過去の雑感シリーズ

2019年

各月をクリックすると開閉します。

新年のご挨拶
関東学院大学材料・表面工学研究所
所長 高井 治


明けましておめでとうございます。

小田原への研究所移設2 年目になりました。
皆さまには色々ご協力いただき、ありがとうございました。
お陰さまで、表面処理全般にわたって基礎から応用、実用化までの
研究開発を行う環境が整い、今年から表面処理関連のコンソーシアムを
再構築し展開してまいります。
教育面では、小田原を就学地とした博士前期課程(マスターコース)、
博士後期課程(ドクターコース)、高度職業人育成プログラム(BP)が
2 年目に入り、充実した研究・教育ができるようになりました。
本年度は6 名が、ドクターの学位を取得予定です。
1月15日(火)午前10 時から、関内メディアセンターにて、
公開説明会を開催いたします。詳細は別途案内しておりますので、
ご参加ください。
また、文部科学省認定BP プログラムは2 年度目を迎え、今年度は16 名が
この3月に修了となります。来年度の募集が近日中に始まりますので、
技術者の再教育およびドクターコースへの準備として是非ご検討ください。
本年もよろしくお願いいたします。

2019 年 元旦


新社会人誕生の季節にあたり...
関東学院大学材料・表面工学研究所
副所長 
渡邊 充広


 雑感シリーズの執筆依頼があり、さて何を書こうか…咲き始めた自宅の庭の源平桃を眺め、鳴き方がまだ上手でない鶯の声にちょっとやきもきしつつ、幾つかのテーマが浮かんでくる。自身が取り組んでいるIoT関連、電子回路、表面処理技術等々はどうかと思いめぐらせた末、季節柄、今春、新社会人としてデビューする方々に当てた私感的な内容にすることにしました。内容に賛否両論はあるかと思いますがその点はご容赦下さい。

今年は六十年に一度の大チャンス
 2019年も四分の一が過ぎました。亥年ということもあり、猪突猛進のごとく新入社員の方にとってはあっという間に一年が過ぎてしまうことでしょう。ところで、今年の干支は 己亥(つちのとい)で、「正しい場所で挑戦する年」というのが謂れです。己亥という年は、六十年に一度巡ってくる年で、謂れとマッチさせると、六十年に一度の大挑戦にでるビッグチャンス到来というようにも受け取れます。皆さんがこんな思いで何かに挑戦したら、近い将来、元気な日本を取り戻せるかもしれません。さて、六十年前(1959年)の同じ己亥の出来事を調べてみると、岩戸景気の中にあって景気は絶好調な高度経済成長の時代にあり、そして、この年を代表する出来事が、皇太子様と美智子様のご成婚でした。六十年前に結婚された当時の皇太子が、六十年後の2019年、天皇を退位される。元号も変わり、新時代の幕開けとなる年が2019年ということになります。偶然?とはいえ、今年は期待が持てそうな年になりそうです。しかしながら、“なりそうな”では他力本願的ですので、やはり自ら行動、挑戦せねばと思います。自信も己を鼓舞(?)しテーマに取り組んでいます。やはり技術屋たるもの自ら手を汚し、汗をかく、コメンテーターであってはならないというのが信念です。趣味の世界でも目標をもってチャレンジ中です。

理工学系新社会人へのアドバイス
 2015年春まで、自身は産業界で三十有余年、技術者、管理職、経営者として過ごしてきました。幸いにも多くの開発品を世に送り出すことが出来きました。実力を考えれば、単にタイミングがよかったに過ぎなかったと振り返っています。
春は新社会人として多くの若者が職に就く時期です。理工学系を卒業した学生の中には研究・開発職に就く方も多いのではと思います。しかしながら、いきなりこの職に就くのは如何かなと自身は考えます。現場でしっかりものづくりを覚え、品質保証やできれば営業も経験し品質、ニーズ、フォーキャスト、原価などを理解したうえで、研究、開発職に就くことが望ましいと考えています。学業時代は、表現は適切ではないですが、論文の為の研究が多かったのではないかと感じます。しかしながら、学業時代は研究を通じ知識、技量を養うことが必要ですので、それも重要と思います。ところが、企業での研究は利益に繋がる研究、開発となります。期待成果に対し見込みのないテーマや研究、開発はバッサバッサと削られます。これが現実です。必然的に、いつまでに成果をあげねばならないというマイルストーンが設定されます。その為、効率よく作業を進め、結果を出すことが必要になります。研究でいえば学んできた実験計画法が役立ちます。上手くいかないときは、FTA(Fault Tree Analysis)解析法を用いて要因を潰しにかかるなどが有効です。学業時代に期限を定めて取り組んでこなかった方々にとっては、期限を定めて取り組むという点に大きなプレッシャーを感じるかもしれません。少々脅し気味な記述となり、反対意見もあるかとは思いますが、あくまで経験を基にした私感ですのでご勘弁を。
企業側にも望みたい点が…将来性のある研究、開発においては短中期的な成果で見極めをせずに望んで欲しいと思います。営業主導的の場合、どうしても目先の売り上げ、利益に目が向いてしまいがちで、成果がなかなか出ない研究、開発は窓際に追いやられる傾向があります。エンジニアが一番やる気をなくす状況です。いずれ企業の成長もなくなると感じます。そのような企業を幾つも見てきました。是非、将来性のある研究・開発は、フォーキャストで見立てた時期までは最低限継続をと思います。勿論、目的、目標が時代とそぐわない状況となれば見直しは必要です。

技術者にとって必要なセンス
 技術者(技術屋)にとって大切なことは、専門知識を有し、且つ、ものづくりができること、そして、発想力、問題解決力、突破力を有することと思います。
基礎知識や専門知識があることは鬼に金棒であることに間違いはありません。しかしながら、それがかえって邪魔をしてしまうこともあります。専門知識豊富なために、その蚊帳から抜け出せず新たな思想が湧いてくることなく無駄な作業の繰り返しで時間だけが過ぎていくなんてことも。そんなジレンマに陥った時、リフレッシュは欠かせません。以外にもすんなりとアイディアが湧いてきたりします。また雑学も結構役立ちます。知識の引き出しは多いことに越したことはなく、専門分野以外、異業種にも幅広く興味や関心を持つことは大切と思っています。それは趣味の分野でもいいと思います。まったく別の視点からアイディアが湧いてくることや、研究成果(失敗も成果)が異業種で応用できることに気が付くことも多々あります。広範囲な分野に関心を持つことは決して無駄ではなく、人生も豊かになるのではと思います。
加えて、“気づきの能力”を養うことも重要で、例えば何らかの研究や開発中に、目の前の事象をみて、いつもと違う様子や特異的な現象に気が付く、付かないでは成果に大きな差を生むことがあります。日常生活でも役立つ“気づきの能力”を養うよう努めることをお勧めします。

