学生は大学の財産か

関東学院大学
本間 英夫

 産業界向けの新聞のコラム欄に、「学生は大学の財産」と研究実績をあげるには、もっと学生を活用すべきであるとのコメントが出ていた。学生を道具扱いするような書き方であったので反論したくなってきた。

 産業界の人の意見であったと思うが、ともすれば効率の追求にのみ力点を置いてきた人達にとっては、大学の研究に対して、歯がゆい思いがあるのかもしれない。しかしながら、大学は教育と研究の場であることを忘れてはならない。

 折に触れて、雑感シリーズに学生のことを書いているが、指導する立場の人間は愛情を持って接するようにしなければならない。自分の考えを強引に押し付ける手法には限度があり、発展性が無い。

 学生は3年生の終わり頃、1月の下旬から2月上旬に研究室の配属が決まり、卒業研究(卒論)を中心とした最も充実した学生生活を送ることになる。実力をつけ、自信を持って社会に出て行くには、若干期間が短いが、1年間で主体性を持たせ、自ら考えることが出来るように養成するのである。

 卒研生はドクター、マスターらの学生と実験を通して、研究の進め方や考え方を学ぶ。また同期の学生とも議論する。このようにして、実験を中心とした生活から、それぞれの分野での工学的な考え方を身につけ、自らが考えることによって成長していく。

1年後には、社会に巣立っていくが、そのぎりぎりの時点で、もう少し学びたかったと感想を述べる学生が多くなってきている。

 特に最近は、どこの大学でも大学院への進学率が急上昇し、産業界側も大学院修了者の採用にシフトしてきている、したがって、彼ら自身もう少し実力をつけて、社会に出て行かねばならないと思うようになってきた。

 以前にも書いたが、我々の大学では大学院の進学率が未だ20パーセント程度である。したがって、各研究室で大学院に残る学生は平均2名、その学生と大学院の2年生が主体になり、毎年2月から3月にかけて新4年生に引継ぎが行われる。

 3年間、遊び呆けてきた?学生がいっせいに、今まで経験したことの無い研究に着手することになるので、緊張でどーっと疲れるようであり、緊張感がほぐれ、自分で内容がある程度理解できるまでに約1ヶ月を要する。

 昨年から、進捗報告会を2週間に一度テスト的に実施したが、この方法の有効性が極めて高いことが産業界の方々との技術交流会、他大学との報告会で確認された。今年〔4月からの〕も、必ず2週間に一度、半年間くらいは報告会を持つことにした。

 また、私を含めて大学院生と卒研生との信頼関係は極めて大事であり、相互に報告・連絡・相談(ホウレンソウ)を行なうよう指示している。

 実験で面白い結果が出ても、話し合う事がなければ、その後の広がりを得られない。当初の目的とは異なった結果からも、話し合う事で新たな発見が得られるかもしれない。意思の疎通が大切なのである。

 昨年の暮れから、私の提案でアイディアミーティングを、昼休み時にとる事にした。来年は、もう少し積極的に実行するつもりである。

 先日、長野県の善光寺に出かけた際、参道で仏心鬼語と言う言葉が目にとまった。仏の心を持って、厳しく育てるのだ。

 社会に出るまでの、短期間であっても尊い時間であったと思えるように、勇気と自信と愛情を持って巣立っていけるように、学生のうちにできるだけ多くの事を学び、体験してほしいのである。

 指導者が学生を道具や手足のように扱い、大した説明もせずデータ取りだけを行なわせ、成果だけを期待するようなやり方では、学生を成長させ自信を付けさせる事はできないし、愛情ある教育だとは到底言えない。

 また、研究に限らず、政治経済・時事問題などを、普段から学生との会話の中に盛り込み、また、自らの経験や事例を織り交ぜながら話すことにしている。学生に広く深く物を考える事ができるように、知識が偏りをおこさぬように、話して聞かせることも教育の一つであろう。

罪を憎んで人を憎まず

 先日、ある先生の授業で課題を提出したはずなのに、成績が不可なのは納得がいかないと、私の元へ学生がやって来た。レポートを提出したと言う学生と、それを受理していないと言う先生との水掛論である。埒(らち)があかないので私の元へ来たらしい。その先生に聞いてみると、以前、定期試験で不正疑惑があった学生であり、信用できないと言うのである。

