い結果を得ることはできないと思う。

ファブレスに丸投げで、見積りどおりの製品を作ってもらうだけでは発展性が無い。

基礎技術、設計、品質技術、製造技術、材料管理、人事管理、品質管理、全て管理出来る体制を加工先に指示出来ところまで完成させていかいけない。
また、行きつくところその仕事に愛情が無ければだめなのだと思う。

コスト、コストでしのぎを削っていると、仕事に対する充実感や情熱が失せてしまう。それを続けてきた結果が今の日本の製造業の現状を作り出しているのではないだろうか。
 

上級表面処理講座半世紀 
関東学院大学材料・表面工学研究所
本間英夫
 
現在10月から開始される第45回目の上級講座の募集が行われている。小生は初回の講座が始まった当時は大学院の2年生で、中村先生から書記を務めるように伝えられた。毎週木曜日午前10時から3時間の講義、その後一時間の休憩をはさんで、さらに5時まで講義が行われ。今思い起こしてみると初回から表面処理の当時権威の先生方が講義にあたられ一年間で修了する講座としては大学院レベルの充実したカリキュラムであった 
中村先生が当時の何人かの先生方やJAMF幹事役を務めておられた企業役員の了解のもと、殆どは中村先生のアイデアでカリキュラムが作成されたのであろう。 しかも初回の講座から現在ではいろんな大学で採用されてきている視聴覚教育が導入され素晴らしい環境の中で講義が行われた。すでにこの講座を受講された方々は1900名を越え経営のトップ、中堅技術者の殆どがこの講座を修了している。 
初回の講座では毎週講義終了後、派遣企業の経営者に講義内容を報告するのが小生の役割であった。したがって大学での講義以上に中身が濃く1年間で表面処理関連の技術を習得できた。第2回目の講座から分析化学、特に機器分析を担当するように言われ表面処理に必要な領域を中心に講義をさせていただいた。その後、自分が専門としてきた領域を講義するようにとの要請のもとに無電解めっきやプラめっきの講義をするようになってきた。現在は大学や産業界から多く専門家に講師をお願いし、世代交替が進められ、満足いただけるよう企画されている。 
7月の下旬、関西から九州の企業を訪問してきたが、ある企業で、今から40年以上も前に小生がしたためた上級講座のテキストが従業員の社内教育用に今も使っていると聞き、当時自分がどのようなテキストを作成していたか確認させていただいた。プラめっきの前処理に関する基礎的な内容で企業における基礎教育の重要性を再確認させていただいた。 
というわけで小生がこの講座には初回からかかわってきたのであるが、本年3月に大学を完全退職になり、これからは少し違った角度から余生を楽しもうと思っていた。しかしながら、なかなか自分の思ったようには進まないものである。大学では研究所を構築してきた責任があるので、本学の産学協同の伝統を守るとともに、大学の知を活用する研究所としての基礎を築かねばならず、もうしばらく注力せねばならない。また完全退職で大学での講義が無くなり学生や研究生、スタッフとの研究だけに注力することになったので時間的に余裕が出てきたと思っていたが、全く逆で毎日忙しく休む暇がない。 そこで今月号ではハイテクノで長きにわたりプリント基板の基礎から応用に関して講義をしていただいている高木さんに寄稿していただくことにした。 
プリント配線板よりモノづくり 
高木 清 
この欄には初めて書かせて頂きます。初めに筆者の自己紹介をさせて頂き、その後、長い間関係しました電子機器の実装、プリント配線板との関わりなどについて、書かせて頂くことにしました。 
略歴 
筆者は1955年に大学卒業後、富士通信機製造株式会社に入社、ここで、いわゆる電子材料に出会いました、当時は「電子材料」という言葉は無く、電気材料の一つでした、幾つかの材料、処理法などの開発に携わりました。ここで、タンタル電解コンデンサ、アルミニューム電解コンデンサの開発、前者では、溶液型、固体型両者につての開発、次に、静電記録紙の開発、ここでは、複写をしたいということで、実験は4層程度のコピーが出来ましたが、実用化は2層でした。しかし、その後、電子写真の発達で製品化は中止しました。その間に、めっきの開発で、通信機器部品のめっき、メモリー金属にエッチング、プリント配線板用のめっきスルーホールの銅めっきなど、今後の開発の関係するめっきの開発を行いました。 
プリント配線板の開発、ゼロよりの出発 
