過去の雑感シリーズ

2003年

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年頭所感
関東学院大学 
本間 英夫
 
年の初めの新聞、雑誌等には例年必ず未来予測が記事になる。未来は予測するものでなく自ら創るものであると説いた人がいるが、技術の世界では全く同感である。

特にエレクトロニクスではロードマップが学会の委員会やリーディング企業で作成されており、ムアーの法則よろしくほとんど計画通りに進んでいる。

ところが、ある時点で突然新しい技術が出現すると計画が大きくかわる。時にはリーディング企業が倒産にまで追い込まれることだってあり得る。

そこで、リスクを回避し、開発や研究の投資効率を上げるために、企業の連携、コンソーシアムが推し進められるようになってきた。アメリカ、ヨーロッパでは、この種の連携システムは研究機関や大学を中心に既に構築されている。

日本では政府が音頭を取り、筑波の産業総合技術研究所を初めとして全国で幾つかの拠点作りがなされている。さらには国立大学の独立法人化とともに大学の持っている基礎技術を活用すべきであるとの考えや、世界に通用する研究能力の高い大学に、重点的に研究費を配分する二十一世紀COEが具体的に進められている。

大学間に競争原理を取り入れ、また教員にも研究能力を競わせるようになってきている。一部ぬるま湯のような状況があるようであれば、刺激をする意味でお互い競い合うことはいいのだが、それがあまりにも前面に出すぎて自由な研究が出来なくなると、発想の豊かな独創性に富んだ研究者を育てたいとの考えに逆行することになる。

荒唐無稽と思われる研究は実はロードマップでは予測できない不連続な飛躍を社会や学会、特に産業界に大きなインパクトを与えるのである。その意味では、ゆとりというかアイドリングを研究者は常に忘れてはならない。

あるスパンの中できちっとタイムテーブルが出来ている中では窮屈で、不連続な研究や開発ができるわけがない。教育に携わる国の関係者をはじめ、教育界、大学の経営者はそのあたりを認識すべきである。また企業のトップも、ある程度のアイドリングを研究者に与えないと、キラっと輝く発見や発明は出てこないであろう。

昨年十月上旬ノーベル賞を受賞された小柴先生は、受賞対象の研究は、直接は何の役にもたたないと言っておられた。また、マスコミのインタビューの際提示された成績表には、優が2つしかなく、しかもその2つとも実験科目であり、実験屋であると自称されていた。勉強は自分からの能動的な働きかけが大切だとも言っておられ、従来の受動的な『教わる』という教育から、自ら能動的に『学び取る』教育の大切さを示唆されていたのだろうと思う。

一方、島津製作所の田中さんは会社で研究に没頭され、実績と業績を世界に向けて発信されていた典型的な秀才型会社人間である。

田中さんのインタビューの戸惑いにしても、小柴先生が自ら東大の物理学科でビリだったと成績表を提示されたことにしても、人間味豊かで暖かさが感じられるお二人に、祝福の喜びと同時に、ほのぼのとした近親感をもたれたのではないかと思う。



運を掴む人、掴んだ人



このお二人の受賞者は至福の時を迎えられた。これを幸運であると表現するのは適切ではないかもしれないが、受賞のきっかけになった発見は偶然からである。その偶然を掴める人と掴めない人がいるのである。偶然と言っても、それはそんなに簡単に遭遇できるものではない。連日連夜研究に没頭し、その中であるとき偶然に遭遇するものなのである。ひらめきも日ごろ研究に精を出すことで、あるときふっと沸いてくるのである。

幸運を掴める人は幸運を意識して追い求めてはいない。先生、同僚、教え子など素晴らしい人にめぐり合えてきたことの幸運であると、小柴先生は感謝されておられた。田中さんも同じだと思う。田中さんもまた、実験屋であると自称されていた。

小柴先生の場合、超新星の爆発は一世紀に一度くらいの確率だといわれている中で、カミオカンデの完成により、なんと一ヵ月後に超新星の爆発によるニュートリノの観測を偶然に捉えられ、確率的にきわめて低い自然現象を偶然に掴まれたわけだ。

一方、田中さんは連日連夜、たんぱく質センサーの研究に没頭されていた。 

たんぱく質の質量測定法のひとつである、イオン化法の開発にかかわる技術革新が、今回ノーベル化学賞を受けた田中耕一さんが考案した「ソフトレーザー脱離法」である。レーザーを生体高分子物質に直接当てると、熱で壊れてしまう。そこで田中さんは、生体高分子を、レーザーを吸収しやすい金属などに混ぜ合わせ、レーザーによる直接的な破壊を防ぐことにより効果的にイオン化させることを見出されたのである。

田中さんが開発したソフトレーザー脱離法を改良した質量分析器は、たんぱく質やアミノ酸の分子量を測定するのになくてはならない装置として各国の研究室で盛んに使われており、数多くある質量分析器の中でも一番使いやすく、分子量10万程度のものまで分析できる。 

田中さんらは、細胞の中にどのようなたんぱく質がどれだけ含まれているかを容易に解析できるようにした。異常なたんぱく質の素早い検出で、がんの早期診断が可能になるほか、製薬会社では新薬の候補となる化合物を、1日で数百種類も分析できるようになった。その成果を論文にされてきたのである。地道な努力である。99%の努力と1%のひらめきである。全くご本人は受賞を事前に知らされておらず、自分がこの最高の栄誉にあずかるとは夢にも思っておられなかったという。また、その後連日連夜報道機関に追われ、会社でも大幅な待遇改善、役員なみの待遇と、驚きの連続であったようだ。

本人はこれからも研究を続けたいとの意向を示し、実験屋に徹したいとおっしゃられた。我々も実験屋の端くれとして嬉しくなってくる。

小泉首相は日本の研究も捨てたものではないとコメントしていたが、これまでの海外の模倣からオリジナルな発見や発明を評価するようになってくれば、これからはますます二十一世紀にふさわしい、多くの独創的な発明や発見がどんどん出てくるであろう。 


偶然の発見



もう既に10年位前になるが、セレンディピティーについてシリーズで紹介したことがある。当時2つの学会の巻頭言にも、同じ内容のことを執筆した。

いずれまとめてセレンディピティーに関してもう一度シリーズで書いてみたいと思っている。昨年まで表面処理の領域と表現してきたが、表面工学研究所の設立を契機に、これからは少し大きく捉えて表面工学の領域と少々範囲を広げて表現したい。

小柴先生が受動的な教育からは自分の能力は発揮できない、むしろ自分から能動的な働きかけにより能力が発揮できるとおっしゃられていた。また田中さんが偶然に薬品の調合を間違ったこと、それがきっかけで大発見につながり、大きな成果を上げられたことからも、『ゆとり教育』には自分で発想できる人材を育成することが根底に流れているはずである。
 

表面処理業界の再生
関東学院大学 
本間英夫
 
年の初めから、幾つかの賀詞交換会に表面技術協会の代表として出なければならなかった。本年の政財界の重鎮の挨拶には、ほとんど明るい未来を展望しているものが無かった。

確かに日本の製造業は疲弊しており、明るい話題は無い。今や大量生産の拠点は急速に中国へと移り、製造業は窮地にたたされている。既に2万社が中国に進出しているという。表面処理業界に限って言えば、全国で経営していた企業数は十年程前の6000社以上から2100社に激減している。

バブル絶頂期には不動産価値がうなぎ上りに上昇し、これからの経営を考え、多くの工場を閉鎖し、その工場跡地にマンションを建てた。しかし、現在はその不動産価値も大きく低下し、借入金だけが大きく膨らむ結果になっている。

さらには、現在経営を続けている工場においても、将来を展望すると決して明るくないと、多くの経営者は悲観的だ。やむなく工場を閉鎖し、その土地を売ろうとしても、今度はその土地の土壌汚染が問題となり、汚染が判明すると売り手側が完全に土壌を入れ替えねばならない。そうなるとその処理費用は億を超え、廃業も転業も出来ず、工場経営を続けねばならないようだ。このような八方塞の現状の下では、積極的な経営や新技術への展開など考えられないのであろう。

21世紀は他力から自力へと経営を転換しなければならないと、業界紙の依頼で年頭所感を表面技術協会の代表として書いたが、的外れではないかと皆様から批判されかねない。しかしながら、現状を打開するには果敢に攻めるしかないわけで、政府が痛みを伴う構造改革と訴えていた頃は皆了解していた。しかし、具体的なアクションが緩慢で、掛け声だけに終わっているようで、どんどん景気は悪化してきている。

国も都も県も借金は大幅に増加し、組合組織として陳情しても、もはや頼れる余力は残っていない。『国からの補助金はいりません、それよりも仕事をください』と悲痛な叫びを上げている経営者もいるが、陳情型の経営はもう成り立たない。いずれにしてもこの閉塞状態から脱却するには、守りに徹していてはどうにもならない。積極策しかない。



再生策は



20世紀の大量生産、大量消費、大量廃棄型の産業形態は今、大きな変化の兆しを見せている。それは環境に優しいエネルギー、製造プロセス、製品であり、リサイクル、リユースが製品開発、設計の段階から最優先課題として考えられるようになってきた。

地球規模で、人間の知恵として反省と見直しがなされてきている。それ故、産業構造はこれから大きく変わる。政府は産業再生策として、重点研究領域にIT、ナノテクノロジー、バイオ、環境を上げている。

表面処理関連の企業がどのように関わるか、又は関われるか。既存の製造業がなくなるわけではないが、じわじわとマスが縮小し、積極策に出ない企業は仕事を確保するために価格競争だけに堕して、どんどん利益の出ない体質になり、自滅の道を歩むことになりかねない。実際、過去十年を振り返ってみても、他の先進国は年率2~3%の成長であるが、日本では平均1%の低成長にとどまっている。

日本の製造業には匠の伝統があり、世界の製造業におけるノウハウは日本発が多い。エコロジーとエネルギー燃料電池乗用車の実用化では、トヨタとホンダが実用化レースで世界を一歩リードしている。

また、表面処理業界に関連の深いエレクトロニクス産業の中で、実装技術における配線の接続部のほとんどは、これまで鉛を含むはんだが使用されてきた。もう10年以上前だったと思うが、アメリカの議会で血液中の鉛イオンの濃度の上昇に伴い知能指数が低下するとの報告が提出され、それを契機にはんだの鉛レス化が緊急の課題となった。

先ずヨーロッパから規制が始まり、鉛を使ったエレクトロニクス製品は将来的には(2000年度)禁止すると宣言された。日本のエレクトロニクスメーカーは輸出依存度も高いので、早くからこの問題解決に注力してきた。今から2年前ヨーロッパの工場や研究所を視察し情報交換をしてきたが、結局は日本が真っ先にクリアーし、規制を提案したヨーロッパ自体の技術開発は、日本と比較して大幅に遅れをとっているようであった。このように規制がなされると、それに対してかなり早い段階で技術的に解決するポテンシャルは、日本が一番である。

優れた技術力を日本は持っているのであるから、自信を持って事にあたり、この閉塞状態から脱却しなければならない。ところが、この種の技術力というか知力というか知的な財産が現在は全く防衛されず、ほとんど無償で他国に持っていかれているところに問題がある。



技術力を生かす



以前にも紹介したが、日本の国際競争力は十数年前の世界第1位から既に総合ランクで30位に低下している。しかしながら、科学技術は米国についで2位を維持している。

技術力の代表例として、昨年はノーベル賞のダブル受賞があった。小泉首相は、日本は捨てたものではないとコメントしていたが、的外れ・認識不足と言わざるを得ない。日本の技術力の高さを政治家、製造業以外の民間の経営者は認識をかえるべきである。

