過去の雑感シリーズ

2021年

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表面工学の歴史的背景と今後の展開
材料・表面工学研究所
特別栄誉教授・顧問 本間 英夫


めっき産業近代化のルーツ


 昭和21年、関東学院大学の前身である工業専門学校に、学生の技術習得と、学生に働き場所を与えることを目的として、実習工場がスタートした。昭和23年には、工場内に関東学院技術試験所が併設され、昭和26年に私立学校法の改正にともない、教育事業のほかに学校経営を支える収益事業ができるようになり、独立採算性の事業部が立ち上がった。
昭和28年には通産省からの助成金の交付を受け、関東自動車、トヨタ自動車向けのめっき加工の生産に入った。その後は、トヨタ自動車工業と技術交流が開始され、大学発の研究開発として多大の評価を受けるようになった。その技術は中村実先生(JAMFの設立者でハイテクノの初代社長)が、大学に赴任される以前から横浜市職員として光沢青化銅めっきの技術を開発され大学の事業部の指導をされていた。その後、昭和31年に機械科の講師として赴任され事業部のめっき工場の品質は大いに高まり、トヨタ自動車のバンパーのめっきは産業界から高い評価を受けていた。また先生は、経験と勘に頼っていた作業を、最新の技術を導入して綿密に分析管理を行うことにより、良品率を飛躍的に増加させた。したがって当時から分析管理や評価のための実験室が整備されており、機械科の助教授を経て昭和35年に教授となり工業化学科の設立に尽力された。事業部の部長と工業化学科の教授を兼務され技術スタッフとの総力で昭和37年に世界に先駆けて、プラスチックス上のめっき技術に成功し、表面処理業界にとっては一大革命をもたらした。現ハイテクノ顧問の斉藤先生は、当時の事業部に籍をおき、横浜国立大学の大学院でプラめっきのキーテクノロジーである無電解銅めっきの基礎研究に着手された。今、盛んとなってきている社会人国内留学の走りである。
そのときに提唱された『混成電位論』は、まさに無電解めっきの析出を理論的に明快に解析したもので、この研究成果に対して、当時関連学会から理論の提唱に関して論文賞を受賞している。また光沢青化銅めっきでは技術賞が受賞され、表面処理分野では大きな評価を上げるようになり国内はもとより、アメリカでも大きな反響があり、マスコミでも大きく報道された。
私は昭和39年に二期生として卒研に配属されたが、当時はプラめっきがスタートしたばかりでトラブルが続き、配属された卒研生のうち3名は大学で研究をし、多くは杉田の神奈川県工業試験所で研究を行うことになった。
私自身は工業試験所で卒研を行った後、大学に戻り専攻科・大学院へと進んだ。その間、先生は多忙を極め、ほとんど卒研生と私の間で研究が進められた。このように中村実先生は工業化学科の設立に尽力され、また大学事業部部長を兼務され世界に先駆けてプラスチックのめっきの実用化に成功しさらにはプリント基板製造にも大学の事業部でとし着手するようになる。そのころから大学のキャンパスでは手狭なので北久里浜に4800坪の工場用地を購入し移転も始まった。このような背景からめっき業界のトップの支援の下に本学に工業化学科に続いて、めっきの関連学科を作る構想が進んでおりこの種の構想が着々と進められ、当時の理事長坂田佑先生が了解済みで、白山源三郎学長と中村先生との間で、めっき学科を中心とした第2工業化学館の設立の確約書まで出来ていたのである。このことに関しては、現在の本学のトップは誰も知らない。
(注)ほとんどだれも知らない話がもう一つ。経営学の父と言われたピータードラッカーが1960年頃2、3度キャンパスにあった白山先生宅を訪れ、キリスト教の普及状況、日本の文化を調査された。当時、本学の事業部でトヨタ自動車のバンバーのめっきを行っていた関係で、トヨタのトップからの要請でドラッカーが本社を訪ね「職業改善プログラム」を提案し、一挙に生産性と品質の向上に繋がったとのことである。
 更にはアメリカに今も現存するNAMF(National Association of Metal Finishes会員数数千社の協会)の日本支部(JAMF当初会員数50社程度)を昭和40年スタート。教育事業としてめっき上級講座を東京のお茶の水でスタートされた。当時は最新鋭の視聴覚教育の設備を導入し毎年50名以上の受講者が熱心に受講した。私は第一回めっき上級講座が始まった年は大学院の学生で、講義内容の概要をまとめて会員企業にお送りする、いわゆる書記役を担当、したがって表面処理に関連するトップの先生方の講義を受講できたのでその後の研究開発に非常に役立った。私が助手に任命された昭和42,3年ころから学園紛争が激化し本学ではキャンパス内にめっき工場を持っていたので学生は「産学協同路線反対」とキャンパスをロックアウト、国道16号線にバリケードを張るに至った。ほとんどの先生は毅然とした態度が取れず、紛争は過激さを増し、学生との話し合いでは解決の糸口は全く見いだせなかった。中村先生は機動隊導入を勇断して教授会でアピールし、紛争は解決した。
 しかし残念ながら、それを機に昭和45年くらいだったと思うが、先生は大学を去ることになる。先生が47歳の時であり、私はまだ助手で28歳の頃であった。その後、先生は大学院教授として籍を残され、先生の指導の下、研究室を運営することになる。
私が助教授から教授になった頃から、工業化学科の中に実装や表面処理を中心としたコース、または研究所を作ってはとの要請を、産業界からたびたび受けてきた。大学の研究所ではこれまで、プラめっきに始まり、環境問題にいち早く着手し、続いてコンピューターを用いた化学制御を研究、さらにはプリント基板の一連の化学プロセスから実装領域に展開し、今では半導体の成膜プロセスまで研究するようになってきている。また当時から大学でハイテクノの講座を行えば大学の修了証書が出るので重みが出ると提案する人もいた。
 これまで関東学院大学の伝統と他の大学に無い特徴を守り、さらに発展させねばと、必死になって産業界からの協同研究、委託研究や公的研究機関他大学との連繋を実施してきた。産業界から,学会から、他大学から、公的機関から注目してくれていたので現在は研究所が立ち上がっているがハイテクノの教育事業を大学が継承するのがいいとの判断になってきた。
 歳を取ると私を含めて、どうしても現状維持で、余り急激な変化を好まないのであるが、それにしても今回は絶好のチャンスである。
 実はその後NAMFは教育にそれほど熱心でなかったので日本支部のJAMFはNAMFから脱退、現在のハイテクノとして教育事業が継承されてきた。この講座は現在のハイテクノの教育事業でありすでに今年で53回生を送り出すことになり、表面処理業界では認知度高く経営者トップ、技術者の幹部候補生が受講。これまでの受講修了者2100名程度である。

実現に向けての具体的な行動

 先に述べたように、中村先生が50数年前に表面処理学科を作る構想から実際に大学上層部と化学館を作る確約を取り、具体的に行動しようとしていた矢先に、学園紛争が激しさを増してきたのである。特に、当時はすでに事業部ではバンバーの金属めっきの他に、世界に先駆けてプラめっきの技術を立ち上げていたので、国内は勿論のことアメリカ、台湾、韓国から見学者が殺到していた。
プラめっき技術の延長線上として、現在はエレクトロニクス製品の全てに使われている、プリント基板の製造プロセスも確立されようとしていた。
 大学の「人になれ奉仕せよ」の校訓を着実に守り、実行し、特許は取らず、全国から訪ねてこられた技術の方々に、詳細にわたってお教えした。
 また、その事業部はキャンパスの中に500名を越える従業員を抱えていた。製造や技術に携わっている若い人たちの多くは、昼働き、夜は工業化学科、機械工学科、電気科などで学んでいた。産学協同の最も理想的なシステムが本学にあったのである。
 しかし、何度も繰り返しになるが、この理想的な大学の運営方式は、当時の世界的に吹き荒れた学園紛争、学問とはなんだ!に始まり、特に本学では日本唯一の工場を持つ大学であったので、産学協同路線反対の狼煙が巻き起り、実現寸前のめっき学科の設立構想を断念せざるを得なかったのである。
 先生の心中はいかばかりか。先生が自信を持って、この構想を実行に移すところまで来た背景には、昭和30年後半から40年代の工業界の成長期と呼応していた。
 先生は、アメリカの表面処理工業会のブランチを日本に作られ、会員企業は全て、主だった表面処理企業から構成されていた。定かではないが100社くらい会員企業になっていたと思う。その方々から、表面処理の学科を作って欲しいとの要請が強く、またその際は全面的にサポートするとの確約を頂いていたのである。しかしながら、「本間おまえは大学に残れ、俺は中小企業の育成にほかの方法で取り組む」と、大学を去られたのである。その後たまには大学に足を運んで、後輩に檄を飛ばしてください、実際の実験の様子を見て、コメントくださいと何度も要請したが大学を去ってからは、一度としてキャンパスを訪れなかった。ものすごい思い入れがあり、社会情勢の中で自分の思いが実現できなかったことが悔しかったのであろう。
 今こそ規模は小さいが、その何分の一でもいいから、実現しなければならない。
 繰り返すがその時期は今しかない。 本学でめっき関係の学部のコースの立ち上げとハイテクノの事業を継承する時が来た。今までの伝統から、是非実現しなければならない。ただのオフィスのフロアーがあるだけでは意味が無く、大学のキャンパス内にはめっきを中心とした表面工学コースを設け、毎年学生を受け入れるような体制の構築を要請している。表面処理の業界は日本に3000社(現在は1500社)近くある。ハイテクノの上級講座を本学で継承することによりさらに講座が充実するであろう。