 教師が学生を信用できなくなったら、おしまいである。騙されている可能性があるとしても、疑うべきではない。私はその先生に言った。騙されても騙すなと。また、例え不正を行なった学生に対しても、挽回できる機会を与えるのが教師ではないだろうかと。

日本の文化

 先日、学生との昼食のミーティングの際、博物館や美術館、N響ホールのクラシックなど、行ったことがあるか聞いてみた。

大多数の学生は行ったことが無いという。興味が無いという。

 なぜ行かないか。なぜ興味が持てないのか。

 それは、今の教育体制や家庭教育が、おおいに関係している。私が小学生の頃〔昭和20年代後半〕日本は貧乏であったが、小中学生の時は教室でクラシックを聞かされた。中学から高校生になった頃は、N饗の地方講演にはわざわざ1時間以上かけて出掛けたし、心のゆとりが今よりもあった様に思う。

 今、ゆとり教育が論議され実行に移されているが、そのゆとりが文化に親しむ時間に当てられるのではなく、実際は受験塾の時間に当てられている。街では滅多に子供を見なくなってしまった。

 さらには、日本人よりも外国人のほうが日本の文化に対して理解している場合が多い。そういえば、この春から我々の大学に親鸞を研究したイギリス人が教養科目教室に専任として赴任することが決まっている。

先日、外国の人にお節介にも、ある寺院でその歴史的背景について説明したら、当人のほうがよっぽど深く知っており、恥じ入ってしまった。日本の四季、すばらしい自然、伝統文化、芸術など、私も含めて学生と散策したり、鑑賞するゆとりを持ちたいものである。

食生活の変化

 野菜に含まれるミネラルやビタミンなどが昔と較べて、大幅に減少しているようだ。トマトやキャベツを初めとして野菜類は本来の味がない。素材自体で、充分に旨かったはずだが。

 以前は『成人病』と呼ばれていた病気が、若年齢化を起こして『生活習慣病』と呼ばれるようになった。これについても食生活の変化が起因している。成人病と呼ばれるぐらいだから、ほとんどが大人になって発症するものであった。「高血圧」「糖尿病」「動脈硬化による心臓病や脳卒中」そして「がん」などである。これらの病気は、食生活、運動、休養、喫煙、アルコールなどに密接な関わりがある。

 若年齢化を起こしたのは子供たちの生活習慣が昔と変わったためであろう。疲れるからと運動をせずにテレビゲームで遊び、塾や習い事で忙しくなり、テスト勉強などで夜遅くまで起きている事による睡眠不足、コンビニエンスストアやファーストフードなどでバランスの悪い食事を取る。

 中には親も黙認しているのか喫煙、アルコールで体はぼろぼろ。不規則な生活から体調不良になるのは当然と言える。

 我々の子供の頃は、皆お腹の中に寄生虫を飼っていた?

当然、小生のお腹の中にもいたと思われる。しかし、学校で一斉に出されたあのサントニンと言ったと記憶しているが、海藻の煎じたような虫下しは、飲めたものではなかった。

 優等生は先生を意識して、素直に飲んでいたが、私のような悪がき連中は、アルミの容器にいっぱい注がれていた海藻をそーっと流しに捨てたものである。アルミの器で思い出したが、給食時のスキムミルクも飲めたものではなかった。

 話を元に戻そう。

最近の野菜や食品には、殺虫剤、添加剤が付着又は吸着しているので虫がつかない。したがって寄生虫はいなくなったが、今までに考えられなかったような病気が我々の体を蝕んでいる。

以上、今回ここに書かれている文は、日頃学生が小生の話を聞いて、それをまとめたものである。

 多忙なので、誰かゴーストライターになってくれないかと、昼食時にお願いしたことがある。

 ある大学院の学生、ここでは名前を伏せるが、高等学校から大学時代に至るまで、運動部に所属し、ほとんど勉強をしたことが無かった学生が、私の日ごろの雑談からいくつかピックアップし書いてくれたものを少し手直しをした。

 おそらくこの数年間の間に卒業していった連中は、彼がここまで延びたことに、驚きを感じるであろう。卒業研究の1年間と大学院の2年間で、他の学生や先輩と論理的に話が出来るようになったし、口頭発表も自分でこなす。学会への投稿論文も2編書いた。長足の進歩である。