NHKのプロジェクトX、又そのテーマーソングが大ヒットしているというが、それは団塊の世代が感銘を受けていたのであり、今の若者の多くはその番組を見ていなかった。しかしながら、紅白歌合戦でそのテーマーソングが熱唱され、若者の心にも大きな感動が伝わったと思う。

これまで戦後復興を支えてきた人たちは壮年期になり、特に技術の領域だけを捉えると、それらつわものの多くはリストラで職を失い、自分や家族の生活を維持するために技術を海外に持ち出している。中には売国奴のようなことをしていると自覚している人もいるが、生きていくためには責められない。個人を責めるのではない。技術の核として支えてきた有能な技術者を、短期的な経営再建の一貫として、これからはハードではなくソフトだとばっさり切るような大きなミスを、企業の経営者が犯しているのである。

確かに年功序列が日本では定着していたので、再就職となると賃金が大幅に低下する。日本労働研究機構の調査によると、男子の場合平均で離職前533万円であった年収が、再就職で387万円と、なんと27%の大幅な年収減になる。

当然年功序列であったから、年収の下がり具合は若年層に比べて中高年層ほど大きくなる。50歳以上60歳未満では、年収650万円が430万円になり、実に34%の大幅なダウンとなる。

したがって、能力の高い人は、これまでに培ってきた自分の技術力を、生活のためにと倫理観を無視して、外国に持って行かざるを得なかったのである。経営者は経営者で、人件費の削減と短期的な視点で捉え、他国の追い上げに曝される結果となっているのである。

実はその技術は個人のものではなく、その企業の大きな財産であり、きちっと知的所有権の管理をするようにこれからは整備しなければならない。



今年度の就職率



高卒の就職率は35~36%、短大卒40%、大卒は65%位であると云われている。しかも、大卒の場合、自分が専攻してきた専門領域には殆んど就職できないのが実情である。多くの学生の就職先はサービス業、ソフト関連、セールスエンジニア等である。大企業や中小企業の専門職には、殆んど大学院修了者にしか門戸が開かれなくなった。10年程度前までは、大学さえ出ていれば自分の希望する企業に就職できた。採用側は、どんな学生でもいい、我々が企業内で育てるといっていた。しかし、現在は企業内で教育するゆとりがなくなり、即戦力になる学生を要求してくる。したがって、当然学部を卒業し、更に2年間修士課程で学んだ学生を採用した方が、企業側にとってリスクが回避できる。

表面処理の業界も、先に記した様に下請産業から脱却し、高い技術力をもつ体質変換が迫られている。なかなか優秀な人材が集まらないと諦めていてはジリ貧である。大きく飛躍するには優れた学卒者を獲得し、その学生を大学院で専門的に力をつけさせるのも、21世紀型製造業の再生策の一つの解であると確信している。
 

就職率とフリーター
関東学院大学
本間 英夫 
 
 ベア凍結、賞与ゼロ、年功序列から能力給へ、終身雇用制度も崩れつつある。最近の新卒者の就業率に関しては、先月号にも紹介したように全国平均で65%程度であろうといわれている。就職も大学院にも進学しないで、アルバイトで生活費を稼ぐ人をフリーターといい、大学を評価する上でフリーター率なる用語が使われだしている。

10年位前までは大学を出れば必ずどこかに就職できる時代であった。しかし、景気の後退とともに就職先も募集人数も大きく減少し、学生の就職に関する考えも変わらざるを得ない状況である。

従来のフリーターは一般の就職に飽き足らず、自ら生き方の選択肢として捉えられてきたように思える。しかしながら、就職が厳しくなってきてからは、必ずしも積極的な選択の結果ではなくなってきている。

 4年生になると、文科系の学生はゼミや授業はそっちのけで、連日就職活動に飛び回る。工科系も企業の技術者の採用は、大卒から大学院の採用にシフトし、同じく落ち着いて卒業研究に取り組んだり、授業に専念できなくなってきている。中には何十社にもエントリーしたが就職できなかったという悲惨な状況もある。

 担当の先生のケアーが及ばず、学生もそのうちに精根尽きて、フリーターや、卒業後に専門学校に進むようである。

 就職率や進路は大学によって、学部によって、又研究室によって大きく異なる。大学にとって、学生の就職率は大学の人気の重要なバロメーターであり、就職が出来ない大学であるとのレッテルが貼られてしまうと、存亡の危機に曝される。

 したがって、就職課の事務員や就職担当の先生は、就職率向上に腐心している。どこの大学でも、就職に関する模擬試験や模擬面接まで導入しているようだ。

 以前、このシリーズで学生の就職動向に触れたことがあるが、こんな対策でいい学生が育つわけがない。就職率を上げたいのであれば、付け刃的な姑息な手法はやめ、ゼミや卒研の担当の教員が、学生の資質をあげるように育てなければならない。

 

学生の指導方法と学会への積極参加



すでに企業によっては、大学のこの種のやり方を見抜き、大学の知名度で選ぶのではなく、きちっと育てている研究室を教授枠として指定し、力のついた学生だけを採用するようになってきており、その精度はかなり上がってきている。

 学部や領域によって、どのように学生を育てるかは異なる。例えば我々のような工学部の場合は、産業界との連携を意識して取り入れ、学生毎に指導をしなければならなくなってきている。しかし、産学の連携がこれだけ社会的に叫ばれているにもかかわらず、実行に移せない先生が多数いるようだ。

 何も難しい事ではなく、工学部であれば教員としての研究活動のベースである学会活動を、もう少し積極的にやるべきだ。産業界との接点は学会活動を通して生まれる。産業界が何を今要求しているのか、大学として何をやればいいのか、どのような学生を育てればいいのか、色々な角度から教えられることが多い。学会活動に積極的に関わってもらいたいものである。

 学会活動を積極的にすべきだとアドバイスすると、あいつは研究ばかりやっていて、大学のことはちっともやらないとの批判をする始末。

研究と教育は一体であり、少なくとも工学部の教員であれば、年間数回は学会で成果を発表し、また力のついた学生には発表させるよう努力するのが常識ではないか。さらには、それらの成果を最終的には論文として投稿するのが妥当であり、また大学人として社会に対する大きな使命であることを忘れてはいけない。その実績を企業に示せば学生の就職は難しくない。

何も研究、研究と亡者になっているわけではない。そのような感覚では、いい研究が出来るわけがない。卒研生も大学院の学生も、自ら、わくわく充実感を持って研究し、実力をつけていけるような研究に専念できる環境を構築すればいい。

我々の研究室では、毎朝の輪講会に始まり、昼休みは皆と食事をとりながら、政治経済や特に意識しているのは、ケーススタディーと称して身近な事例や、様々な問題を取り上げ論議している。

 先ずは研究ありきではなく、年間を通しての人間教育がベースなのである。この種の研究室の日々の行動を、本間イズム、本間教と評した人がいた。教員としてこの常識的なことが出来ず、影で批判ばかりしているようでは、これからは生き残れないであろう。



学生の能力を上げる本来の教育を



1月の下旬に3人のドクターの公聴会が行われた。公聴会には産業界から10名くらい参加されるのが一般的である。ところが有り難いことに、これまで小生の研究室から5人のドクターが出たが、毎回100名近くの方々が参加されている。

 今回は、あらかじめ出欠はとらず、メールで皆様に声をかけるだけにとどめた。しかしながら、これまでと同じように100名近くの方々が公聴会に参加された。

 この公聴会当日、さらにその後数日の間に、来年の学生の就職の予約が何社からも入った。

 おりしも、先月から今月にかけて、受験生は併願で合格した大学の中から、どの大学を選択するか決めているところである。

 従来は、合格後に納入した入学金は一切返却されなかったが、本年度から、本学を含め多くの大学で入学辞退者に返却する制度が採用された。したがって、今まで以上に大学は選ばれる時代になり、勝ち組みと負け組みが峻別される。各大学では生き残りをかけて本格的な改革と就職支援に取り組んでいる。

 当然ながら、企業は確実に実力をつけた学生だけを厳選し、採用するようになってくる。現実を直視すると、大企業ではほとんど大学院修了者を採用するようになってきている。

すでに主要大学では、工学部の学生はほとんど大学院まで進学するようになってきた。したがって、学部卒では自分が専攻してきた学科に関係なく、ソフトやサービス業が主要な就職口になってきている。

表面処理関連の企業の技術者の採用はどうなのか。上述のような大卒の就職のトレンドからみて、これから技術力で勝負しようとする表面処理関連企業は、考えるまでもなく学卒者の採用の願ってもないチャンスではないか。もし学卒者を採用して、その学生がかなり将来を担ってくれるようであれば、社会人入試制度を利用して、次年度から大学院に入って、更に力をつける方法は目的意識も高く力がつくであろう。

 これまでに、研究室への社会人の大学院生としての受け入れは10名以上になり、その中で博士後期課程まで進んだ人が8名いる。さらに、この4月から博士後期課程に2人の社会人が入学してくる。大学院修了後は、皆それぞれの企業に戻り大きく貢献しており、本方式が高く評価さている。
 

研修生の受け入れ
関東学院大学
本間 英夫
 
 表面工学研究所の事業の中に、研修生の受け入れ指導がある。研究所を開設して間もなく、国内の公的研究機関と海外の企業から早速研修の要請があった。実際には、国内の技術者を受け入れたのは、体制が整った昨年の暮れ二週間であった。

 通常、研修期間は少なくとも半年から一年が適当だろうが、この短期研修を通して、魅力があり、満足していただけるようなプログラムを、どのように構築するか、良い経験になった。

 また、一月の二週間と三月の二週間、都合おおよそ一ヶ月間アメリカ企業の技術者を指導した。その企業の従業員は大半がPhDであると言う。最大の問題はランゲージバリア、恥ずかしい話だがフルに会話ができる学生がいないこと、また研究所の専任スタッフも英語を苦手とするものばかりだ。かろうじて小生が、若干会話ができるだけである。これだけ国際化している中で、研究所が世界に向けての技術発信基地と標榜したいならば、研究スタッフ全員が日常会話の基礎くらいはこなせるようにならねばならない。

日ごろ学生にも、スタッフの一人である田代君にも、自分の過去を振り返って、英会話の必要性を説いている。私自身、本気でやる気になったのは、30代後半で、ドクターを取得するための条件のようなものであった。その条件とは研究論文が7、8報、さらに英語で論文を少なくとも1報、国際会議でも2報くらい発表することであった。今でも忘れはしない、1980年京都で開催されたインターフィニッシュがはじめての英語での口頭発表だった。ということは今から23年前である。目覚めるのが少し遅かった。しかし、まったく会話ができなかった訳ではない。大学四年の時、東京オリンピックが開催されたこともあって、我々の学生時代は第一次英会話ブームであった。したがって大学時代から少しは興味を持っていて、英会話スクールに通っていた。しかし、本来の目的から外れて異性との友好を深めることに専念してしまったが?? それでも一応は英語検定の2級(日常会話が少しできる程度のレベル)を当時取得していた。このようなわけで本格的に意識を持ってやりだしたのはかなり遅かったわけである。

だから、いつも学生諸君には自分は30代後半から英会話の勉強をやりだしたが、君たちは若いのだから、毎日少しの時間でいいから強い意志を持ってやってみるようにと、日ごろから意識付けしている。

ドクターに進学した学生は、国際会議で発表したり、論文を英語で書いたりしなければならない。そのため、英会話に通ったものもいる。また学部生、マスターの中でも目覚めて、やる気になった学生数は徐々に増えてきている。