基礎基本の大切さ
 「何事も基本が大事」なんて言葉をよく耳にします。何かを成そうと思ったときに意識していることは何と聞かれると、大抵の方は「あきらめないこと」とか「やり続けること」と答える方が殆どです。勿論、とても大事なことと思います。継続は力なりって言いますから。ただ、「あきらめないこと」や「やり続ける」こと以上に大切なことがあると思います。それは「基礎基本」ということではと思っています。「そんなのわかってるよ!」という声が聞こえてきそうですが。それでは「基礎基本」って何ですか?と尋ねると意外と正確に答えることは難しいと思います。分かっているつもり、習得したつもりでいて錯覚しているに過ぎないかもしれません。言い換えれば「基礎基本」というものをそんなに重要視していないのかも。さて、基礎と基本とは? 調べてみると、基礎は①物事が成立する際に基本となるもの ②建築物の重量を支え、安定させるために設ける建物の最下部の構造、基本は、物事が成り立つためのよりどころとなるおおもと。基礎。(参照:大辞林 第三版)とあります。簡潔に言えば基礎基本は、ものごとを成り立たされるための元となるものであり、土台であるということです。この土台がいい加減だったらどうなるかはお察しのとおりです。家で例えれば土台がいい加減であればいずれ家は傾き、場合によって崩壊なんてことにも成りかねます。これを私どもが身を置く表面処理業界に当ててみると、様々な工程、品質トラブルの点で垣間見ることができます。仕事柄、多くの企業から相談が毎日のように来ます。その殆どは品質問題です。工程管理の状況やトラブルが発生した経緯を伺ったり、現地現物をみたりすると、基本的なことがおろそかになっていることが多いのです。おそらく当初は出来ていたんだろうと思いますが、いつしかお座成りになり基本が忘れられているというのが実態ではと思います。故に、基礎基本的な知識、技術、技能は定期的な反復学習や研修を行うことが大切ではと思います。自身も恥ずかしながら分かっているつもりで、実は分かっていなかった、忘れていたってこともあります。どれだけ基礎や基本が大事だとわかっても、だんだんと重要視しなくなってしまうのはなぜなのか。私の経験で言えば①習得したつもりでいる、②時間がなく焦るがあまり、すぐに取り掛かれるテクニックやノウハウ的なものに意識がいってしまうところかと思います。
 何事も基礎基本をしっかり反復し、世に役立つもの、喜ばれるものを創出できるエンジニアに成長することを理工学系新社会人の方々に期待致します。
 最後になりますが、数年前、ツーリングがてら成田山に参拝したときの事です。前に並んでいた親子の会話の中で、父親が小学低学年くらい子供に「中途半端は無に等しい」と語っていました。今でも耳に残る一言です。


材料・表面工学研究所 入所の心構え
関東学院大学材料・表面工学研究所
顧問・特別栄誉教授 本間 英夫



 新年度を迎え、材料・表面工学研究所にも新しい所員の方々が入所しました。
そこで、20年前の雑感シリーズ4月号の「研究室に入るにあたって」と題した記事が今も通用するので少しアレンジして再録しました。
また、雑感シリーズをお読みの企業の皆様方には、この心構えが、新入社員教育にも通ずることがあると思いますので、ご参考にしていただければ幸いです。

 諸君はこの4月から材料・表面工学研究所の一員になるわけですが、研究所のルール、カラーについて、以下に述べます。
 大学の三年間、生活のリズムが大幅に狂っていた学生が多いと思います。早く、研究室のリズムに合わせるようにすること。
朝は9時半から1時間程度、英語の輪講会を行います。国際化の中で、益々英語は国際語として重要になってきました。英語の能力を向上させるには、毎日の訓練が大切ですから、挫折せずに最後までやり通すように。実際の指導は、スタッフの先生と院生があたります。従って、実験は10時半から開始することになりますので、輪講会の前に実験の段取りをしておくように。いかに効率よく、無駄を省いて、研究に着手するか、要領よくプラニングをすることが大切です。
実験の終了は、その実験の進捗状況によりますが、5時または6時頃に終了するように。マスター及びドクターの学生は、時には10時過ぎまで研究室にいます。彼らは既に目的意識がしっかりしていますし、研究を義務感からでなく、楽しく充実感をもって行動しているからです。又、彼らは、研究の成果をいち早くまとめ学会で発表したり、学会誌に投稿しますので、その為に遅くまで残っていることが多いわけです。
 使用薬品の性質をよく理解してください。薬品による事故が起きています。
以前に、高濃度の水酸化ナトリウムが、本人のケアレスミスから、目に入ってしまったことがありました。私がアドバイザーキャンプで新入生と共に一泊で出かけており、ミーティングをしているときに、大学から電話があり、救急車で病院に運ばれたとの第一報が入りました。
 そのときは、瞬間的に本人は失明間違いなしで、私自身の責任、進退、保証について覚悟を決めました。勿論、学生全てが、強制保険に加入してはいますが、それだけで済むものではありません。本人に全面的なミスがあったとしても、当然、私の管理不行き届きは免れません。
数十分後に第2報が入り、大事には至らず、本人は研究室に戻ったとのことでした。本人は、幸運にもコンタクトレンズをしていたからでした。
 私は、毎年新しい卒研生を迎えたときの第一声は、実験を行うときは保護眼鏡を付けるようにと、言ってきました。実験を行うにあたっては、薬品の性質、反応性を理解し、慎重に扱うよう。諸君も徐々に実験になれてくると、そこに事故につながる落とし穴があります。あくまでも慎重に、しかし大胆に実験を進めるようにして下さい。薬品を怖がって扱っていると、危険度が上がってしまいます。
 実験中の事故に関しては、この他に、硫酸や硝酸による火傷、エーテルなど揮発性の高い有機物質の爆発やそれによる火傷、その他本学または他大学で発生した例が幾つかありますので、いずれこれらの例については話します。
 卒研生、大学院生とも、極力徹夜をすることは禁じています。徹夜で実験すると、研究が進んだと錯覚しますが、翌日に疲労が蓄積し、結果的には効果は上がりませんし、危険度も増大します。研究は、マラソンレースと同じで、焦っては良い結果をもたらしません。
 実験には失敗はありません。そこにはその条件での結果が得られているのですから。失敗と思った結果から、思いもかけない新しい発見につながることが度々あります(セレンディピィティ)。諸君は、はじめから、自分の考えに基づいて、研究の方針を立てることは出来ません。アイデアも知識がなければ出るものではありません。はじめは、先輩のまとめた卒業研究や修士論文、博士論文、既に本研究室で外部に公表した論文、または、国内外の論文を参考にして、大学院生の指示に従って、研究を進めることになります。理解が進むにつれて、自分のアイデアをどんどん入れて研究を進めて下さい。それには常に目的意識を高くして、自分の行った実験について、同僚をはじめ先輩と討論したり、論文をよく読む習慣をつける必要があります。進捗報告会として週間報告、月間報告、春夏秋冬の報告をすることにしたいと思っています。
 「下手な考え休みに似たり」といいますが、実験の計画を綿密に練ることに時間を割いてばかりいて、いざ実験となると、その計画に振り回され、臨機応変な判断が出来なくなる人がいます。
私の信条は、アイデアが出たり、とっさにひらめいたら、先ず実験をやってみる。その時の現象をじっくり観察する。考えてばかりいても前には進みません。
  “Do and see ,don't think too much!”
 私を含め大学院の学生や諸君と論議していて、アイデアが浮かんだ時や外部からの依頼で、緊急にやらねばならないことがしばしばあります。極力、率先して手伝うようにして下さい。何にでも興味を持つことによって、知識が増え、発想も豊かになってきます。
 週間及び月間報告を行いますが、私を最近多忙で、毎回これらの報告会に、参加できないことがあると思います。しかし、スタッフの先生や大学院の学生が音頭をとって、必ず、このペースを守るようにして下さい。はじめは若干、きついかも知れませんが、これは研究を進める上で良い習慣ですので、途中で挫折すること無しに、このペースを守りましょう。又、同僚及び先輩とのディスカッションは、研究室のポテンシアルアップにつながります。そのときは、上下関係を意識しないで、皆平等にフランクに意見を交わすように。
 直接諸君に実験の進捗状況を聞くことがありますが、数分で簡単に答えられるように、これも訓練です。自分のやっていることを、簡潔に要領よく答える訓練になります。
ディスカッションを行えるようになるには、先ず知識を深め広げる必要があります。今まで多用してきた学生用語に決別し、テクニカルタームを、文献から、専門書からマスターし、どんどん会話のなかで使っていくようにして下さい。
 諸君のこれから行う研究は、これまでの実験と全く異なり、研究室で行われてきた多くの実績成果の上に成り立っています。人によっては、これからの一年の研究で、その成果が学会に発表され、又論文にする場合もあります。しかし、これは既に諸君の先輩達が、基礎を築いてきたから出来るので、一般に、数年から5年くらいの長い期間、地道に実験を積み上げてきたからこそ、そこまで完成できたのです。一年で簡単に成果が出るものではありません。
 常に研究に対する心構えが出来ていますと、私がこれまで講義でよく言ってきた、偶然にあっと思うことに遭遇するチャンスが増えるでしょう。それは当人は自覚していなくても、私や先輩達が実験の中から見いだしてくれることが多いでしょう。勿論、諸君自らそのようなセンスが出ることを期待しています。
 正直言って、一年間では、研究の成果をまとめるのは至難の技でしょう。この一年間は研究の心を知ることだと、気楽な気持ちで着手しましょう。殆どの諸君は、将来研究職というよりも、もう少し広くとらえて、技術職に就くことになると思います。一年間の研究生活を通じて、工学的なものの考え方を知ることになります。営業職についてもこの考え方が必要です。
 実験ノートは必ずとるように!!!
 まとめは可能な限り一週間に一度はパソコンで整理しておくこと。これからは、毎月中間報告会を行います。又、他大学との研究交流会や、企業の技術者に集まってもらって、報告会もします。毎回まとめておくと、最後の卒論の作製が容易になります。
 研究室に、多くの企業の方々が見学にこられます。明るく挨拶をするように。他の研究室の先生方に対しても挨拶を忘れないように。
 企業及び公的研究機関との共同研究や委託研究を、幾つか行っており、そのテーマを諸君が担当します。なるべく均等にやってもらうように、配慮していますが、内容が基本的なものなら、応用的なものまであります。若干、人によっては負荷が異なると思います。
いずれにしても、打ち合わせのときに、私の部屋にきて説明をしてもらいます。これは諸君にとっては、極めて良い訓練になります。できる限り実験の内容を理解し、簡潔に説明できるようにして下さい。はじめは緊張しますが、一年間、経験を積むことによって見違えるように表現力が豊かになります。
とにかく、卒研を通じて、何でも興味を持つように。私や先輩たちが忙しく、諸君にいろいろ手伝いをしてもらうことがありますが、手伝うことによって、いろんなことが解り、一年間で大変な量の知識が蓄積されることになります。
 研究室内での喫煙は、禁止にしています。既にアメリカでは、たばこ産業界が、たばこの発ガン性を認め、売上利益の20%をガンの治療費に充てることを了承しています。喫煙している人は、なるべくこの悪い習慣をやめるように努力して下さい。体には何も良いことがありません。唯一アルツハイマーに効果があるそうです。アメリカでは、喫煙者は自己をコントロールできない人であると評価が低くなるようになっています。
 また、食事の後の糖分の多い飲み物は摂らない方が良いと思います。酸性体質になり、全く良いことはありません。食事は栄養価に留意し、規則正しいリズムのある研究生活を送って下さい。遊ぶときは大いに遊んで下さい。明日の活力が出るような遊びをやって下さい。遊びは再生産です(recreation)。ただし、娯楽産業に遊ばれないように。ほとんどの人は遊ばれています。ずるずる怠惰な日々を送らないように、充実した毎日を送るよう心掛けてください。
 私は、かなりきつく、生活面や道徳面について注意をしますが、社会に出たら、あまり同僚や上司から、仕事以外では注意をしてもらえません。はじめは諸君の気分を害することになると思いますが、教員と学生、いや本学の先輩と後輩の関係だから、きついことも本音で、ずばずば言えるのです。素直に受け取って下さい。
私は、愛情と情熱を持って、諸君の指導にあたるつもりです。あまりにも単刀直入に諸君に言いますので、誤解されやすいのですが、そんな時、不満がある時、思い切って私に直接話して下さい。
 就職活動は、自分で積極的に動いてもいいですが、今までの経験から、あまり成果が出ないと思います。自信のある人は、自分でどんどん挑戦することも大切です。私がしばらくして諸君の希望を聞きます。
就職協定が廃止されたことは、諸君にとっても、企業にとっても、我々にとっても、良い策ではなかったのではないだろうかと思います。なぜならば、諸君の適正、能力、分野など、判断できるのは10月くらいでしょう。
現実はかなり早い時期に決めねばならないので、諸君の希望を4月から5月にかけて聞きます。また、大学院でさらに、もう少し自分のスキルを磨きたいと思っている人は、先輩の意見も参考にして、5月中に、ある程度決めるようにして下さい。