めっきを担当項目にめっきスルーホールプリント配線板があり、その関係でコンピュータ用の多層プリント配線板の開発に携わることになりました。1965年当時で、能動部品が真空管、トランジスタよりICに変わる頃で、富士通としては、ICコンピュータの国産化に着手し、当然、多層プリント配線板を必要として時期でした。 1967年頃に、プリント板部となり、多層プリント配線板の製造に乗り出しました。 多層プリント配線板の製造にあたり、社内では装置関連の技術者とプロセスに関し片面プリント配線板の生産技術、積層、めっきの技術はありましたが、全体のプロセス構築は文献に有る程度で、手探りで始めました。当然、マニュアル類は作って進めましたが、当初は不良の山を築いたものです。生産量の急増の中で、歩留まり改善には現場を中心に技術者、技能者一体となり進めたものです。この時感じたことは技術者だけでは不良率は約2%まで、技能者との協力で0.5%とすることが出来るということでした。 この多層プリント配線板の開発の過程で感じた事は、何事もゼロより始めた、マニュアルは書いた時に内容は停止するが、実際には常に進んでいる、現場よりの情報が最も重要である、と言う当たり前の事ですが、今日この当たり前が身に付いていないように思われます。 
韓国、台湾、中国と日本のモノづくり 
最近の技術の流れを考えてみます。東南アジアの急速な発展を見ていますが、米国で習得した技術者が台湾、中国に多くなりました。 米国の技術者と技能者の関係は融合しておらず、技術者はマニュアルを作り、技能者はそれに従って物づくりをするという関係は現在でも大きな変化はないと思います。したがって、検査仕様書はしっかりとしており、選別が中心となります。この流れが台湾、中国の染みついているように思います。とにかく、大学出身者はエリートで現場に行かないことは定評があります。そこには細かい改善はほとんどないと考えられます。最近の研究論文の発表を見ますと、韓国、台湾、中国よりのものが非常に増えています。しかし、研究が、現場に行かされているとは思えないことが多いように感じます。 半導体デバイス、液晶ディスプレイが大量生産されていますが、これらは、装置が非常によく、自動化され、また、材料も高純度のものが使われています。極端にいえば、装置を並べ、条件を設定すればどこでも同じものが出来る状態になると考えられます。いわゆるターンキービジネスです。 これに較べ、層プリント配線板の製造では装置にそれほど高価なものを使うことが出来ず、材料も日々変化するものです。これを人間の技能により品質を維持しているのが現状です。したがって、装置、材料とともに人の掛かり合いも重要な要因になります。電子機器の実装の中で、プリント配線板は重要なものであり、実装が電子機器の信頼性を決めると言っても過言ではありません。 韓国は少し日本に近いと思われますが、やはり大学卒はエリート意識を出していることはよく聞くことです。 日本では前記のように、技術者のエリート意識はまだ薄く、技能者と一体になって現場を中心に開発を進める事が特長といえます。心配なところもありますが、この関係が崩れないことが日本のモノづくりを発展させる源動力となるものと思います。 
ハードとソフト、アップルについての考察 
最近、ソフトの重要性ばかり言われていますが、ソフトだけでは電子機器は動きません。身近でなところで、ハードとソフトを一体で行っている会社としてインテルやアップルがあります。マイクロソフト、グーグルなどはソフト一辺倒です。どちらがよいのでしょうか。 昨年、ジョブズが亡くなりましたアップルはソフト、ハードを一体で運営している会社で、今日の成功はジョブズの卓越した商品構成力にありますが、同時に、両者をいったい運営しているためと思っています。アップルについて多くの見方は、ハードは設計のみで、後は、EMSに注文する、ファブレスということです。しかし、これだけの商品を設計だけで作らせられるとは思えません。秘密主義のアップル社の内部は分かりませんが、社内に、少なくても10萬台程度の生産ラインを持っていると推察しています。多分、半導体のCPUの試作ラインも持っていると思います。この製造ラインを持つことにより、製品設計、部品調達、生産技術、品質管理についてのエキスパートを養成し、量産における外注についての指導、監督が出来るというものです 
これからの技術者 
ソフトハードの両面を理解し、じぶんの狭い専門にこもる事なしに、異分野も含め広い視野で考え、現場を重視し、常に改善、進歩を心がけ、自分で考える力を蓄えることが大切と思います。また、多くの方が賛同する一方的な見方でなく、それを裏空見る、下から逆に見る、発想を変えて検討することが必要になるのではないでしょうか。

