教育改革に一言
関東学院大学
本間 英夫
教育の一端を担っているものとして、今月は教育問題について、考えを述べることにした。
昨年あたりから、大学生の学力低下に関する報道が多くなり、このままでは日本の将来が危ないとまで言われている。実際、受け入れ側の企業から見ると、新卒者の多くは主体性がなく、どことなく頼りにならないと感じられるのだろう。
知識詰め込みや偏差値教育の反省から、創造性豊かな人材を育成しなければと、教育改革がなされてきた結果が、これでは不安になる。
一九九二年、小学校に生活科が導入され、中学では選択学習が広がった。高校では科目の選択の自由度が大幅に拡大し、さらには、卒業単位の削減がなされてきた。このように「ゆとり」をキーワードに改革が始まった。
大学でも週五日制と称して、基本的には土曜日は閉講とするカリキュラム編成が浸透してきている。文部省の基準で、大学卒業の習得単位数は一二四単位と決められているが、多くの大学では一四〇単位程度を習得させるようなカリキュラムが組まれていた。最近ではこの卒業単位数が限りなく一二四単位に近づいている。
さらには、二〇〇二年度からゆとり路線を拡大する新指導要領が実施され、毎週土曜日が休みとなり、小中学校の教育内容が三割削減される。また、教師の工夫に任せる総合学習も始まる。
「知識詰め込み」から「問題発見・解決能力」「生きる力」「考える力」を備えねばならない。それには「ゆとり」が必要と、教育改革が実行されつつある。
果たして、このゆとりの教育はうまく機能するのか?確かに、高校までの生徒の生活を見ると、ゆとりの部分は塾や予備校通いに使われ、自分で物を考える時間や、熟考して問題を解決する喜びを感じる時間には使われていない。
このままでは、創造性豊かな人間が輩出される環境にはない。また、教育現場では果たして創造性豊かな青少年を、どのように養成するのか? 戸惑う教員が多いのではないだろうか。
偏差値至上主義の中で育成された教員、その教育システムの中で、カリキュラムだけをいじっても意味がない。いくら創造性の高い人材を作らねばならないと強調したところで、教育する側にそのセンスがなければ、うまく機能しない。
学力の判断基準を、従来の物差しで測っている以上は、改革ができないであろう。教える側、教わる側、父兄、個々人すべての意識が変革されない限り、企業、社会全体の受け入れ態勢が変わらない限り、大きな教育改革は不可能であろう。
また、偏差値教育を是正すると言っておきながら、高等学校におけるクラス分けはいったい何を意味しているのか。文科系、理工系、体育系など、なぜ文科系と理科系に分けねばならないのか。数学や理科ができないから文科系だとか、英語や国語が得意だから文科系に進むとか。偏差値教育が徹底するようになってからは、進路決定は自分自身の興味からではなく偏差値であった。
将来に夢を持たねばならない年齢層が、偏差値で輪切りにされ、成績のみで自己の進路が決められてしまう。
昨年暮れの国際数学・理科教育調査によれば、数学・理科が好きな中学生の比率は、日本が最低ラインだったそうだ。
理工離れの中で、特に化学を嫌う傾向は一段と激しさを増している。現在、化学が好きで化学を専攻した学生は、おそらく一割もいないだろう。
数年前から、日本化学会と化学工学会が音頭をとって、高校生が化学に興味を持つようにと、各大学で実習講座をやるようになっている。最近は、かなりエントリーする大学が増えてきている。我々の大学でも過去三年講座を開いた。
地道な活動であるが、この講座に参加した高校生の中で、かなりの数の生徒が、わが大学の化学科を志望してくれるようになってきた。
各高等学校で、実験や自習にもう少し熱を入れてやってくれれば、こんなことを大学でやる必要は無いのにと、当初は不満もあった。
たった一日か二日の実習講座であるが、実験を始めると彼らの目は生き生きとしてくる。以前、化学科の学生に高校時代に実験の経験は?と尋ねたが、ほとんど経験がないようだ。実験をしたとしても、ごくありきたりの感動を伴わない実験か、または先生がデモンストレーションする位のものである。
自分で操作し観察して、初めて感動が直接伝わってくるのに、先生方は事故が心配なのか、それよりも、受験のための暗記詰め込み授業に比重を置かねばならないからなのか。ひょっとして、先生方自身が自分の学生時代に、あまり実験をやらなかったのか。したがって実験、実習の面白さを理解していないし、教育方法もわからないのか。確かに従来の教育ではその傾向が強い。