理科の授業はどのようにすればいいのか
関東学院大学 教授
材料・表面工学研究所 副所長
香西 博明(こうざいひろあき)


 高校理科を考えるにあたって見過ごしてならないのは、高校生の7割程度が文系志望であるという事実である。話を高分子に限れば、文系の高校生は高校では高分子を学ばない。そうすると、小学校で環境学習(総合学習)のときに、プラスチックのことを調べて、「高分子は大きな分子」という高分子の本質を理解せずに、高分子とは燃やすとダイオキシンの出るものということだけを覚えた子供は、そのまま成人してしまうことになる。高分子科学の成果がこれだけ人々の幸せに役立っている世の中で、高分子を環境の敵と考える人たちを増やさないための工夫がいる。小学校の先生の8割近くは文系である。ところが、小学生の抱く疑問や興味の対象は自然科学に関するものが多い。これでは折角の子供の好奇心を萎ませてしまいかねない。教育大学における小学校教員の養成の仕方を根本的に考え直す必要があろう。それは小学生時代の自然現象への強い好奇心を、自然以外も対象にして、いつまでももち続けられる土台をつくって欲しいと思うからである。
学校では事象や物についての知識を教えるだけでなく、それが出現するまでのプロセスと社会とのかかわりを子供によく学ばせることが大切である。先人の生活の工夫をその過程を想像しつつ学ぶことは、単なる知識とその応用力の学習のみならず、物事の根本を考える力を身につけることになる。また、プロセスを学ぶことは、それによって物をつくった人への感謝の気持ちと「もったいない」の心の養成にも役立つだろう。「有難う」の心なしには教育は成り立たないのではないだろうか。理科教育の大切なことは、知識とその応用の仕方を詰め込むことではなく、物事の根本を考える想像力を養わせ、それを創造力につないでいくことである。


1、高等学校の化学教育(高分子教育)の現状を眺めてみよう
 昨今の高分子材料研究の発展は目覚ましく、その成果はわれわれの日常生活の衣食住や医療の現場などで幅広く利用されている。しかし、高分子材料研究の先端的分野に高校生の興味、関心が十分にひきつけられているとは必ずしも言いがたい。学習指導要領における高分子の扱いは、教科書・化学基礎では、序章化学と人間生活の①人間生活の中の化学の項目内に、教科書・化学においては第5章高分子化合物の第1節合成高分子化合物、第2節天然高分子化合物、第3節高分子化合物と人間生活に大別されている((株)第一学習社より)。高分子化合物は、日常生活の中で、とくに物質として意識されることなしに、便利なモノとして利用され、廃棄されてきた。石油埋蔵量の限界が指摘され、省資源や資源リサイクルが話題となっている。材料として人類が手にしたから日の浅い高分子についての知識が市民に行き渡っていないのは、歴史が新しいだけではなく、高分子化合物の成り立つについて高校までの学校教育の中で取り上げるには、内容が難解過ぎるためである。しかし、高分子といえども、その結合の種類は普通に低分子と同じであることを、構成単位を単離して確認する生徒実験で理解させることができることだろう。構成単位が何千何万も連なると、まったく新しい性質を示すようになることを学習させることにより、リサイクルの中でも原料に分解して再利用するケミカルリサイクルが、従来の製品リサイクルとは違った高品質の高分子を再生できるリサイクルであることを容易に納得させることができる。ところが、生徒の受験が不利にならぬよう、生徒実験(実験項目数5以上)を展開することができるどころか、授業時数不足で困っているのが現状である。