コメント
関東学院大学材料・表面工学研究所
本間 英夫
 
雑感シリーズに関してもそろそろ自分からスタッフや高井先生、山下先生に頻繁に執筆していただき、より魅力のある内容にしたいと思っている。そこで、スタッフや高井先生、山下先生に原稿を書いていただいている間に、最終講義を終えて一週間くらいの間にメールで寄せられた後輩からの感想文を紹介したい。研究室を巣立っていった後輩がどのように大学時代や大学院時代を送りその後表面処理関連の企業で活躍しているか、また小生が学生とどのようにかかわってきたか、その生活の一端を知っていただきたくここに紹介することにした。

K君のコメント

最終講義は盛況に、先生らしく、楽しい時間を共有できたこと、感謝しております。思えば、先生との出会いは三十四年前、十八歳のときにさかのぼります。

さて、卒研の選択というとき、先輩から、"本間研に行っておけば就職は心配ない"と言われ、親のコネもなく、就活も面倒だった私は、迷わず先生の研究室を希望し、なぜか無事に決まりました。先生の研究室は当時から人気があり、親しい友人の何名かは、(不本意ながら)他の研究室に配属されました。

半分くらいは、当時の無電解銅のめっき液の開発と自動制御がテーマーでした。当時は産学協同で大学から発展した関東化成に何度か出かけたものです。その意味では私にとっては、関東化成は"母なる会社"と思っています。さて、就職の話のとき、"君はどんな会社が希望か?と聞かれたので、"先生、僕はアメリカに行きたいんですが・・・"と言ったところ、"いい会社がある"ということで当時アメリカに進出した会社を紹介していただき、五月には仮面接を経て、内定をいただいておりまた。就職も決まったので、のんびりしていたところ、アメリカの景気が思わしくなってきて、その矛先が日本たたきに向かってしまいました。

テレビでは、東芝のトランジスタラジオをハンマでたたいている映像が写されていたのを記憶しています。そんな中、ちょうど学園祭のときだったと思いますが、先生に呼ばれアメリカには行けそうもないかも・・・ということで、就職先を変更してはどうかと言われましたので、「鶏口となるも牛後となるなかれ」と思い、A社を紹介していただきました。

先生が、当時その企業の役員に電話して、"来年一人行かせるからな!"ということで、2,3分でほどで就職が決まりました。先生からは、私のキャラは信用なかったようで"あまり早く辞めてくれるなよ!俺の立場もあるからな!"と言われたのを記憶しております・・・・長くなってしまいましたが、三十年間が走馬灯のように駆け巡った1日でした。長い間お疲れ様でした。でも終わったわけではないので、これからもいつものペースで皆を引っ張っていってください。ありがとうございました。

A君のコメント

先ほど、先生の書かれた本を読み終わりました。 学生の時やOB会、雑感シリーズ等、以前から読み聞きしている内容が多いのではありますが、読み終わって改めて先生の偉大さを感じました。

先生に出会えてこの業界に入らせてもらい、本当に感謝しております。今自分を振り返りますと、アルバイト三昧の大学3年間の後、当時卒業するのもギリギリの単位数であったのですが大学に入って初めて真面目に卒業研究に打ち込み、ろくな就職活動もせずに先生の勧めとTさんの誘いで1998年に設備会社に入社、その会社の薬品部門で働いている中で数多くの経験をさせて頂き、Tさん退職後、その会社の中で使い走りの薬品部署で仕事をする限界を感じている時に、当時誘われたO社に家族を引き連れて引っ越して入社し、はや8年が経ちました。

今では子供も小学生になり、仕事ではそれなりの現場経験等を積んで営業職ですが、ある程度会社に貢献できているのかなと自己満足できるようになってきました。

御存じのように益々日本の産業は厳しくなっています。何とか日本の産業の為に微力ながら力になれるように極力国内にしがみついていたいと思っております。

先ほど本を読み終わりまして、これからも関東学院大卒の名に恥じないように今まで以上に頑張っていかねばならないと心新たに思いました。

先ほど読み終わった今回出版された本を自己負担でもう数冊購入し、担当である若い客先に配って勧めてみようと考えております

S君のコメント

素晴らしい、ラスト講義ありがとうございました。先生の熱意は、素晴らしく27年前に受けた授業を今も思いだされます。先生の本も読ませて頂きました。とても、良い本です。

先生は、お忘れでしょうが、いくつものエピソードを思い出します。

(1)金おろして来い

ある日、先生は、私にお金が必要だから、横浜銀行に行って200万円おろしてこいと申し付けられました。私は、他人に簡単にお願いする事に驚きましたが、その後の会話で、なおびっくりしました。

暗証番号を教えてくださいとの私の問いに、カードに書いてあるとの返答です。

確かに、大きく黒いマジックで書いてありました。

残額を見てまた、たいそう驚いて、今思えば、少しくらい多く下ろしても判らなかったですね。失敗しました。

今もマジックで書かれているのでしょうか心配です?

(2)車買った

先生の運転免許をとった時は、私が先生に運転の仕方を指導しました。初めての車を、何も判らない、詳しくない学生と車を買いに行った時の話です。以下問答です。

何を買われたのですか?
→トヨタだよ。
トヨタの何ですか?
→わからん、トヨタの白だよ。
排気量は何ccですか?
→わからん、トヨタのフォードア、オートマチックだよ。
あーコロナの2000ccですね。
数ヶ月後に、ぶつけた車の修理に行った際、トヨタでカローラを衝動買いして、学生たちに値切らないで買った事を責められた先生は、→内需拡大に貢献しているから良いんだ!と言われたのが印象的でした。

(3)タバコ吸いは馬鹿だ

私の結婚式のスピーチで、→タバコ吸いは、地球環境汚染している馬鹿者達だ!!と言われて、当時は、70%位の喫煙率の出席者から、苦笑いは忘れられません。

先生は、正しかったですね。今の時代では常識です。まだありますよ。先生伝説は!