小学校の先生の希望者にピアノやオルガンを弾かせるのと同じように、理科を志望する先生にはテストで実験をやらせる必要があるのではないか。
高等学校までの理科教育を実験、実習中心にすれば、理工系離れは一挙に改善されるであろう。今の教育の手法では人間が本来持っている、好奇心、探究心、感動を呼び起こす心を、一番大切な時期に奪い去ってしまっている。
英語教育の充実
文部省は先に中学、高校、大学の英語教育を抜本的に見直す方針を固めたようだ。中学から大学まで一〇年間、英語を学ぶ環境が整っているにもかかわらず、現在の学校英語だけでは、ほとんどの人は英語での会話ができない。
すでに二〇〇二年から実施される新学習指導要領には、英語教育に実践的なコミュニケーション能力の育成が盛り込まれている。そこで文部大臣の下に私的懇談会として「英語指導方法改善推進会議」が設置され具体的な検討に入った。同会議のテーマは①英語教員の採用方法の改善、②具体的な授業の進め方、③高校・大学入試の改善、④国際交流機会の拡充方法等である。
この会議には大学教授、英語に堪能な財界人、英語教員で構成されるとのこと。文部省の指導要領に従わなければならないのであろうが、以前からこれまでの英語教育が実践的ではないと指摘されていたわけで、現場の先生方は何をこれからなさねばならないか、分っているはずである。
私は英語の教員ではないので、あまり大きなことは言えないが、大学の試験問題を今まで以上に実践的な問題にすれば、自ずから教育方法や、どこに注力するかが決まってくる。
たとえば、現在行われているパズルのような語句の当てはめや並べ替え、発音やイントネーションに関する出題はやめる。現在はこの種の問題が全問題の三分の一くらいの比率である。そして現在採用されている長文の読解力に関しては、やたらと文学的に高尚な長文を出すのではなく、若者の興味をそそるような歴史、経済政治、自然科学の話題、(どうしても難易度の高い単語を使わねばならない場合は脚注をつけて説明する)あとはコミュニケーション能力を増強する上で会話能力を評価する問題を多くする等。さらに大切なことは作文能力、実はこの点が現在の試験(マークシート)では評価できないので、なおざりにされている。試験のために勉強しているのではないのであるが、高校までの英語教育を実学的にするには、残念ながらこのような方法に即効性があると思われる。
これだけ国際化し、道具としての英語を使わざるを得なくなっているのに、現在の教育体制では、大学まで九年から一〇年英語を習っても日常会話はもとより、文献を読みこなす力はほとんど無い。少なくともこれからの世の中、日常の英会話ぐらいは、使いこなす必要がある。
現在、国際的に活躍している多くのビジネスマンは、ほとんどが学校教育以外に、何らかの経験と努力(海外生活、会話教室、テープその他の教材による学習、ラジオやテレビ講座)してきた方々である。
誰も、はじめから完璧に会話ができるわけが無い。皆、努力しているのである。自分のことで恐縮だが、中学から大学まで学生時代を振り返ってみると、ちっとも実学的には力がついてこなかったと思う。むしろ小学生のときに、おそらくローマ字を学習するようになった五年生のときか?親から教わった「Everybody goes to Hakone avoiding summer heat」なぜか、すぐに口から出てくる。
語学、特に会話力は小さいときの刷り込みが大切なのである。もうひとつ、これは確か小学生の二年生頃であったと思う。「オモニハッキョカッタオガスミダ」同級生の女の子から教えてもらった、唯一の韓国語である。
何を言いたいのか。文部省が、いや社会全体が国際語として、コミュニケーションの道具として是非必要であると、英語教育を見直すのであれば、もっと抜本的な改革を進めてもらいたい。
より実践的な英語教育を目指すとすれば、小学校から英語教育を始めるのが、より効果的ではないか。しかも英語圏の教員志望者を、各小学校に一〇人くらいずつ採用すればよい。現在はティーチングアシスタントとして中学校に一人位いるようであるが、それだけでも、ある程度の効果はあるそうだ。小さいときから、ネーティブスピーカーに接する機会が増えれば、実学を旨とする英語教育は解決の方向に一挙に向かうだろう。
私学は、あまり、お上の言う事は聞かなくてもいいので、この際、思い切ってやってみてはどうか。少子化傾向とともに潰れそうな私学は、これからサーバイブするためには、魅力ある教育が迫られている。