人生と相対性理論
材料・表面工学研究所
副所長 渡邊 充広


 2月中旬、出勤途中いつものようにラジオを流していると、面白そうな本が紹介された。書籍は、百田尚樹の「新・相対性理論」、物理学の専門書のように思えるが、解説者曰く、時間の本質を知れば、人生が一変する...という。なんともキャッチーなフレーズに迷わずジャングルのような名前が付いた有名サイトで即購入した。
 自身、昨秋に還暦を迎え、これからの人生について考えるようになった矢先にこの本に出合ったわけです。内容はこれから読まれる方もいるかもしれませんので伏せておきます。自身の書評としては、読者レビューにも似たような内容がありましたが、なんとなく日常を過ごしている人にとっては、時間の大切さ、時間の使い方について考え直すきっかけになる一冊になるかなっと思います。人生は墓場までの片道切符、残された乗車時間は有意義に使いたいなぁ~と思うようになるかと、そういったところが感想です。
 相対性理論はアインシュタインが唱えた理論であることは誰もが知るところです。小学生のころからの趣味の一つに天体観察があり、この理論に興味を持ったのは中学~高校生の頃。愛読書であった月刊天文ガイドに重力レンズやら時空の湾曲、赤方偏移などなどアカデミックに解説された記事を分かったような気分で読んでいるうちに、相対性理論、特殊相対性理論とは何ぞやと思い、学校や市の図書館で幾冊かの本を読み漁った。絵本的に簡単に説明した書物からアカデミックな書物まで数冊読んだのを覚えているが、わかったような気がしているだけで結局は理解できていなかったというのが正直なところ。大学入試の際の面接試験で、物理化学の杉田先生から、あなたはどのような本を読まれましたか?と質問され、とっさに相対性理論と特殊相対性理論を読みましたと答え、理解出来ましたかという問いに、理解できませんでしたが面白かったです、と答えたのを43年も過ぎた今もはっきり覚えている。実は、面接試験には諸事情から大幅に遅刻しており、また容姿も面接には不適な学ランで参上してしまったこともあり、質疑応答のやりとりも含め、当然,試験には落ちたなっと思い新たな道への切り返しを考えていた矢先、合格通知が届いた。結果的に、その通知によって今につながる線路が敷かれたような気がしています。その線路も漸く終着駅に近づいてきたような、まだ続いているような…。
 人生は時間軸であり、早く全うしたいと本気で思う人は少ないと思います。大抵の人は健康で少しでも長生きをしたいと思っているのではと。人生は時間軸上にあるわけだが、「相対性理論」をこじつけ、“充実した長い人生を送る方法を探ろう”だったかのような広告記事を電車内の週刊誌の宣伝で見たことがある。理論に基づき人生を送るのはつまらないと思ったことを覚えている。自身、そこまで理系人ではない。そもそも相対性理論って何?と改めて考えると、自身もきちんと解説できない(過去に読んだ本の知識はふっ飛んでます)。そこでWeb上で紹介されている内容を要約すると、①光よりも速いものは存在しない、②光の速さは常に一定、③速く動く物体は縮んで見える、④重い物の近くでは時間が遅く進む…中でも有名なのが「高速で動く物体では時間がゆっくりと流れる」というもの。①②は学校で学んだことから素直に受け止め、③もなんとなくイメージは付き、④はなんかピンとこないというのが正直なところ。わかりやすい事例にならえば、この意味は、「時間は全ての人や物体に同じように流れるのではなく、静止している物体よりも動いている物体の方がゆっくりと流れる」ということを意味しているらしい。なんとなくわかったような気がするが、まだ釈然としない。更にかみ砕くと、「椅子に座って本を読んでいる人よりも、飛んでいる飛行機の中で映画を見ている人の方が時間はゆっくりと流れている」というように例えられたりもしている。さて、なぜこのような事象が起きるのか? その理由としては、「光の速度は一定である」というところに着地する…らしい。どういったシナリオで着地するのか自問自答しても解が定まらないのでスキップしますが、シンプルにみれば、相対性理論は「時間や長さというものは絶対的ではなく、相対的である」ということです。このような解にたどり着くアインシュタインはやはり凄い!? 余談ですが、十数年前くらいに、趣味的な発想から、オーロラと極地に設置した多重コイルで電磁誘導起電ができないかを考えていた頃、アインシュタインが夢に出てきたことがあります。共同検討中に、アインシュタインが倒れ、博士は私に“後は頼む…”といってグッタリした夢でした。忘れられない夢の一つです。残念ながら期待に全く沿えていないのが実情です。ただ、その話を取引先であった(株)IHIの方に冗談半分で話をしたら、会社でプレゼンをしてほしいということになり、お馬鹿な講演をするに至りました。大半の聴講者は呆れていたと思いますが、質問も多くなぜか盛り上がり、自身も高揚感に満ちていたことを覚えています。余談でしたので、前記の話に戻すと、動く物体の時間がゆっくりと流れるからといって、飛行機ばかりに乗っている人の方が長生きするのか?というと決してそうではないと思います。すなわち、ここでの時間差は認識できないほどの時間で、ゆっくり流れていることを体感するまでには至らないと思います。思うに、生きていく上では無視していいのではと。では、なぜ人生と相対性理論のマッチングなのか…。ここで自身が老いてきたことと重ねて考えてみました。年配者誰もが口にする「歳を取ると時間が早く感じる、一年があっという間に過ぎる、子供のころは一年が長かったよな~」などなど。どこか相対性理論に当てはまりそうな感じがします。事実、年を追うごとに時間が過ぎるのがどんどん速くなってきたと感じる。この時期、ついこの前、確定申告したばかりなのにもうその時期かよ~なんて愚痴もでる。歳を重ねるごとに時間軸もどんどん短くなっていくように感じている人がほとんどだと思う。では何故そう感じるのか…若いころのように”動いていないから”なのではと唱える人も。言い換えれば、動けていない、動けないからなんでしょうね。このことを研究している先生に、James Cook Universityの心理学と時間の研究をしている、イファ・マクローリン博士という方がいます。氏曰く、歳を取り時間が流れるのを速く感じる理由としては「同じことを繰り返す毎日」、そして“感動”が減るからという事らしい。確かにそうかもしれない。そうとなると改善策はどうすればいいか…、“同じことを繰り返さない”“感動すればいい”ということになるのではと。すなわち、新たなことに挑戦したり、見たことのない景色を見たり、異国の文化に触れたり、音楽やスポーツを始めてみたり、心に新鮮さを与えてやることで時間はゆっくり流れるようになるのではとの考えに着地です。ここでもう一つ余談を。私は入浴中にみかんを食べる習慣があります。入浴時は妻には内緒ですが、かけ流し状態でないと気が済まず、水道をチョロ流ししてみかんを湯に浮かべて入浴です。勿論、みかんはいただきます。チョロ流し量は波紋が目立たない程度の相応の量です。水の落下点にはわずかに凹みが認められます。このような状態のとき、凪状態の湯面に浮かべたみかんは外側には移動せず、水の落点に向かって緩やかに移動していき、やがて、落点の近郊で円を描くように周回しはじめ、最終的に流れ落ちる水の落点とみかんの重心が重なり安定します。複数個浮かべた場合は最初に到着したみかんより大きい(重い)みかんが接触すると入れ替わります。何度やっても再現します。この現象を見たとき閃きました。この現象を空間に置き換えれば、重力レンズや空間の湾曲、惑星の軌道の成り立ちや、そして最後はどうなるかが紐解かれたような感覚になりました。間違っているかもしれませんが、なんかわかったような自己満足的な感動でした。ちなみにこの現象は浴槽から湯があふれ出す前に起きます。あふれ出すと流れに沿ってみかんは移動しますので再現はできません。というわけで、これからも気軽にいろんなことを思考したり、始めたり、そして感動をしていきたいと思います。常に新しいことに触れ、心を“動”の状態にしてやることで「相対性理論」で説かれる相対的な時間のながれを感じられるようになる? すなわち、ゆっくりと流れるんだ!?というこじつけ的な内容で今回はまとめさせて頂きます。たわいもない長文を拝読いただき有難うございました。“ですます調”と“である調”を混在させましたがご容赦ください。
今、辛いなっと思う皆さん、新しいことを一つ始める,見つけると幸せになるかもしれませんよ…(^^;