 横道にそれたが、現時点では外国から研修生を受け入れた場合、私にかかる負荷が大きい。なるべく私がいなくてもお互いの意思が通じるようにしなければならない。したがって、今回は研修が始まった初日の打ち合わせで具体的な検討スケジュールを決め、後は田代君と学生に任せることにした。そうは言っても内心は不安で研究所に何日も出かけ、また毎日のように電話とメールで連絡をしていた。特に、三月の研修のとき、イラク戦争の勃発、テロ対策のため、アメリカから送られた薬品の入管にあたっては、いろいろ普段では経験できない場面に遭遇した。

学生と比較するまでもなく、今回研修にきたアメリカ人はものすごく熱心だった。実験のノートはきちっと整理していた。これは先発明のアメリカではごく常識なのであろう。

 極めてタイトなスケジュールであったせいかもしれないが、本人は朝5時に起き、先ずコーヒーを飲む。それからホテルの屋上や景色のいいところを散歩している間に、カフェインの効果があらわれエネルギーがみなぎってくると言う。それから部屋に戻り、当日行うことを整理する。朝は九時前に研究所に来ていろいろ田代君に質問を投げかけていたようだ。

一月の研修の際、実験を始める当日は大学で会議があり、研究所にいけないので田代君が一人で打ち合わせねばならなかった。田代君は英語に不安があるので、たまたまアメリカに留学して日本に帰ったばかりの学生がいたので協力をあおいだ。

 手伝ってくれた学生は、小学生五年生からアメリカに渡っていたのでネイティブと同じくらい会話は堪能であったが、残念ながら化学は専攻していなかった。しかし、本人にはアルバイトの形で既に二ヶ月くらいそのプロセスを教え、用語も理解させていたので問題は無いだろうと思っていた。初日はお互い上手くいっていたようだが、2日目に留学帰りのその学生が「この人頭が悪いんじゃないの、馬鹿みたいに質問をどんどんして」と、文句を言い出したようだ。案の定、3日目にその学生はアメリカの技術者と口論したらしく、研究所には来なくなった。心配だから4日目に研究所に出向き質問を受けることにした。

実験を始める前日、どのように進めるか、前処理からめっきまでのノウハウの多い部分について分かりやすく説明した。本人は物理屋でドライプロセスは経験が豊富であるが、ウエットプロセスは初めての経験である。質問の内容は全てのプロセスにわたり、化学的な反応や流体力学的な内容、また本人のアイデアも質問に含まれていた。

単にこちらが教えるだけでなく、実験に基づいた深い内容に関しての質問をこちらに投げかけてくる。お互いに討論することは願ってもない経験であった。アメリカ帰りの学生には、化学用語や彼の言わんとしているイメージが全くつかめなかったのであろう。

それからは田代君が一人で対応し、毎日クリーンルームに入り、片言英語で意思が通じ合ったようだ。特に三月の2度目の研修に際しては、田代君のヒアリング能力はかなり向上したようで、二週間目のまさに終わりごろは、私がいなくてもほとんどパーフェクトに相手の言っていることが理解できていた。また、三月の終わりは学会で、田代君も私もどうしても研究所には行けず完全に学生に二日間任せることになったが、学生にとっても海外の技術者と一緒に実験ができたことは貴重な経験になったはずである。彼らも田代君同様、英会話の勉強を(ちょうど新学期でラジオ、テレビ講座が始まる)はじめるのではと期待している。

 実際の実験にあたっては、田代君はその技術者の余りの熱心さと慣れないクリーンルームのイエローランプで、どっと疲れが出たようであった。あるとき、「先生、放って置くと何時までも実験をしようとするのですが、どうしますか」と連絡が入った。田代君のことを思い、実験をやめるように指示しなければならなかった。彼の実験に対するアグレッシブな姿勢は、研究所で実験をしていた学生にとっても良い刺激になった。アメリカは徹底した個人主義と実績中心主義なので、この種の研究者の熱心さはごく普通なのかもしれない。特に三月の研修では、サンプルを本国に2度送り、すぐに評価し、その結果をフィードバックしてまた実験に取り掛かるという熱心さであった。彼の会社も真剣である。

とにかく、ハイテク分野のいくつかの領域では、アメリカやヨーロッパと対等に、またはこちらのほうが進んでいる場合もあるのだから、これからは日本が先頭を走る領域もたくさん出てくる。

しかし、実際の技術や研究の担い手は若者である。我々が若いころに持っていた情熱、執着心、ハングリーさが、今の日本の若者には欠けている。

日本はこれまでと同じ事をしていては生き残れない。四月からは一年間の長期研修生を受け入れる。これまでの短期研修事業の経験を生かして満足していただけるよう努力する。
 

イメージを豊かに
関東学院大学
本間 英夫
 
 
7、8年前に大学院博士後期課程が認可されてから、研究室の学生数は大きく膨らんできた。

ここ数年は、総勢で30名近くになり、国立大学の一学科に相当する人数の学生を狭隘な実験室に押し込め、各自が自分の机ももてない状況である。昨年7月に研究所がオープンし、一週間の内4日間は、4から5名の学生が研究所に出かけているので、ほんの少しスペースに余裕が出てきた。

しかしながら、これだけ大勢の学生に対して、1人の教員で指導をするのは限界で、今までの10名くらいで行ってきた指導は通用しなくなってきていた。

そこで、一昨年度からこれまで数ヶ月に一度行っていた報告会を、毎月やろうと決め実行してきた。また、英語の重要性を痛感していたので、朝の輪読会は教員になってから30年以上になるが、これだけは中断してはいけないと継続してきた。

研究に関しては、数年前からは博士後期課程の学生がトップに立ち、前期課程の学生と学部の学生が実験をやる体制を整えてきていたつもりであったが、どうもしっくりこない。また英語に関しては、これだけの人数で同じ内容の論文を輪読しても、能力に大きな差がある。そこで、大学院生と学部生の両方に分け、学部のほうは大学院生が交互に面倒を見て、大学院のほうはなるべく自分たちで、これはと思うホットな論文を翻訳し、さらには少し高度な英会話をやる時間も作ることにして実行してみた。

しかしながら、この二年間を通して、研究や指導体制以前に、基本的な報告、連絡、相談のいわゆるホウレンソウが徹底しないことが多くなってきた。何度も手をかえ品をかえ、ことあるごとに、研究室の運営にあたっている大学院生全員にアドバイスをし、叱咤激励してきたが、どうもうまくいかなかった。

われわれのような、講座制を採用していない教員並列の私学では、学生と教員が一体となって研究教育にあたるので、大学院生の指導力は磨かれていくはずである。ところが、大学院生の人数が多くなると、責任の所在がはっきりしなくなってきて、うまく機能しなくなる。

企業に代表される組織体では、指導力のあるリーダーが決められ、何事もうまく運営できるようにしなければならない。大学の研究室の場合もピラミッド型になっていれば問題が無いが、本年度のようにマスター二年生が5人もいる場合、その中からリーダーを決めるのは、学生も私自身も教育機関故に躊躇してしまう。リーダーを選定するよりも、それぞれの個性を生かし、彼ら自身で、運営できる体制を考えてみるように指示してみた。

しかしながら、なかなかうまく機能しない。彼らは目的や目標を設定し、それに至るプロセスをどのようにすればいいのか、そのイメージがわかないようだ。

言われたことはある程度きっちり実行するが、自分から進んでイメージを膨らませて、その次のステップにもっていくことが下手なようだ。子供のころから、何を行うにしても受身であったので、リーダーシップをとる訓練ができていないのである。

そこで、研究室を運営していくにあたって重要と思われる用件ごとに、学部生、大学院生の中から連絡係を決めるようにした。

また、進捗報告会を始めとして、みんなで集まったときは、大学院の学生が毎回交替で進行役を決めるが、お互いを意識するのか、華麗さに欠ける。
 研究においても、実験の結果を考察し、それでは次にこのようなことをやろうと、いろいろ発想が出てきてもいいはずだが、なかなかその発想が出てこない。経験がないからと言ってしまえばそれまでだが、進捗報告会で彼らの実験結果報告を聞いていると、面白い結果が出ているのに残念だ。いつも口がすっぱくなるまで、積極的に考える習慣をつけるようにいっているのだが、なかなかいいアイデアが出てこない。 

したがって、次の展開は残念ながら私を中心に提案しなければならなくなる。彼らはしぶしぶ実験をしているわけではないが、イメージがつかめないのであろう。

なるべく彼らには、ディスカッションの過程で、本人からアイデアが出たようにもっていき、自信を持たせるように努力している。

一年間でいろいろ知識を吸収し、イメージを膨らませ、いつも挑戦的に実験ができるようにこれからも心がけていく。

発想の豊かさが、まさにこれから求められるようになってきているのである。

今までのように、きちっと引かれたレールに、ただ乗っていればいい時代から、自分でレールを敷設する時代に入ってきているのである。

研究室の学生に対しては少なくとも丸1年間、毎日のように触れ合うことができるのであるから、どのように指導助言するか、指導体制をどのように構築するか、新たな挑戦だ!と、イメージを膨らませて、前向きの気持ちだけは失わないようにしたい。



ここにもSARSの影響



昨年10月頃、中国(広州)で、5月8日から開催される予定であった、表面処理関連国際会議の募集が本格的に始まった。中国側としては、日本から少なくとも50名以上の参加者を要望していた。

表面技術協会の会長を務めている関係で、団長として参加することになっていたので、如何に50名以上集めるか、日本側のリエゾンを担当されている名古屋大学の高井先生、協会事務局、旅行業者と何度も打ち合わせしてきた。

その間、口コミで皆さんに参加を要請していたので、募集要項が協会誌に掲載される前に、すでにかなりの人数の参加が確認されていた。したがって、それほど参加者人数に関しては心配していなかった。

時系列的に思い起こすために手帳をチェックしてみたが、2月13日に開催された協会理事会での報告では、すでに60名以上申し込みがあり、さらに、企業から学生の発表を促進する意味で、多額の寄付金の申し入れがあり、この時点では参加者がもっと増えると予想されていた。

ところが2月末、協会の総会が開催されたその数日前から、香港、中国本土で新型の肺炎が発生し、すでに病院の医師や看護婦にも感染したという。当時は、それほど大きな広がりを見せず、収束するのではとのニュースが流れていた。

総会当日、まだワクチンも出来ていないのに中国行は中止がいいのではと、忠告してくれる会員がいた。その時点では、少し様子を見て判断すればいいと考えていた。

3月にはいるとイラク戦争が勃発し、CNNなどは24時間ライブ。その後、日を追うごとに、少しずつSARSのニュースが流されるようになってきた。

その頃から責任者として断行するか、中止するか、延期するか決めないといけないと、旅行業者を通して中国本土の状況を至急に問い合わせてもらった。確か3月17日のことである。

次の日にファックスが入り、まだ正式には報道されていない発症者の人数、中国以外での状況について記されており、その時点で中止か延期すべきであると判断した。

日本では、まだそれほど発症者が多いとは報道されていなかったので、当時誰も延期または中止になるとは思っていなかた。早速、事務局に自分の考えを伝え、高井先生に連絡、中国側との折衝に入った。

中国の主催者は、この種の肺炎は夏になると菌が死滅するので二ヶ月くらい延期すればいいとの連絡が入った。

いずれにしても、延期することに対しては中国側も受け入れたので、時期的な問題は後回しにして、先ずは参加者に延期の連絡だけは至急にすべきであると判断。正式に参加者に連絡したのは4月3日であった。

