2000年表面技術世界大会に出席して

関東学院大学
本間英夫

ドイツのガルミッシュ市国際会議場で、9月14日から17日の日程で、エレクトロニクスの実装をメインテーマとした、第15回表面処理世界大会が開催された。今回は、34カ国、約1000名の参加者があり、4つの部門に分かれ、並列に研究発表が行われた。
一年程前に、この大会でエレクトロニクスに対するめっき技術の最近の動向と題して、講演の要請があった。以前にも似たようなテーマで、北欧やアメリカで講演していたので、初めは断ろうかと思ったが、本学が35年以上も前に、世界に先駆けプラスチックス上のめっきを工業化した実績を持ち、今まで地道に検討してきた技術が評価されての依頼と理解し引き受けることにした。
 これまでも、この種の世界大会やヨーロッパ、アメリカでの講演大会で、大学の校訓と大学の事業部時代からの表面処理の歴史を必ず枕に紹介してきた。かなり前になるが、アメリカで講演した際に『スタンフォードのミニチュア版』との声援も飛んだことがあった。最近は、コンピュターグラフィクスで簡単に大学のロゴをOHPに入れることが出来る。外国での講演では、必ずロゴをOHPのコーナーに入れることにしている。
しかしながら、未だ、ロゴの説明をしたことが無いので、いずれ燦葉の意味をそれとなく伝えたいと思っているが、招待講演と言えども余りイントロが長くなってはいけないと、その機会を逸している。
 講演時間は30分間なので、上手く時間をコントロールしなければならない。日本語での発表であれば、アドリブで臨機応変にぴったり時間内に講演を終えることが出来るが、英語となると少し戸惑う。
 また、講演の中で、必ず幾度か、ジョークを入れる余裕はあるが、どうしても時間が長くなってしまう。一応は原稿を作成して臨むが、原稿の棒読みではインパクトが無い。したがって原稿は見ないであらかじめ考えておいたストリーに従って話すが、どうも時間をコントロールすることができない。もう少しOHPを工夫して、キーワードをその中に入れ込み、話すような努力をする必要がある。
 この大会は4年毎オリンピックイヤーに開催され、表面処理での研究に貢献のあった人を表彰してきている。大会の始まる1ヶ月くらい前、E‐メールで、世界表面処理連合の提唱者の名にちなんでつくられた、ワーニック賞受賞おめでとう、クロージングセレモニーには必ず出席のこと、これはコンフィデンシャルである旨、委員会から連絡を受けていた。
受賞のためだけに、はるばるドイツまで出かけるとなると億劫だが、一年前に依頼のあった講演を受けておいてよかった。
 したがって、講演とは別というものの、講演の中にジョークを交えるにしても、余り品格を落としてはいけないと、今回は少し、慎重にならざるを得なかった。この種の受賞は意識したことは無かったが、金メダルと、大きな額に入った表彰状、それと賞金がついてきた。
また、賞は続くものらしく10月には、アメリカのアリゾナで開催される電気化学会電析部門研究賞も受賞が決定している。
 ホームページで歴代の受賞者を見ると、いずれも世界に名だたる研究者ばかりで、なぜ選ばれたのか、受賞に値する業績を出しているのか疑問であったが、あくまでも本大学の事業部時代から引き継がれてきた、表面技術の伝統と、近年におけるエレクトロニクス向けの研究成果が認められたのであろうと、理解することにした。
 10月の研究賞の受賞にあたっては、講演が30分間と義務付けられている。この機会に今まで枕に触れてきた、本大学の産学協同の歴史、校訓などについて、少し詳しく話すつもりである。
 自分から言うのもおこがましいが、このように権威のある、大会や学会から評価された背景を考えてみると、国内は勿論のこと、世界に向けて、研究の成果を常に発信してきたからであろう。
いくら国内で評価されていたとしても、海外に向け、何らかの形で発信しないと、よほどインパクトがない限り、ほとんど国際的に認知されないで終わってしまう。
 実は40年近く前、大学の事業部で世界に先駆けて、プラスチックス上のめっきの開発が行われていた。当時、今は亡き中村実先生の指導のもとで、斉藤囲先生が無電解めっきの基本的な理論『混成電位論』を日本の学会誌に投稿した。
 しかし、日本では評価されなかったが、数年後、アメリカの研究者によって、その理論が今回10月に受賞が決まった学会の論文誌に引用され、一躍有名になりドイツ語、フランス語、ロシア語の学会誌にまで引用紹介された。
 無電解めっきの論文には、必ずこの理論が出てくる。最近は余りにも認知度が高くなりすぎて斎藤先生の名前が引用されなくなってきているので、事あるごとに、この理論は私の兄弟子が提唱したものであるとうったえている。
 斉藤先生からは、そのようなわけで「英語で論文を書きなさい。」と、いつもアドバイスを受けていた。しかし、一番研究で貴重な時期である助手時代は、学園紛争の最中で、毎日学生と対話し、研究は全くの手付かずであった。
 世界に発信しだしたのは、それから10年も後の1980年になってからである。しかも、今回出席した国際会議が、京都で開催されたときからであり、当時は英語を道具として、駆使できる日本の研究者は、今と比較すると未だと少なかった。今では、日本での国際会議は当たり前になったが、20年前は、まだ日本での開催経験が少なく、国内からの一般の参加者が理解できるように同時通訳をつけていた。
 関連学会の文献抄録委員会の委員長をおおせつかっていた関係で、同時通訳者にテクニカルタームを教えるよう、学会から要請があった。
 その当時、同時通訳業務は私企業として始まって日も浅く、確か、サイマルとインタープレスという2つの会社があったと思う。インタープレスが関西に拠点を置いていたようであり、大阪から2人の同時通訳者が発表論文のプロシーディングを持参し、またズラーッとテクニカルタームを列挙してきた。それぞれの意味を的確に訳すには、これはこうしたほうがいいと、丸2日かけてティーチインしたものであった。
 あの当時と比較すると、今の同時通訳者の能力は、大幅にアップしている。また、最近では英語が、完全に国際的な会議の公用語になっているので、同時通訳をつけることは少なくなってきている。同時通訳をつけると、運営費がどーんと上がってしまう。したがって、産業界寄り以外での、学会が主催する会議では、もう英語のみが公用語になっている。