増子 曻先生を偲んで
材料・表面工学研究所
所長 高井 治


 増子 曻先生(東京大学名誉教授)は,2019年9月23日に,満84歳で御逝去されました.当研究所および理工学部においては,大変お世話になりました.長らくの御貢献に心より御礼申し上げます.
 2012年度より5年間続いた文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業『湿式・自己組織化手法による高度に制御された表面ナノ・マイクロ構造の創製技術とスマート化・実装』においては,外部評価委員を務められ,貴重な評価を下さいました.また,関連する国際シンポジウム“International Symposium on Highly-Controlled Nano- and Micro-Scale Functional Surface Structures for Frontier Smart Materials”およびMSST(International Symposium on Materials Science and Surface Technology)には毎回御参加いただき,講評をいただきました.本間英夫先生の退職記念講演会,当所主催の講演会,博士学位論文公開説明会にも御参加いただき,楽しいお話しをしていただきました.私が委員長を務める日本学術振興会水の先進理工学第183委員会においては,顧問として定例の研究会には必ず御出席いただき,ウイットに富んだお話しをしていただきました.このように,増子先生は,広範な分野の学問知識,探求力および好奇心にあふれ,物事の基礎から判断することの重要性を指摘してきました.温故知新を掲げ,昔の研究から学ぶこと,その研究分野が形成されてきた歴史を自分でまとめ,考えることの重要性も述べられました.
 増子先生は,当研究所については,本間英夫というウエット分野の,また高井 治というドライ分野の日本の両巨頭(狂頭?)がいるので頼もしいといったようなことを述べられ,褒め殺しに近い言葉で,冷や汗をかかされたことも良い思い出です.
 増子先生と私の出会いは,1973年に遡ります.約50年前になります.私が,1973年4月に東京大学大学院工学系研究科博士課程金属工学専門課程に入学し,金属表面工学講座の久松敬弘教授と金属物性工学講座の堂山昌夫助教授の両先生が指導教授になった際,金属表面工学講座の助教授が増子先生でありました.身体が縦・横に大きく,声も大きな先生というのが第一印象でありました.声の大きいのは難聴のためというのは後年知りました.増子先生は,非鉄金属精錬を専門にされ,化学熱力学,電位-pH図などを駆使した研究を行い,さらに金属の腐食,表面処理に関する研究を行いました.増子先生が良く話された明治時代の帝国大学創成期の採鉱冶金学科クルト・ネットー(Curt Netto)先生の学問を受け継いでおりました.ネットー先生の『涅氏冶金学』についても学ばれていました.私が1976年3月に上記課程を修了し,4月から日本学術振興会の奨励研究員として研究していた際,増子先生は,東京大学生産技術研究所に教授として異動されました.このお陰で,私は,助教授枠を使い,金属表面工学講座の助手として採用されました.増子先生の異動がなければ,大学の助手として働く機会がなかったかと思います.さらに,久松先生が定年退官された後は,金属表面工学講座の教授を後藤佐吉先生,ついで増子先生が兼任され,増子先生にお会いする機会も増えました.増子先生からは,高井君は金属表面技術協会を盛り立ててくれとの要請もありました.この金属表面工学講座は,古くは湯川秀樹先生の兄の小川芳樹先生が担当され,小川先生が使われた机を,当時使わせてもらっていました.この講座は,現在の表面技術協会と腐食防食学会の創立に深くかかわっており,この伝統があったことにもよります.このように,増子先生は,私が金属表面技術協会(現,表面技術協会)と深くかかわるきっかけを作ってくれました.深謝いたしております.
 日本表面処理機材工業会は,雑誌『機材工』の秋季号別冊(2020年10月)として,『増子 曻 遺稿集』を刊行しました.本誌は,増子先生が『機材工』誌に書かれた36編をまとめており,極めて貴重な冊子となっています.この遺稿集を刊行された日本表面処理機材工業会および関係者に感謝いたします.
 遺稿集はA4判208ページからなるが,非売品のため,ここで原稿の題目を紹介します.
 1.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》物質の3原則(第1回)
 2.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》第2回 桁違いの話
 3.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》第3回 魔術思考とその検証
 4.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》第4回 エネルギー技術
 5.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》第5回 アブダクション
 6.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》番外編 技術心得と文学見立て
 7.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》番外編 類似性と隣接性
 8.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》番外編 労働・仕事・活動
 9.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》番外編 ルーツ・ルーツ・ルーツ
10.《工学教養(テクノリテラシー)のすすめ》番外編 有限のパラダイム
11.《随想:電気化学のルール》 電気化学反応装置
12.日本の科学は「ゆりかごの記憶」を持っていない
13.《電気化学ノート‐1》 二次電池の電気化学
14.《電気化学ノート‐2》 一般電気化学の試み
15.低炭素社会と素材産業
16.エネルギー資源とメタル資源
17.核反応と化学反応の違い
18.技術の源流
19.失敗学の限界
20.酸化物とそのモル体積
21.リスクと安全
22.サイエンスのゆりかご
23.金属素材の生産動向
24.「広辞苑」への註文
25.魔術思考
26.「バカの壁」再考
27.エンジニアリングと科学
28.再生可能エネルギー
29.製鉄・製鋼の産業革命遺産
30.イオン交換膜法食塩電解
31.日本における金属生産の歴史と比価学
32.現代文明はヤマト民族の文化を越えた
33.「塗装された鉄」がイノベーションを支える
34.アルミニウム精錬あれこれ
35.回文,小咄,戯れ言
36.AI(人工知能)はSFか,TFか,はたまたIFか.
 以上,2005年から2018年の原稿であります.
 このように,魅力的な題目が続き,皆様も読んでみたくなるでしょう.

日本のより良き未来を創造しよう
材料・表面工学研究所
梅田泰


こんな時こそ元気を出そう
 昨年は国民が楽しみにしていた50年ぶりの日本国内のオリンピックの年であったが、コロナの影響で延期となり本年に行うことになった。思い起こすと1964年の東京オリンピックは日本全体がお祭りムードで、海外からの訪問客についても歓迎の一色であったように思う。当時、日本経済は第二次世界大戦で敗戦後、経済は順調に成長していたが、個人の生活はそれほど裕福な感じはなかった。オリンピック後の国民総生産は当時30兆円から1985年は325兆円で、ほぼ5年間で約2倍になるというとてつもない経済成長を遂げている。大阪万博もその間にあったので、オリンピックだけのお陰で経済成長がなされたわけではないだろうが、人々にはオリンピックは金が儲かるようになるという幻想を抱いてたように思える。オリンピックは政治が介入しないようにしなければいけないと言われながらも、背景は泥臭いものを感じる。今回のオリンピックは海外からの訪問客をもてなそうというよりは、いくら稼げるのかということの方が目的で、スポーツの祭典をみんなでサポートするというムードは全く感じられず、競技場の予算問題がクローズアップされ、お祭りというよりも皮算用の方が中心であるように感じる。はじめのオリンピックは日本というものを世界の人たちに見てもらう良い機会となり、日本製品が世界で人気となり、とくにテレビ、自動車は人気商品となり、さらに半導体製品も加わり日本経済は大きくなっていった。 
 本来であれば今回のオリンピック後も経済活動が活発になることが期待されていたであろう。しかし、今回はコロナ感染の影響で海外からの訪問客は観戦できないため、それらを当て込んで作られた多くのホテルが大きな損失を被ることになり、周辺の飲食業者の方々も期待が大きく外れ落胆していることだろう。しかし、落胆してあきらめている場合ではない。あきらめた瞬間化にそれは大きな損失と決定づけられてしまう。いかにそれらを挽回するかかが国民全体の本来の使命であろう。
 今こそ元気を出して最大限の祭典を盛り上げる必要があると思う。コロナ禍後に国民全体がどう行動できるのかがポイントで、昭和三十年代、四十年代のときより細かい規制が増えた中で力を発揮しなければならない。

コロナの終息が見えない時代に政治はこのままで良いのか
 オリンピック以後の日本は政府の肝いりで、産業が支援され、世界にも太刀打ちでる産業が構築されていったが、当時好調であった鉄鋼、造船、半導体、繊維などは今や世界一から第三位に落ちており、シェアは韓国、中国に水をあけられてきている。これらは海外の安い賃金を求めて組み立て工場を移転していき、そのうちに材料も現地生産しなければコストが下がらないということで機関産業においても移管が進んできている。産業のコメと言われた半導体は1990年に世界のシェアが40%であったものは、現在は10%まで下がってしまっている。このような話を聞かされると寂しい気持ちになってくる。このまま産業が衰退していくと国民の生活は委縮し、一億総貧乏時代がやってきてしまう。
 以前政権が民主党になった際に、一番でなければいけないのかと、理化学研究所のコンピューター京を見学に行った議員が質問したことは有名だが、売り上げ、品質、生産量のどれか一つでも一番を目指していなければ世界の中で認められる製品作りをすることは出来ないのである。それらの頑張りを否定するかのような発言は、当時の政府はあまりにも不勉強で残念なことであったと思う。また、政権は東北地震の影響で原子力発電所の事故を発端とし、影響力がなくなり、政権は変わったが、それ以後の政府も産業の構造改革には大きな成果を出すことが出来ていない。1964年から1974年まで池田隼人、佐藤栄作、田中角栄の3人の総理大臣時代が大きな経済発展を遂げたが、その時代は宰相が捨て身の政治をしていたように思える。何としてもやり遂げたいという精神であり、国民もそれらの方針に沿って大きな力を注ぐことが出来ていた時代であろう。現在は国会の解散時期を議員の派閥の長が総理大臣をさておいて発現する始末で、操られている構図が見え見えである。
 もっと自分の意思を捨て身で表現できないものかと思う。また、国民も変化に臆することなく変化に対応する体力をつけておく必要があると思う。戦後三十年を潜り抜けてきた方々にはどんな方法かが見えているかもしれないが、ゆとり世代にはがむしゃらにやり遂げる今迄の方法は適合しないと思うが、それなりの頑張りが無ければこのまま衰退の一途を辿ることになるだろう。

欧米型の経営は日本向きなのか
 経済が発展してくると、持てる者と持てない者の格差が生まれ、持てない人間の中には頑張れない人が出てきているような気がする。企業のトップが従業員と一丸となって働いていた時代があった。しかし、創業者が老齢となり、あまり苦労なく後継者となると自分の生活を優先させ、会社存続という名のもとに、契約社員を増やしていつでも切り捨てやすい人材を活用し、利益確保を最優先し始めているところも出てきているようである。欧米では平均的な勤続年数は3.5年程度と言われており、人材は企業に定着性はなく、必要な時だけ雇うという文化が根付いている。日本人の感覚では終身雇用が一般的だが、今後このような時代になっていくのだろうか。私は長年開発技術を担当していたので、人材が頻繁に変わることは地道な研究や開発はやりにくいように思えてならない。ダラダラやるという意味ではなく、一致団結してお互いに足りないところを補いながらいち早く開発することが目的である。
 利益確保だけを目標にしていては、企業は良い品質、生産コスト削減、他社にない新製品を作り上げることは出来ないと思われる。心意気が間違っているからだ。目的が自分の儲けだけを考えている会社に積極的に発注を考えてくれる顧客はいない。この点についてはアメリカの経済学者であるドラッカー氏が強く言っている。「企業の最終目標は利益ではなく、顧客の創造である。その中で利益は当然のことである。」
 私たちは子供のころから、二宮金次郎、上杉鷹山の話をよく聞かされていた。
小学校には必ずと言っていいほど二宮金次郎の像があったものであるが、今では本を読みながら歩くのは危ないからと言って、良い例ではないからと、廃棄する小学校が増えており、ほとんどなくなっていると聞いた。銅像がなくなったからではないと思うが、「足るを知る、倹約の精神、上の者だけが利を得るのではなく、頑張った人間皆に分け前を与える精神」までなくなってきている感じがしている。日本では安く仕入れて、高く売ることで儲けを得ている商社が売り上げを伸ばしているが、ものを作っている第二次産業の町工場はどんどん疲弊し、多くの企業が廃業か、細々と事業を続けているところが多い。工場は錆びだらけで生産性の向上どころか将来の生活が不安で、より良いアイデアを出す元気もなくなっているように感じる。政府は利益が上がらない中小企業は統合させるなどの策を打ち出しているが、それらは日本製品の特長がなくなるだけで、根本の解決にならないように思える。それならば、大企業に発注の際に適正価格で発注するように指導することも必要なのではないだろうか。政治献金は大企業の方が沢山くれるので、どうしてもそちら向きになるのは分かるが、このままでは日本特有の優秀な中小企業の製品作りの文化が消してしまい、動きの悪い国になってしまうのではないだろうか。中小企業の規模は小さいがトップダウンし易いことで大企業よりも小回りの利く経営が出来る。
 今般、元材料・表面工学研究所所長の本間英夫先生が「工学教育と産学連携」という本を執筆され、日刊工業から出版されたが、それらの産業を作り上げるのは人材であり、その教育を担ってきた本間先生の集大成の本であるが、その中に「どんな学生でも育てて見せる」というくだりがあるが、本間先生は50年間の教育者生活の中でそれらを実践されてきた。私も43年間先生のサポートを頂き、育て貰ったと思っている。
 人財は大事なもので、お互い信じあうことで皆と新しいことに挑戦し、その良き結果を供に喜ぶことでその輪が大きく広がり、強い絆が生まれると信じている。現在それらの関係が崩れてきているように感じる。雇用者、非雇用者ともにそのような意識が欠けてきている。お互いに信じ会えていない場合が多くなってきたように感じる。お互いの問題点を非難するのではなく、良いところを引き出す工夫をして、落ちこぼれが無い社会をつくらなければ、本当の良い社会にならないと考える。教育は教えている側が一生懸命でも、教えられる側も一生懸命にならないと効果が出てこない。長い時間が掛かるが忍耐強く教育することで突然爆発的に良い結果を生み出す光景を多々見てきた。
 日本人はお互いに助け合いながら一つのものを作り上げることが得意な民族ではないだろうか。各地のお祭りを見ても個人の能力を競うものより皆で力を合わせるものが多いことからも分かると思う。
 お互いが助け合い明るい社会が出来るように、前向きにコロナ禍を乗り越えたいものである。