(4)ロイヤリティー

ある企業からは入ったロイヤリティーを、全部大学に寄付した事。奥様に言ったら、外壁の修繕に一部遣いたいと言ったら、先生が、バカヤロー大学があるから得たものだ。大学に返すのが道理だ。奥様が、大変失礼しました。おっしゃるとおりです。間違ってましたと言ったことは、美談です。また、その事で、大学にはロイヤリティーの一部しか寄付していないのではと疑われ全部寄付した事がわかり、驚かされたと聞いてます。

実際に、先生の引越しを手伝った時に、荷物、財産が無い(少ない?)のに驚かされました。先生の財産は、生徒と業界ですね。

(5)

入社当時、先生によく、大学に呼ばれました。今でこそ、私の事を上長は覚えていてくれますが、当時社長は、私のことをよく知りません。先生は、よく私を大学に呼ばれる時に、弊社に電話して、S君を電話に繋いでくれ。(注釈 1000人程度の企業です)

そして、大学に来させてくれ。私が、簡単に大学へは、いけませんと言ったら、直接、うちの社長に電話された事には、驚きました。

後で、君がS君かと社長に言われてびっくりしました。

このほかにもOBから多くのエピソードが送られてきている。冒頭に記したようにスタッフや高井先生、山下先生に原稿を書いていただいている間もう一度くらいその内容を紹介することで、オープンマインドで愛をベースに研究と教育の環境を整えれば学生は大きく育っていくのだとご理解いただきたい。

最終講義 KT君のコメント
関東学院大学材料・表面工学研究
本間英夫
 
お疲れ様でした。そして、さらにこれからも、本間節を聞かせて下さい。エピソードということですが,,,大分昔の話しなので、多少事実と違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
●始めての車
先生の始めての車は、私と買いにいきました。なぜ、当時学生だった私が抜擢されたかは覚えていませんが、二人で、ご自宅のそばの中古車屋さんに行きました。
「先生、新車を買わないんですか?」
最初はぶつけたりするから、なんだっていいんだ!とのこと。白のコロナマーク2 値段は34万円それを、即決、即金で買いました。本当に、なんでもよかったみたいに,,,あっさりとした買い物でした。先生の初車は私と購入,,,これが、私の密かな自慢です。しかし、数カ月後には、宣言通りに?ぶつけて、2台目のお買い物となったようです。誰と一緒に買いに行ったのかな?
●始めての仲人
先生に初めて結婚式の媒酌人をしてもらったのは私です。今の嫁さんと先生宅にお願いに行ったときに、言われました。「いままで、頼まれても、断ってきたんだ,,,と」奥様が人前に出るのが苦手との事でしたが、無理にお願いしました。周りの先輩方には、「何を言われるかわかんないぞ~」とおどされましたが、心配など全く必要のない下ネタなしのスピーチをいただきました。(奥様ありがとうございました)
先生の始めての仲人は私の結婚式。これが私の密かな自慢です。私の次は誰だったのかな?

●愛のムチ?
私は先生に頭を叩かれます。(注釈自分の手を間に入れてパチンと自分の手を叩いているので別に暴力ではありませんので念のため)はっきり言って、私の人生の中で頭を叩いた人の順位付をしたら、ダントツトップで金メダルです。しかし、先日の最終講義の懇親会時に、頭を叩かれませんでした。なにか、物足りなさを感じる自分がいました.。多分、私だけではないとおもいますが、叩かれることで先生の愛をかんじるのは,,,Mではありません。


次は卒研に専念できないほど単位を落としていた人からのエピソード
(1) PC修理で資産判明
先生のラップトップの調子が悪いから見て欲しいといわました。いざ画面を開いたら証券会社にログインしたままだったため画面に「今のあなたの総資産は○○円」の文字。見てはいけないものを見てしまった!と思いうろたえつつ「先生、すみません~」と画面を向けたら「おお!そのままだったか。他にもあるよ」と別会社の口座や額も見せられました。

(2) スキー場でマスクマン
1月の先生の誕生日に私達の期(38期)は毛糸の帽子を二つプレゼントしました。1つはお遊びで大きなボンボンとパンダのアップリケが付いたものでした。卒業発表終了後、先生の別荘にお邪魔してスキーに行ったとき、何人かでボードの準備をしていると「大丈夫か?」との声。そちらを見ると、大きなボンボンとパンダの帽子を首まで伸ばしその上からメガネを懸けた先生が・・・。「こうすると顔が寒くなくていいな!」といいつつ颯爽と滑っていかれました。

(3) ガイドブックの人が目の前に
視察旅行に同行した際、ポーランドに行きました。初めの予定にはありませんでしたが、折角来たのだからと、急遽アウシュビッツも見学することに。バスに乗っている間、ガイドブックを確認すると日本人ガイドさんが唯一いると顔写真付で載っていました。 到着後、真っ先にバスを降りた先生が通りがかった男性を呼び止める。まさにそのガイドさんでビックリ!しかもその人にガイドしてもらえることになりました。普通は予約でいっぱいで飛び込みでは無理とのことです。とっさに呼び止めた先生の運のよさを実感しました。

(4) 無電解めっき液の泡
無電解銅めっきでは発生した水素がサンプルに残りピットなどができてしまった。考えながらお風呂に入り、湯船の中で身体から離れる泡を見て思いついた。界面活性剤だ!