2、現場での授業に期待すること

 今や生活のあらゆる分野に材料として利用されるようになった高分子である。合成高分子の歴史は、自然を調べてまねるところから始まった。絹の成分フィブロインの構造をまねて、カロザースが1935年に、アジピン酸とヘキサメチレンジアミンからナイロン6,6の合成に成功したこと。同じカローザスが天然の生ゴムの構造をまねて1931年に合成ゴムのクロロプレンをつくったことなど、分子構造に着目しながら歴史的な発明を紹介し、ヘキサメチレンジアミンとアジピン酸ジクロリドからナイロン6,6をつくる生徒実験を行うべきである。高分子の研究によって新しい素材が生まれ、科学の進歩を生み出している。身のまわりにあふれる高分子がまさに生活を変えている。次世代を担う高校生に、高分子をはじめとするさまざまな物質をミクロな分子の視点でとらえてマクロな物質の性質と結びつけて欲しいと願っている。先端的な分野に高校生の興味、関心をひきつけて欲しい。生徒に、現在の、多くの高分子の機能の応用例を、実物を用いて具体的に示す機会があれば、その便利な機能を化学的に探求しようとする姿勢や、その機能を理解するための化学的概念等を学びたいという欲求への契機となることだろう。実際に生活に役立つ高分子の機能を目の当たりにすることは興味深い。自然そのものを探求する能力や態度を得てしてより具体的なものから啓発されやすいともいえる。
近年の「グリーンケミストリー」といった言葉に代表されるように、環境問題への意識が高まるなか、高校教科書や図説資料などにおいても、「生分解性プラスチック」が単元として取り上げられてきている。授業を進めていく中で生徒は、「生分解性プラスチックとはどういった物質なのか」「最近よく耳にするが通常のプラスチックとは何が異なるのか」などと非常に大きな興味・関心を示している。そこで、新素材を通して化学に対する動機づけを行い、環境問題への意識向上を図ることも大切であり、代表的な生分解性プラスチックであるポリ乳酸の教材化について研究を行うことも必要ではないか。今後も、生徒が興味・関心をもつような新素材を取り入れた実験の教材化について研究を重ねながら、さまざまな進路希望をもった生徒にも対応できる取り組みを目指して努力してほしい。また、生徒・児童の化学教育への援助を我々が所属する大学、もちろん企業、各種学会と連携しながら行えれば効果的であると考えている。
理科教育の重視が、科学の知識と探究の方法を学ぶことに加え、すべての生徒を対象として科学的素養を培うものとなることを望みたい。

自己紹介
材料・表面工学研究所
田代 雄彦


 今回、研究所の雑感シリーズの担当に任ぜられ、何を書こうかと思案した結果、やはり自己紹介からが良いかな?と思い、過去にハイテクノに掲載された内容を大幅に加筆修正しました。

 私は静岡県東部の沼津市で生まれ育ちました。私の通った小学校と中学校は、道路一つ隔て隣接した学校で、周りは全て田んぼという立地でした。そんな自然のある中、子供の頃は学校の宿題はそっちのけで、川に海に山に遊びまわっており、廊下に立たされたり、正座させられたりと、今でいう問題児だった様な気がします。現在と違い当時は、鉄拳制裁は当たり前で、先生に物差しでビンタをされた友達も居ましたが、校内暴力は一切なく、伸び伸びと育ったと思います。

 そんな私が一大決心をした出来事がありました。それは中学入学直後の実力テストでした。一学年三クラスと少ない生徒数(約120名)でしたが、その順位は下から十番くらいの三桁だったと記憶しています。「このままでは駄目だ!」と思った私は、宿題の時間を除いて、毎日七時から十二時の五時間勉強することに決めました。当時は家内の父の権限は絶大で、小さい頃からテレビは夜七時までしか見せて貰えませんでした。
 しかし、勉強自体ほとんどしたことが無かったので、何をどうしていいのか分からない。取り敢えず、教科書を読むことにしたのですが、知らないことだらけで、当時流行の蛍光マーカーでチェックすると、各ページ全てに多彩な色が付く有り様でした。
 そんな当時の座右の銘は、「ローマは一日にしてならず」、「努力に勝る天才なし」という言葉でした。自分は馬鹿だから努力するしかない!そう自分に言い聞かせて日々勉強を続けました。その甲斐あってか、一学期末の成績は学年の上位三十名に手が届くところまでになりました。また、勉強を習慣付けることで、自然に集中力が養われ、授業を良く聞く様にもなりました。面白いことに、運動能力も養われたようで、小学6年時のスポーツテストの走り幅跳びの記録が4mに満たなかったのに、中一で4m60cm、中二で5mは優に超え、集中力と運動能力のアップを実感した頃でした。中学時代は機械体操部に入っていたので、全身の筋力が付いたことも要因と思います。
 この毎日五時間勉強法を一年続けたのですが、二学年になると授業中にある程度理解でき、集中力も増した分、勉強時間は二時間程度に減り、成績も一桁と二桁程度に安定しました。この頃、各授業の宿題は休み時間中に終わらせることを習慣付け、より家での勉強を効率的に行う様になりました。元読売巨人軍の王貞治氏の言葉に「努力が報われないことなどあるのだろうか。報われない努力があるとすれば、それはまだ努力と呼べない」と世界の本塁打王が語った様に、やはり努力は必ず報われるのです。

 私の朝は、四時半に起き、洗顔後、タンクリーナーで舌の掃除をします。その後、無調整の牛乳と豆乳をコップに一杯ずつ飲みます。胃に水分が入って大腸を刺激し、この刺激が腸を動かすので、副交感神経を活性化し、自律神経のバランスが良くなり、一日を快適に過ごせるそうで、毎日実践しています。その後、様々なサプリメントを白湯で取り、冷えたお腹を温めます。基本的に水分は財宝温泉水で一日に2リッター程度飲みます。
 次に、カーテンを開け、愛犬用のお水を交換し、仏壇に新しい飲み物とお線香をあげ、コップ等の洗い物を済ませたら、階下で歯磨きや髭を剃り、出掛ける準備をします。
 自宅から小田原の研究所まではドアドアで約2時間弱です。電車とバスで移動し、乗車中は趣味の読書をしています。だいたい週に1冊、年間約60冊読破しています。
 朝食は具が梅干しの玄米おにぎり1個、茹で玉子2個とチーズ一片、無糖のコーヒーを研究所に着いてから頂きます。玄米は一日に必要なミネラルが摂取でき、コーヒーのカフェインはアルツハイマー予防に効果的です。但し、朝および昼は体内の免疫力が上がる時間帯であるため、カフェインの摂取タイミングには注意が必要です。私は起床から8時半まで、昼の12時から13時にコーヒーは飲まない様に気を付けています。
 そして、週末は半日ファスティングを時々行います。近年、長寿に体内のミトコンドリアの量が関係していることが解明され、この量を増やすのにもファスティングは有効です。この様な生活を習慣化した結果、若い頃は重度の便秘症で、冬は膝から下の感覚が無くなる程の冷え症だったのですが、現在それらの症状は全くありません。また、高コレステロールの体質だったのですが、毎日玉子を3個以上食べる様になってから、数値が激変し、今では正常値になっています。

