企業の遺伝子

関東学院大学
本間 英夫

ずいぶん前になるが、人間の能力や行動は氏か、育ちかの対立軸で論議するのは意味が無いと書いたと思う。

マットリドレーの「やわらかな遺伝子」中村桂子、斉藤隆央訳によると遺伝子は母親の胎内で子供の体の臓器や脳を作る命令を下すが、誕生後は環境によって柔軟に自己改造していくという。遺伝子は環境に柔軟に対応していくからこそ進化がある。環境や経験が人間を大きく変え、社会に対して素晴らしい実績や貢献がなされた例は枚挙に暇が無い。

この考え方は企業の経営にも当てはまる。多くの企業で創始者は企業理念を掲げ社会に貢献してきた。更には、遺伝子としての創始者の考えに固執するのではなく、先行きに危機感を持ち大胆に経営環境に応じて迅速かつ敏感、そして柔軟に形を変えてきている企業は、その後もしっかり地のついた経営がなされている。

どの産業領域でも同じだが、われわれの表面処理関連の企業でも大きな技術格差が顕在化してきた。

昭和40年代、神奈川県で始まった企業の巡回指導を通して、たくさんの現場を見てきたが企業の技術力が高まり高度成長期に入ると、県としての指導の役割を終え、ほとんどの企業はケミカルサプライヤーの指導を仰ぐようになり、その後は滅多に企業の現場を見る機会がなかった。

というよりも故意に私の方から見なかったと言う方が的確かもしれない。特に、貴金属関連や電子部品関連の工場は機密が多いのだろうと自分の方から見学はほとんどしなかった。多くの企業は大学の教員に見せても的確なサジェッションをしてもらえないだろうし、機密事項もあるからとの考えであったのであろう。

ところが最近めっき製品も高い品質が要求されるようになり、わらをもつかむ気持ちからか、相談が増えてきた。果たして技術の遺伝子は、この間の高度成長期に変身し大きく成長してきたのだろうか。最近いくつか工場現場を見て「どうもそうではないらしいぞ!」と思うようになってきた。

海外展開による技術力の低下

ひところのものづくり大国といわれた日本の製造業の活気が乏しくなった。中国が世界の生産拠点と、多くの日本企業が工場を移転している。更にはBRICsとの造語に見られるように、ブラジル、ロシア、インド、中国の4か国の人口の合計は世界人口の4割強、約26億人にもなっている。 全世界のGDPに占める割合は8%程度であるが、最近の平均成長率は6%を超えており、成長が著しい。
 こういった背景から、今後BRICsは世界経済に大きな影響力を与えるような国家群へと成長していくのではないかと考えられている。BRICsの名付け親である米国大手投資銀行ゴールドマンサックスのシミュレーションによると、2040年にはBRICsのGDPがG6のGDPを超えると予測されている。
 果たしてその予測は当たるのか?GDPはその予測を超えて成長するかもしれない。

日本は今後も技術の積極的な海外展開を進めるだろうが、それにより日本国内のスプロール化が促進されていくようで心配である。

小生の研究室を巣立ったOBはすでに300名以上になるが、中堅技術者として活躍しているOBが多い。しかし、メールのやり取りをすると、活躍している連中は海外出張中ですと返事が来る確率が高い。

したがって、彼らの所属する国内の研究所は手薄状態で新しい研究開発はおざなりになっている場合が多いようだ。このままでは技術力の低下が憂慮される。これまで日本のものづくりは優位性が保たれてきたが、価格競争力の維持から海外展開を余儀なくされている。

しかしながら、いずれは価格競争に巻き込まれないような高い技術力に重点を置いた開発がなされていかねばならない。

いずれは経営者も技術のトップも、国内回帰が技術大国日本を維持していくためには必要なことであると気づくであろう。

夢から遠ざかった技術者

いくつかの会社を見学して最初に気づくことは、現場を管理している技術者が暗く目の輝きが無いことである。成長期と比較すると現場の様子がガラッと変わったのに気づく。先ず、派遣社員の多さに驚いた。価格競争から人件費の削減が真っ先にターゲットになったのであろう。

ルーチンでそれほど高度の知識が無くてもやれる仕事は致し方ないが、こと化学の領域になるとそんな訳にはいかない。もし省人化と効率化を実行するのであれば、それなりの対策と対応をしてからでないと、結局は無責任体制になり不良の山を作ることになってしまう。不良が出るとその原因を究明せよと上司はがみがみ怒ってばかりいて、中堅技術者は連日連夜対策に追われて対症療法的になる。

結局は悪循環に追い込まれ不良対策にはならない。最近の中堅技術者はゆとりが無く、いつも頭を下げ目が死んでいる。夢が無いのである。人減らしを責めているのではない。大いに人をかけなくていい箇所は減らせばいい。そのための対策がなっていないから苦言を呈するのである。

たとえば、化学反応を基にしているのであるからセンサーを駆使する、そのセンサーの開発をする。また不良の出る原因を徹底的に洗い出す。

以前にパレートの法則でも話したが不良の原因究明の的がずれていて、対策を見ていると、もぐらたたきのようで根本的な対策にはなっていない。基本をみんな忘れている。

技術や技能がうまく伝承されていない、ゆとりが無い、夢が無いなどが不良の山を作る大きな原因になっているように思えてならない。

ケミカルサプライヤーにとっては薬品を納めている製造工場のサービスと技術を提供するのは良いが、どうもそちらのほうも最近は若返りで技術ノウハウが先達からうまく伝承されていないようだ。このままでは八方塞で抜け道がなくなってしまう。今後さらに高品質製品が要求されるのだから、経営者は思い切って技術に重点を置いた対策をとる必要がある。

人材不足

 日本の生産人口は95年をピークに減少している。企業はこの間不況の嵐の中で人員を削減してきており、この事実を意識してこなかったようである。

先ごろの人口調査によると、本年から全人口もマイナスになってきた。90年代以降の製造業大手の海外移転に伴い、下請け型産業は縮小傾向にある。専門分野ではテレビで紹介されているように東京の太田区を中心に大企業を上回る技術力の中小企業が現れている。

大企業と中小企業の数の比率が1%と99%であると先月号で紹介したが「ものづくり」が得意な中小企業と大学が連携する、いわゆる産学連携モデルの確立が製造業の復権にも繋がると期待されている。それには大学が実学志向に転換せねばならない。これまで先生方はみんな一匹狼のような存在で、その意識変革はかなり困難を伴うだろうが。

雑感シリーズのまとめ

8月の末に日刊工業新聞社から工学博士の思考法と題して単行本を出版しました。これまで8年間にわたって書き続けてきた雑感の中から編集にあたられた方が選んでくれました。まとめて通読してみると、なかなか良いことも言っているなと自画自賛になります。

是非興味のある方は書店でお買い求めください。日刊工業の書籍のHPには下記のように書かれてありました。

「著者は、関東学院大学を代表する〝名物教授〟の一人。表面処理の分野では日本を代表する研究者でもある。本書は、本間氏が書きためてきたエッセイをまとめたもの。混沌としている社会現象、経済動向も、工学的思考から俯瞰すると、的確に予測や解決策が見えてくる!」