特許の誤解
関東学院大学
本間 英夫
先月号で紹介したように、中村先生は大学の事業部でプラめっきを成功に導かれ、産業界に広めるには特許は関係ないとの考えにたたれていた。その時代は西欧諸国に追いつけ追い越せの時代であったし、学院のモットーが「人になれ奉仕せよ」で、私もその考えが当然と思っていた。それと、大学の先生方は今でもそうだが、知的所有権は企業に帰属するもので、大学には関係ないとの認識であったのであろう。
私の記憶をたどると、大学院に入る前、先生からプラめっきの前処理の、スズの分析法を確立するように指示された。このテーマーには小生と1級後輩の佐藤君が担当した。このスズの分析は曲者で、今なら原子吸光や発光プラズマなどがあり簡単に分析が可能である。しかし当時、機器は手動の吸光分析と、既に壊れたポーラログラフがあるだけであった。
分析の便覧を見て、この薬品を購入すれば可能性があるだろうと早速、神田の薬品問屋へ今でも忘れはしない、ヘマトキシリンという名前の薬品を自腹で購入にいったものだ(実験室に無い薬品は自分で購入するものだと思っていた。先輩諸氏がもう少しケアしてくれれば、こんなことはしなくても入手できたのに。でも、当時、事業部は超多忙で、学生のことなど誰もあてにしていなかったのだろう)。
いずれにしても、与えられたテーマーは結局1年かけても成功とまではいかなかった。一緒に実験を担当していた佐藤君は、頭の切れる後輩であったが、あまりにも実験が上手くいかないので、半年くらいしてから急に情熱を失ってしまった。小生はいつも本人を元気付けるように努力し、最終的には一応分析方法を確立したが、精度はあまり高くは無かった。
このとき実験が上手くいかず自暴自棄になる学生を如何に意識づけるか、いい勉強になった。
それに続いて、先生からアルミニウム上にめっきする際のジンケート溶液を検討してくれと、分厚い表面技術の便覧が手渡された。その中にほんの数行の説明と組成が表になっているだけであった。一緒に検討にあたったのが2級後輩の庄野崎君である。この実験は私にとっては極めてチャレンジングな実験であった。亜鉛がアルミニウムと置換して表面がねずみ色になる。この場合は置換の亜鉛層が厚く、その上に電気めっきしても密着が得られない。めっき後基板に切込みを入れるとペロッと剥離してしまう。アルミの表面には酸化膜があるのでそれを先ず除去し、そこに薄い亜鉛層をつければいいのである。これには2つのアプローチがあり、先ずアルミのエッチング処理液の検討、それとジンケート処理液そのものの検討であった。私がジンケート液の検討を担当し、庄野崎君にはふっ酸をベースとしたエッチング液の検討を担当してもらった。
このときも文献はほとんど無く、唯一あったプロダクトフィニシングという商業誌に近い紹介記事は、ヒントにはならなかった。要はエッチング時の電位のコントロールとジンケート液の置換速度のコントロールが決め手であると、半年くらい朝から晩まで実験をやった。
ついにペンチでも剥離しない(そのときの喜びと触感は忘れない)密着が得られた。検討したジンケート浴の組成は今でも我々の実験室で使われている。
当時としては特許性が十分に高い技術であったと思っている(このときの色々な検討がベースになって、20年後のアルミニウム上の直接無電解ニッケルめっきのヒントになっている)。
その次のテーマーがポリプロピレン上のめっきである。これには4期生と5期生といっしょに研究をした。当時ポリプロピレン樹脂は、夢の繊維と騒がれたが、実は染色性が悪く用途が制限されていた。そこでめっきをしてはどうか、ということになったのである。このときが、小生としては大手の企業の技術者との初めての交流であった。
最初の半年は全く上手くいかなかった。ABS樹脂と比較して同じか、それ以上の密着が要求された。文献はポリプロピレンに関する一般的なめっきとは全く関係のない解説書しかない。我々が世界で最初にチャレンジしているのであるとの自負から、猛烈に実験に没頭した。自分で言うのもおこがましいが、観察眼とひらめきはあるほうだと思う。とにかく2年あまりで、基礎的には実際にものになるまでこぎつけた。その後は私の手を離れ企業で検討がなされた。
