特別講演で

関東学院大学
本間 英夫

表面技術協会の春の学会が3月中旬に開催された。この大会では論文賞や技術賞の講演に先立って1時間の特別講演が例年春の大会で行われている。この特別講演の依頼が正式に来たのは3、4ヶ月前であった。これまで何度か特別講演を聴講したが、表面処理で実績を上げてきた著名な先生方の講演が主であったので自分が適格者であるか疑った。しかしながら、2年前まで当協会の会長をしていた関係上、是非お願いしたいとの事であった。

たまたまこの雑感シリーズでセレンディピティーについてストーリーの構想を練っていたときであったので、タイトルは「創造とセレンディピティー」サブタイトルとして「表面処理における偶然の発見」と題して講演する旨、事務局の了解を得た。

講演に先立ってストーリーをどのようにもっていくかをかなり考えた。これまで40年近く経験してきた話をすべて1時間の中に押し込むのは到底不可能で総花的になってしまう。まずはこれまでのデータから主要なものを選び、更に偶然との出会いについての解説をいれることにした。

いつも講演するに当たって、与えられた講演の時間をきちっと守ることにチャレンジしている。これは生前に中村先生がよく時間は守るようにと、実際、先生はいつも時間内にきちっとスマートにまとめられていた。それ以来、自分は先生の教えを守って講演は時間を守っている。

また、最近は大学内でも学会でもいくつかの役職をする立場になったので、自分が進行役をする会議は絶対決められた時間に終了するように努めている。

さて講演当日は、鞄も何も持たず小さなチップ(USB)だけをポケットに入れて出かけた。一昔前にビジネスマン向けのTV宣伝で「これだけ手帳」が流行ったことがあるが、現在はそのUSBという小さなチップが1ギガもあり多くの実験データの情報、講演のスライドを入れている。したがって重いOHPを鞄に入れて持ち歩くこともなく便利になったものだ。

講演に先立って受賞者の表彰式、新会長の挨拶があり、それから私の講演に入ったが、その時点で時間が10分遅れていた。ということは50分に短縮しなければならない。時計と睨めっこしながら、格調は高くないが参加されていた方々には肩のこらない話として聞いていただいたと確信している。

夕方から開催された懇親会でも多くの実績を持っておられる先生が「なぜあんなに色々発想できるの?」「常にわくわく楽しく好奇心をもっているからですよ」と談笑が弾んだ。

技術追求の面白さ

先月号では発想の豊かさの自分のルーツについて、語ったがそういえばと思い起こしたことが、一つ二つあるのでそれも表面処理における偶然との遭遇に関して語る前に付け加えたい。

手品の話の追加になるが、中学3年でそろそろ卒業を迎える頃であったが謝恩会か何かのときに400名以上の生徒の前で舞台に立ち化学手品をやった。それはワインに見立てた赤紫色の溶液を瞬時に透明な溶液に変えるもので、種を明かせばヨード澱粉反応を利用したものでみんなを驚かせた。

また、催眠術にも中学3年の頃興味を持ち、本屋で数冊探し勉強などそっちのけで、むさぼるように読んだものだ。小学生の頃からまったく勉強などせず、劣等生で人を笑わせることが得意というか人気者だったので、催眠術になると、ひょうきん者ではまったく通用しない。

せっかく施術方法をマスターしたのにと、自分を絶対的に信頼していた友達に試したら見事に術にはまってしまった。高校生になると株の取引をやらせてもらい、大学では心理学に興味を持ち、ギルフォード、ロールシャッハテストの参考書をいくつか図書館にこもって読み漁った。

このように、興味のあることには徹底的に取り組む性質なのだろう。また大学3年のときに一度だけデパートでアルバイトをしたが、その際まったく売れていなかった商品を、全部売りつくしたので評判になり、売り場の店員、それから事務職員まで、どんな人なんだと興味をもたれたようで、それがきっかけで何人かの女性と交際するきっかけにもなった。

大学4年のときも卒業研究に専念していたが、時々サボってデートをしたものだ。中村先生から「あいつはバンカラプレーボーイだ」といわれた所以である。

前書きがずいぶん長くなってしまったが、何にでも興味を持ちわくわく楽しみ取り組んできたことが、これまでいろんな偶然に遭遇できたのであろう。

人生の分岐点

ABS上のめっきが、本学の事業部で40年以上前に世界に先駆けて工業化したことはあまりにも有名で、読者には語る必要はないが、もうすでに半世紀近く経過しているので、語部(かたりべ)として外部の講演では枕に必ず話すようにしている。

さて、私が実際にかかわったのは大学を卒業してからで、卒業研究は県の工業試験所の今井先生の下でシアン分解における金属イオンの妨害作用であった。毎日10個以上のサンプルを特殊なシアンの蒸留器にかけてシアンを遊離させ、その濃度を分光光度計で分析するものであったが、操作法が煩雑で自分なりにいくつかの操作に関して先生に改善を提案した。

今井先生はJISの規格委員を担当されていたので、私の提案がJIS規格の操作法に採用されたと聞いたときは、嬉しかったし自分もやれるぞとの自信になった。その後、卒研は企業で行うことになったが、そのときの研究員がなかなか能力のある方々で、大学院に進学しようと心に決めたのをはじめとして、その後の自分の進路に大きな影響を与えることになった。

本学には大学院がなかったので、同じキリスト教主義に基づく同志社の大学院に進学した。しかし、指導教授の先生は60を過ぎておられ、情熱が感じられなかったので、これでは積極的に研究に励めないぞと、本学に戻る相談を中村先生の下に手紙でお願いした。

ちょうど5月の連休に入るところで、先生の返事を待たずに連休を利用して先生のオフィスを訪ねた。開口一番「実力をつけたいのか、肩書きがほしいのか」そのような問いかけに誰だって肩書きがほしいなどとは言わないだろう。即座に「実力をつけたいです」といったら先生は「それならこちらにもどれ」ということで6月から戻ることになった。

実は、京都の下宿に帰ってみると中村先生からの一通の手紙があり、早速開封して読んでみたら、同志社にせっかく入ったのだから、さらには肩書きというのは人生において大切だから、2年間自分なりにベストを尽くすようにと、先生の過去の経験談も入れながら面々と説得するような手紙であった。だから自分が先生のオフィスに入ったときに、ぶしつけに実力をつけたいのか肩書きがほしいいのかと聞かれたことが納得できた。手紙を読み終えたときは若干気持ちが揺らいだが、一度決めたものを翻すわけに行かない。自分についていた4人の卒研生に「俺は元の大学に戻るが」と了解を得た。

次号に続きます。