 当時の私の家庭は裕福とは言えず、姉が私立高校に入学したこともあり、私立高校進学は絶対駄目だと両親に言われていました。そこで、国立高専と公立高校を受験したのですが、国立高専は見事不合格、公立高校に通うことになりました。高校受験での挫折、努力が未だ足りなったのです。次の挫折は大学受験、国立大学をまたも不合格、浪人することになりました。翌年、希望の大学を受験も失敗、滑り止めで受けた関東学院大学の特待生試験の一般で引っ掛りました。私立は金銭面で苦しかった筈ですが、それでも両親と姉のお蔭で、大学を無事に卒業することができ、とても感謝しています。今考えると、これらの挫折が無ければ、私は本間先生や高井先生と出会っていなかったのですから、人生は「七転び八起き」、不思議な縁を感じます。その後、本間先生のご紹介でメルテックスという表面処理薬品メーカーに入社し、研究部に配属され、私の「めっき」とのご縁が始まりました。
 入社当時の直属の上司は、与えられた仕事の他、アンダーザテーブルでの研究を承認して頂けたので、無電解ニッケルめっきの基礎研究を始めました。数年後、技術顧問として福田豊氏が研究部に配属され、氏の紹介で金材研の分析装置を使用できる機会に恵まれました。また、当時、都立大学の渡辺徹先生をご紹介頂き、その研究室に一年間研究生として通えたのも貴重な体験でした。メルテックス在籍時に研究論文をファーストで二報、北海道大学の安住和久先生の研究論文三報の連名に入れて頂けたお蔭で、関東学院大学大学院工学研究科博士後期課程工業化学専攻に社会人として飛び級で入学出来ました。人間とは「人」の「間」と書きますが、私は様々な方々と出逢い、良い人間関係に恵まれたと思います。
 入学後二年間は、社会人と二足の草鞋を履いていましたが、諸事情により十三年勤めた会社を辞め、会社から授業料を七割負担して頂いていたので、大学も辞めるつもりでした。しかし、当時の下郡社長は「そのまま続けて学位をとりなさい」と仰って下さいました。私はそのお言葉に感激したことを今でも覚えています。そして、本間先生や当時の学生達に多大なご迷惑をお掛けしながら、無事三年で学位を取得出来ました。これも本間先生はじめ当時の学生達、社長や上司、同僚のご理解とご指導の賜物と感謝しています。

 産学協同で新しい研究所を設立するとの事から、関東化成工業に入社し、関東学院大学表面工学研究所に出向することになりました。ここでは、前職と異なり、常に学生達と一緒に研究をしなければなりません。学生の生活面や研究の指導など不慣れなことばかりでとても大変でした。中には素直でない学生もおり、人間関係の難しさを痛感したものでした。ちょうどこの時期に家を購入、結婚し、妻と愛犬との生活が始まり、私の生活環境は大きく変わりました。

 周りを変えることが出来なくても、自分は変わることが出来る。そんな出来事がありました。それは母親の死です。そして、その直後の父親の癌発症です。それまで親はいつまでも居ると勝手に妄想していたのですが、現実を突き付けられました。私も親も年をとるのです。私は50前にして、両親を亡くし、親孝行をする事無く、両親を見送ることになりました。親孝行出来なかった事が、私の最大の後悔です。その時、「命」とは何だろうか?と真剣に考えました。私の結論は、「命とはエネルギーの盛衰」ではないかと考えました。赤ちゃんは何もしゃべらなくても、周りの人に幸福感を与える正のエネルギーを持っています。それが次第に、少年、青年、壮年、老年という様にエネルギーの色が赤色、青色、灰色、白色と変わっていきます。私も灰色掛かった歳になりましたが(今年55歳)、もうひと踏ん張りします!
 人の感情を表す「喜怒哀楽」という言葉がありますが、この中で一番エネルギーを使うのが「怒」です。一生涯のエネルギー量が決まっているのであれば、「怒ること」は命を縮めることに繋がると思います。そこで、私はなるべく怒らない様に、汚い言葉も使わないように気を付けています。また、「忙しい」とは「心」を「亡くす」と書きます。ですから、極力この言葉も使わない様に気を付けています。言葉には力があります。昔から「言霊」と言われている所以です。

 当研究所の契約企業に「学びに引退なし」というスローガンを掲げている会社があります。この言葉を目にした時、私は衝撃を受けました。戦前、戦後を通して日本教育界の最大の人物と云われた森信三氏の「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず一瞬遅すぎない時に。」という言葉を思い出しました。人間だけでなく言葉も同じではないかと思います。ちょうど個人的に色々と悩んでいた時に、この言葉に出逢ったので、精神的に救われた思いでした。
 人は生涯学び続けるべきで、時々休んでも、前に進むべきであると気付いたのです。そこで、約九年勤めた関東化成工業を辞め、本間先生のご指導を仰ぐことを決心しました。当初は自己都合で退職届を提出したのですが、当時の福原会長、田中社長のお計らいにより、会社都合で退職出来ることになりました。私はつくづく周りの人達に恵まれていると感じました。その後、本間先生と高井先生のご尽力のお蔭様で、本学に採用され、今の私があります。

 表面工学とは、非常に広範な分野であり、私も未だ未だ分からないことばかりですが、本間先生や高井先生はじめ、スタッフや学協会や契約企業の方々、学生達のご指導を仰ぎながら、日々成長して行けたらと思います。最後に私の敬愛する福沢諭吉翁の「心訓」という言葉を紹介したいと思います。当たり前の事ですが、人間として常に意識し、決して忘れてはならない大事なことだと思います。そして、この七つの心訓には順番がありません。この全てを優先させることが重要です。

一、世の中で一番楽しく立派な事は
  一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は
  人間としての教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は
  する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は
  他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は
  人の為に奉仕し決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は
  すべての者に愛情を持つという事です。
一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です。


(了)

 

走馬灯(2006年晩夏、病室にて)
関東学院大学 カウンセリング・センター
所長 有田 匡孝

前書き

 毎日多くの方々が研究所においでになりますが、先日、大学の元カウンセリングセンター所長の有田匡孝先生(現 葉山ハートセンター)が訪問され、在職中に執筆されたエッセイをいただきました。
 誰もが精神的な悩みに直面し自分なりに解決していますが、このエッセイを読み終えて皆様にもお伝えしたいとの思いにかられました。
有田先生に転載の許可をいただきましたので是非ご一読ください。
 どうぞよろしくお願いいたします.