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材料・表面工学研究所
堀内義夫


このようなメールに見覚えはありませんでしょうか。他にも、VisaカードやMUFGを名乗るアドレスから、「あなたのカードはブロックされています。」や「佐川急便よりお荷物のお届けに上がりましたが宛先不明の為持ち帰りました。」などといったメールを毎日受信します。
これらはすべて、ユーザーのクレジットカード情報や銀行口座などを盗み取ることを目的としたフィッシング詐欺と呼ばれる行為です。
私のところには、このような詐欺メールに引っかかり「クレジットカード番号を入力してしまったけどどうしたらいいのか」、「メールで指示されたアプリをインストールしたら変な広告が止まらなくなった」などの問い合わせが毎月何件かあります。特にSMS(ショートメール)の件数が増加しているように思えます。
日本データ通信協会(https://www.dekyo.or.jp/soudan/)では、迷惑(詐欺)メールの実例を挙げて注意喚起をしています。
怪しいメールを受信したときは、該当のメールが掲載されてないか確認してください。

フィッシング詐欺を防ぐには
フィッシング防ぐ知識として、フィッシング対策協議会の利用者向けフィッシング詐欺対策ガイドライン(https://www.antiphishing.jp/report/consumer_antiphishing_guideline_2020.pdf)が簡潔で分かりやすいです。
内容を踏まえながらフィッシング対策法について、簡単に取り入れられる手法を紹介します。
まず、受け取ったメールやメッセージの送付元の確認をしましょう。例えばEメールアドレスが明らかに本物とは異なる場合は、詐欺メールと判別できます。実際に私宛に送られてきた「送信元:Amazon.co.jp <arnazon-co-jp@dh99s.××××>(ドメインを一部改変してあります)」というメールは、@後が怪しく、分かりやすいです。他にも、I(大文字アイ)とl(小文字エル)と1(数字いち)など、判別しにくい英数字を使用している場合もあるので注意が必要です。
「送信元:Visa.co.jp <support@visa.co.jp>」から送られてきたメールは一見本物のように思えますが、これも詐欺メールです。メール本文には、https://www.visa.co.jp/verified/と、visa日本法人の本物のURLが表記されます。しかし、このURLをクリックすると、偽物の詐欺サイトへとアクセスすることになります。Eメールの送信元のメールアドレスや本文中のURLは簡単に偽装することができるため、正規のアドレスであったとしても信頼できるメールとは限りません。

正規のメールアドレスであっても、メールの真偽を判断することはできません。

受信したメールの真偽もわからなければ、クレジットカードが不正利用されたのではないか、アカウントが乗っ取られたのではないか、気になりますよね。
まずは、気になるウェブサービスに関する正しいURLにアクセスすることが非常に重要です。メール本文に記載されているURLにアクセスすることは避け、ブックマークや検索サイトを利用して目的のURLにアクセスしましょう。その際には、ブラウザの上の方に表示されるURLを必ず確認してください。
例えば、amazonからと思われるメールの真偽を確認する際は、googleでamazonと検索し、正規のサイトのURLを確認しながらアクセスし、アカウントサービス内のメッセージセンターを確認します。他のサービスでも同様に正規のサイトにアクセスしメッセージを確認することが重要です。それでもわからなければ、正規のサイトやクレジットカードの裏面に書かれた電話番号に問い合わせましょう。

メールに記載されたURLをクリックしないことが鉄則です。

どうしてもメール本文中のURLをクリックする必要がある場合、記載のURLを右クリックしたり長押しすることで、リンク先が正規のURLか確認する癖をつけると良いです。他にも、リンク先の日本語がおかしい場合(文法、誤字脱字、多言語からの明らかな機械翻訳)は、偽サイトの可能性が非常に高いです。また、あくまで私見ですが、半角カタカナを使用しているサイトは偽物と判断する目安になると思っています。専門的な知識が少し必要になりますが、電子署名や証明書を確認することも重要です。
以上の対策をすべてやっても、完全ではありません。社内や家庭のルーターなどのインターネット環境や、使用しているPC・スマホがウィルスに侵されていれば、全てが信用できません。常にシステムとアンチウィルスソフトを最新にアップデートする必要があります。当然、駅や空港のフリーWi-Fiに接続してID入力したりメールを送受信する行為は非常にリスクが高く、絶対にしてはいけません。
万が一、詐欺に引っかかりクレジットカード番号や銀行口座情報を入力してしまった場合は、即座にカード会社や銀行に連絡をしましょう。SNSやeコマースサイトのIDを入力した場合は、パスワードを変更する必要があります。スマホにアプリをインストールしてしまった場合は、スマホを初期化することが最善です。実際に金銭的被害があった場合は、最寄りの警察署やサイバー犯罪相談窓口に連絡をしてください。一度引っかかった人はまた引っかかる可能性が高いことから、詐欺リストに掲載される恐れもあります。より一層の注意をしてください。
15年ほど前、新規メールアドレスをたくさん作り、eコマースやWEBサービス毎に1つのメールアドレスを割り振って迷惑メールがどれぐらい来るようになるのか調べたことがあります。少なくないアカウントで登録したメールアドレス宛に全く関係ない迷惑メールが届くようになりました。中には、今では名前を変え大手と呼ばれる企業のサービスもありましたので、感慨深いです。


「コロナ・ウイルスから人類への手紙、そして自分自身に出来ること」
関東学院大学 材料・表面工学研究所
田代 雄彦


2019年12月に発見された新型コロナ・ウイルスCOVID-19が世界的な猛威をふるって早や1年以上が経ちました。最近では変異型ウイルスの発生により、私たちの生活が脅かされています。しかし、全国的にワクチンの接種が高齢者からはじまり、少し明るいニュースも出てきました。ところで、皆さんは以下の詩「コロナ・ウイルスから人類への手紙」をご存知ですか?

地球は囁きました、でもあなたは耳を貸さなかった
地球は話しました、でもあなたは聞かなかった
地球は叫びました、でもあなたは耳を塞いだ
そして、私は生まれました・・・

私はあなたを罰するために生まれたのではありません・・・
私はあなたの目を覚ますために生まれたのです・・・
地球は助けを求めて叫びました・・・

大洪水、
でもあなたは聞かなかった

燃え盛る火事、
でもあなたは聞かなかった

猛烈なハリケーン、
でもあなたは聞かなかった

恐ろしい竜巻、
でもあなたは聞かなかった

水はプラスティックゴミで汚れ、
海の生き物が死んで行き、
警鐘を鳴らして氷山は溶けて行き、
厳しい干ばつ、
そんな時、
あなたは地球の声を聞こうとはしなかった
地球がどれほど悲観的な危機にさらされていても
あなたは聞こうとしなかった

終わりのない戦争

終わりのない貪欲さ

あなたはただ、
自分の生活を続けていた

どれだけの憎しみがそこにあろうと
毎日何人が殺されようと
地球があなたに話そうとしていることを心配するより
最新のiPhoneを持つことの方が大切だった

でも今、私はここにいます
そして、私は世界のその廻る日常を止めました
ついにあなたに耳を傾けさせました

私はあなたに避難を余儀なくさせました
私はあなたに物質的な考え方をやめさせました・・・
今、あなたは地球のようになっています

あなたは自分が生き残ることだけを考えています
どう感じますか?

燃やされた地球・・・
私はあなたに高熱を与えました

汚染された空気・・・
私はあなたに呼吸への課題を与えました

地球が毎日弱って行くように
私はあなたに衰弱を与えました

私はあなたから快適さを取り除きました
抑制された、あなたの外出
あなたが以前は忘れていた地球とその痛み
そして私は世界を止めました

そして今・・・
中国の空気はきれいになり・・・
工場は汚染を地球の空気に吐き出さなくなり
空は澄み切った青色に
ベニスの水は透明になり
イルカを見ることができます

なぜなら水を汚していたゴンドラを
使っていないから

あなたには、
自分の人生で大切なものは何かを考える時間が出来ました
もう一度言います、
私はあなたを罰しているのではありません・・・
私はあなたを目覚めさせるためにここにいるのです

これが全て終わったら私は去ります・・・

どうか、これらの瞬間を覚えておいてください

地球の声を聞いてください

あなたの魂の声を聞いてください

地球を汚さないでください

争うことをやめてください

物質的なことに気を取られないでください

そして、あなたの隣人を愛し始めてください

地球とその生き物たちを大切にし始めてください

何故なら、この次、

私はもっと強力になって帰って来るかもしれないから・・・
                         コロナ・ウイルスより
 
 この詩はヴィヴィアン・リーチという方が、第1回の非常事態宣言発出時に、COVID-19からインスピレーションを受けて書かれたようです。和訳をつけた方がおり、シェアして良いとのことでFaceBookの心友が送ってくれました。
物質優先の考え方をやめ、人間同士が仲良くするだけでなく、自然にも優しい生活に目覚めさせるために、COVID-19は我々の前に出現したのだと思います。先ずは身近な人・もの・動物・自然から大切にしましょう!

