ハインリッヒの法則

関東学院大学
本間英夫

先月号ではパレートの法則について解説し、さらにこれに付随して、これまでに経験してきた不良対策の中でインパクトのありそうな例を2つ紹介した。折角だから我々が関連している産業経済の世界で、他にどのような法則があるか、学生にハインリッヒの法則を話題として提供した。この数ヶ月、連日のように車の欠陥に関する報道がなされており、研究室の学生の内、何人かはヒヤリ・ハットの法則ですねと、既にこの法則のことを知っていた。

この法則は、米国のハインリッヒ氏が労働災害の発生確率を分析したもので、1件の重大災害の裏には、29件の小さな事故があり、さらには「ひやり」が300件あるというものだ。
 したがって、この法則を製造業にあてはめた場合、ある製品に重大な欠陥があったとすれば、その1件の大欠陥の裏には29件の顧客からのクレーム、さらには300件のクレームまでいかないが、なんとなく不具合があったり、兆しのようなものがあると言うことになる。製造現場における事故の発生の抑制にはこの法則をよく頭に入れ「ひやり」と思う現象があれば、即座に全社で対処できる体制を構築しておく必要がある。製造現場では、ここで言うところの欠陥を不良と置き換えても同じことが言える。とかく現場の作業にあたっている人は、自分なりに工夫して、「ひやり」を解消してしまうので、このヒヤリが共有されず、従って確率的に、いずれは大事故(不良の増大)につながることになる。

この「ひやり」に対する個人の工夫、言い方を変えれば個人の隠蔽から始まり、それが小事故へ、その段階でチームごとの隠蔽活動が横行し、その企業の隠蔽体質につながり、最後は、企業の存亡に関わるところまで行きついてしまう場合がある。その1例が今回の三菱自動車の事件である。

それにしても、この事件が大きく報道されてからは、急に車の炎上事故やタイヤの脱落が新聞に報道されだした。でも考えてみると事件がおきてから、この種の事故が増えるわけではなく、実際には同じ事故が、以前から同じ確率でおきていたはずである。ただ、報道機関がニュース性を重んじるので、急に頻度が上がったと錯覚してしまう。

六本木のビルでの回転ドア事故も同じ。その後の報道によると、あちこちのデパートやビルで、大事故にまでいたらなかったにしても、かなり多くのトラブルが続いていたという。それを誰も深刻な事故とは考えていなかったところに問題があり、死亡事故にまでにつながったわけである。また6月に入ってから、立て続けに殺傷事件が続出しているように報道しているが、これも頻度的にはあまり変わらないはずである。

報道機関に携わる方々は、どうしても社会現象として注目されているところに記事を集中させるのは致し方ないとしても、この種の大事故や大事件につながる前に、この法則のように記者がこれら300の「ひやり」、すなわち、小さな出来事、社会現象、兆しから将来を予測したり、警鐘を鳴らしたり、技術的な展望など、いろいろもっと新聞を魅力的に出来るはずである。

しかしながら、現在の新聞は少し言いすぎかもしれないが、日々の出来事を報道しているに過ぎず、しかも広告も多く特徴がない。インターネット社会と共に新聞離れが起きてもしょうがない。

「ひやり」に関する身近な例

個々人それぞれに、大きな「ひやり」から、小さな「ひやり」まで遭遇しているはずである。   

そういえばこんなことを話題にして話し合ったことはない。実験での「ひやり」、現場での「ひやり」、一度みんなと話してみたいものだ。「ひやり」をテーマとしたセミナーなども良いかもしれない。そこで、折角だから、自分の身の回りで大事件につながる要素のあったものを紹介する。

研究での「ひやり」

これまでの40年以上の研究生活において、大事故一歩手前の「ひやり」はたくさん経験してきている。リアルに書くと、好奇心旺盛な学生などがまねをするといけないので、そのような内容はこの紙面で紹介するのはやめることにした。