関東学院大学
材料・表面工学研究所
所長 高井 治

 今年の夏、思いもよらない神経系の難病で4週間程入院いたしました。
 医師としてではなく、一人の患者として治療に臨もうと白旗を掲げて入院いたしましたので、検査、治療中は不安や焦りもありましたが、長年の忙しさからは開放され、自己を見つめる物理的余裕も持てました。私の精神医学は門外漢で、心理学の素養もほとんどないのですが、これまでの経過をどの様に解釈したらよいのかと、甚だ我流ですが分析を試みました。そして、そこから導き出され得た結論は、「私こそ専門家のカウンセリングが必要だ」という事でした。
 以下は「迷える羊の告白」或は「医者が患者になった時」とでもお読みくだされば幸甚に存じます。
 私の専門は循環器内科です。
 循環器の生命線は救急医療で、携わるスタッフのほんの数分の決断が患者さんの生命、予後に大きな影響を及ぼします。突然の発症に対応するために24時間スタンバイのことも多く、心身共にかなりきつい職場です。ですが、元来気が短い私には、勝負が早いこの外科に近い循環器内科が性格的にあっていたようです。
 胸痛の患者さんが緊急で入院されて、診察と検査の結果から心筋梗塞と診断が下されます。治療は一刻を争います。心筋梗塞の治療は心臓カテーテル室で行われます。手術室と似たような部屋と思ってください。治療内容を簡単に説明しますと、患者さんの上肢の血管から細いワイヤーとカテーテル管を慎重に挿入していきます。医師はテレビ画面に映し出されたレントゲン写真を視ながら、冠動脈の閉塞部分を見つけだし、カテーテル管の先端についたバルーン(風船)で閉塞した血管部分を広げます。集中力と瞬時の判断が要求される手術です。治療が成功し、痛みと不安から解放されて、元気になられた患者さんの笑顔を拝見する時は医者冥利につきます。
 しかし、外来における診療はまったく様相が異なります。患者さんの病状を診察するばかりでなく、時間をかけて患者さんのさまざまな訴えを聞いて差し上げなければなりません。一言で言うならば、いわば人生相談の様なものです。
 心身症という病気あります。カウンセリング・センターでも診られる神経性食欲不振症(拒食症)などが典型的でしょうか。こころ(心)の悩みが、からだ(身体)に影響する病気です。統計によって程度の遣いはありますが外来患者の少なくとも20%位に見られる病気です。
 近年増加に傾向ある、うつ病の中に仮面うつ病といって心の病(元気がない、疲れやすい、沈んでいる、など症状はたくさんあります)が前面に出ないで(隠れていて)、身体症状が見かけ上の主な症状として出て来ることがあります(頭痛、胃腸の不快感、肩こり、不眠、体重減少など肉体症状は様々です)。実際はうつ病であるのに、見かけ上の身体症状という仮面をつけているのです。患者さんはまさか身体症状の奥に隠されている心の病とは思いも及びません。医師のほうも注意を怠って表に現れている症状ばかりにとらわれていると、患者さんの本来の病態を誤って診断してしまう恐れがあります。その結果、身体に出てきた症状の検査、治療ばかりに追われることになってしまいます。
 30年以上も内科臨床医をやっておりますと、 患者さんの訴えに隠れた心の病をみることはしばしばです。
 診療の現場で患者さんの訴えを忍耐強く聞くこと、そしてやさしい一言を掛けることによって患者さんが安心出来ることがよくあるのです。患者さんの笑顔を見ることは医師にとっての外来診療でのやりがいにもなります。診断・治療・検査などの医学の進参には日々目を見張るものがあります。しかし現代の検査優先、極論すれば、検査至上の医療で一番忘れ去られている領域は、心の問題ではないかと考えさせられます。
 カウンセラーの方々も同様ではないでしょうか。相談者を前にして、相手との目に見えないコミュニケーション(全体の雰囲気、声の調子、表情、目の動き、しぐさなど)、いかにしたら上手に相手との信頼関係を築けるか、こころを聞いてもらえるかがまず勝負ではないでしょうか。それに成果はすぐには出ないでしょう。長期間の闘いになるかもしれません。目に見えない数値に出ないアナログの世界(検査数値などはデジタルの世界)です。カウンセラーの方々の日頃の御苦労は十分察せられます。
 先の心身症に関連して聞きなれない言葉ですが、身心症(これは私の造語?ですが)もあります。慢性の身体の病気が心に影響するというものです。
 以下は私の個人的なことで誠に恐縮ですが、実は昨年末から右手指の巧緻性低下、筋力低下、右母指球筋萎縮などがあり、当初は整形外科で頚椎の病気ではないかと診断され、頚椎を固定するカラーを2カ月間着装しましたが一向に効果が表れない為、神経の病気ではないかと大学病院の神経内科を受診しました。今年の3月に検査の為に入院し、その結果、末梢神経障害に頚椎症か運動ニューロン疾患が加わった疑いがあると診断されました。運動ニューロン疾患と聞いて私はパニック状態になりました。30年以上も前の話ですが、医者になりたての頃です。長野県のリハビリテーション病院に大学から派遣され、そこで脳血管障害後遺症や神経疾患の症例を多く見ました。研修医の指導にあたられていた運動ニューロンの大家で、当時の信州大学医学部神経内科教授の塚越先生から「運動ニューロン疾患(物理学者のホーキンズは類似疾患です)は進行が早く、最後は全身の筋肉が障害され呼吸筋麻痺でなくなる悲惨な病気だ」、などとよく聞かされていました。この病気は今の医学では原因も不明で治療法もありません。当時から運動ニューロン疾患は恐ろしい死の病という意識があったので私は萎縮した右母指球を見つめて、このまま麻庫が進行したら、仕事が出来なくなってしまうのではないか、あと数年のうちに死んでしまうのではないかなどと思い込んで疾病恐怖症、不安神経症に落ち入ってしまったのです。(この思い込みというのが私の性格のキーワードです。森田療法でいうところの自己中心的なとらわれ、認知行動療法でいう認知の障害;認知のゆがみによる非現実的、不適応的な自動思考、特に恣意的推論による結論の飛躍、先読みの誤りで物事は必ず悪い方向に進み、この病気は絶対に治らないと決め込み思い込むこと。フロイト流精神分析よりこの認知行動療法は究めて森田療法に近いと思われます)
 日常生活においては起床時の歯磨き、洗面、髭剃り、箸を持つ等の動作に伴う倦怠感があり、手指の痛みで食事をとるのがめんどうなこともあります。仕事上ではパソコンのキーボードを打つのがつらい、字を書くのがつらい、重いものが持てない、両肩の凝りと痛み、しびれなど症状となって表れて悲観的なことばかりに神経が集中していました。不安から不眠状態に落ち入り、まるで自分が重症の身障者になってしまったかのようです。その頃は、父の看病そして死の看取りなどの不幸も重なり、まさしくうつ状態でした。今でも睡眠剤、安定剤などは手放せません。症状が出始めて8ヶ月を過ぎましたが一向に症状は改善されず、また病気を受容できないこともあり、いらだち、焦り、不安感等が募り、妻にも同じ事をグダグダとこぼすようになりました。負けず嫌いの私にしては珍しいことです。さすがに妻も今回は尋常ではないと感じたのでしょう「性格もあるでしょうが、医者としての経験や知識があるばかりに自分の病気を悪い方、悪い方へと思い込んでしまって、それにあなたはいつも自分のこととなると中途半端でいけない、紺屋の白袴、医者の不養生と言うでしょう、今度ばかりは素直に患者の立場になって、すべてを主治医に任せて入院なさい、下駄を預ける事も大事ですよ」と強く諭され観念して、大学が夏休みに入り何とか仕事も一区切りついたので、7月末より素直に入院した次第です。
 今は検査、検査の連続です。原因ははっきりしませんが、幸い思い込んでいた運動ニューロン疾患ではなさそうですが、いずれにして難病の免疫性末梢神経障害というややこしい病気のようです。神経疾患は治療法の少ない難病が多いのです。最近はやっと積極的にこの疾患とともに人生を乗り切らねばならないと考えられるようになってまいりました。どうして今回の疾病を、実際よりも悪い方へ悪い方へと思考して、落ち込んでしまったかといいますと、実は、私は若い頃から疾病恐怖、死の恐怖などによる不安神経症の傾向がありました。これは育った家庭環境と青年期における苦い思い出の双方が関与していることと自己分析しております。
 話は高校3年生の受験の直前に遡ります。年も開けて、受験を間近に控えた1月でした。机を並べて一緒に勉強していた私の一番の親友が突然学校に来なくなってしまいました。病気で入院したとの知らせを受け見舞いに行くと、彼の母親から「腎臓の病気で1年は持たないだろう(尿毒症)と医者に宣告されてしまった」と涙ながらに伝えられました。その言葉を聞かされた当時の私の精神状態をはっきりとは思い出せませんが、親友が死んでしまうなんて、驚きと、理不尽さと、怒りと、悲しみ、死の恐怖、喪失感などが複雑に入り混じったパニック状態で、生まれて初めての深い絶望と挫折感を昧わいました。
 その年は両親の手前見かけ上の受験をしましたが、そんな不安定な心理状態の中ですから、大事な追い込みの時期というのに勉強も手につかなくなり、当然第一志望の大学には不合格。浪人時代は予備校には行きましたが常に漠然とした不安がつきまとい、将来への希望も見失って勉強にはまったく身がはいらない状態でした。 親友は発病から1年後の1月、「腎結核による尿毒症」で亡くなりました。尿毒症と診断した医者の誤診でした。誤診による親友の死を無駄にしてはいけないとの正義感であったのでしょうか、ともかく(思い込み)から唐突に医者になろうと決心し、将来は外交官になろうなどと志していた私は文系志望を急遽理系受験に方向転換しましたが、間際から準備しでも医学部に合格するはずもなく、結局その年の受験も不合格でした。この思い込みも今なら衝動的で自分中心的なとらわれだと分析できます。もともと子どもの頃から病院の消毒の匂いや白衣は好きではありませんでした。また病気や死が怖くて到底医師には向いているとは思えません。そんな私の方向転換に両親は驚き反対していましたが、そのうちに何とか国立か公立の医学部ならと受験を許してくれました。文系の勉強しかしておりませんでしたので二浪時代は理系の勉強で大変な思いをしました。精神状態は極限に達し、常に悲壮感が漂っていました。