なんとその次の日、テレビを中心として厚生省やWHOの見解が大きく報道された。あまり先走ってもいけないし、遅れてもいけないが、責任者としては的確な判断であったと思う。その後、中国の主催者側には完全収束を条件として10月か11月まで延期とした。

果たしてワクチンがそれまでに完成するのか。感染源は一箇所ではなく、ビールスが二種類とのこと。ビールスの変異が早いとなれば、初動捜査(?)の遅れは致命傷である。また感染力が強く、人が全世界にばら撒く結果になっている。グローバル化の悪い面が一挙に噴出したように思える。

製造業の多くが中国本土にシフトしてきたが、SARSが長引けば産業界に与える影響は計り知れない。リスク管理の意味でも、日本の製造業をすべてシフトさせることの是非を真剣に考える必要がある。
 

これでいいのか就職活動
関東学院大学
本間英夫

 
10月解禁とされていた就職協定は、これまで全く守られていなかった。したがって、本年度から協定が廃止され、その結果、昨年まで実質的には5月くらいから盛んであったリクルート活動は、本年はさらに前倒しの、3月くらいから活動が始まった。

最近ではほとんどの企業がHPを開設しており、学生が自由にエントリーできるようになっている。名前の知れた大企業では、数百名の採用に対して、何万人もの学生がエントリーしてくる。会社説明会に始まり、大体四から五段階の篩にかけ、内定に至る。私の知っている幾つかの大手企業でも、数千人がエントリーし、先ずは会社説明会、続いてSPIを中心とした基礎学力試験、そこでほとんどの学生がふるい落とされると聞く。

また、ご本人から了解をいただいているので紹介するが、我々の業界の中で、最近NHKを初めとして、民間のテレビ局で幾度も紹介されたヱビナ電化工業株式会社では、すでに本年100名以上の応募者があったという。学部が7割、大学院生が3割。応募者全員と面接をし、採用したのは一桁と、海老名さんは言っていた。

このように多くの企業では、おそらく5月から6月の時点で、内定者を決めている。しかしながら、新規学卒の雇用は大きく縮小しているので、ほんの一部の学生しか内定しない。

それ故、ほとんどの大学の研究室やゼミでは、今まで以上に学生の就職活動が長期化し、研究活動は停止状態に陥っている。四年生になって初めて学生生活の中で充実した日々を送ることができるはずなのに、これでは大学生活の中で一番意識が高く、大いに能力がアップする大切な期間を無駄に送ることになってしまう。学生にとっても、教える立場の教員にとっても、また受け入れる企業側にとっても、さらには、大げさな言い方をすれば国家にとっても大きな損失である。

高度成長期の際、企業はあまり学生には注文をつけなかった。誰でもいいから、とにかく人が足りないからと、どんどん採用が決まったものである。

しかしながら当時の学生は、中年を過ぎ、現在早期退職をはじめとしてリストラの対象になっている。企業の人員構成もピラミッド型から中年層の中膨れのいびつな形になってきている。しかも、多くの製造業は中国本土にシフトし、これからの若者の就職形態は大きく変化せざるを得ない状況である。

そのような状況下で、リクルート活動をする学生は右往左往、大学も打つ手なし。

最近、「インプットにばかり精を出すのではなく、アウトプットをきちっとしないと、市場から去らざるを得なくなりますよ」と、大学の会議で声を大にして訴えているが、先生方から冷ややかな目で見られるだけである。

来春から国立大学が独立法人化され、いよいよ大学の生き残りをかけて差別化が始まる。魅力の無い、またフットワークの悪い大学は淘汰される運命にある。とくに、文科系の学部は学生のアウトプットを真剣に考えないと、目の前に危機が迫っている。

要は、特徴のある魅力のある大学作りに専念し、きちっと学生を育てていかないと、受験生からも、父兄からも、高校の先生からも、産業界からも見放される。

我々の大学では、企業より会議が多く、教員一人でいくつもの委員会のメンバーになっている。私自身も7~8の委員会のメンバーになっている。会議に出席することで自分の教員としての使命を果たしていると、勘違いしている教員が実に多い。

一番大切なのは、学生を如何に育てるかである。大学も企業も、変革期は迅速に対応していく必要がある。日本もこの二年間、構造改革の名の下に改革が進められてきたが、フットワークが悪く、経済とのバランスもとれず、どんどん奈落のそこに突き落とされているような感覚に陥る。



企業への注文



3月号に書いた「就職率とフリーター」のなかで、教授推薦の枠が増加してきており、学生に対して熱心に教育、指導しておればチャンスだと書いたが、内心は本年マスターの二年生を5人も抱えているので彼らの就職がどうなるか一番心配であった。

幸いなことに、3月から、幾つかの企業から教授推薦枠の申し出を頂き、本年は4月末で、すでに4人が内定し、また最後の一人も、5月中旬に内定した。大学院の学生に対しては就職協定がなくなったことで、一年次の終わりから二年次のはじめに内定すると、その後の一年間は、就職活動から開放され、研究活動を通して知識、能力の向上に専念できる。したがって、大学院の学生にとっては、卒業研究、その後大学院に入ってから、ほぼ同じテーマーで研究活動に専念しているので、3月くらいからの就職活動が時期的には良いと思われる。

ところが、四年生の求職活動が3月や4月ではあまりにも早すぎる。彼らはまったく自分の学んできた領域の専門性を理解していないし、将来、どの領域が適正なのかも掴んでいない。

したがって、学部の学生に関しては、早くても7月から8月頃に採用試験を実施するようにお願いしたい。その頃になって、彼らはやっと卒業研究が理解できているし、推薦する先生も学生の適性を把握できる。

しかも、今までのように何度も篩いにかけて、数ヶ月学生を引き止めておくようなやり方はやめて、1,2週間くらいで決着をつけてもらいたいものである。



企業収益V字回復?



上場企業の03年3月期決算発表が5月末で発表を終えた。調査結果によると、東証一部上場企業の売上高は、深刻化するデフレを反映し前期比0.8%増にとどまったが、連結経常利益は、前期比で15%増加した。
 経常利益が増加した企業は全体の65%以上。製造業では16業種中、14業種が増益を達成しており、業種別では精密機器の50%、自動車の30%の増益とのこと。しかしながら、これらの増益はほとんど賃金カットや人員削減などのリストラの効果が大きく効いた回復であり、サラリーマン、特に中年層は苦々しく思っているだろう。また、せっかく企業が本業で利益を上げても、代行返上で利益が相殺されるどころか赤字も出ている。したがって、業績回復の実感は極めて乏しいといえる。
 さらに、新型肺炎(SARS)の被害拡大、自爆テロが続いており、世界的な社会不安から先行き懸念材料は多い。
 

依存体質からの脱却
関東学院大学
本間英夫
 
表面技術協会の会長の任に就いている関係上、関連団体の協議会、総会、懇親会でスピーチを依頼されることが多い。年の初めから5、6回この種の会に出席したが、世情を反映して暗い話ばかりであった。多くの代表は、政治に期待したり、地方自治体へのお願いと言うか、おねだりのような話が多かった。表面処理の業界の会員数は、この10年間で、3000社から2000社くらいまでに激減したという。

組合や連絡協議会などはどうしても業界全体のことを考えねばならないので、弱者を救済する意味で景気の後退期には陳情団体になってしまうが、パイが縮小した現在、結局は強い企業だけが生き残っていくことになる。いずれにしても、依存体質から早く脱却しないと、まだまだこの先、廃業や転業をせざるを得ない会社が続出するであろう。私はいつも、ピンチがチェンジのチャンスと、積極的な展開の必要性を語ってきた。



ピンチをチャンスに



先が無い、見通しが立たないと悲観的な企業が多いようだが、そのような企業の中でも実はキラッとした技術を持っているのに、それに気づかずにいる場合がある。一方、積極的に展開している企業は魅力のある、自分たちにしか出来ない技術を構築し大きな飛躍につなげている。

最近、いろいろな商品を見ると、機能性を付与するためのめっきが使われる頻度が多くなってきている。ひとつの例を挙げると、半導体の製造に関しては、従来ドライプロセスが主流といわれてきたが、実は半導体の製造装置、周辺の評価道具だけで莫大なコストがかかり、しかもこの領域の技術の進展があまりにも早いので、減価償却を終える前に、次世代のプロセスを確立しなければならなくなってきている。

IBMのフェローで、すでにリタイヤーされたと思うが、ロマンキュー博士が40年以上にわたり、入社当時からドライからウエットへとチャレンジされてきていた。それが磁気ディスクの無電解めっきであり、ヘ ッドのめっきによるコイルであり、半導体の電気めっきによるダマシンプロセスである。

最近、ウエットプロセスが世界的に認識されてきたようで、ドライプロセスからめっきに替えられるものは積極的に取り込んでいこうとの機運が出てきている。MEMS(Microelectronics mechanical system)やバイオチップの製造技術にも、かなりめっきが関係する。これらはまさにこれからの夢のある表面処理技術だ。





マネージメントと技術力



これからの経営は、経営者のマネージメント能力と技術力が大きく勝敗を決める。技術的に力が無い企業は、これから当然消え去る運命、逆に、地道に技術力を高めてきた企業で経営者のマネージメント能力がすぐれていれば、この先さらに大きく成長するであろう。

高度成長期は、自社内に技術力が無くても、薬品や設備の供給メーカー、依頼する大手の企業が技術的にサポートしてくれた。それによって大きく利益を上げ、規模の拡大につなげてきた企業も多い。しかしながら、これまでに利益を上げてきた企業も、成熟技術が中国をはじめとする東南アジア諸国にシフトしパイが大幅に縮小し、将来の見通しが立たないでいる。

下請け産業から抜け出なければいけないと、中村先生はバブル絶頂期に警鐘を鳴らしておられた。さらには、いくらこのようにいってみたところで、落ちるところまで落ちないと実感としてわからないものだよとも言っておられた。したがって、新技術を追い求めようとしても、多くの表面処理を中心とした下請け加工企業は、技術の蓄積、技術者の養成を怠ってきたので対応できないでいる。自らの積極的な判断と展開で技術をキャッチアップし新技術を創製できるのはほんの一握りの企業群である。

組合を中心とした組織では、高度成長期のサロン的な雰囲気から脱却せねばならない。現在、表面処理の産業界でも産学官連携事業の推進と協議会の活動が始まったが、論議だけで終わるのではなく具体的に実行する仕掛けを構築せねばならない。



薬品メーカーの役割



薬品メーカーは、これからは今まで以上に新技術に対して魅力的な商品を開発し、関連企業とタイアップし、技術のサポート体制をさらに強化していかねばならない。

その技術力の源泉はとなると、直言すると、今までの多くの薬品は独自にメーカーで作られたものよりも、ヨーロッパやアメリカで開発された薬品を日本流に改良したものがほとんどであった。しかしながら、これからは日本発の独自の魅力ある商品を開発することが大切である。

勿論、これまで通りグローバルな視野を持ち、日本以外でいい商品があればどんどん導入するべきであるが、日本発の魅力のある技術をベースにした商品を持っていれば、世界戦略の中で互角に交渉できる。



技術者の待遇



日本の技術者は、技術の開発よりも改良が得意であるといわれているが、それはこれまでの技術のベースがヨーロッパであったりアメリカであったりしたので、日本の技術者はこれらの技術をさらに完成度を上げたのである。