(5) 
ある朝、先生が「思いついたぞ!」と笑顔で研究室へ。「昔、銀触媒の研究の時サンプルが樹脂だったがデスミアをしなかったのにパターニングの時、光があたったところは結構密着よくついて水洗で振るくらいでは剥離しなかった。それとマスターの2年生がやっていた光触媒を思い出したんだ。樹脂を光触媒で処理すれば、きっと荒らさずにめっきがつくぞ!」その後、さっそく実験を始めますが全然うまくいきません。 しかし先生は「きっとうまくいくはずだ!やってみろ!」ちなみに初めは光触媒の量が分からずに大量にいれてしまい光を遮断して反応して欲しいところまで届いていなかったが判明。量を減らしたらしっかりめっきがつきました。その後の展開はみなさんご存知の通り。
実はこの光触媒はある学生のテーマが行き詰まったため先生がなんとかしなければと捻り出したアイデアでした。「やっぱり良いアイデアってのは、めっきに関して四六時中考えていないと出ないのですね」

ある技術者から

思い起こせば25年前にシリコン上のめっき技術の件で、電話で先生に技術教えてほしい話を厚かましくしてしまった際に技術はタダではないと注意され、会社から十万円をとにかくもらい、後日十万円分だけ教えてくださいと、お願いしたのが深くお付き合いさせて頂く機会となり、その後多くの技術を先生から授けて頂き、私の新しいめっき技術の開発に欠かせないものとなりました。(注釈 この種のお金はすべてストックマネーにして有効に学生が活用したのであり私腹を肥やしたわけではありません)
シリコン上のめっき、アルミ上めっき、無電解ニッケルの抑制効果(かじりの悩みを解決)、ボロンニッケルピン自動めっきの安定化、低濃度めっきめくらピン内部へのめっき技術(温冷法)、粒子めっき(パテントにまで踏み込んで調整頂きました)、ガラス上めっき、銀ろう上の無電解ニッケル、硫酸銅の基礎技術、ウエハレベル補助金、まだまだありますが、どれも苦しんで、苦しんで困っているときに助けて頂きました。
また、多くの人材を私に託してくださったことも大きな技術力アップになり、盤石な技術集団を結集出来、私の部署で年間利益十八パーセントを達成したこともありました。 ウエハの開発では多大なお力添えを頂いていたにも関わらず、私の無理な開発が祟り、退社することとなりなんのお返しも出来ないままとなってしまいました。初めてJAMFで出会った以来三十三年、あの頃と全く変わらないエネルギシュな先生が明日最終講義の記念の日であるのは少しさみしい感じもしますが、明日が新たな先生の飛躍の日と考え心よりお祝いを申し上げたいと思います。
今回はこの記念すべき時にご心配をお掛けし、本当に申し訳なく思っております。 また、常に暖かい言葉をかけて頂き感謝しております。今後は若い人材を育てる手助けが出来るように健康にも、精神的にも精進したいと思います。

劣等性を自称するI君から

現在カリフォルニア大学のアーバイン校で本学との共同研究を行っている卒業生が、小生に宛てたメールである。
私が本間研究室に配属が決まってから、ちょうど6年が経ったと思います。自分で言うのもなんですが、よくもまあ、あんな成績で本間研究室に入れたなと、偶然恐ろしいというか、たまたま成績優秀な方々が牽制している中でタイミング良く研究室に飛び込めたのだと思います。そのせいで先生には、それから6年間御迷惑お掛けすることになるのですが。しかしながら、いつも昔を振り返ると思うのですが、もし他の大学に行っていたら。もし他の研究室に行っていたら。今の自分はありませんでした。もしかしたら、今頃派遣村に居たかもしれません。本間先生に出会えたこと、本間研究室に配属されたこと、関東学院大学に入学したことは、本当に良かったですし、私の人生にとって非常に大切なことでした。本間先生には、いくら感謝しても足りません。本当にありがとうございました。これから社会に出ていくにあたって『ダメなヤツでも育ててみせる』という、先生の教育理念の賜物であるという自覚を持って、先生に恥をかかせないように頑張っていきたいと思います。彼に関しては最終講義の際、可が山のようにあり優が三つしかない(加山雄三君)と紹介した。小生は学生の成績は見ないほうだが、ある先生からその後連絡があり、本人の大学時代の成績は87名中86位であったとのこと。まさに『ダメなヤツでも育ててみせる』の典型例である。
 