 幸運にも翌年の春には医学部に入学を果たせましたので、浪人時代の不健康さから脱出して少し身体を鍛えようと思いボート部に入部しました。ところが入学早々、大学の健康診断で尿に蛋白が出ていると指摘され、実際の程度は軽かったのですが、小学校の4年生のときに急性腎炎に罹り、一ヶ月あまり自宅療養したことを思い出しまして「本当は慢性腎炎なのだろう。親友と同じでどうせ30歳までには尿毒症で死ぬのだ」と、またここで短絡的な思い込みをしてしまいました。ですから学生時代は自暴自棄気味で授業はよくさぼりました。遊ぶでもなく勉強するでもなく悪友達と銀座などをうろつき回っていました。現在の医学部でしたら落第間違いなしです。20歳の頃ですから今よりはもっと強烈な生への欲望があります。医学の勉強だけでは心が満たされず、どうせ短い命なら出来る限りになんでもやろうという考えのもと、立派な人間になるためと称して、極めて観念的に宗教書や文学書を読みあさり、自分を高めるために自己改造などと称して無駄な抵抗を試みていました。ですが、あるべき理想の姿と現実のギャップとの乖離による葛藤、焦りはひどく私を悩ませ、煩悶の解脱を求め、焦れば焦るほど、もがけばもがくほど泥沼の深みにはまってしまっていました。そんな中で森田療法の本に行き当ったのでした。これで救われると思いましたが、弱冠二十歳では機が熟していなかったとしか言いようがありませんが、その当時は中途半端なままの理解でした。その後も人生でつまずいた時、行き詰まった折には森田療法関連の本を読みました。また今回も病と向かい合い、今まで何度も手にしたことのある森田療法の本を開き、その内容の素晴らしさを再認識いたしましたので、ここに若干述べさせていただきます。
 森田療法で有名な森田正馬先生は、1874年(明治7年)高知で生まれました。名門の県立第一中学に入学しましたが、心臓神経症や脚気、腸チフスに罹り、また不安神経症、疾病恐怖症で苦しみ、落第を数回繰り返しています。熊本第五高等学校の時期は比較的落ち着いた生活のようで寺田寅彦などとの交流が記されています。その当時の日本は西洋医学の黎明期であり、現在とはまったく異なり今日のような診断、治療法などは開発されておらず、特に精神科領域においては、神経質などの神経症は神経衰弱(今時、こんな病名はありませんが)にひとくくりにされる時代でした。そんな彼が長年の病気を治したのは、東京帝国大学医科大学在学中の神経衰弱、脚気で薬を飲んでいた26歳の頃、大学での進級試験が迫るも体調が悪く試験を受けられるかどうか思案していた時期でした。そのころの日記に「久しく父より送金なくして余は甚だしくこれを恨み憤り、父に対する面当て半分に自ら死を決して服薬を廃止し、思い切り試験の勉強なしたり。然るに意想外にも脚気および神経衰弱症にさほどの影響もなし。試験は以外の成績にて195番中25番なり。」、当時脚気は原因がわからず恐れられていた病気で、彼は本当に死を賭したのでありましょう。この経験が後の森田療法の原点となります。いわゆる恐怖突入であり、必死必生、背水の陣であります。長い間の父親との確執。教育、強制、期待への行き違いなどの怒りでありましょう。そのときの父に対する怒りは、自分自身の中にある生への欲望と変化して、内面からわきあがる力を感じたのでありましょう。彼は病気に逃げ込まずに親への依存を断ち切り、あとはどうにでもなれ、煮ようが焼こうが勝手にしてくれ、といった破れかぶれの気持ちであったのでしょう。まさに背水の陣であります。後年、このときに神経衰弱の正体を見たと書いています。
 以上、簡単に森田正馬先生の略歴を延べましたが、どう贔屓目に見たって落ちこぼれの学生で、現在の偏差値教育の下でしたら、とても医者にはなれなかったでありましょう。ですが、その後の彼は日本人で独創的な治療法を編み出した医師として、日本のみならず世界でもその名は知れ渡っているのであります。
 森田療法では、神経質素因のある患者は生の欲望が強く、その裏返しとしての劣等感、死の恐怖、不完全感などの症状に悩み、その症状は取り去ることが出来ない自然の感情であるが、それを取り去ろうとしないでじっと(あるがままに)目の前の目標に向かうしかない。たとえば赤面恐怖症(最近は減ってきているようですが)を例にして考えてみましょう。赤面恐怖症は従来治療法がなく、森田先生もその治療法の開発に相当苦労を重ねた結果、独創的な治療を編み出しました。
 たまたま友達に顔面が赤いといわれたとします。普通の人はこれを無視するか放置します。しかし神経質素因のある患者は生への欲望が強く(赤面しない自分)を理想(かくあるべし)としていために、内省的で、負けず嫌いで、他人に敏感になるために赤面が気になり、観念として自分の努力で治すことができると錯覚し、何とかしようとはからい、あくせくする。つまり赤面という当たり前の現象をあたかも免疫反応のように異物を排除しようとし、とらわれ煩悶する状態です。
 これを有名な(思想の矛盾)といいます。一度(思想の矛盾)にとらわれるとますます注意は顔面に集中し(精神交換作用)とらわれから抜け出せなくなります。そこで森田は(事実唯心、あるがまま)に赤面という不安はそのままにして、逃げることなく仕事なり学業に専念しろといいます。
 対人恐怖で言えば神経質者は観念的であるから(完璧な人間、非難されない)人間になろうという理想に向かいます。でも現実は『事実としては』人は不完全な人間であり、人には好き嫌いがあるために誰にでも好かれることは有り得ません。しかし観念として人に好かれよう、そして(いい人、立派な完璧な人間)を演じ、この思想の矛盾にとらわれ、結果ますますその人のありのままの自己を窒息させてしまうのです。
 私の今回の病気の経過を考えてみます。
 現実(事実)は、手が不自由で日常生活や仕事が十分に出来ない。しかも症状は一向に改善はしません。が何とかパソコンは打てます。そこで生まれつきの敏感さのために適応不安があり、(症状は進行するのだ、病気で死んでいくのだ)と思いこみます。その裏の心理として身体は完全であり、手指はきちんと動かなくてはいけないという強烈な理想(かくあるべし、完全主義、生の欲望)が隠されているために、何とか早く治そうとあせり、理想を追い求め、現実を受け入れられず、思想の矛盾にとらわれてしまったのです。そこで森田療法の登場です。森田療法では、不安の裏にある強烈な生の欲望を感じ、自覚し、逃げることなく仕事をしなさい、うれしいときには喜び、悲しいときには悲しみ、これを(純なこころ)といい一番大切だと言っています。幼い頃からの(かくあるべし)の教育のもと他者の視線を感じ、自然な自分を見失い、装うことの虚構や、からくりにはめ込められて自らを窮地に追い込む神経質者は純な心を取り戻せ、(自然に従順になれ、境遇に素直に従え)とも強調しています。
 森田正馬先生は若いころから気管支端息、肺結核などの病弱な身体で、喘息発作、肺炎、原因不明の大量下血で何回も死にかけています。私生活でも長男を20歳で失い悲嘆にくれ、さらに61歳のときには妻も失っています。そんななかでも慈恵医科大学精神科教授として、教育、診療、研究をされ、自宅を神経症患者のための入院施設として開放し、森田療法の真髄の治療に全力を注ぎ、多くの青年を有意な人間に育て上げました。そして「人間は狭い殻に閉じこもっていなくて良いのだよ、硬い仮面を捨てなさい。その人の奥に潜むあるがままの生きる欲望、生きる希望を信じてください。本来備わっている感情を殺すな、こころを欺くな」と訴え続けたのです。人間性に無限の信頼を置いた方で、真の教育者、医療者であります。
 私も3年半前から偶然のきっかけで大学で教えておりますが、慣れないせいか、年齢のせいか学生達の真意を充分理解できずに悩んでいるのが正直なところです。今回の入院中に感じたことは、森田先生の教えは神経質者や患者だけではなく、広く学生達にも応用できる理論であると確信いたしました。多くの学生は暗記が得意なようで、あまり物事を深く考えていないように見受けられます。教育の弊害、受験の失敗体験、推薦入学などの影響で受験時代真剣に勉強してこなかったなど様々な理由が有るのでしょう。自分でわからない所を必死になり勉強し、わかったときの喜びを味わうことの達成体験が少ないがために、勉強したところでどうせわからないからとか、勉強はつまらないと、最初からあきらめているような印象を持ちます。考えることによりはじめて知識が知恵となり、真に社会に通用する有用な人間になれるのだということを森田先生は教えてくれています。森田先生の言うところの、(誰にでも備わっている欲望、知識欲、自ら理解することの苦しさと楽しさ)を学生から如何に引き出せるか、それが私の役目でなかろうかと感じております。
 最後になりますが、この頃は殺人、汚職、談合、捏造、いじめ、閉じこもり、ニート、などと目を覆いたくなるような事件や現象が毎日といっていい程報道されております。
 先頃は奈良の高校生によるショッキングな母子放火殺人事件がありました。継母と異母兄弟のいる家庭環境で育ち、父親の医者になれ、しっかり勉強しろという厳しい期待に添えきれず悩み、衝動的な行為には走ってしまった様です。
 観念的な理想像を押し付ける教育、他人との競争、虚栄心などの表層的な面ばかりが重視されて、彼の抑圧された生の感情、心の叫びはどこにも届かなかったのでしょうか、現代は親も教師も周囲の人々も誰もが、他者には無関心な時代なのでしょうか。
 「あなたは生の感情をあらわにしても社会から排除されることはない、自分の心の底にあるありのままの自分を信じなさい」、東洋的なまなざしや慈しみのある森田先生の励ましの声が響いて来ます。おりにつけ本校の学生達にもその声を、言葉の真の意味とするところを伝えることが出来ればと思っております。