酸による大やけど

硫酸の比重は1・86で水の倍くらいの重さだ。昔は、この硫酸が大きなガラスの狸ビンといわれる容器に保管されていた。一瓶が30キロ以上あるので、そのガラス瓶を持ち運ぶために竹網で編んだ、もち手付の入れ物の中にビンがすっぽり入るような形になっていた。ところがその竹網の網目は粗く、雑な編み方で、しかも酸がこぼれると腐食が進行する。したがってだんだんビンが底から抜けるような危険性がある。40年近く前、事業部の研究室と小生が所属していた研究室は同じ部屋で学生用の実験台と事業部用の実験台が区分されていた。事故にあったその先輩は、すでにリタイヤーされたし、当時の事故を知っている人はほとんどおられないので、ここで最近の技術に関わっておられる方々や学生に警鐘の意味で思い起こしてみる。

小生は工業高校出身であったし、化学が好きでその道を選んでいたので、薬品の性状は大体当時わかっていた。また自分が知らない新規の薬品を扱う場合は、必ず前もって便覧やその他で性状を調べて扱ったものである。

その先輩が背丈は小さいが、かなり力持ちでこんな狸ビンくらいと余り気にせずひょいと持ち上げた。その瞬間、何しろ30キロもあるし、その竹網がよりによってきれいに編まれていなかったので、ズドーンと底から抜け、その濃硫酸を体にひっかけてしまった。比重が高く粘度も高いからズドーン、ビチョツという感じだったろう。鼻の先にまでかかったくらいだから、かなり飛び散ったと予測される。本人はすぐに実験室に飛び込んできた。そのとき既に30秒くらい経過していたのか、小生はとっさに処置法が頭に浮かんだ。先ずふき取れと。それから流水で洗うのがいいのだが、何しろ鼻から腕からまたパンツにまで、既に炭化反応が進行してきていた。もし小生が気づかないでいたら大切な局部もと言うことになっていたかもしれない。

すぐに全て脱いでもらって、そのまま防火用水に飛びこんでもらい、その後病院に駆けこんだ。

2、3週間は入院されていたのではないかと思うが、鼻の先に硫酸の流れたケロイド、腕はかなり重症のケロイド、幸いなことに小生が全て脱ぐように言ったから、局部はケロイドにならないですんだ。一昨年まではその先輩とは、よく会社であっていたが、他の人は余り気づかなかっただろうが、ケロイドが残っていたので、一切当時のことは話題にしなかった。

さらに、酸にまつわるもうひとつの事故。40年位前、我々は短靴といって、オールゴム製でまったく通気性ない靴を履いていたものだ。だから汗っかきの人は大変であったと思う。今度は濃硝酸にまつわる事故。これはもっとゾーッとするかもしれないが、敢えてここに紹介しよう。鳥肌立てないように。いやな人はこの項目をスキップ。

硝酸は硫酸と違って皮膚についてもなんか痒いなという感じしかしない。これが命取り。これも当時、事業部の先輩にあたる人の出来事。硝酸がその短靴の中に入った。でも前述のように単に少し痒いなという程度、本人も余り気にせず、仕事についていたという。そのうちに痒さから、痛さが感じられるようになってきたので、靴を脱いで見るとコリャ大変。片足の踵(きびす)全体がまっ黄色(キサントプロテイン反応)。もう完全に手遅れ。結局は歩行のためにバッファーになっているあの厚い踵の皮膚全体が硝酸で酸化され剥離しその再生を待たねばならないことになってしまった。おそらく、元に戻るまでには半年、いや一年以上かかったのではないかと思う。

その意味では硫酸よりも硝酸のほうが、始末が悪い。濃硫酸の場合は、先ずふき取り、その後すぐに流水洗浄がいい。いずれにしても、即座に瞬間的にジェット流くらいの、激しい流水洗浄が一番かもしれない。

