デフレスパイラルからの脱出

関東学院大学
本間英夫

 デフレが10年ほど前から始まりデフレスパイラルに入っている。株価は4分の1、不動産は商業地で20分の1、住宅地で3分の1に下落した。10数年ズーッと下落の一途である。  

したがって、政府がいくら資本を注入しても、不良債権が減少する訳が無い。つぎ込んでもつぎ込んでも、まるでブラックホールのように飲み込んでしまう。不良債権の償却を行おうとしても、このデフレ下では、また新たな不良債権が発生し、雪だるま式に増大している。デフレから抜け出すには、インフレ経済に持って行かざるを得ないといわれるようになってきた。負債総額も660兆になる。解決策として、今まさに停滞、滞留している貯蓄1300兆を、如何に市場経済にまわすかとの声が日増しに大きくなってきている。この眠ったままのお金が市場にでてくる環境、それには、資産インフレを構築することなのか。

地価の下落に歯止めをかけ、上がらないと、不動産の狼狽売りも減らない。不動産の価値が急激に下がったから、不良債権が増大したのだから、反対に上がれば不良債権は減少する。

アメリカのカリフォルニア州とほぼ同じ面積に、アメリカの人口の半分が密集しているのが日本だ。そのため、基本的には、日本人の土地に対しての執着心は、おそらく先進諸国でナンバーワンであろう。従って、ここまで土地が値下がりしてしまえば、企業の不良債権は増大し、個人は消費に対して保守的にならざるを得ない。この4月からのペイオフを控え、1月中旬の時点で、定期預金が16%減少し、とりあえず普通預金にシフトさせている。又、郵便貯金が大幅に増加していると、新聞やニュースが報道している。

 これから3月の終わりまでに、本格的にお金持ちは口座をあちこちに作ることになる。銀行の護送船団方式に別れを告げるのはいいが、体力の弱っている都市銀行や有力地方銀行が、もし、取りつけ騒ぎで破綻するようなことにでもなれば、日本はたちまち大パニック、経済回復は、大幅に遅れることになるだろう。

現在の疲弊した経済状況から、小泉人気も若干、低下傾向にあるという。一月末の更迭劇をはじめとして、マスコミがこの種の話題を、どんどんオンエアーし、新聞に書き立てると人気が急激に下がりかねない。(*この原稿を執筆後、実際下がってしまいましたが)

 先進諸国の首相は、テレビやラジオ演説で国民に訴える。小泉首相は、今までの日本流を打ち破っているのであれば、痛みだけを訴えるのではなく、ライブを観る余裕があれば、大いに国民に向かって構造改革の具体策や、将来の展望を判りやすい言葉で訴えてもらいたいものだ。

量産型から開発型へ

今まで日本は、高品質の製品を大量に、かつ低コストに作り輸出で稼いできた。国際競争力を示す指標として、スイスのビジネススクールIMD(経営開発国際研究所)が、毎年発表している世界競争力ランクがある。

それによると、12、3年前は日本の国際競争力がナンバーワンであったが、その後どんどん低下し、昨年26位に転落した。今や、中国が、もの作りのナンバーワンに踊り出てきた。中国を中心とする東アジアの製造業が急成長し、日本の量産型の製造業拠点は、海外に持っていかざるを得ない。

アメリカの輸入に占めるシェアをみても、電子レンジなどの電熱機器、VTRさらには、オーディオ製品は、日本を大幅に引き離す勢いだ。しかも、安かろう・悪かろうの時代には終わりを告げ、高品質で安価に作るようになってきている。総合家電メーカーである「ハイアール」は、白物の製造から始まり、最近では60品目の家電製品を取り扱い、6000億円を稼ぎ出す。三洋電機と提携し、日本への逆輸入も行うとのこと。高品位の部品は日本から持っていくことになるが、これらの部品がコピーされるのではとの危惧があるが、中国もWTOに加盟したので、その心配も徐々に解消されるであろう。

日本がどんどん品質の高いものを作るようになった時、米国は、もの作り(ハード)は日本やアジアに、ソフトとハイテクは国内との戦略を取ってきた。日本も量産型の産業形態から開発型にシフトを迫られている。その為にも、経営者も技術者も知的財産権を守る仕掛けを早く構築し、ほとんどフリーで海外にノウハウが流失するのを防がねばならない。日本では、とかく知的ノウハウに代表されるソフトに関しては評価されずにきた。青色レーザーでのロイヤリティーに関しての提訴は代表的な例である。ノウハウが判ってしまうと、今まで問題を抱えていたプロセスが一挙に解決する。特に、歩留まりの向上などは、まるで手品の種明かしと同じで、いとも簡単に解決してしまう。

ところがその提案に関しては、技術者や、特に我々のような外部のものが提案しても、全くといって見返りはない。その提案ができるまでは、過去にたくさんの経験や失敗、発想の豊かさから来るのであるが・・。