ちなみに、最近では日本発の開発商品も、領域によっては多くなってきており、開発から改良まで技術者は情熱を持って事にあたってきている。

しかしながら、特にエレクトロニクス産業界で繰り広げられてきた、バブル崩壊後の人減らしを中心とした技術者の処遇に、特に中年を過ぎた人たちは大きな不満を経営者に抱いている。

経営者は、株主向けに利益の出る体質に会社を変えていかねばならなかったので、致し方ない面もあるだろうが、中年層を中心とした人員整理によって現在多くの大企業では、これまで培ってきた技術力が大きく低下している。

また、このように冷遇されていた技術者は、その技術を海外に持ち出していることも、少しこのシリーズで触れたことがある。モラルハザードと言われても、経営者の対処の仕方に対するしっぺ返しともとれる。それによって日本の企業がますます弱体化していくとすれば大きな問題である。

ある中年の技術者が言葉少なに、昔の「士農工商の階級制度ですよ」といっていた。多くの企業の経営者人を見てみると、確かに経営陣には技術者の比率は低い。海外へ人材が流れるのを、手をこまねいて静観しているようでは問題だ。今こそ技術力をさらに上げるには、これらの優秀な人材を中小企業が積極的に獲得することである。

そこで注意をしなければならないのは、果たして日本の技術の担い手である中小の企業に、彼らが適応できるかである。ひとたび採用すれば、不向きだとすぐに辞めてもらうわけにもいかないので、きちっと適応性を判断しなければならない。

優秀な人材の確保と同時に、技術革新のテンポが速いので、表面技術の基礎から応用にいたるまで、一企業で完成させるには莫大なエネルギーが必要である。これからの時代は、効率よくフットワークよく、大学も積極的に仲間入りし、新技術を創製できるような新しいアイデアをどんどん出していかねばならない。
 

技術指導の経験
関東学院大学
本間 英夫
 
神奈川県には先ごろまで技術アドバイザーという制度があり、中小企業の指導育成の一端を担ってきていた。この制度は、定かでないが、すでに5、6年位前から取りやめになっていると思う。

すでに30年以上前になるが、当時神奈川県工業試験所の部長であった今井雄一先生が「本間君、俺はプラめっきを知らないから一緒に来てくれよ」と神奈川県内のめっき工場をあちこち巡回指導させられた。それとは別に、横浜市にも工業技術センターがあり、中村先生の命令で、市の職員と一緒に市内の工場を巡回指導した。はじめは、巡回指導の際に工場の担当者や経営者が社内で技術的に困っている問題を投げかけるだろうと緊張したが、すぐにその緊張は消えた。というのは、指導内容に、これは大変だなと悩む問題はほとんど無かったからだ。

今井先生は「俺は水商売が専門だ」といつも大学での授業で学生に冗談を飛ばしておられたように、先生は日本の廃水処理、特にシアンの処理では第一人者であった。

したがって、私は今井先生と指導に回るときは、プラめっきよりも廃水処理に関する質問が多かったが、難解なものは無かったし、プラめっきに関しては、われわれの大学で世界に先駆けて工業化したのだとの自負と、その技術に関しては自信があったので、まったく怖気づくことは無かった。

この種の指導のお手伝いが、その後の研究に対していい肥しになった。さらには、表面処理関連企業では技術者が不足していることの認識を持つようになり、大企業に学生を送り出すのも良いが、鶏頭牛尾で中小のほうが活躍できるぞと、学生には半ば強制、半ば説得して送り出してきた。

現在では、表面技術に関わる産業界に輩出してきた学生数は、中村先生の代から数えるとすでに300名以上、本学の出身者は500名以上にのぼり、一大勢力を築いている。



技術の伝承



30代の前半から50代の前半までこの種の技術指導を担当してきた。しかし、10年以上前「先生のやられているような先端の技術を手がけている会社は、指導しなくても自助努力でやっているし、指導を仰ぎたい会社は低次元なことしかやっていないので先生には申し訳ないから」との理由で、その後技術指導の声がかからなくなった。したがって、それ以来国内の工場を視察することはほとんどなくなり、むしろ海外の工場を毎年のように視察していた。

ところが先日、ある企業からぜひ一度会社に来てほしいといわれ、10年以上ぶりに中小の会社を見学させていただくこととなった。会社に入る前、今までのめっき工場のイメージから訪問する会社は、雑然として管理も行き届いていないのではと予想していた。そのつもりで現場に入ったら、確かにかなり古い工場であったが、現在大学の関連会社である関東化成と比較してもまったく遜色無く、きれいに整理されていたのには驚いてしまった。

さて、その会社に着くや否や、先ず仕事内容を聞いた。今まで訪れた町工場と呼ばれるめっき工場は、大体ほとんどが亜鉛のバレルめっきや装飾めっき、クロメート、クロムめっきなどであった。ところがその工場ではこれらの仕事は無く、すでに廃棄したのか、またはラインが休眠中であった。

この1社だけで判断してはいけないが、活発に仕事がなされていたのは、かなりハイテクで、社長が長年手がけてきたノウハウの塊のようなプロセスだけであった。

おそらく、そのプロセスのノウハウは社長一人しか知らないのであろう。この企業のように、せっかく自社内で確立してきたノウハウも新規の採用が出来ない、また採用しようと思っても誰も来てくれないという。

工場面積もかなり大きいし、技術力とアイデアを持ったシニアをむかえ、さらに若いスタッフを数人そろえ、積極的に展開すれば飛躍の可能性十分なのに残念だ。

もし私がその企業を前から知っていたら、学生に紹介していただろう。この種の匠の技のような技能は、残念ながらどんどん忘れ去られていくように思えてならない。

技術の伝承はかなり大きな企業でもうまくなされていない。如何にこれまで蓄積してきた技術を次の世代に伝えていくか、先を急ぐあまり、うわべのルーチン業務だけを教え、肝心な技術の根幹が伝わっていないように思えてならない。

しかも、これからグローバル調達、少子高齢化が進む中で、新技術を創製しないと、業界全体では10年以上前のあの成長速度を期待することは出来ないであろう。



学生の育て方、企業の技術者の育て方



学生に、様々な技術を教える時、どのようにしてこの技術が確立されてきたか、過去の苦労話から初めると、学生も生き生きしてくる。卒研生には先ず薬品の取り扱い、器具の使い方、評価方法などをOJTで教える。

新学期にはいると、先ず大雑把に私が学生に研究の内容を説明し、その後は大学院の学生が中心となり、4年生を指導する。進捗報告会は一ヶ月に一度のペースは守られているが、毎週金曜日には実験の経過をメールで簡単に知らせてもらっている。また、時間があれば毎日のように実験室に行って、それほど時間はとらないが学生と話すように心がけている。

昼休み時間は、大学院の学生が私の部屋に集合し、昼食をとりながら実験の進捗を初めとしていろいろ話し合う。この4月から企業からドクターコースに来ている人の提案で、仕出し弁当を注文するようになったが、400円程度で意外と評判が良い。昼休み時間も今までよりも、有効に使えるようになった。

学生には技術の伝承を忘れないように、いろいろな角度から、私が蓄積してきた内容を解説していくように心がけている。またいろいろ話をしている中で学生が自ら考え、いいアイデアが出てくるような環境を作る。先ずアイデアが出てきたら、それを実行してみることが肝心である。絶対にそんなことやっても意味ないよ!とか、それよりも俺の言ったことを早くやれとか命令するやり方はうまくいかないだろう。次号では、この数年間研究室で行われてきた学生主導型の研究内容を簡単に紹介する。

また、連日のように、産学連携の記事が新聞に掲載されるようになってきた。本学が産学協同や連携の草分けであるとの自覚をもって、研究所を昨年設立したが、8月下旬には研究所の拡張工事が始まる。
 

豊かな感性と意欲を
関東学院大学
本間 英夫
 
 パスツールは「幸運の女神は準備したところに訪れる」と、またゲーテは「発見には幸運が、発明には知性が不可欠」と語っている。

 単なる理論の積み重ねでは発見や発明につながらない。また一心不乱になって実験をやっても、基礎的な素養と感性が豊かでないとすばらしい発見に遭遇していても逃してしまうし、また発明も出来ない。十分な科学的知識を持ち、大いなる意欲と感性が研究者には必要であると、最近の学生には語っている。

 あるとき、好奇心や豊かな感性が研究を進める上に必要だと話していたとき、ふと十数年前に世界的にベストセラーになった単行本、ノーベル物理学受賞者のファインマンの自叙伝風の「ご冗談でしょうファインマンさん」を思い出した。

 当時、研究室の学生の数だけ原書の単行本を購入し、英語の輪講に使った。偉大な物理学者ではあるが、茶目っ気、いたずら好き、好奇心の強さ、豊かな感性など自分は足元にも及ばないが、過去の自分の体験とダブらせながら、いくつかのエピソードの内容を鮮明に覚えていた。

 意欲と感性が大切だよと学生に説くよりも、この本が今でも発売されていたら人数分購入し、数ヶ月間輪講会用に使おうと思った。

 一人の学生に横浜の大きな書店に行って探してもらったが、一冊だけあるがまとめて購入するには時間がかかるという。そこでインターネットでの購入のほうが早いと、20冊くらい購入することにした。

 数週間後に本が届き、早速毎朝9時半からみんなで読むことにした。この1ヵ月半くらいでやっと三分の一読み終えた。自分の過去の話も入れながら輪読しているので少しテンポが遅い。この輪講の目的には二つあり、ひとつは先ず彼らの英語力を少しでも向上させること。それと、研究をやっていく上で、好奇心や感性の重要性を認識してもらうこと、および我々の研究室で行われてきた研究の内容を理解してもらうことである。

 このような機会を通して、学生が自ら考え、アイデアが出るような環境を作ることが大切であると、毎年いろいろやり方を変えてみている。先ずアイデアが出てきたら、それを実行してみることが肝心である。研究室の先輩がこれまでやってきたことを追実験し、実験の方法や内容を理解することは大切であるが、単にトレースするだけではつまらない。少しでも今までやったことのない、自分なりのアイデアをいれて自由に実験するようにその環境だけは整えるように努力している。

 この数年間、研究室で行われてきた学生主導型の研究内容をこれから数ヶ月紹介する予定である。

 短期間に結果を要求される企業では、この種の開発は不可能に近いだろう。実はこれから数回に分けて紹介する例は、本研究室のオリジナルなものと、企業が何年もかけて開発に注力したがうまくいかず研究室に依頼があったものである。

 委託研究をお受けするときは、大学での研究だから成果の発表はさせていただくよう理解していただいている。ところが大学との共同研究や委託研究を経験したことの少ない研究者には、こちらの考えをなかなか理解してもらえない。自分たちだけの成果にしたいとの気持ちが強い。実際何名もの学生がその実験に取り掛かり、それがまったく学会の発表も論文にも出来ないとなれば、どこにインセンティブがあるのだろうか。我々の意向が反映されない場合はきっぱりお断りしている。

 委託研究に関しては、今までは年間で7、8件受けてきているが、委託額はせいぜい一件あたり、年間50万円から100万円であった。だから、ほとんど研究の拘束条件なしに自由にやらせていただいた。

 昨年からは研究所が完成し、委託は全てそちらを通してもらっているが、上記の額ではまったく研究をやっていくことが出来ない。小さな研究室と研究所の両方を運営していくには、月に薬品代だけでも5、60万円はかかってしまう。解析に必要な機器を購入するとなると、少なくとも一台1千万円以上する。

 したがって、今までの委託額では運営できない。現在のところ一委託に数百万円以上でお願いするようにした。

 そういえば最近新聞に産学連携の記事が目立つようになってきた。本学が産学協同や連携の草分けであるとの自覚をもって研究所をさらに充実したい。10月の中旬頃までには研究所の拡張工事が終了しているだろう。少し大きめの実験室、有機関連の実験室、機器分析室、講義室が出来る予定である。





水でプラめっきのエッチング????