先生からはほとんど指示が無く、出来たか?未だか?の連続であった。後年分かったことだが、その会社とめっき薬品メーカーが我々の実験をベースに幾つかの特許を出していたのである。勿論、私の名前はどこにも載っていなかった。その反動で、私が研究室を任されるようになってからは、論文や特許には実験を担当した学生の名前は必ず入れるようにしている。
30歳を過ぎた頃から、アイデアを自分で出した研究成果には発明人として名前が載るようになった。特許申請者は中村先生のオフィスであったり、関東化成であったり、委託先の企業であったりした。特許の発明人の中に名前が出ていると、金儲けしていると思うだろうが、全くの誤解である。もしその特許が実用化された場合は、特許料は申請者に入るのであり、発明者には入らないのである。しかも、申請した特許の中で特許料を獲得できるのは、おそらく百に一つであろう。ほとんどが防衛特許といわれるもので、特許を取っておかないと、その技術が相手に使われてしまう。先にその技術を開発していても、相手が特許を取っていれば、その技術は使用料を払わないと使えなくなる。だから、いい技術が出てくると先を競って特許をとるのが、企業では当たり前なのである。したがって、企業からの委託や産業界に直結したテーマーの研究の場合は、新しいプロセスを考えたり、新しい液の組成が見出されたりしたら、即座に特許をとろうということになるのである。
「たわし」のようなアイデア特許や実用新案の場合は、個人で申請し大きな利益を上げる場合があるだろう。しかし、我々の場合は全く金儲けとは縁が無い。一般企業の場合は、発明した本人には一件の特許に対して、2から3万円が報奨金として支払われるだけであった。
それがつい最近、青色レーザーに関して中村修二さんが問題提起してから様子が大分変わってきた。研究者への報酬基準は大幅に見直されるようになってきている。
特許の申請と維持費
自分で特許を申請したことはないので正確には分からないが、一件の特許を申請するのに特許事務所への支払いと申請料で、およそ20万円程度かかる。更に海外にもと主要国全部をカバーすると、概算500万円くらいの支払いが発生する。又、特許を維持するためには毎年維持費を支払わねばならない。それが一件5万円程度であり、主要国全部カバーすると50万円程度かかる。したがって、その特許がすぐに使える場合は別だが、個人で維持できるものではない。
又、日本の大学では、特許料を収入源にして運営していこうとの考えは、全くと言ってなかった。
アメリカではスタンフォード大学に代表されるように、年間の特許件数が数千件であり、その特許料収入で大学運営の一部を賄っている。
我々の大学では、企業と共同出願する場合の特許に関するシステムが出来ていなかった。たとえその発明が、全く我々が考え、我々の成果であったとしても、企業が申請し発明者に名前を連ねるだけであったのである。私としては、ひょっとして発明の中にいずれは日の目を見る技術もあると思い、大学にそのシステムを構築できないかお願いしたことがあるが、一人では犬の遠吠えになってしまっていた。
数年前から大手の大学でTLOを設立している。自前で出来ない場合は幾つかの大学が集まり、地域ごとにTLOを構築している。これも、我々の大学ではあまり話題にならなかった。したがって私のスタンスとしては、数年前から発明者に名前を載せるだけでなく、個人名で申請者のなかに入れていただき、研究所の設立を待ったのである。
研究所が設立されて既に4ヶ月が過ぎたので、研究所への名義変更は全て終わっていると思う。20件くらい申請者の中に私の名前が入っていたので、これらは全て研究所へ移管したことになる。
先にも触れたが、我々の特許のほとんどは防衛特許であり、特許料収入が入る場合はごくまれである。