教員評価

関東学院大学
本間英夫

 教員の評価にあたっては、従来、学術誌に掲載された論文をもとに業績を評価してきている。先に政府は日本の産業競争力強化策として、国立大学や公的研究機関の研究者評価に、特許取得実績を研究論文並みに重視することを打ち出した。研究者評価に特許を考慮する方針を知的財産戦略会議において、知的財産戦略大綱に盛り込んだ。

 実際、我々私学の教員に対しても文科省からの研究実績調査の項目の中に、本年度から特許の取得数を記入する欄が設けられた。

 教授、助教授への昇格、新規教員の採用時に特許申請件数や取得件数を評価基準に加えるというものだ。文科省では、既に科研費の一部では特許を審査に取り入れている。来年度からは経済産業省、厚生労働省などの公募型研究助成に、全て特許が審査対象になる。日本の国立大学からの特許出願は、2000年度で約560件であり、アメリカの出願件数の1割にしか相当しないという。研究者の評価に特許を加味することで、研究者の特許への関心を高め新産業の創生の足がかりとなると期待されている。

 我が大学の先生方の多くは、この動きに対して戸惑ったに違いない。今までは、特許は全く昇格人事の審査対象にもならなかったし、無関心であった。さらには、特許をとることによって金儲けしているとの誤解もあり、その誤解を取り除くにはすこし時間がかかるだろう。

特許重視

 政府が国立大学などの研究者に対して特許重視の方針を打ち出したが、産業界とのかかわりが多かった経験から特許に関しての考えを少し述べてみたい。

 特許に初めて遭遇したのは、今から37、8年前である。当時、関東学院の事業部の技術及び、大学の実験助手を担当されていた一級先輩の春日さんが、これを参考に検討しろと、単語一つ一つが焦点ボケしているような青焼きの特許のコピーを持ってこられた。

 事業部ではプラめっきを事業化すべく、盛んに研究がなされていた。スズとパラジュウムを2段階で処理する活性化から、一段で活性化をする手法の検討であった。既に、アメリカではその方法が使用されているようであり、特許を参考にして活性化溶液を作成してみろということになったのである。

 未だ学部を卒業してまもなくの学生であったので、研究とはすべからく文献を参考に追試し、それから自分なりに改良するものと思っていた。その文献の中の一つが特許文献ということなのであろう。特許を見たのはその時が最初であり、しかも、英語で書かれた、訳の分からぬ言い回しの難解な文章。一生懸命、誰に教わる事も無く、自分で必死に意味を理解し、それを頼りに液を調整し実験する日々が続いた。

 上手くいかない。ややこしい言い回しを理解しながら、ほぼ完璧にその特許の事例にしたがって液を調整。しかも、その事例に載っているそれぞれの成分は広範囲だ。かなり綿密に広範囲に液を調整し、チャレンジするが上手くいかない。特許というものは、その実施例に従えば簡単に上手くいくものと思い込んでいた。来る日も来る日も、失敗の連続である。ある日、活性化されたパラジュウムが上手く作用したのだろう、ほんの少々無電解の反応が起こり出した。これだなと、組成を更に色々変えてみる。しまいには、全く事例とは似ても似つかぬ組成と建浴プロセスで、始めてうまくいくことが分かる。それからは、特許はどこかキーになるところは伏せてあるとの認識に立つようになった。したがって、特許を参考にして何か新しい表面処理のプロセスを開発するのは、効率は悪いし、模倣をベースにしていることになるから、研究者としては面白味が無いと判断。それからというものは、特許は自分から積極的には見ることはなかった。

特許に対するスタンス(アンチパテントから)

 技術者の多くは、かなり特許を読んで参考にしているようだが、私は、たまに項目を見るくらいで、積極的にそれを参考にすることはしなかった。

三十数年前、研究らしきことをやらされていた頃、毎日のように中村先生から、あれやれこれやれ、あれはできたか、これはできたかと、ノイローゼになりそうな毎日が続いたものだ。

 実際、愚鈍で鈍重であった私だけが、最後まで先生から離れなかったが、ほかの優秀な先輩や同僚は先生から去っていった。日々の気ぜわしい実験の中で、たまにはキラッと輝くアイデアが出ることもあった。そのアイデアを先生にぶつけ、やってみろよということになると積極的に時間を忘れて実験に没頭したものである。それからは、先生は私の好きにやれる領域を入れてくれるようになった。何か新しいことがわかると特許申請はせずに、ほとんど即座に学会で発表していた。当時、先生は特許をとるよりも、実用化して世に広める立場にたっておられた。ちなみに、世界初のプラめっきの工業化に際して、特許は一つも取得していないのである。もし特許を申請しようと思ったら、かなりの数の特許を申請し、取得できたはずである。当時の技術に関するスタンスは、学院のモットーである「人になれ奉仕せよ」であった。

プロパテントへの転換

 その後、先生が大学をおやめになり、工場団地の計画に着手された。それからは、少しずつ特許に関する考えが変わられたようだ。先生からテーマをいただき、大学で小生を中心に研究した中で、これは使い物になると判断されると、特許申請の手続きがなされた。おそらく10件程度、申請したであろう。それからは、先生はお前に任せると、その後は若手の企業経営者をはじめ、委託研究を大学で受けるようになり、30件以上特許を申請しているのではないかと思う。

「思う」というのは、自分から積極的に特許を取得しなければならないとの自覚がなかったからである。申請してくださいとお願いがあるときは、相手の立場も考え、それではそちらで申請してくださいと、初めは発明者の中に小生や学生の名前が入るだけで、全て権利は譲渡する形で特許がとられていた。

その後、各大学の先生をはじめ企業の技術者、外国の技術者の色々な考えを聞いたり、関連の書物を読んだりしているうちに、特許をとらずに「人になれ奉仕せよ」の校訓のもとに、すべて公知の事実とすることは、必ずしも皆のためにならないという考えも理解できるようになってきた。逆にその技術が生かされず、代替技術が出てくるのである。しかしながら、依然として大学内で特許を取るシステムが構築されてなかったので、大学の事務方から、こんな面倒なもの、あんただけのためにやっておれないと、不平を言われたこともあって、大学をベースにした特許をとることは断念せざるを得なかった。したがって、関係のあるメーカーの技術者が、我々のやってきた研究の新規性と特許性を判断し、是非申請と、要請されたものに関して特許を申請してきたのである。

しかし、研究所の設立が具体化してからは、先ず特許を取得してから発表する考えに、完全に切り替えた。委託研究での成果として、企業側の技術者は、その研究が上手くいけば必ず特許をとりたいといってくる。今までは上述のように、発明者の中に名前が載っているだけであったが、それ以来、申請者に全て名前を入れるようにしている。前述のように大学には特許をとるための仕掛けが無かったので、申請は個人の住所になっているが、研究所の設立を契機に全ての個人の名前を、全て研究所に名義を変更することにした。

特許に関する誤解

特許をとれば、金儲けができると思っている人が圧倒的に多いが、特に文科系の先生方、企業の事務系の人はその傾向が強い。「たわしを作ったのとは違うのですよ。」と、喩え話をするが納得してもらうまでには時間がかかる。説明が面倒になってしまう。次号では、そのあたりの事に触れてみたい。