 プラめっきが世界に先駆けて工業化したのは本学であると、このシリーズでも述べてきた。一般にはプラスチックと析出した金属を密着させるためには、強力な酸化剤であるクロム酸や過マンガン酸が用いられ、樹脂の表面にミクロンオーダーの凹凸を形成させる。その凹凸にめっきを施すことによって、完全に凹凸が金属で埋まることによって機械的に金属と樹脂を接着させている。

 現在はめっきが可能な樹脂の種類も多くなり、これらの酸化剤のほかに強力なアルカリや酸でエッチングされる樹脂も開発されてきている。しかしながら、いずれにしても酸化剤や強力な酸や塩基が使われるので環境に優しくない。

 さらには、最近ではビルドアップ工法が携帯電話を初めとして各種の携帯機器に用いられているが、樹脂基材に過マンガン酸で数ミクロンの凹凸を形成させ、そこに金属を析出させる、いわゆるアンカー効果によって金属と樹脂を密着させている。したがって、これからますますファインになる回路形成に対してこの方法はそろそろ限界であり、低粗度で密着層が形成を可能にする樹脂やプロセスの開発が望まれている。

 我々の研究室では2年半前、紫外線で樹脂を改質できないか検討を進めた。これが、最近になっていろいろな樹脂に水と紫外線で処理するだけで、従来のような凹凸を形成させなくても、密着の良好な金属の成膜が実現した。現在、研究所の田代研究員と研究生および学生4人の計6名で研究を続けている。

このアイデアは今から25年位前にさかのぼる。当時PSMD(Photo Selective Metal Deposition)といわれる選択めっき法が研究されていた。オランダではすでにTiO2を用いて回路形成をすると発表されていた。

 しかし、当時は回路幅がせいぜい200ミクロンくらいであり、光を用いるには魅力がないと感じていた。そこで我々は、感受性化工程のあと紫外線を照射すればスズが酸化され、後続の活性化で用いられるパラジュムは置換されず、したがってマスクを用いて選択的に紫外線を照射すれば、選択めっきが可能であると考え実行してみた。

 初めは遊び心で、当時助手をしていた小林君と一緒に実験に取り掛かった。先ず、青焼きのコピーをとるときに使われたフイルム、そのフイルムにPSMDの論文のタイトルを焼き付け、それをマスクの代わりに用いて、うまく選択めっきが出来るか調べた。めっきが始まってしばらくすると、その論文のタイトルが鮮明に浮かび上がった。「やったぞ!!」と二人で喜んだのも束の間で、しばらくすると全体がめっきで覆われてしまった。その年は遊びで終わったが、翌年「よし!!これはやれるぞ」と、本格的に実験を行うことにした。石英上に200ミクロンから1ミクロンまでパターンが形成されているクロムマスクを、大手の光学メーカーで作成してもらうことにした。市販の殺菌灯を購入し、紫外線の照射装置を自作した。

 1ミクロンとなると、なかなかそこまで解像させるのは難しい。光をきちっと照射する必要があり、それには密着露光が最適である。ラーバーを上から被せ、下方から光を照射する装置を検討することにした。

 当時の工業高校出身の学生はセンスのいいのが多くて、お互いに意見を出し合い、出来上がった装置は自信作であった。我々の研究室では樹脂としてABSしかなかったので、手っ取り早く、この樹脂にパターンを形成させた。しかし、残念ながらクロム酸でエッチングすると、サブミクロンから数ミクロンの穴が開いてしまう。したがって普通のエッチングでは1ミクロンのパターンを形成することが出来ない。そこで、ほとんどエッチングせずに1、2分くらいクロム酸に浸漬し、ABSに濡れ性を出すだけにした。

 あとは、選択めっきを行ったわけだが、これまでの経験では1、2分の処理ではエッチング不足で、すぐにめっきがはがれてしまう。ところがちゃんと1ミクロン解像し、めっきがはがれてこない。これが今回の開発のヒントになっている。



発見、発明の心

1 常識にとらわれない

2 情報にうずもれず、無駄な情報は捨てる

3 お互いに自分を主張する

4 何が本質か追求する

5 豊かな感性、磨けば豊かになる



 Do and see, do not think too much. 下手な考え休みに似たり。先ず試みて、よく観察する。

技術に対して、追いつけ追い越せの追従型から、日本発の技術が望まれるようになってきた。少しでも多くの創造性豊かな人材を輩出できるように心がけている今日この頃である。
 

光触媒との出会い
関東学院大学
本間英夫
 
大学での研究室と研究所では、学生が主体となって研究開発を進めている。先月号では水でエッチング??とセンセーショナルな副題をつけて説明したが、その後の進捗も含めてさらに詳しく説明してみたい。



光触媒との出会い



わが研究室で注力してきている研究における無電解めっき液には、有機錯化剤が主要成分として含まれている。多くの読者がご存知のように、この成分は金属イオンと強力に結合し、安定な状態でめっきが進行するためには必須の成分である。        

逆に言えば、このままの状態では普通の中和沈降処理では金属イオンを所定濃度まで低下することが困難である。すでに十年以上前になるが、光触媒の先駆者である藤嶋先生から「めっき液には多くの錯化剤が含まれているが、その分解に光触媒が使えないか検討してみないか」と提案をいただいた。

当時は無電解ニッケルめっき液の開発を手がけていたので早速、各種の有機物の分解に対する効果を調べることにした。高圧、低圧、超低圧水銀灯は前号で説明したPSMD用に持っていたが、すでに当時から二十年以上経過しおり、使えなくなっていたので新しくそれぞれのランプを購入し、どれくらいの効率で分解が進行するか着手した。無電解ニッケルめっきの廃液を想定して500ml程度の液に光触媒100ppmの存在下で処理してみた。

確かに分解はするがめっきの廃液は大量に出るので、それをUV(紫外線)のもとで光触媒を用いて処理する方法は、効率的ではなかった。せっかく着手したテーマであったのでその後、光の感度を上げる(増感)方法として光触媒の二酸化チタン粒子に金属を坦持する方法を初め、いろいろ試み、さらに効率を5倍くらいまで伸ばすことに成功した。  

しかし、これでも500ml処理するのに1時間程度かかるので、大量に排出される一般的なめっきの廃水処理には不適であると判断し、この処理プロセスはお蔵入りしていたわけだ。



ビルドアップ工法との出会い



3年位前から配線板の作成工程として、特にビルドアップ工法における、さらなるファインな回路形成が望まれるようになって来た。ビルドアップ工法は日本発の技術であり、そのルーツは三十年以上前にさかのぼる。元富士通の高木さんによると、すでに1968年頃にアビオトロニクスの夏目さんによってビルドアップのアイデアや用語が使われていたとのことである。しかし、当時は機が熟しておらず二十年くらい経過した段階で、元日本IBMの塚田さんが中心となり、この工法の開発に着手された。JPCAショウーでその技術が紹介された後は、多くの企業が興味を示し開発に取り組んだ。先に述べた通り、この技術は日本発の技術であり、大きく進展させるためには規格化をはじめ、さらにいろいろな技術開発が望まれた。

たまたま、小生が回路実装学会の配線板委員会の長に就いていた関係で、小生がビルドアップ研究会の委員長、塚田さんが主査、それとこの工法の開発を進めている企業や関心を持っている企業を二十社くらい選び、早速活動が開始された。この研究会は、小生が今なお委員長として(すでに後進に譲ると2年前からお願いしているが)活発な活動を続けている。この工法は、絶縁層と導体層を交互に積み上げていく工法であるので、無電解めっきと電気めっきがきわめて重要な要素技術になってきている。

ところが、導体層と絶縁層形成の密着をつかさどるアンカー効果(絶縁層を酸化剤で粗化し導電層との物理的密着を得る)による方法では、絶縁層表面は開発当初、大きいもので確か4から5ミクロンくらいの穴が開いていた。これでは将来ますます微細化する回路形成に問題が残る。   

ABSへのめっきでは、表面にサブミクロンからせいぜい1ミクロンくらいの粗化で密着が得られている。したがって、さらに低粗度に出来るはずだし、そうすべきであると訴えてきた。究極的には無粗化で絶縁層と導体が密着してくれればそれに越したことはない。高木さんも当初から無粗化で密着層が形成できればとわれわれの研究室のテーマに入れるよう促されたものだ。

研究会や学会発表があるたびに、この考えをみんなに訴えてきたものである。したがって、ただ開発の方向を示すだけでなく自ら実証する責任があった。



アイデアから確信へ



先月号で少し触れたようにPSMDの方法で1ミクロンの配線を作成していたときにABSの表面をほとんどエッチングしていないのに、UV(紫外線)を照射したあとの表面は金属と良好に密着していた。この現象が頭の片隅にあり、また上述したように無電解ニッケルめっき液中の有機物がUVによる光触媒で分解するので、ABS樹脂もビルドアップの絶縁層として用いられている有機膜も、UVとさらに光触媒反応を用いれば、表面を化学的に修飾できるはずであると確信のようなものを感じた。

早速、文部科学省の科研費の申請を行い、それが採択された。3年前は、まだ手探り状態であり、ビルドアップに一般に用いられている絶縁材料をメーカーにお願いし提供してもらった。学生が自分たちで材料を練り合わせ、スクリーン印刷機を用いてエポキシ樹脂の上に塗布する作業が続いた。材料の配合比率と塗布方法が決め手であり、上手に塗布するにはかなり時間を要した。当時はまだ研究所が設立されておらずクリーンな環境ではなかったので、かなり塗布面の表面状態は良くなかった。だが、ひとまず光触媒の効果を検討するには十分であった。

先ず、密着性がどれくらいでるか、3年前は3人の学生でこのテーマに取り組んだ。約一年がかりで現在用いられているビルドアップ用の基板に対して、過マンガン酸で処理した場合と同じくらいの密着が得られるようになった。実際のプロセスと結果を、今回学生が学会で発表した内容を下記に示す。結果だけを見ると簡単なように思えるが、ここまで到達するには三年の歳月が経過している。現在は各メーカーから十数種のサンプルが提供され、本格的にプロセスの確立に向けて6人から7人体制で実験を続けている。

今回の発表は、表面技術協会 第108回講演大会(宇都宮大学)にて行ったものである。

実験プロセスとしては、二酸化チタン(アナターゼ型)0.005g/dm3を分散させた水溶液(以後、分散液)中にビルドアップ用基板(エポキシ樹脂)を浸漬し、(光源―基板間距離7mm)よりUV(主波長254nm)を照射して、表面改質処理とした。本改質処理を施した後、触媒付与工程を経て、無電解銅めっきにより、導電膜形成を行った。次いで電気めっきにより銅膜厚を約30ミクロンとしてから、皮膜と基板の密着強度測定を行った。

同基板を用い、本改質処理において、約1kgf/cmの密着強度を確認し、従来法である過マンガン酸処理を施した場合に匹敵する密着が得られている。また、過マンガン酸処理によるエッチング痕および本改質処理処前後の表面形態をSEMにより観察した結果、過マンガン酸による処理では、直径1から3ミクロンのエッチング痕が形成されるのに対し、本改質処理では全くエッチングされなかった。 