これは君の橋だ!その橋を越えて夢を掴め!This is your bridge. Capture your dream beyond the bridge!
株式会社北未来技研 顧問、認定NPO法人ポロクル

安江 哲(YASUE SATOSHI)

エンジニアへの一冊

 一冊の書籍がその後の人生を決める。「エンジニアの話 (1968年刊/現在は廃刊)」が、私のそれだ。学生時代、青函トンネルでの工事実習を終え、その帰路、書店に立ち寄って手に取った一冊。表紙には、ニューヨーク市に架橋される吊橋の塔頂からケーブルを張るエンジニアの姿が掲載されていた。さらに衝撃的だったのが、マサチューセッツ工科大学(MIT)の卒業試験風景の写真だった。大講堂にびっしりと並んだ学生が一心不乱に机に向かう光景。世界基準のエンジニアを目指す姿勢に驚かされ、自身の学ぶ心の弱さを思い知らされた瞬間であった。まさにその衝撃的瞬間から自身の「学ぶ」思いが強くなり橋梁技術者を志すことになった。
 振り返ってみると人生のターニングポイントに偶然出会った、啓示とも呼ばれる出来事であった。本稿では私の夢とエンジニア人生の転機を、「学び」の視点で振り返りたい。

憧れの職業、土木技術者
 ついにその日が来た。周りに遮るものがない誰よりも高い位置で、海峡の風を感じている。小学校時代に遠巻きに眺め憧れたヘルメットの技術者、その姿で明石海峡大橋の主塔に立っている。入社してすぐ橋梁の設計には携わることができた。休む暇もなく働いていたが、吊橋の設計にはなかなか巡り合うことができなかった。ところが上司からの急な出向命令が発令され、世界一となる明石海峡大橋のケーブル設計に従事することになり願いが叶うこととなる。学生時代に見たあの本の表紙の光景が重なった。苦しかった若い頃の設計業務を思い出した。「あのとき、辞めなくてよかった」と。
 ヘルメット姿のエンジニア。当たり前の生活を当たり前にできるように我々土木技術者が技術を高め、支えてきた誇りのシンボルがヘルメットだ。今でもあの高さ300mの主塔頂部から見た風景を思い出し、心を奮い立たせる。

市民とともに
 仕事の姿勢が大きくパラダイムシフトした出会いがある。命の尊さと土木、インフラ整備の結びつきを模索し様々な業務に関わってきた。任される仕事の規模も重要性も増し、プロジェクトも増えていった。当然のことながらプロジェクトごとの地域住民とのかかわりも増えた。大きな仕事、業界初のプロジェクト。うぬぼれもあったのかもしれない。阪神淡路大震災後10年を節目とした取り組みのテーマは、「学会が市民とともに考える東京の地震防災」。これが市民からの厳しい指摘をうけ、「市民が学会とともに考える東京の地震防災」へと変わる。「学会が」ではなく、「市民が」主人公だ。
 エンジニアは技術をつい追いかける。最先端であればあるほど、そのプロジェクトの規模が大きければ大きいほど、自分の技術力が向上する。それ故にうぬぼれる。土木技術の歴史は、市民の命を守ってきた歴史でもある。なのに、その主人公である市民を忘れてしまいがちだ。
 そんな自分が原点回帰できたのは市民との出会い、取り組み、そして歯に衣着せぬ言葉の指摘だった。子どもたち、市民、地域をまたいだ活動に向き合うことで21世紀の土木エンジニアの果たすべき役割、可能性を強く意識することになった。年齢を重ね、最前線に行くことは減るだろう。だが、土木エンジニアの活躍の場はヘルメットを被り過酷な現場に臨む場所だけではない。市民が日々、生活する場と共にあるのだ。

これは君の橋だ!その橋を越えて夢を掴め!
 橋梁のスペシャリストになる事も出来たし、一方で航空会社の経営にも携わる事が出来た。現在は、民間で日本初のシェアサイクル「ポロクル」へのチャレンジに加えて、内閣府の取り組みである「TEAM防災ジャパン」として地域での防災計画にも取り組んでいる。その結果、日々新しいことに出会い刺激と学びの毎日を送っている。
 夢への橋を越えてみると、その先に、想像を超えた世界、超えたものにしか見えない世界があるからだと思う。
 最後に、土木分野で活躍を夢見る学生の皆さん、今まさに、日々現場と向き合っている皆さん。一人一人の未来は無限に広がっている。どこにでもある学びのヒントをどん欲に掴み、夢への懸け橋を越えて、もっと大きな夢を、ぜひ掴み取って実現してほしい。

略歴
1952年生まれ、関東学院大学卒、
㈱ドーコンを経て㈱北未来技研 技術士(建設部門)、北見工業大学非常勤講師、
元北海道エアシステム、NPOポロクル常務理事、(公財)ツール・ド・北海道理事、
NPO電線のない街づくり支援ネットワーク顧問