学生の一般講演

 いつも外国の講演には、やる気のある学生を連れて行くことにしている。今回は、ドクターコースに在籍中の学生と、この春、ドクターを修了したOBに発表の機会を与えた。
アメリカの西海岸やハワイでの大会であれば、費用も余りかからないので、大勢の学生を連れて行くが、今回は2人に留めた。これまで、かなりの数の学生を海外に連れていっているが、彼らが自信を持って発表できるよう、何度も練習を重ねている。
 私もそんなに英語は得意ではないが、文章を練り、発表の原稿を読ませ、イントネーションやアクセンチュレーションを徹底的に直す。
日本から同行された先生方からは、いつも「先生のところの学生はよくやっているね。」と、お褒めの言葉を頂くが、残念ながら発表が終わって質疑応答になると、全く直立不動で、片言で答えようとしているのだろうが、ヒアリング能力がかなり乏しいため、相手の質問の意味が理解できない。したがって、少し待ってから、どうしても私が助けねばならない。
 そのことを参加している大先生などに話すと、「そこまで学生に要求するのは無理でしょう。」、「君も若い頃そこまでできたかと。」と、確かに今では心臓が強く、下手な英語でも、全く臆することなく答えたり、コメントしているが、そういえばそうかもしれない。
 それにしても向上心を持たねば、いつまで経っても能力は上がらない。彼らが壇上で歯がゆい思いをして、それが刺激となって、勉強してくれればと思っている。また、学生に海外で発表する機会を与えることは、彼らにとっては貴重な経験になり、その後、社会に巣立ってからの大きな自信となる。
 今のところ、この種のやる気のある学生に対して、大学からの海外発表の助成制度は無い。
したがって、各先生はかなりの費用の負担を強いられているのではないかと思う。何らかの形で、彼らがチャレンジしやすい環境を作っていけば、大学全体の研究の活性化につながるのであろう。