以上の結果より、光触媒である二酸化チタンとUVを用いて基板表面の改質を行い、平滑面に対し密着性に優れた銅皮膜形成が可能となった。

現在は、本改質処理を用いることで、従来のようなエッチングによる凹凸が生じないので、GHz領域での表皮効果による電気信号遅延を防止でき、さらにファインな回路形成が可能であり引き続き、他の種類の基板への適応について検討を続けている。
 

2年ぶりの海外視察
関東学院大学
本間 英夫

 
 2年前のあの忌まわしい9月11日の事件当日はヨーロッパ視察中であった。

その後は、国際テロの可能性が高く大学からも海外の出張は控えるようにとの指示が出ていた。  

したがって、海外の幾つかの学会に出席予定であったが全てキャンセル。1年あまり経過した頃、大学の海外出張禁止も解除された。その直後、中国で国際会議が開催されることになり、研究室の5、6名と学生を参加する予定であった。発表するチャンスと着々と準備を進めていた。しかしながら、今度はSARSが拡散しだし、急遽この国際会議は延期になった。従って、今回の東欧の視察は2年ぶりということになる。しかも表協の現職会長さらには、大学院工学研究科委員長の職についていることもあり、比較的短期の10日間で予定を組んだ。大学は夏休み中であったし、また出席した産業界のメンバーは連休をうまく利用したので実質5日間だけ会社をはなれたことになる。

今回一緒に参加した吉野電化の吉野社長が東欧に関する政治および経済状況を書かれているので、本人の了解のもとに主要部分だけをほぼ転載する形をとった。



1度は地図から消えた国ポーランド

「東欧」という言葉は英語圏の人々の言う Eastern Europe にほぼ合致している。それはロシアとドイツの間の諸国という意味で、当時ソ連よりも西の社会主義国を指しており、本来東独も含まれている極めて政治的な概念である。

 先ず最初に訪れたポーランドは、現在ほぼ単一民族国家をなしている。ポーランド人は、チェコ人やスロバキア人と同じく西スラブ人に属する。東ヨーロッパの北部に位置するポーランドは、北はバルト海に面し、南のスロバキア国境沿いの山脈地を除けば平原の国といってよい。  

ポーランドの語源は Pola (野原、畑) に由来し、事実ワルシャワでタワーに登って見回したが、360度が地平線の世界であった。

ポーランドの歴史は紀元前10世紀くらいまで遡ることができるが、この国ほど栄華衰勢を極めたのも珍しいと言える。ポーランドほど国境線が変動し、時代と共に国の姿を大きく変えてきた国は見当たらない。なかんずく第二次世界大戦後の国境線変更は、ポーランド領土の地理的な中心が約250㎞も西進すると言う極めて大幅なものであった。

15~17世紀、穀物の輸出により東欧の大国となったポーランドは、国土をバルト海から黒海にまで拡大。16世紀末には首都をワルシャワに移し、17世紀には一時モスクワまで進出するほどの繁栄を見せている。

17世紀後半になると国土は荒廃し無政府状態となり、周辺のロシア、プロイセン、オーストリアなどの国々が内政に干渉するようになり、改革が断行されるようになった。

 1772年から1795年の間に3度にわたる分割・割譲の結果、ついにポーランドは世界地図上から姿を消してしまうのである。次にポーランドが地図上に現れるのは、約100年後の第一次世界対戦の終了を待たねばならなかった。   

その後待望の独立をするが、第2次世界大戦によってポーランドは再びドイツとソ連により分割、占領されている。大戦後、ソ連圏に組み込まれたポーランドの悲劇はその後も続くが、連帯運動によって自由化運動は活発化し、1989年、旧ソ連圏で最初の非社会主義政権が発足した。

 現在のポーランドにとってもっとも大きな課題は、経済と外交政策の2点に絞られるが、いずれもEU加盟を抜きにしては論ぜられない。事実、今回ポーランド訪問中にも所々にEU加盟準備事務局の看板が見受けられた。EUに加盟するためには、所謂EUスタンダードをクリアーするか、少なくても僅差に止める必要がある。

其の為にも最低限として、医療、教育、年金制度、国家行政の4つの分野で構造改革が必要とされるが、その結果、財政は予想以上に圧迫され膨大な財政赤字に苦しんでいる。又ポーランドは多大な貿易赤字を抱えており、昨年(2002年度)の赤字額は、71億300万USドルにのぼる。

 失業率も高く、平均で16%、特に高い地域では30%にも達している。これらは従来の鉱工業、農業地域が最も苦境に陥っている事を顕著に著わしており、政府はこれらの地域を経済特別区に指定している。1995年以後、これらの地域では日本の投資を含め、現実に着実に、工場立地が進められ、いすゞ自動車のディーゼルエンジンの工場や、西部地域にはトヨタの部品工場が設立され、この地域の失業率の低下に日本も貢献している。

 ポーランド産業の未来を考察してみると、より競争力を高める為には、構造改革を推進し、知識を基本とする経営を行う一方で、ポーランド最大の強みである比較的安価な労働力を維持する事が必要である。事実、今回の視察でも了解できたが、ポーランドの労働力に関しては、能力が高く、勤勉で、ドイツの6分の1から、4分の1と安い。



チェコ共和国 “えっ、いつ別れたの?”

 次に訪問した、チェコスロバキアは、1993年1月に、チェコ共和国、スロバキア共和国に、それぞれ分離独立したが、歴史的に見れば、逆にチェコとスロバキアがくっついていた期間の方が短い。チェコとスロバキアは民族的にも、歴史的にも、かなり違った道を歩んできたし、国が隣り合わせだと言う事を除けば、合併する必然性は何もなかったと言っても過言ではない。

 1918年以後、両国はしばらくチェコスロバキアとして歩み始めるが、ポーランドと同じようにドイツから様々な迫害を受け、実質的な支配下におかれた。その後はソ連の支配下におかれ、55年ワルシャワ条約加盟後は、60年に国名を「チェコスロバキア社会主義共和国」と改め、次第に筋金入りの共産国に変貌していく。しかしながら、共産化したチェコスロバキアの経済は、早くも60年代後半には行き詰まってしまい、中央政府は大胆な経済自由化路線をとることになる。68年の、所謂「プラハの春」と言う経済改革で、これは計画経済をベースとする共産主義経済とは相容れない物であった。  

この自由化の波が他の東欧諸国に飛び火する事を恐れたソ連は、力ずくでそれを阻止すべく軍隊を派遣し、チェコスロバキア全土を掌握した。以後チェコスロバキアは完全にソ連のコントロールの下に置かれることになった。

 しかしながら、ソ連のペレストロイカの影響で、80年代後半に入ると自由主義を唱える市民運動が活発化し、共産党内部からも改革派が台頭してくる。89年には自由化、民主化を唱える「市民フォーラム」が結成され、その大衆の動きに押される形で、共産党政権は同年末、無血で崩壊した。この政変は非暴力的に滑らかに行われた為、「ビロード革命」とよばれている。 

 共産主義崩壊後、何回かの自由選挙を行う内に、まもなく政権内部で地方の主張が強くなり、関係がギクシャクしてきた。 

92年の総選挙では、それぞれ主張の異なる政党が、チェコ、スロバキア双方で選出され、分裂傾向が加速された。92年末、チェコのクラウス市民民主党党首と、スロバキアのメチアル民主スロバキア運動議長が、チェコとスロバキアの連邦を解消する事を話し合いで決定し、その後、それぞれチェコ共和国、スロバキア共和国として独立する。あまりにもスムーズに別れたので、これを「ビロード離婚」と呼んでいる。いずれにしても驚愕に値するのは、この連邦解消の際も、共産党崩壊の際も、一滴の血も流さず、話し合いで問題解決をした事である。

 その後、チェコは、「欧州への回帰」を標榜し、歴史年表的にはポーランドの動きと表裏一対をなしている。

経済面では、90年代半ばには順調な成長を見せ、新聞等で「チェコ経済の奇跡」とも呼ばれた。しかしながら、経済の好調に支えられ大量に流入した外国資本が、生産性の改善とは引き合わない賃上げと、誤った投資、不正な蓄財に使われてしまった。

この結果、民間消費が過剰な伸びを見せるとともに、貿易収支赤字は拡大をつづけ、好調な観光収入を含めても経常収支は、97年には、対GDP比7.1%の赤字となった。これらを踏まえ、政府は97年に財政支出削減と賃金抑制を柱とした内需抑制策を導入し、為替を完全フロート制へ移行させた。これらの処置により為替は安定を取り戻し、貿易赤字も縮小傾向に転じた。経常収支赤字は98年には対GDP比2.2%へ縮小し、国際収支上の問題は一応の解決をみたのである。

2000年以降は積極的な外資導入に牽引される形で2~3%台の成長を続ける一方、財政赤字削減といった構造的問題に取り組んでいる。

 直近のチェコ経済は、欧州経済の景気停滞及びコルナ高基調の影響が顕在化しつつあり、成長の速度は緩まりつつある。2002年の実質経済成長率は2.0%となり、2000年の3.3%、2001年の3.1%に比較しても経済成長率が明らかに鈍化しているものの、2003年上四半期は2.2%と若干上昇している。雇用情勢は此処2,3年間、失業率8%から9%半ばの間を上下していたが、2003年は9%台後半から10%台と高水準で推移している。  

現在、外国からのチェコへの直接投資は、良質な労働力と中欧への拠点といった地理的好条件を背景に急増しており、2002年には93億ドルの外国資本がチェコに流入した。国別では、やはりドイツが、累計で31.6%になり突出しており、ついでオランダ16.9%、オーストリア10.0%となっています。日・チェコ経済関係においては、特に自動車関連メーカーの進出が加速しており、我々視察の間も、東海理化の新鋭工場を垣間見る機会も得た。現在進出済みの自動車関連を列挙しても、豊田合成、豊田通商、小糸製作所、光洋精工、デンソー、古河電工、トライス、東海理化などの進出を受け、当に真打のように、 2001年12月トヨタ自動車とPSAプジョー・シトロエン社が合弁により小型自動車組み立て工場を建設する事を決定している。その後も2002年には、富士機工、高田工業、シミズ工業、アイシン精機、住友金属工業、ダイキン工業、オイレス工業などが進出している。

 いずれにしても、EU加盟に向けて解決しなければならない難問は山ずみであるが、共産勢力を一掃してしまった国家のリーダ達の平均年齢は非常に若く、日本の明治時代を髣髴とさせるような処がある。19世紀後半にたどり着いた工業先進国のレベルに追いつけるか否かは、これら若い指導者の双肩にかかっていると思われる。

赤い東欧の終焉: 1989年社会主義の崩壊

 ソ連を中心とする共産主義諸国でも、不況や冷戦による軍備拡張競争の結果として、各国経済は疲弊し限界に見舞われていた。そんな時にゴルバチョフがソ連の指導者として登場、改革(ペレストイカ)に着手し、アメリカにも和解を呼びかけた。こうなった以上、自由化の波は、あたかも水は低きに流れるように、再び、元の状態には戻せない。他の社会主義国にも改革の雰囲気が飛び火し、東ヨーロッパ全体で、1989年に東欧民主革命が起き、東ヨーロッパの共産主義政府は次々に崩壊し「ベルリンの壁」も無血で取り壊され、冷戦の歴史が終わった。結論的に言えば、ソ連にゴルバチョフという新しい指導者が誕生したという国際環境の変化の他に、体制変換への動きを加速した何よりも大きな理由は、社会主義経済が機能不全に陥り、資本主義に対する優位性を示せないどころか、国民の基本的生活も保障できない状態に陥ったのである。