 よく「コロナ前の世界」という言葉が使われますが、折角、このような状況になったのですから、この新型コロナ・ウイルスを糧とし、新しい挑戦をはじめようではありませんか。私は糖質制限のダイエットを開始し、筋肉を付け、基礎体温を上げ、免疫力も上げる食事療法と生活環境に向き合いはじめました。持病の痛風、高脂血症、糖尿病の薬を毎日4種5錠飲んでいますが、健康体であれば、これらの劇薬を飲む必要はなく、薬代や病院への交通費・診療代も、それらに掛かる時間も必要ありません。
 私の父は大腸ガンが原因で亡くなりましたが、一般的にガンになる要因として、ストレスや紫外線、たばこや排気ガス、偏った食事やウイルスなど、多くのガン発生要因が挙げられます。最も大きな要因は「低酸素」・「低体温」・「高血糖」だそうです。世界的な免疫学者の安保徹先生によれば、ガンという病気の正体は、過酷な環境への細胞の適応反応であり、細胞の「先祖帰り現象」であるとの事。人類は多細胞生物といって、60兆個もの細胞が協力してひとつの生命体を作りあげています。ところが、人類の祖先はもともと単細胞で、1個1個の細胞がそれぞれ生命体でした。人にとって、つらく厳しい環境が長く続くと「低酸素」・「低体温」・「高血糖」の状態となり、その環境に対応するため、いくつかの細胞がご先祖の頃の細胞に戻り、それが遺伝子変異を起こして発生するのがガンです。働き過ぎや心の悩みなどによるストレスからくる「低酸素」、運動不足や血流障害による「低体温」、そして栄養の偏りによる「高血糖」などが主な原因です。
 現在の日本人は、主食として白米を食べています。そのため、人間にとっての主食は、大昔から穀物(米やパン、麺類)だったと思っている人が多いようです。ところが、お米や小麦粉、トウモロコシなどの穀物を主食として食べ始めたのは、人類の永い歴史からみれば、つい最近のことです。日本でお米の栽培が始まり、日本人が玄米を主食として食べ始めたのは、今から約6000年前、白米が食べられ出したのが江戸時代前期以降の僅か300年の歴史しかない。たった300年では人間の身体の構造は変化に対応出来ないのです。
 穀物が日常的に食べられるようになる前の人類は、動物の肉や魚、貝や海藻などの海産物、野草、木の実などを食べてきたと考えられています。こうした人類の食性の起源から考えて、本来人間にとって主要な栄養素は脂肪、タンパク質、ビタミン、ミネラルの四つで、炭水化物は入っていないという説があります。その証拠に、四つの栄養素にはすべて必須栄養素が存在しますが、炭水化物には必須栄養素が無い。炭水化物は分解されると、糖という形で身体の中で使用され、糖は脳に必要とされる重要な栄養素と言われますが、糖は必須ではなく、身体の中でアミノ酸や脂肪から作られる成分であるケトン体で代用がきくことが分かっています。というより、農耕時代以前はケトン体の方がメインで、糖は木の実などを食べた時だけ得られる、飢餓に備えての貯蔵用の栄養素だった可能性が高いとの事です。ケトン体は3ヒドロキシ酪酸とアセト酪酸という2つの物質の総称ですが、脳はブドウ糖より前者を好み、心筋もブドウ糖より前者を使った方が、パフォーマンスが高く、酸素消費も少ないので、心筋梗塞や脳梗塞で貧血状態の組織に有効なエネルギーです。最も重要なのは3ヒドロキシ酪酸が使われると活性酸素の発生が少ないので、スローエイジングなエネルギー源となります。また、赤血球と肝臓は糖だけを栄養素として使いますが、糖は外から摂らなくても糖新生といって、体内のアミノ酸(タンパク質)や脂肪を分解して得られるグリコーゲンから必要量が合成できます。なお、ガン細胞も赤血球と同じく糖だけが唯一の栄養素です。つまり糖が主食なので、もし糖が少ないと赤血球とガン細胞とで糖の奪い合いが起きます。生物界において主食がぶつかる生物が、同時期・同地域に2種類以上存在した場合、どちらかが絶滅します。本来は圧倒的に多い赤血球が勝ち残るのが道理ですが、必要以上に糖が多い場合は、赤血球とガン細胞は共存出来ます。脳細胞は、糖以外にケトン体も栄養として使えるため絶滅することはありません。即ち、糖質制限はガンに効くということです。
 「「砂糖」をやめれば10歳若返る!」の著者でお茶ノ水健康長寿クリニック院長の白澤卓司先生によると、糖はドラッグの一種であるコカインの7-8倍の依存性があり「マイルドドラッグ」であると表現されます。十数年前はまさかの時のがん保険が、現代は二人に一人がガンになっている。この事実を直視する必要があります。糖はガンの餌なのです。

我々の身体すべての細胞は、3ケ月で生まれ変わることをご存知ですか?
 胃腸は5日、心臓は22日、皮膚は28日、筋肉と肝臓は60日、骨は90日。要するに3ヶ月でほとんど新しい細胞に生まれ変わるのです。長い人生の中のたった3ヶ月間、糖質制限をし、ケトン体体質に生まれ変われば・・・と、私は現在実践中です!
 ケトン体体質とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、皆さんもご存知のサッカー日本代表の左サイドバックの長友佑都選手が実践しています。糖は直ぐにエネルギーに変わりますが、直ぐに消費してしまいます。一方、ケトン体は糖が無くなったタイミングで糖新生が行われ、必要な糖を生成します。彼の疲れ知らずの驚異的なスタミナはケトン体体質に因るものです。「甘いものは別腹」などと欲望丸出しの人は、先ず食事を大幅に見直すことをお薦めします。そうでなければ、ガンや新型ウイルスなどに怯え続ける人生になってしまいます。
 農林水産省のHPによると、「食品ロス」とは、本来食べられるのに捨てられてしまう食品をいいます。日本の食品廃棄物等は年間2,531万トン。その中で「食品ロス」の量は年間600万トン(平成30年度推計値)。日本人の1人当たりの食品ロス量は一年で約47キログラム。これは日本人1人当たりが毎日お茶碗一杯分のご飯を捨てているのと同じ量になるとの事です。これでは人にも自然にも優しくありません。飽食の時代の日本だからこそ、昔のような粗食に返る必要性を感じます。「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されたのですから、ハンバーガー、カップラーメンや冷凍食品ばかりを食べていてはいけません。

ご長寿遺伝子をご存知ですか?
 長寿遺伝子は、2003年にマサチューセッツ工科大学のレオナルド・ガレンテ博士と今井眞一朗博士の研究グループによって、Sir2(サーチュイン)遺伝子が長寿につながることが発見されました。Sirは、サイレント・インフォメーション・レギュレーターの略で、「静かなる情報を規定するもの」という意味です。長寿遺伝子には以下の3つの特徴があります。
 (1)なまぬるい環境では活動しない
 (2)取り除くと死に、増やすと長生きする
 (3)遺伝子があるだけでは仕事をしないが、活性化すると一生懸命仕事をする
すなわち、長寿遺伝子のスイッチをオンにしてあげないと、活性化しないということです。
 この遺伝子はすべての人が持っている遺伝子ですが、活性化していない人が多いそうです。この遺伝子を活性化する方法はカロリー制限で、必要最低限の粗食により活性化されるそうです。太った人より痩せ型の人の方が活性化し易い可能性は高いのですが、どんな人でもこの遺伝子を活性化させる物質があります。それが「レスベラトロール」です。この物質はアーモンド、ピーナッツ、クルミなどのナッツ類、ブルーベリー、クランベリー、ブドウなどのベリー系の果実に多いそうです。ワインなら白より赤ワインに4倍含まれています。特にナッツ類の皮の部分に多いので剥かずにそのまま食べることをお薦めします。

 アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、私たち人間の複雑極まりない欲求を以下の5つの段階に分類しています。
 ①生理的な欲求;空気、水、食物、睡眠などが十分に与えられること
 ②安全への欲求;恐怖や不安から解放されること、快適であること
 ③愛と帰属の欲求;愛されること、自分の居場所があること
 ④自尊心の欲求;他人に認められること、尊敬されること
 ⑤自己実現の欲求;自分らしく生きること、心が充実すること
この五段階の欲求には続きがあり、マズローは死ぬ前に、この五つよりもっと上の欲求があると考えましたが、それが何なのか分からないまま死んでいきました。日本におけるイメージトレーニング研究・指導のパイオニアである西田文郎(にしだふみお)氏は、マズローのその欲求は「無欲」であると考えていると著書「はやく六十歳になりなさい 後悔しないラストチャンスの生かし方」に記しています。無欲といっても「何もいらない」というあきらめの境地や枯れ果てた老人の無欲ではありません。物欲を捨て、「人さまのためにのみ行動したい」と本気で思える究極の欲。損得抜きに社会に貢献し、多くの人と幸せを分かち合いたいという積極的な無欲。自分の「魂」を磨き上げたいという欲です。「積極的な無欲」とは、物も名誉もいらないという無心の状態でありながら、「命に代えてもやる」という強い信念のある究極の状態です。つまり、「積極的な無欲」は純粋な動機による生き方なのです。私も将来的にはこの境地に到達したいと思います。