「人になれ、奉仕せよ」
関東学院大学材料・表面工学研究所
梅田 泰
 
最近、本間先生から参考となる本を読でみるように薦められました。題名は「知者は点ではなく線で学ぶ」著者山岡歳雄、文芸社である。この本では自分の能力をどのように引き出していくかというノウハウ本であり、特に人間としてどのような心持で生きていかなければいけないかということについて、関東学院の創成期の内容に触れられて書かれておりました。
関東学院の校訓である「人になれ、奉仕せよ」は、初代関東学院長坂田祐先生の厳しくも、全ての人に優しさをもって接する心であり、九十年以上経って現在も脈々とその意思が受け継がれています。
本書の中に、経済学者ドラッカー氏が創始者坂田祐先生、それを継がれた白山源三郎先生を尊敬する人物として挙げていることに大変興味を持ちました。
筆者は大学二年と三年の間の春休みに京都の父親の会社を継いで社長をしていたお兄さんが交通事故で急逝された為、一年休学をして三年から復学するようになるわけですが、その当時白山源三郎学長のお嬢さんが留学中で、学長の奥様の郷里が京都であったことから、筆者に学長宅に書生のような形で同居するように勧められたそうです。
学長のもとで私設秘書のような仕事もされていた際に、白山先生を訪ねてくることになったドラッガー氏を郷里の京都に案内することとなり、その際に2人の恩師をドラッガー氏が尊敬している人物であると告げられたそうです。ドラッガー氏から信頼されている先生方であればこれは本物の世の中を自分の為にではなく、奉仕の心を持って日々を過ごされた方々であったことが伺い知ることが出来たそうです。
ドラッガー氏はマネージメントの中で、「企業は利益を追求することが最も重要なことではなく、企業の目的の定義は顧客創造である。そして利益は目的ではなく、必ず必要な条件である。」と説かれておりました。永遠に企業が残り得る考えだと気付かされましたが、まさしく自分の事だけではなく相手の事を考えると言う精神であり、「人になれ、奉仕せよ」と言う考え方にドラッガー氏は容易に賛同でき、先生方を慕われておられたのでしょう。
校訓について白山先生は次のようによく説明されていたそうです。「奉仕することは、自分を空にして全体のため、社会のため、または他人のために尽くすということで、人間として好ましい実践行動であり、共同社会ですべての人間が幸福に暮らしていくためには誰もが心掛けなければならぬ実践行動である。」
さらに、「奉仕には何らかの犠牲を伴うが、そのためには自らの力なり、資格なりを具えることが必要である。奉仕のためにはその前提となる自己の充実と完成がなければならない。資格はなにもライセンスではない。時間的、経済的な豊かさも大切である。そのためには努力も必要である。われらは奉仕を成し得るがごとき人間にまずなるべきである。」
「人になれ、奉仕せよ。」という言葉については関東学院の校訓として何度となく聞いていた言葉ですが、改めてこの言葉を深く考えてみますと、自分の生活もしっかりさせ、且つ社会や周りの人間を幸せに出来る様に努力しなければいけないということであります。しかし、自己実現をするために他人のことをどうしても忘れがちになるのは人間の性であるのですが、周囲の人達の幸せを目標にすることが出来れば、さらにその幸せの輪が大きく広がるはずです。
私の現在の職場である関東学院大学材料・表面工学研究所所長である本間先生からも日々の教訓として、「その動機善なりか、私心無かりしか。」と言われており、自分のみが良いということがないかどうかについて自問自答する毎日です。
関東学院大学は坂田先生、白山先生が協力され、現在の学院の礎を作って来られたのですが、その中で教育について非常に強い信念をお持ちであったことが告げられていました。

①「大学教授は学力人格ともに優れた人でなければならない。すなわち正教授はよほど厳選されなければならない。卒業生の優秀なものを大学院へ送り、また米国の二、三の大学に直結して毎年1,2名を留学せしめ、将来の正教授の養成をしなければならない。これは早急に始めるべきである。」

②「学生はよく勉強し、先生方には時間と心のゆとりをもってよく勉強して頂く。そうすれば先生方から良き講義を聴かせて頂けることになる。このように助け合いによって学風を興し、さらに高い学力水準の向上を図ろう。」

③「大学生は自主的でなければならない。大学という組織の中において、一定の大枠の中に収容されているけれど、大学はもともと一人ひとりの学生を一定の形の人間に作り上げようとは意図しない。学問技術の習得できる契機を供与し、環境を備えはするけれど、手を取ってこれを身につけさせる責任を持たない。これを自分のものにし、身につけるかどうかは大学生側にその責任がある。」

これらのまっすぐで清らかな考え方と言うのは偶然に生まれたものではなく、常に自分の事だけでなく、他の人の幸せも考えながら生きることで、またその生き方に共感する人たちがその廻りに集まってこられる。ドラッガー氏も関東学院の先達から大きな影響を受けられていたので関係を築かれたのでしょう。
この本の中にも多くの引用を含め、人間とはという点について述べられていますが、「人と言う字は二本の線で描かれていて、一本の線がもう一本の線で支えられている。人間は一人では絶対に生きられず、誰かに支えられてやっと生きられる。」「そんなことは無いと思ってもどんな人でも母親から産まれ、沢山の人に支えて貰い、沢山の経験を積んで一人前に育ってきたはずである。」
この話を振り返り、本当に人間は一人では生きて行かれないことを認識させられました。
「人になれ、奉仕せよ。」私たちはこれからもこの言葉の意味を噛みしめながら、東日本大震災以降の政治、経済混迷の現代を自分の為だけでなく、皆の幸せを考えながら生きて行かなければいけないのではないでしょうか。坂田祐先生により創設された愛に溢れる学院の環境が益々発展することと思います。これまでの貴重な変遷を経て立派に成長している学院の材料・表面工学研究所の一員として私自身も微力ながら尽力していきたいと思います。 