まとめ: 20世紀人類の試行錯誤

 今回の東欧訪問により、20世紀に人類が経験した政治と経済の大きな仕組みの、激しい変動の歴史に触れることができた。  

かつては、ヨーロッパの大国であった「ポーランド」、大きな歴史のひずみの中で暗い過去を刻んだアウシュヴィツ。民族は纏まってこそ一つの国、それを取り戻した「チェコ」。社会主義経済の終わりを、その体制の最後の指導者により迎えることとなり、その結果としてベルリンの壁が崩れ去った「旧東ドイツ」。多くのかつての共産主義国がそうであるように、政治面で共産主義から自由主義へ、経済面で計画経済から市場経済へという20世紀後半の大きな流れの中で、様々な施策を行いながら21世紀の明日に向かって進んでいる、

 世界が一つの大きな経済圏になっていく中で、政治の重要性を見つめながらこの世紀を生きていく必要があると今回の旅行から感じた。

   

神奈川文化賞

十一月三日(文化の日)に思いもよらず、科学技術部門受賞の栄に浴することになった。

この部門での受賞者は、四人目であるとのこと。本学が産学協同のルーツであり中村先生や斉藤先生を始めとする大先達が築かれた表面技術の伝統を大学の校訓“人になれ、奉仕せよ”に従って、地道に実践してきた結果である。この栄誉を大学から巣立っていった先輩・後輩とともに祝いたい。
 

受賞顛末
関東学院大学
本間 英夫
 
9月中旬、初めての東欧視察。最初の目的地ポーランドのワルシャワに着いて2日目。若い時とは違い、時差ぼけを早めに解消しなければと、11時過ぎにベッドに入った。11時40分頃、けたたましく電話が鳴る。熟睡して明日に備えねばならぬのに何でこんな時間に!!。「先生、神奈川の文化賞が内定したとのメールが入っています」同行したドクターコースの小山田君からの電話であった。

前回の北欧視察の際に持参したパソコンでは、うまくメールのチェックが出来なかった。さらには、そのパソコンのバッテリーやコードが爆発物に見えたのか、あの忌まわしい九月十一日の事件の丁度一週間後であったことも災いし、小生のトランクだけが2日遅れで自宅に届いた。したがって、今回はゲンを担いでパソコンは持っていくのを止めた。

小山田君がパソコンを持っていくというので、それなら大学や自宅に入ってくるメールをチェックしてもらい、食事のときや視察の合間に内容を聞けば良いと思っていた。本人は小生がすでに床に就いたことは知っていたようだが、いい知らせなのでいち早くと思ったのであろう。

実は、このような賞は内定するまで当然であるが、本人には内密で進められる。選から漏れる場合もあるとの配慮からであろう。こんな理由で、最後のぎりぎりの段階になるまで当人にはわからないのであるが兆候はあるものだ。

たとえば「国際的な賞を取っておられますが、その団体は?本部はどこですか?」とか。何故そのような問いかけをされるのですか「実はこうこうしかじかで――」というやり取りをしたのは6月頃であった。自分はそのような資格はないし、あまり気にしていなかった。しかし、届いたメールの内容によると、県からの知らせで、本件は知り合いには言っても良いが、まだ公にしないでくれとのこと。無論このようなことは自分から吹聴するものではないし、翌朝小山田君に先ず学生に知らせないこと、今回の視察に参加している企業の方々にも言わないこと。二人だけの秘密だと念を押した。

それから10日間程度の視察が本格的に始まり、ほとんどこのことは忘れていた。  

ところが視察も終わりに近づいた頃、今度は県の担当者から面接したいとメールが入った。今までとは違って権威がありそうだ。とにかくメールで、帰国して数日後に県の方とお会いする約束を交わした。

帰路につく機内で教育委員会の役員を初めとして、県や市の各種委員を歴任している吉野電化の吉野社長に、まだ公にしてはいけないのだがと断り、このような賞に関して彼からコメントをもらったが「これは重みがあるんだな」と徐々に実感がわいてきた。

帰国後、早速HPで調べてみたが、横浜文化賞は昭和26年から始まり、今年で52回目を迎えるという。芸術、文学、産業、保健、体育、科学技術など何分野か失念したが、要するに文化に関わる領域で毎年4名が受賞される。科学技術分野ではこれまで、菊池誠、斉藤進六、林主税の御三方しか受賞されていない。しかも受賞されたこれらの方々は、知る人ぞ知る大変に有名な方々であり、何故小生ごとき者が受賞されたのか思いめぐらした。



産学協同の地道な推進

受賞にあたっての推薦理由書を拝見したがそれによると以下のようである。

 自動車に使われている車種のマークや冷却器外装のグリル(格子板)、コンピュータや携帯電話の電磁シールド、プリント配線板など、めっきを中心とした金属表面処理の研究・指導を長年にわたり行い、自動車製造分野及び電子部品製造分野における金属表面処理技術、エレクトロニクス実装技術の発展に大きく貢献した。

これまでの中村先生、斎藤先生、今井先生の研究に対する実績の後を受け継いで、今でこそ産学協同は当たり前のように新聞・その他の報道で叫ばれているが、過去の誹謗中傷(特に学内では大学紛争後)にも怯まず、本学が産学協同のルーツだと事あるごとに言い続けてきた。また関東化成(元大学の事業部)を初めとして産業界との連携の下にそれを実践してきたことが評価されたのであろう。

表面のことを扱っているが表にはあまり現れない、縁の下の力持ちの役割をしている表面処理。しかし、中村先生が生前よく言われていた「ハイッテックめっきがなければローテック」最近になってエレクトロニクスの要素技術として評価は絶大であり、その貢献が受賞の対象になったのであろう。



学生にとっての文化的経験

したがって、これは小生に与えられたものではなく、小生があくまでも代表して受賞に与ろうという気持ちになってきた。地元新聞に公表されたのは受賞日の3週間くらい前であった。さらに受賞の2週間くらい前だったか、「先生の部屋に現在何人の学生がいますか?式典と祝賀音楽会の招待状を送ります」と連絡が入る。

式は十一月三日(月)の祝日で、学生諸君はいろいろ約束もあるだろうが、式典は別として祝賀音楽会はクラシックの生演奏である。ほとんどの学生は自ら進んでクラシックの鑑賞を経験していないだろうと、大学院の学生との輪講会の際にこんな聞き方をした。

「十一月三日、君たちは休日だがクラシックの音楽会があるので、出来れば一緒に聞きに行こう」

やはり、中には休暇は自分のものとの意見を主張する大学院生もいた。

それからしばらく日がたって、地元の新聞に大きく受賞者が発表された。もちろん発表前に、かなり長い取材を受けている。小生は日経、日経産業、読売の3紙しか購読していないので、発表当日はそのことを知らずに学校に向った。事務員の方々は、皆暖かく祝福の声をかけてくれる。照れくさいのですぐに研究室に行く。

学生にそれまで内緒にしておいたことなので、気持ちが軽くなった。そこで、今度は学生に正式に今回の受賞に関すること、また招待券が来ているので小生の授賞式はともかく、クラシックの生演奏は経験ないだろうから行きたい人はと募った。大学院の学生はほとんど行くというが卒研生は半分くらいであった。ちょっと寂しい気持ちもしたが三日は祝日、強制は出来ない。



祝福の経験

これまでもドクターの取得を初めとして、いくつかの研究に関する受賞が決定され、それが公表された際にうれしいという気持ちよりも寂しくなった経験のほうが多い。

敢えてここに記すが、一部の先生を除いて現役の先生の多くは、この種の内容を知っていてもほとんどお祝いの言葉をかけないものである。ひょっとすると、小生の側に祝福されない何か大きな人間的な欠陥があるのかもしれないが・・・。

だが、リタイヤーした先生はまったく態度が違う。まさに抱き合うような勢いで祝福していただける。うれしさがこみ上げてくる。

そのようなわけで、自分からは「こんなものを受賞しました」とはいえないが、なんか寂しさがこみ上げてきて数日後、田舎の親友のところに電話したものだ。その親友とは年に一度くらいは会っているが、いつも電話で声を聞くだけで、熱いものがこみ上げてくる。歳を重ねるにしたがって、本当に信頼できる友達はありがたいものだと実感する。

また学外のOBを初め、知り合いの先生方、産業界の各位、祝電をたくさん頂き、お祝いのお言葉も頂いた。ただただ恐縮している。学内では、自分の性格の強さ故に、みんなから信頼されていないだろうと深く反省している。

祝賀当日、学生が20名近く来てくれ、さらに自宅に帰ってみるとメールで祝賀会、演奏会の感激を伝えてくれていた。素直に感謝の気持ちでいっぱいである。当日の祝賀会での小生のコメントがその次に日の新聞に載った。

世界で初めてプラスチックスへのめっきを可能にした金属表面処理研究の本間英夫さん(六一)は「人間の髪の毛の千分の一とも言われるミクロの世界にめっきを施すことはハイテク。めっきがなければローテック。電子機器や携帯電話も生まれなかった」と研究者らしい口ぶりで説明。さらに「今選挙戦真っ最中ですが、政治家の皆さんには表面処理の加工はしてほしくない」と会場の笑いを誘っていた。

このような訳で、お世話になっている産業界の方々から、またOBからも祝賀会をしようということになった。今回は、いつものOB会とは違い小生が音頭をとるわけにはいかない。でも、いつものOB会では必ず自分が前面に出ないと上手くことが運ばないが、今回は研究所の副所長である後輩の豊田君が中心になり音頭を取ってくれた。そこで、いくつかは注文をつけさせてもらった。

先ず産業界の方々にわざわざ集まっていただくのは失礼だから、丁度十一月の二十一日に本学で工学部の研究発表会が開催されるので表面工学部門の講演を聞いていただいて、その後、懇親会形式でやればいいのではと提案した。

委託研究などでお世話になっている十数社の企業の役員の方々に限定するようにとも注文をつけた。

ありがたいことに、研究発表会は会場が満員となり、又はその後の祝賀会には、ほとんどの役員に出席いただいた。大先輩のアズマの大朏社長は、今まで中村先生がお元気な頃、一度OB会に出席いただいたが、今度は講演会にも参加いただき嬉しい限りである。

その他の多くの企業の役員の方々も講演会からご出席いただいたので、今われわれがやろうとしている研究をご理解いただけたものと思っている。



OBおよび産業界へのアピール

OBが集まっての祝賀会では祝賀会というよりも、小生としてはこれを機会に現在の大学の現状を理解してもらいたいと考えていた。昨年七月に立ち上げた表面工学研究所を拡張すべく、工事が十月下旬からはじまり十一月いっぱいに完成の予定であった。

こけら落としに神奈川県との産学連携事業として十二月の四日、五日の両日実習つきセミナーをやることにしていたので2日目の5日にOB会をやることに決めた。

OBには研究所の活動に関しても知らせたかったからである。来春から国立大学は独立法人となり、また少子高齢化も進むため、大学は今後ますます競争が激化し魅力がなければ淘汰されていく運命にある。

したがって、いかにして受験生や父兄や高校の先生にアピールできるか、今まさに問われている。その現状をOB諸君に知ってもらい、さらに小生なりにやれることは何か考えた。

研究所を初めとして、すぐれた研究環境を構築することは勿論であるが、そのほかに奨学金制度を確立したかった。

3、4年前に工業化学科の大学院を目指す学生のためにと小額だが寄付をしている。今回は、表面工学を志望する大学院の学生向けに表面工学奨学基金と銘打って、今回の副賞と皆様から預かった祝いを含めて寄付することにした。OBがこの趣旨に賛同してくれ、呼び水になることを期待している。