当時、なまじ中途半端な知識で実験をしていた後輩がいた。本人はそれでいいと思っているから始末が悪い。プラめっきの前処理としてクロム酸と硫酸の混酸をもちいてエッチングするが、その液を何に保存するか、ガラス容器は割れると危ないし、チタンのバスケットが良いとの提案があった。確かにチタンは酸化膜を作ってやれば、その後ビクともしないはずだ。そこで、その後輩が直接、硫酸とクロム酸を入れて調合しようとしたらしい。ところが、チタンが完全に酸化膜が形成されていなかったのか、ものすごい勢いでチタンとクロム酸との間で酸化反応が起こり、実験室がもうもうとガスで充満してきた。そのときに小生は他の部屋にいたのだが、その後輩はとっさに酸を中和すればいいと水酸化ナトリウムのペレットを直接激しく反応している容器に入れた。今度は中和反応でものすごい反応が起こり、実験室は煙と水蒸気とで充満。そこに小生が帰ってきて、しょうがないから水で希釈するしかないと判断、大量の水で希釈し当時導入したばかりの排水処理機で処理した。

最後にもうひとつ。酸にまつわる「ひやり」。昭和40年代の初め、中村先生からアルミのジンケート処理に関して少し実験してくれと指示があった。当時はほとんど文献など読む機会がなく、プロダクトフィニシングという雑誌と表面処理便覧が頼りであった。実は、そのときに検討したジンケート浴が、現在もあるメーカーから市販されているはずである。ジンケートは酸化亜鉛に水酸化ナトリウムを加えて亜鉛酸イオンを形成させねばならない。それがなかなか溶けない。便覧どおりにやると、水酸化物イオン濃度が高くなってしまい、アルミの溶解反応が優先し密着に寄与するジンケー薄膜を形成することが困難である。

そこで、これは初めから酸化亜鉛を使うのではなく、他に有機酸と亜鉛の化合物がないか探したら、意外と安価に入手できることがわかり、それを導入した。また便覧には、ジンケート浴に少量の鉄イオンが密着に効果を与えると、書かれていた。それではと電位をコントロールすればいいのだろうと、他の重金属に関しても検討し、ニッケルや銅に効果があることを突き止めた。

そこで「ひやり」の事件が登場する。アルミをエッチングする際にフッ酸を使うのであるが、小生の3年後輩の学生に、フッ酸単独、フッ酸に有機酸添加、フッ酸に硝酸添加の大きく3種類のエッチング液を用いて密着にどのように影響するか検討してもらうことにした。本人は余り化学の知識がなかったようなので、一応フッ酸の取り扱いの注意をしたつもりでいた。

ところが、本人はフッ酸をガラスの容器に入れてドラフトに保管していた。次の日だったか、「先輩!ガラス容器がこんなに薄くなりました」と、持ってくる。「お前バカか!」としかりつける。これは大事故にならなかった「ひやり」の典型。

後はアルカリに関しての「ひやり」から小事故。これに関しては既に雑感シリーズに書いたはずなのでそちらを興味ある人は見ていただきたい。酸よりもアルカリは目に入ったら失明間違いなし。特に我々の研究室では、無電解銅めっきを主力テーマとして、この数十年研究を重ねてきたので、いつも口がすっぱくなるまでアルカリの扱いの注意をしている。実験中は必ず保護めがねを着用することは常識。

大先達からの注意

今から25年位前、当時小生は京都で開かれた国際会議や、国内の表面技術の講演会でコンポジットめっきに関して発表した。その講演が終わって「本間さん、君は今発表したことの重大さを理解しているのか?人の命に関わることを余り軽率に発表するのは控えるように。」 実は言葉の全てを記憶しているわけではないが骨子は以上のようであるが、もうすこし愛情のある優しい言葉でアドバイスいただいている。

確か、コンポジットの特徴である耐摩耗性を車両の台座に応用した結果をデーターとして使った。結果はいい事尽くめのような発表であったと思う。 

大学での研究、いや自分自身の研究の姿勢として、いい加減に出来ないぞ、我々の研究結果はそれだけ責任がるのだと自覚させられた。

これは、今回のテーマと大いに関係があり、我々技術に携わるものは、人の命や環境や生活の豊かさや、もろもろのことに関して常に意識してことに当たらねばならない。アドバイスを頂いたその人の名は?知る人ぞ知る、今は亡き小西三郎先生である。