時代を担う若者の創造性

 先日、世界の少年の学力調査結果が報告されていた。日本の少年の創造性に関する成績は、世界の中でトップグループ。しかしながら、読解力、表現力は先進諸国の中では下位であるとの結果が出た。

 問題の一部が新聞に紹介されていたが、その中で創造性に関する問いとして、5つくらいのサーキットパターンが描かれており、車が走るとスピードはどのように変化するだろうかという類の設問であった。これだと極端な言い方をすれば、全く勉強をしていなくても、創造力があれば解ける問題である。

 各国における教育レベルや、教育のテンポにも関係してこない出題者の創造性の豊かさを実感させた。その解答で日本はトップレベルだという。知能指数を調べる問題と似ている。

もう50年も前になるが、子供の頃、この種の試験をやらされた記憶がある。当時は全く勉強をしなかったので、学校の成績はいいはずがない。だけど、この種の試験では、いい点数を取るので先生は変な子だと思ったらしい。又、算数に関しては、公式が無い鶴亀算や幾何のような問題を得意としていた。

 小生の出身地は、熱心な教育県であるといわれているが、親は当時「勉強しろ!」とは言わなかった。授業の時に先生の話をよく聞いていれば判るからと、家に帰ってから勉強した記憶はない。

いつも夜は、7時頃まで遊んでいたように記憶している。だから、宿題はやったことが無かった。いつも、宿題拒否組みの常習犯で、クラスに必ず数人はいた。先生はあきらめていたようだ。国語は、漢字は読めるが書けない。

 なぜ、自分の話を持ち出したか。自己反省からである。いまだに表現力が豊かでない。子供の頃から、きちっと積み上げて能力をつけておかねばならないと、痛感している。読解力が無いと、折角の能力が大きく低下する。

特に、国際化している社会の中で、英語は必須言語であり、やはり文法をきちとやっておかないと、表現力が稚拙になる。文法なんか特別習わなくても、その国の人たちは母国語をしゃべっているではないかと、虚勢を張り感覚的にしか捉えてこなかった。だから、英語で論文を書く際に、スムーズに文章の表現は出来ないし、高度な会話もできない。いつも度胸だけでブロークン。遅すぎた!もう60だ!

 自分の経験から、次代を担う若者に基礎をきちっと積み上げておくことが、極めて大切であると授業の際に、又、研究室でも何度も学生に言い聞かせてきている。

 しかし、実際自ら英語の必要性に迫られないと、真剣には能力を向上させようとする姿勢が見られない。現在、助走段階だが自覚を促すために、研究室での、大学院の輪講会を全て英語にすることにした。本格的にはこの4月から実施する。学生の中には、うんざりするものも出てくるだろうが続けるつもりである。

 ところで、今の日本の若者は、一部の受験勉強組みを除いて、あまり勉強をしていないようだ。受験勉強組みも、自覚して勉強しているのではなく、勉強していい成績を取り、いい高等学校に入り、いい大学に入り、それで自分の将来が保証されているのだと、親から、先生から暗示を掛けられてきた。

 しかし、この不景気で見られるように、必ずしも従来のエリートコースが、安全パイではなくなった。

 企業は、即戦力の人材採用にシフトしている。十数年前までは、超売り手市場であったが、今や、3年間の企業内教育の余裕もない。戦後一貫してとられてきた教育方法に、今、軌道修正がかけられている。有識者を中心に、教育方法の改善に関する答申のもとに、ゆとり教育を標榜し、土曜日完全休講、創造性の醸成、豊かな人間性を強調している。

 ゆとりに関しては、各科目の時間数が削減され、たとえば、算数に関して言えば、円周率は3に丸めて教えてもいいと・・。確かに、3に丸めてもいいが、その背景を教えないといけない。まず、円周率の意味を教え、実は無限の数値で割り切れないのだけれど、円の面積を算出す際の係数なのだよ。だから、大雑把に掴む場合は、3に丸めて計算してもいいのだよと、教えるのならばいいが、今の教育は、受験を意識している。

したがって、物事の本質を教えるゆとりを与えようと、有識者が提案しても、実際、現場ではこのように生徒には暗記しなさいとだけで、終わってしまう恐れがある。ゆとりを、どのように捉えるか、物事の本質を理解させるように、教育者は腐心すべきである。

 テレビの何かの宣伝で、何人かの子供が出てきて「なぜ、勉強しなければならないのですか?」「将来ナンの役に立つのですか?」と、純粋に子供が、自分の将来に関して、疑問を投げかけているものがある。テレビで、この種の問いかけを子供にさせているということは、子供からのこれらの素朴な疑問に、的確な解答がなされていないから、新鮮味があり宣伝に使われるのであろう。

 ゆとりの時間を何に向かわせるか?先ず、家庭内での情操教育、学校での道徳教育が問われているのではないだろうか。親子の対話が全く無かった小生もいまや60になって、親子の対話の大切さを自覚している。