 私の大好きな作家の一人、伊集院静氏の「大人の流儀10 ひとりをたのしむ」の冒頭の文章をご紹介します。

 敢えてひとりになるのではなく、人間にはひとりになる状況が否応なしにやって来て、ひとりで生きることと向き合わねばならないことが、実は大半なのだとわかった。そのことを教えてくれたのは、コロナだった。コロナに感染した人は勿論だが、コロナをおそれ、注意深く生活する人が、実はひとりで生きるということがどういうことなのかを理解しなくてはならないのを、私は思い知った。コロナが私たちの隣りにいる以上、コロナをおそれ、コロナを遠ざけ、果てはコロナなんかに負けてたまるか、と歩き出す気力が、実は大切なことだと思い知るようになった。いっとき、“WITHコロナ”と唱える人々がいた。それが広がっているようにも思う。どうともに生きるかは、それぞれの人が行動に移せばいいだろう。しかし私は、“WITHコロナ”という発想は、今までも、今も、これから先も持つつもりはない。家族を、友を、師を、後輩を死におとしめたコロナと、ともに生きることなどできない。逃げ出したい気持ちになることはあるが、それでも逃げはしない。私はコロナに対しては常に前向きで、この感染症を見つめ続けようと思っている。コロナを防ぐには、コロナに感染しないためには、他人、人と接触するのを徹底して避けることだが、私たち人間は他人と関わらずには生きていけない。一人、独りで生きることには、忍耐が必要だ。忍耐は養わなければ成長しないし、耐えてみて初めて、同じように耐えている人がいることに気づく。ひとりということをわかち合えないか?ひとりで生きているからこそ、その人にしか見えない、素晴らしいものがあるのではないか?―あの人もひとりで耐えている。ひとりを経験したから、そう考えられるようになった。
 ひとりをたのしむことができたら、それはたぶん大きな一歩になるだろう。

 人間とは人(ひと)の間(あいだ)と書きます。人と関わるから人間なのです。コロナ禍の状況でも、個々人がひとりも楽しむことができる精神性が必要かもしれません。日本のトップコンサルタントの佐藤芳直氏の「日常は準備のとき、非日常は学びのとき」という言葉を思い出しました。
「日常」、つまり「普段」、どれだけ自分を磨いているか。これが「非常時」に試されます。
そして、普段、自分を磨いている人は「非常時」に「学ぶこと」ができます。この新型コロナ・ウイルスを糧に常日頃から準備を怠らずにいきたいと思います。
 最後に現在挑戦中の私の糖質制限ダイエットを簡単に紹介します。朝食は無調整豆乳で溶かしたプロテインを15グラム、昼食は茹で卵5-6個、カマンベールチーズ、サラダチキン1つとサラダ少々、夕食はもずく酢、納豆、味噌汁に魚や肉とサラダ少々です。お腹が空いたらナッツ類を食べ、水は1日3.5~4リッター飲みます。勿論、白米は食さず、1週間に1度程度の玄米を食べます。こんな生活を2ケ月以上継続し、筋肉が付いた状態で体重は5キログラム以上減り、持病の糖尿の数値なども大幅に改善しています。私たちは食べたもので出来ています。こころは投げかけられた言葉で育ちます。将来の自分が喜ぶいきかたを実践していきたいと思います。(了)

参考文献;
宗像久男著;「ガンは5年以内に日本から消える!症状を抑える「対処療法」から原因を治す「原因療法」へ」(経済界新書)
宗像久男著;「改訂版 その生活がガンなのです」(TWJ BOOKS)
白澤卓司著;「脳の毒を出す食事」(ダイヤモンド社)
白澤卓司著;「「砂糖」をやめれば10歳若返る!」(ベスト新書)
白澤卓司著;「2週間で効果がでる!ケトン食事法」(かんき出版)
西田文郎著;「はやく六十歳になりなさい 後悔しないラストチャンスの生かし方」(現代書林)
伊集院静著;「大人の流儀10 ひとりをたのしむ」(講談社)

以上

阪神大震災26年~あの時の思い
関東学院大学 教授
材料・表面工学研究所 副所長
香西  博明


 最近、毎朝、NHK連続テレビ小説 宮城県気仙沼市の物語“おかえりモネ”を欠かさず見ています。
 そして、1つ、思い出す出来事があります。それは、6434人が亡くなった阪神・淡路大震災の発生から今年で26年を迎えました。あの日を思い出すと、いまもいたたまれない気持ちになります。まさか、あんな大きな地震が来るなんて、誰もが想像しなかったことでしょう。1995年1月17日午前5時46分、私は、実家の兵庫県宝塚市に帰省していました。“ゴーッ”という音と同時に突き上げられるように、家が激しく揺れました。私は、衝撃で飛び起き、停電の暗闇の中、無意識に洋服ダンスを押さえていました。耳にはバタン、ガシャンという音が1階から何回も聞こえてきました。揺れがおさまって、両親の寝室へ、“私達は大丈夫”と父の声が聞こえ、うす暗い中を、階段をおりて、周りを見渡すと、タンス、書棚は倒れていて、食器棚からは、食器が足の踏み場もないくらい砕け散っており、使用できなくなっていました。母もおりてきて、散乱した食器類を一生懸命に片づけていました。一緒に片づけながら、まだ家が揺れている気がして、とても怖かったことを思い出します。夜は、ろうそくの火の中、早めにご飯を食べました。ライフラインはすべて寸断されており、暖かい物を口にすることはできませんでした。家族全員が無事であることが、とても有り難かったことを今のように記憶しています。その夜は、全然眠れなかったのですが、ラジオを聴いていると、停電で映像を見ることができなったのですが、被害の大きさや、死傷者の人数がだんだん増えていくことに、とても信じられませんでした。
 次の日、私は、飲み物・食べ物を、阪急電車宝塚線が復旧したことを確認し、大阪・京都まで、リュックサックを背負い、往復何時間もかけて行きました。自宅を出て、阪急宝塚駅まで向かう途中、瓦葺き屋根は落下、木造屋根が倒壊しており、そして水道管の破裂、都市ガスの臭い等被害が甚大であることを目の当たりにしました。電気が復旧し、テレビを見ると、ボランティアの人達が、色々な地域から来ていることに驚きました。阪神高速道路の倒壊シーン、神戸市長田区の延焼など現地の衝撃的な映像は、26年経ても未だ記憶に新しく、おそらくこの後も忘れられることのない出来事となっています。そして、当時、携帯電話は普及しておらず、公衆電話に長い列を作っていました。今や国民の多くはスマートフォンを持ち、SNSが発達し、災害時にツイッター投稿が救助のきっかけになるという有り難い時代でもあります。
 阪神大震災をきっかけに、全国各地で防災対策が進みました。大震災当時、約1100の避難所に最大約31万人が避難しました。被災者の密集や寒さから体調を崩す人が多くいました。その後、国は災害関連死を防ごうと、指針を作り、衛生管理の徹底を呼びかけました。近年は、床の冷たさから体を守り、プライバシー保護にもなる段ボール製ベッドも普及し、避難生活の質の向上が図られています。現在、新型コロナウイルスの感染拡大で、改めて避難環境の見直しが迫られています。
 さて、私、その年の4月、福島市の大学に赴任し、自分は被災地とどのように距離を取ればいいのか。答えが見つからず、出発したことを思い出します。どんなに時がたっても1月17日は、忘れてはならない節目の日であります。宝塚市、84名の犠牲者を改めて追悼したいです。そしてそれぞれに思いを新たにし、災害に強い社会にできたでしょうか、災害で人生を変えられた人に優しい社会になっているのでしょうか。犠牲者の遺志を大切にするという思いを持ち続けたいです。神戸市にある「慰霊と復興のモニュメント」の銘板には、大震災が遠因となった犠牲者の名前も刻まれています。時間がたっても、悲しみは今もそこにあることを忘れてはなりません。毎年12月に行われている光の祭典「神戸ルミナリエ」も今年はどうでしょうか。
 95年は「ボランティア元年」と呼ばれ、がれきの片づけ、炊き出しや支援物資の分配など現場での直接の手伝いはもちろん、NPOが避難所の運営をサポートしたり、駆け付けたボランティアを把握し、人手を探している被災者につないだりする仕組みが、整備・定着して契機となりました。確か、阪神大震災以降、大災害の被災地で活動したボランティアののべ人数は、少なくとも480万人にのぼります。どの災害でも1万人超を数え、文化として根付いていることがうかがえます。だがいま、コロナ禍で人の移動は制限され、支援のあり方の見直しが迫られています。南海トラフ地震などの広域災害が起きればどこもが被災地になり、外からの応援は直ちには見込めません。地元の力を引き出し、生かす工夫を重ねてほしいです。一方で、地域のつながりは、より希薄になり、孤立している人が少なくありません。町内会や自治会は加入率が下降傾向にあります。内閣府の意識調査でも、地域の付き合いがあると答える人の割合は年々低下しています。26年たった今、新型コロナウイルスの流行によって、社会は再び困難に直面しています。他人と密接に関わる機会が減り、支援が届かず困窮する人が増えています。こうした中、暮らしを変えるという意識を持ち続け、新たなコミュニケーションづくりに取り組む市民の動きがとても必要であります。ボランティアやNPO活動は、東日本大震災で社会に根付きました。その後の災害でも生かされています。意識が変わり、自発的に行動しようとしている人たちのうねりは、まだ小さいかもしれません。しかし、一人一人ができることを実行すれば、共感する人は加わり輪が広がっていきます。その動きが積み重なれば、少しずつでも社会を変えていく力になるはずです。26年前のあの時、それぞれが抱いた思いを再確認し、行動して行きたいです。
 私も家族と話し合い。避難経路や防災グッズの確認など、できる限りの準備をしておくつもりです。
 最後に、神戸、芦屋、西宮、・・・に、訪れた人が震災の教訓を学ぶ場所になってほしいです。でもそれ以上に、地元の人々が懐かしいと思える場所になれば、・・・。そして、今後も規模の大きな地震が高い確率で発生することでしょう。「あの日」に学び「あした」を守る、阪神大震災、それぞれの思いで犠牲者をしのび、節目の日を新たな気持ちとして迎え、震災を知らない世代に震災を伝える活動をすることが大切であると考えています。

【追記】8月9日に開幕する全国高校野球選手権大会。周囲は、2年ぶりの甲子園ということに注目しがちであります。高校野球の聖地・阪神甲子園球場のグランドに立つ選手にどんな言葉を贈るのでしょうか。「甲子園に行けなかった先輩の分も」なんて思ってほしくないのです。憧れの場所・甲子園で野球ができるという喜び。それだけを感じて全力でプレーして、笑顔で存分に楽しんで欲しいと思います。頑張れ、高校球児!!
 