教育現場の現状と問題
関東学院大学
山下 嗣人
 
教育現場の現状と問題

昭和45年頃の社会は好景気で、大学生は有名企業への就職が決定し、公務員や教員を志望する学生は極めて少なかった。その時代に「でもしか先生」が話題となった。先生に「でも」なろうか、先生に「しか」なれないことを指していたのである。その頃教員になった団塊世代の定年が数年前から始まり、教育現場では教員の「引き抜き」や「大量採用」が行われている。安定感のある公立学校が大量に採用するあおりを受けて、首都圏の私立中学・高校が教員確保に悩んでいる。  少子化と厳しい社会情勢で、私学の経営が苦しい中、教員志望者の私学離れが止まらないという。倍率低下、さらには試験科目の削減や年齢制限などが緩和されて、教員のレベル低下が懸念されていた。事実、教育者としての適性・資質が疑問視されるような不適切な指導や宿題を課して問題となっている。先生は生徒から良い評価を得たいために、いろいろ工夫しており、その行き過ぎが要因の一つではないかとの指摘もある

近頃の先生は授業、教材作成、授業準備という教員本来の仕事の他に生活指導、部活などの雑務に追われて多忙なのである。団塊世代の大量退職に伴う負担増や効果的な指導法が伝承されていない。さらには保護者との対応などにも悩み、採用前に抱いていた教員のイメージとのギャップに自信を失い、早期に退職する教員は毎年1万2千人を超えている。新人教員のうち、1年以内に依頼退職した人は10年間に約9倍に増えており、人口が多い首都圏の退職率が特に高く、東京が最多の30%である。

休職中の教員が増えていることも事実である。文科省が全国の公立小中高校や特別支援学校などの教員について、2010年度の休職状況を公表している。病気休職者は8660人で、在職者に占める割合は約1%、どちらも過去最高の数値である。うつ病や適応障害といった精神疾患は5407人で、年代別では50代が最も多い。また、勤務年数2年未満が45.7%である。公立小中学校教員の27.5%が「気持が沈んで憂うつ」という。この数値は民間企業の約3倍に上り、精神面での負担が大きいことを示唆している。

かつてはゴールデンウイーク明けの大学1年生に特有の病状であった「5月病」を最近聞かなくなったが、ストレスが多様化して季節には無関係のようである。環境の変化に戸惑い、また、目標を見失って無気力に陥る状態は大学1年生だけでなく、上級年次の学生や社会人にもみられるという。

以前、テレビのクイズ番組で、「教室の中から消えた一番多い物は何か?」との出題があった。小学校の先生が黒板の前に立て、手品のごとく操作した大きな「そろばん」や中学校の先生が芸術品級の円弧・図形を描いた「コンパス・定規」をイメージしたが、正答は以外にも「教壇」だった。昔の教室には教壇があり、教師は高所から生徒を見下ろしての講義であった。遠くまで目が行き届き、理に適った教授法であったと思うが、今では大学の教室でも階段教室などの大教室以外には設置されていない。今の教育現場では、先生と生徒の目線を対等にしているのである。

大学でも学生参加形式の授業体系が望まれて久しいが、目的を持たずに入学してきた無気力、指示待ちが多い学生への教育効果は疑問に思う。教える側と受ける側では「立場が反対」であることを明確に理解させ、学生に規律や秩序、敬う精神を身に付けさせる必要があろう。規範意識を高めるには、幼い頃からの厳しい教育が必要である。しかし、大学教育であっても厳しく指導をすると、学生による教員評価が低下する。さらにはパワーハラスメントと訴えられて出勤停止の処罰を受けた教員が現実にいる。最近の学生指導には大変な神経を使うのである。「学生主体の大学、学生に評判の良い大学」を意識し過ぎて、本来の教育とは乖離している

教員の評価について

員の資質、特に研究面での低下は大学でも問われており、教員の指導力向上が課題であるとの指摘もある。大学教員の評価は論文数による研究業績で行われてきたが、大学教育の多様化に伴い、近頃の昇格審査は教育歴、社会・学会活動なども加えて点数化した総合評価で行われるので、研究に特化しなくても昇格できるようになっている。

大学進学率が50%を超えた昨今、学力低下や勉強意欲に乏しい学生の教育に時間が費やされる。民間人を登用するケースも増えているが、教育・研究の経験が無いので、技術的な報告書は書けても学術論文を執筆することができないのである。

文科省の指導により任期制の教員である「助教」を採用するようになっているが、若手の助教は専任教員以上の講義やセミナー、学生実験、各種委員を担当しながら、次の職場に向けて研究成果を出さなければならない。このような環境では、大学の研究ポテンシャルを高めることは極めて困難である。講座制でない私学では専任講師以上になると、自分の研究室を立ち上げ自由に運営できる。研究費は平等に配分されるので、若手には研究しやすい環境が整っている反面、恵まれ過ぎて、向上心や競争意識が足りないのである。研究生活スタートの若い時代に研究の基礎・習慣を身につけておくことが大切である。

国立大学では数年前から研究費の傾斜配分が制度化されている。その70%の大学では給与にも反映させている。研究成果を挙げた人には「厚く」している。私学には独特の良さはあるものの「平等」から「特化」へ移行しつつあり、今後研究の活性化が期待できよう。理工系の教員は最先端の研究成果を講義に反映させて、教育効果を高めることができる利点を大いに活用したいものである。