ファックス・ハンコ・紙の書類... 21世紀の三種の神器
関東学院大学
材料・表面工学研究所

盧 柱亨


 日本神話において「3種の神器」という言葉がある。天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、すなわち、八咫鏡天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉を称する言葉で、日本の皇室に代々伝わる国の宝を意味する。1950年代末〜1960年代の日本の高度成長期に、この言葉は「必須家電製品」という意味にもなり、どの家庭にも、洗濯機・冷蔵庫・白黒TVが「現代版3種神器」と呼ばれた。
 ところが、最近、あるコラムニストが皮肉って、日本には、「21世紀版3種の神器」があり、「ファックス・ハンコ・紙の書類」であるとのコラムを読んだことがある。
 最初は首をかしげたが、自分の周りを振り向いてからすぐにうなずいてしまった。
コロナが蔓延し始まった時期、去年7月2日の朝日新聞デジタル版では、「紙とファクスで混乱した感染状況、国のデータ戦略どこに」と言う記事を読んだ記憶がある。
 人口2000万人を超える東京都がFAXを2台用いてコロナ新規感染者集計してから確定者の統計情報が台無しにされたのが端的な例だ。医師が患者情報を少ない「発生届」を作成し、管轄保健所にファックスで送ると、保健所は、これを確認して東京都にファックスを送り、東京都庁コロナ対策本部がこれをまとめて発表する方式。陽性判定から公表までなんと3日かかり、それさえも感染者数が不足しているか、重複して集計したというのが明らかになり、啞然とすることだった。 

 今年の9月1日には、菅内閣がデジタル改革を最優先課題に掲げながら、これを推進するデジタル庁を発足した。しかし、公務員社会からの反発が激しい。去る6月、河野太郎行政・規制改革相が「省内ファックス廃止」の方針を発表したところ、1カ月半内に、各省庁から400件を超える反論が提出された。 「電子メールは、サイバー攻撃による情報流出の懸念がある」「国会議員がまだファックスを好んでいて、現実的に難しい」という意見があふれた。
先日、自宅に届いた意味不明のファックスは、電話番号の6を8に間違えた日産自動車部品がダイハツの代理店に送る部品の価格リストだったのに……
電話番号の押し間違いでの情報流出もあるのに……
コロナ禍により全世界が在宅勤務体制に突入したが、日本ではまだ別世界の話しのようだ。
「契約書類に印鑑を押すために、取引先からのファックスを受けて処理するために、一度出勤しなければならない。」という声も多かった。
もちろん少しずつ電子決裁システムの普及が拡大しているようだが、自分の場合でもハンコを押すことが習慣になってしまい、電子決裁システムに切り替える勇気がない。
このように人の習慣はすぐには変えられないが、全世界を襲ったコロナ禍は、多くのことを変えた。
令和2年度版の総務省情報通信白書には、「コロナ禍の前」とコロナと共生する「With Corona」の変化をこのように提示している。 

 コロナ禍の前には、4Gや5Gなどの通信技術、4Kや8Kなどの映像技術などを光ファイバーネットワークによる高速通信によりビッグデータをIoTとAiの技術に有効活用することであった。しかし、コロナ禍は、我々の行動や考え方を大きく変化させ、我々の生命を守るため、リアル空間とサイバー空間が完全に同期する社会で個人や産業、社会が新たな価値の創出を提案している。

◇アナログ日本、なぜ?
 世界の経済規模3位の先進国日本でなぜこのようなことが起きるだろうか。ある専門家は「日本人がこのような状況が問題であると認識できないことが問題」とした。一部の官僚や専門家がデジタル改革の必要性を指摘してきたが、多くの国民はなぜファックスを使うのが問題なのか深刻さを気付かなかったということ。即ち、日本人が閉鎖的で、内需市場に安住してガラパゴス化しているのを見て専門家が指摘しても、受け入れない傾向がある。
 超高齢化社会の硬直性も原因として挙げられる。2か月ほど前に、NHKでは、「先端技術が発達した日本が、なぜファックスに執着するか」という記事を出した。家庭用ファクスを担当するパナソニックの関係者は、「スマートフォンを使わない高齢層が手紙の代わりの連絡手段として利用する場合が多く、ファックスの販売を中止することができない」とし「孫から来たファックスを大切にし、何度も読んでみるという年配の方もいる」と述べた。71歳の西山氏は、この記事で、「スマートフォンとコンピューターを使用していない友人に会議やイベントのご案内を送信するときに、FAXが便利である」とし「年齢を重ねるほど新しいものを使い始めるのは難しい」とした。

◇「最大の原因は、頂点に止まっている経済」
 専門家は、「何よりも、日本経済が停滞していることが根本的な理由」とも言う。
「1990年代のバブル崩壊以降、アナログからデジタルへの移行時期に、日本政府は、景気対策として巨大なトンネルや橋の建設プロジェクトにお金をつぎ込み、デジタル関連インフラには余力も関心がなかった」と指摘している。日本市場は、新会社の参入や規制改革に弱い体質に変わってしまった。

 少し飛躍しすぎる話しかも知れないが、昨年、米国内の日本人留学生の数が国別ランキング10位圏外に押し出されたのも、このような現象を示している。優秀な学生が海外に目を向けず日本国内で安住してしまう。既成世代は、枠にとらわれてしまい、社会全体が硬直され悪循環に陥っているのではないかと思う。
これからは、既成世代から、その枠を取り外し、ゆとり教育や偏差値教育の枠にとらわれている若者たちが、より広い世界に目を向け、失敗や苦難を乗り越えながら新しいことに挑戦できるような環境を築いてあげることが必要ではないかと思う。

Can Do
関東学院大学
材料・表面工学研究所 副所長
渡邊 充広


 先日、ラジオ代わりにテレビをつけていた際、熱血タレントキャラの松岡修造さんがバラエティ番組のなかで言われたコメントが耳につきました。“「できる」を英語でCan Doというが、カンドウとも読む。百均のキャンドゥ店の宣伝ではないですよ…”“行動した後には感動がある、だから行動しなさい”ということを彼らしく語っていました。こじつけのようでもありますが、なかなかいいフレーズだなっと感じました。
 私自身、“千里の道も一歩から”という言葉が好きで何かにチャレンジ(ほとんどの場合、趣味でのことが多いが)するとき、この言葉と自己暗示的に「できる」「負けねー」を頭の中で唱えつつ行動を開始しています。いわゆる失敗に対する不安、ビビリを排除するためのルーティンのようなもので、不思議と一歩踏み出す勇気が湧いてきます。動き出したら中途半端はなしと心得ています。松岡さんが言われるように、行動を成した結果、満足な成果が得られた時の達成感は何事にも代えられません。勿論、そうでないときもありますが…、ただ、やらずしての後悔はしたくないというのが常に思うところです。
 私の趣味の一つに登山があります。しかしながら両膝の怪我の後遺症や酷使による慢性的な軽度の痛みがあり、ここ数年登山らしい登山をしてきませんでした。近年では山に行かない言い訳にもなっていました。要するに不調を理由に趣味の順位が落ちたわけです。ところが、今夏、急に山の匂いと山の水の味が懐かしくなり、数年ぶりにちゃんとした?登山を試みました。妻からは“歩けなくなっても介護はしない”と釘を打たれましたが、動き出したハートは止まりません。ダメ元で行ってみよう..「できる」と呪文を唱え7月中旬の金曜夜に出陣。群馬県と新潟県の県境にある谷川連峰を一泊二日のテント泊でチャレンジです。深夜に登山口に到着し2時間ほど仮眠後、夜明け前に登山開始。若いころに経験のある山域でしたので、懐かしくもあり、高揚した気分を維持したまま無事に完歩できました。下山後に湯沢の温泉で味わった達成感は大きいもので、“歩ける”という自身が得られたことが何よりもうれしかったです。勿論、膝への負担を軽減する為の策を講じたうえでの行動です。これにより、後遺症を言い訳にしてきた過去にピリオドが打てたわけです。
 これまで、やりたいことが出来た際は自宅PCの“やりたいことリスト”に加えていくのですが、お金がない、時間がない、忙しいなどの言い訳で溜まる一方でした。そこで、この復活山歩きをきっかけに少々思うことがあり、“やりたいこと”を“やること”に書き換えました。これもいわゆる自己暗示のようなものです。“やりたい”ではやらないな..と自己分析したからです。そして、内容も整理し次への行動に。
 バイク歴45年になりながら、いつか“やりたい“と考えていた北海道一周バイクツーリングを今夏(8月のお盆休み期間)に全泊テント泊で実行しました。北海道ヘは仕事、プライベートで幾度か訪れていますが、ライダーの聖地?「宗谷岬」は未訪問でしたので目的地の一つに。そしてもう一つ、名物の最北丼を食すこと。加えて、長年の望みでもあった最北の山/利尻山登山、知床半島の羅臼岳登山も計画に入れました。計画上、限られた期間のため、ハードな旅であることは周知のうえでしたので体力的な迷いもありましたが、心境的にはCan Doでした。出発前日、台風の進路から天候が悪化することがみえていたため一旦は諦め荷物を撤収しましたが、やはり、天候を”行かない“言い訳にするのはやめよう…と雨天決行を決意、急いで荷物を再パッキングし、自宅のある横須賀を午前11時に出発。青森港まで夜間自走(仙台~青森間は雨天、ちなみに帰路も青森港~自宅まで雨天)し、青森港深夜2:30発のフェリーに乗り早朝6時半に函館に上陸。運よく雨は上がっていました。雨雲レーダーを見ながら、利尻山登山が晴天となりそうなタイミングを図り西回りとすることに。予想通り天気は回復し、結果、思い出に残るツーリング旅と登山を楽しむことが出来ました。残念ながら、利尻山の下山時に登山靴のソールを痛めてしまい、もう一つ計画していた羅臼岳は断念せざるを得ませんでしたが、また行く機会が出来たとみればそれも吉かと。そのようなわけで知床半島は観光船での知床岬遠望や五湖、カムイワッカ滝などお決まりコースでの見学となりました。しかしながら、ここでまたやることが増えてしまいました。船から眺めた知床岬に上陸したいという念が沸いてきて、”やることリスト“に追加です。このバイク旅ではこれまで“ふるさと納税”をしてきた地域も訪れてみました(収めた税は地域の自然保護に役立てて頂いているんだろうな…と期待しつつ)。結果的に走行距離は7日間で4200kmにもなり、この年にして自身の過去最高となりました。

 昨年、還暦を迎え人生も残り少くなってきたと思うようになってから、健康なうちに“やりたいこと”を“やること”に変え、一つずつ消していこうと決めたわけです。が…増えていくのが実情です(笑)。
 昔、長女に言われたことで記憶に残るフレーズがあります。「本当にやりたいのなら会社を辞めてでもやるべきだよ。それができないなら本気になっていない証拠」と。その通りだなって思いました。それ以後、娘の前ではやりたいことを口にするのはやめました。ちなみに3人の子供達は仕事も趣味もやりたいことをやり続けているように思えます。
 「明日やろうは馬鹿野郎」という言葉がありますが、この言葉をつい最近、若い女性シンガーソングライターが述べていました。私もまったくの同感です。性格的に少々せっかちな面があり、やれることはすぐにやるというのが良くも悪くも私の性格です。それゆえ、勢いでやってしまいちょっとした後悔があるときもありますが、前記したようにやらないよりはマシと割り切って流します。この言葉のもつ意図として、今日出来ることを明日に引き伸ばすなというようにとれますが、ちょっと違う視点で、「いまやりたいことを明日に回すなっ」として捉えてみてもいいかなって思います。
 先日、訪問したプリント配線板関連の会社の応接室の本棚に、故中村先生が執筆された「為せば成る」を見かけました。社長さんに読まれたのですか?と尋ねたら、いい本でしたのでここに置いてありますと笑顔で返されました。私も拝読しましたが、内容も素晴らしいのですが、タイトルの「為せば成る」の語句が好きで、私も自宅の本棚に入れてあります。上杉鷹山の言葉ですが、上杉家の家訓として伝承されているらしいです。米沢の上杉神社をはじめて訪問した際、上杉像とこの語句の石碑を見たときの感動は今も覚えています。
 以上、偶然耳にした松岡修造さんのCan Doからたわいもない内容につながってしまいましたが、何事も勇気をもって一歩踏み出せばカンドウ(感動)もあるという事です。
 しかしながら、上記した“やること”を実行するにおいては、家族を含め周囲の理解がないと行動できないのも事実で、“わがままな”な行動は控えるべきと自覚はしています。

 最後に、業務上でのCan Doについて、思い出話をまじえ一つ記述させて頂きます。
 30年程前の事ですが、半導体関連のT社より、とんでもない仕様のバンプ回路基板の話が来ました。協力頂けそうな方々にも相談し“できる”となり、受注しました。ところがいざ着工となると外部協力先はGive up。自社内だけでは創り上げるのは不可でしたので、T社へお断りの謝罪に…すると役員級の技術担当から“できるといったではないか! それでも技術者か!”と叱責され追い返されました。他の業務もあるなか、試行錯誤の連続です。既存工法のブラシュアップでは堂々巡りになるだけでしたので、新たな手法での試みを行いました。回路を作ってからバンプをめっき形成するのではなく、バンプと回路を一体で、電気めっきでつくりあげるという工法です。しかしながら、そこでも自社設備では乗り越えられない壁が。そんな時、商社から別件でJM社のA氏を紹介頂き、なんとその会社に当時としては珍しい大判の平行光露光機があったのです。しかも精密めっきラインも保有。相談したところ、土日なら自由に使っていいよ~ということになり、受注から4か月後(だったか)無事に納品出来ました。いわゆる転写法の応用によるものですが、1㎠に19600個のバンプを同一高さで形成し、特定箇所のバンプから回路を同一面に引き出すといった仕様です。バンプ高さは30μm±1μmという仕様です。ポリッシングを用いずに作成したこの基板は、1枚だけですが、技術屋としてのプライドをかけた宝物として今でも大切に保有しています。忘れられないCan Doです。

『ミラクルきなっこ』と『利ききな粉ワークショップ』
材料・表面工学研究所
所長  高井 治




『ミラクルきなっこ』を御存知ですか?
 当所の表面処理技術を生かした食品材料開発の一環として、風味改善した大豆の超微粉『ミラクルきなっこ』の開発を行っている。SDGsにかかわり、世界の食糧事情等の改善に役立ちたいとの思いもある。
 「『ミラクルきなっこ』は地球を救う!」との意気込みで普及をはかりたい。

 大豆につき、農林水産省の調べなどにより下記のことがわかる。
 国産大豆の主成分は、日本食品標準成分表(7訂)によると、(1)タンパク質(33.8 %)、(2)炭水化物(29.5 %)、(3)脂質(19.7 %)、(4)水分(12.4 %)、(5)灰分(4.7 %)であり、アメリカ産はそれぞれ、33.0 %、28.8 %、21.7 %、11.7 %、4.8 %、中国産は32.8 %、30.8 %、19.5 %、12.5 %、4.4 %となっている。
 産地、また種類によりその成分は異なるが、どの大豆でもタンパク質が多いのが特長である。
 現在、日本の大豆の自給率は7 %(油糧用を除き食料用のみで25 %)と低下している。かつては、日本の各地で、特徴ある大豆生産がなされていた。価格の安い輸入大豆が多くなるとともに、地場の大豆が廃れていった。
 大豆の品種の現在の作付面積のベスト5は、フクユタカ、ユキホマレ、里のほほえみ、リュウホウ、エンレイの順で、豆腐、煮豆に使われている。
 世界的には、大豆は、大豆油として油を取り、残りの油粕は豚などの飼料用に使われている。大豆をそのまま、あるいは加工して食べるのは東アジアなど世界的には一部の地域である。人間が、大豆をそのまま食べるようにすれば、世界の食糧事情も大いに変わり、炭酸ガス、メタンガス排出削減にも貢献できる。
 現在、GMO(遺伝子組み換え作物)の大豆が多くなっており、Non-GMO(遺伝子組み換えでない作物)の大豆が求められることもある。
 国内においては、各地の特徴ある大豆を復活させようとの動きもあり、『ミラクルきなっこ』と関連させ、この動きに貢献できればとも思っている。

 大豆には、タンパク質、各種ビタミン、各種ミネラル、脂質、植物繊維、イソフラボン、ポリフェノールなどが含まれ、高い栄養価を示し、「畑の肉」、「大地の黄金」と呼ばれる。タンパク質は血圧上昇抑制、肥満防止に、脂質は善玉コレストロールの増加に、植物繊維は整腸作用に、イソフラボンは骨粗しょう緩和に、イソフラボンはがん抑制に良いと言われている。
 この栄養を100 %利用できるのが、味噌、納豆、テンペ、きな粉である。大豆の一部を利用したのが、豆腐、醤油、豆乳、おからなどである。現在の豆腐製作ではおからが出て、この廃棄が課題になっている。大豆を100 %利用できる『ミラクルきなっこ』の登場で、この課題も解決できると考えている。

 きな粉の平均粒径は、粉砕法にもよるが、約200 μmであり、水への分散性が悪く、溶けない。また、臭い、収斂性(渋味)、えぐみ等の風味改善も必要である。この脱臭において、130ー190 ℃の高温処理を施すが、大豆に褐変という変色が起こりやすくなり、タンパク質の変性による分散溶解性の低下も起きる。一方、舌触りに関しては、粒径が約25μm以上であると舌にざらつきを感じるようになる。このため、粒径25μm未満の大豆粉の開発が必要になる。
 当所では、特殊な微粉砕装置を用い、平均粒径10ー20μmの生大豆微細粉を作り、約110 ℃の低温で空気に触れることなく焙煎処理を行い、風味改善を図った。また、消化に悪いトリプシンインヒビターを不活性にしている。このようにしてできた風味改善した微粉砕のきな粉を、『ミラクルきなっこ』と呼んでいる。

 『ミラクルきなっこ』は、従来のきな粉と違い、水によく分散し、水に溶けることに特長があり、豆乳、アイス、チーズ、ヨーグルト、肉などが大豆だけの原料で作ることができる。クッキー、パン、麺、飴などへの応用も可能であり、小麦、卵などと混ぜても使える。
 食品の三大アレルギー源は、鶏卵、牛乳、小麦である。これらのアレルギー源を使わずに、いろいろな加工製品ができることに、『ミラクルきなっこ』の特長がある。
 そもそも、『ミラクルきなっこ』を開発した当所の角田先生の動機は、「大学祭模擬店にきてアイスクリームを食べられなかった牛乳アレルギーの小学生に、牛乳を使わないアイスを食べさせてあげたい!」にある。

 特殊な冷凍法を用いるとチキンに類似の繊維状の大豆肉ができ、唐揚げ、チキンナゲット、チキンカツ等に利用できる。世界の食糧事情を鑑み、大豆を有効的に利用することは重要であり、特に大豆肉の発展は大いに期待できる。

 この『ミラクルきなっこ』関連で、2021年11月12日(金)に、きな粉スペシャリストのSEIKOさんを、研究所にお呼びし、講演会をかねた『利ききな粉ワークショップ』を開催した。SEIKOさんは、日本の500種類のきな粉を食べてきたとのことで、大変おもしろいお話しが伺えました。13種類の色も香りも舌触りの違うきな粉の特徴がよくわかった。日本には、500種類以外のきな粉も販売されているとのことで、きな粉愛好家の多いこともうれしい驚きです。
 SEIKOさんは、下記のYouTubeチャンネルを設けている。
https://www.youtube.com/channel/UCKl2uYwyh9jDla6uObrjvSg
 当日、お持ちいただいたきな粉ソースもおいしくいただけ、その動画も載っている。
 また、本学にいらした際の動画が、下記にアップされている。
https://www.youtube.com/watch?v=gEC_PX-zbjo
 是非、御覧になって下さい。

 当所では、小田原にあります「湘南ありへいとう製造本舗 利喜」に依頼し、ミラクルきなっこ入り有平糖を3種類(箱根路みそ落花生、足柄茶黒ごま、湘南はちみつ黒ごま)試作し、試供品を配布している。
 噛める飴とのことで好評を得ているので、是非、当所にお越し下さい!