教員の昇格と研究費配分に研究業績を導入した工業系某私大の偏差値は18歳人口激減にも関わらず急上昇している。研究の活性化が魅力ある教育へと実を結んだ実例であ

推薦・AO入試から一般入試への回帰

朝日新聞社と河合塾が国内の大学すべてを対象とした「ひらく 日本の大学」調査を本年4月に実施し、その結果が8月に公表された。AOや推薦入試から一般入試への回帰傾向がみられる。最大の理由は「学力重視」という。入試の方式を多様化することで、筆記試験だけでは見出せない能力や個性ある学生を受け入れようと広く導入され、拡大されてきたAO入試や推薦入試であるが、基礎学力が足りない一部の学生が授業についていくのに苦労する傾向にあるという。合格が早く決まるので、高校3年生後半の勉強がおろそかになっていること、評定平均値の基準が高校によって異なり、基礎学力を適切に把握することが難しいなどが問題視されている

このような反省から、AO入試は43%の大学で、推薦入試は35%の大学で、ともに縮小傾向にある。2011年度のAO入試は国立大学の約60%、公立の約30%、私立の約80%で実施されたが、入学者数は初めて前年度より減少している。一方、一般入試拡大傾向の大学は60%に達し、入学定員規模の小さな大学ほどその比率が高いという。

勉強をした経験、一般入試の壁を超えた経緯は極めて大きい。講義の聞き方、ノートの取り方、勉強の仕方を熟知しており、授業への積極的な参加も見られる。これが大学生本来の姿である。物理化学と電気化学の講義をしている私の率直な感想でもある。採点に多大な時間を要するが、マークセンス式問題を減らし、「なぜそうなるのか?」、その理由を「考えさせる」記述式を多く取り入れた一般入試が望まれる。

「理科離れ」は中学生から

2012年4月に小学6年生と中学3年生を対象に実施した全国学力調査の結果が8月に公表された。今回初めて行われた「理科」では、観察・実験の結果を考察する問題の正答率が低く、知識を活用すること、文章での説明が苦手である傾向は従来の国語・数学と同じであった。正答率7.8%と極めて低い電気回路を含めた記述式の平均正答率は33.2%で、選択式や短答式を大きく下回っている。小学6年生のグラフを分析して、その理由を説明する問題の正答率も17.1%と低い。実験や演習を取り入れて「観察する・考える・工夫する・考察する」力を養うと同時に、文章を書く訓練が必要である。

文科省は学力調査が「競争を目的とはしていない」としている。しかし、都道府県別の結果が公表されるので、学校側はその結果を恐れて技術面ばかり教え、理科の本質である「自然の摂理」を学ばせていない。また、教員が理科教育で何が大切なのかを十分に理解していないとの指摘もある。学力調査で大切なのは結果の良し悪しではなく、弱点を分析して学力を向上させるべき対策を講じることにあるが、都道府県別の順位には固定化の傾向が示され、改善はみられていない。

アンケート結果によると、理科が「好き」と回答した小学生は82%で、国語の63%、算数の65%よりも高いが、「将来役立つ」と考えている児童は73%で、国語と算数の90%よりも低い。理科好きの中学生は62%に低下し、「理科離れ」は中学から進んでいる。理科と実社会との関わりが理解出来るような授業が足りないのであろう。理科の魅力や感動を体験させること、ノーベル賞級の科学者や宇宙飛行士による夢のある体験を聞かせて、将来への希望を語り合う場が必要である。理科好きの子供を育てるには、まず、理科好きの教師を増やすことが先決である。

少人数教育の効果

文科省は、理科や数学の学力低下の歯止めにしたいと、中学生が科学の知識や技能を競う全国大会「科学の甲子園」を2013年度から開く方針という。理科や数学についての筆記と実験の競技を実施して順位を決めるという。多くの学生が参加することによる効果を期待したいものである。

経済協力開発機構が加盟34カ国の教育状況の調査結果を発表している。日本の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は3.6%で3年連続最下位である一方、家庭の負担は高く3番目である。国の将来を担う人材教育への投資を増やさなければならない。

秋田県と福井県の学力が毎回好成績を収めているが、その理由を解析した結果、①少人数学級を早くから導入したこと、②家庭の教育力の高さ、が背景にあるという。また、「30人以下の少人数学級を2年以上続けると成績が上がる」という結果が、国立教育政策研究所の調査で明らかになっている。学年あたりの教員数が多く、手厚い指導が行き届いている効果であると結論している。

文科省は、2017年までに公立小中学校のすべてを「35人以下学級」とする方針を示している。少人数教育は今の大学でも必要である。一人1テーマの卒論を体験して、これが大学生本来の勉強と初めて実感する学生が多い。1~2名での学生実験やセミナー形式での演習科目が実現できれば理想的である

東日本大震災の教訓から、「自ら考える力、自主的な判断力を重視する教育」が必要であるとしているが、当然のことと思う。自ら責任感を持って学習する習慣をつけさせたいものである。