閉塞感の中での元気な企業
関東学院大学
本間英夫
以前、この雑感シリーズの中で触れたことがあるが、読売新聞、日経新聞、日経産業新聞を購読している。しかし、最近はインターネットで新しい経済や社会情勢が入ってくるため、各紙すべてに目を通すことはなくなった。日経産業新聞は、一年くらい前から極力目を通すようにしているが、一般紙である日経新聞と読売新聞は、見出しと興味のある特集などのアイテムだけを読むか、ほとんど目を通さない日が多くなってきている。
言い訳になるが、そのように意図的に仕向けても、テレビやインターネットの情報が入手できるため、ほとんど実生活には影響がない。
先日、ヱビナ電化工業の海老名社長と技術的な話をしていた際に、「先生、4月27日の日経新聞の社説読まれましたか?」と尋ねられた。これに対して、「日曜日の社説は読まなかったよ」と答えたのだが、これには理由がある。
小生は、日曜日はゆっくり起きる。起きたらすぐにTVの報道番組に首っ丈になり、新聞は気が向いた時だけ、しかも特集のようなコラムだけしか読まなくなってきている。
読者のほとんどの方々も、当日の日経新聞の社説は読んでいないだろうし、ヱビナ電化工業が社説に紹介されていたことを知っていた方はほんの一握りだと思う。中小の、しかも特定の一社について社説の記事になることは滅多にない。
そこで、ヱビナ電化工業に関する社説を、下記にそのまま引用してみる。
『日本の中小企業が試練の季節を迎えている。経済産業省の2008年版中小企業白書によると、中小企業の業況判断は過去2年間、悪化の一途をたどっているという。
理由の一つは石油などの原料高だ。原材料の仕入れ価格が上がっても、製品価格への転嫁が難しく、収益が圧迫される。倒産がじわじわ増えているのも、気掛かりな傾向だ。
全国に430万社ある中小企業は、日本経済を下から支える存在だ。一握りの大企業の業績が好調でも、430万社に元気がなければ、経済は沈滞する。中小企業の活性化はきわめて重要な課題である。
モノづくり系の中小企業にとって、進むべき方向は技術開発力の強化だ。ニッチ(すき間)分野に狙いを定め、そこでトップをめざす。そんな志の高い企業が多数登場すれば、「大企業の下請けで、低賃金」というイメージも変わるだろう。
社員約100人のヱビナ電化工業(東京・大田)は、めっきの世界では名の知れた存在だ。先端的なめっき技術は、例えば燃料電池の開発にも欠かせず、自動車大手の技術者が頻繁に同社を訪ねるという。
自ら技術部長を兼ねる海老名信緒社長は「景気悪化は逆にチャンス」と指摘する。大企業が採用を絞る不況期は、質の高い人材が中小企業の門をたたくからだ。
ヱビナ電化は平凡な町工場だったが、以前の円高で仕事が急減し、技術志向にかじを切った。経営者にビジョンと意思があれば、規模は小さくても活路は開ける。IT(情報技術)化した今の時代は、中小企業でもグローバルに情報発信し、海外企業と取引することも難しくない。』
以上のように、ヱビナ電化工業は、中小の中でも元気がある企業として紹介されている。
我々の表面処理を中心とした企業は、この十数年の間に廃業したり統合したりで、全鍍連の統計によると4000社以上あった会社が1800社程度にまでに減っていると言う。数名程度で運営していた、いわゆるサンチャン企業が統合されるのは当然の流れとしても、かなり大きな企業も廃業するとなると残念な気持ちになる。こうした企業は、下請けとしての対応力、技術の展開力、さらには新しい技術の習得力に欠けていたのであろう。
逆に大きく躍進した企業は、技術をベースに常にチャレンジ精神を持ち、積極的に事業を展開して大きく躍進してきている。その中の代表的な一社がヱビナ電化工業である。
今から30年くらい前になるが、海老名社長は大学院を修了し、父親の経営する表面処理工場を継ぐことになる。彼はこれまでの前掛け、ゴム手袋、長靴の作業現場を見て、これからの工場運営はこれではいけないと、技術力の向上と共に、下請け産業からの脱却に思いを馳せていた。
彼はまず、現在のハイテクノの上級表面処理講座(当時は中村先生が推進されたJAMFの講座)に参加し、表面処理全般の講義を一年間聴講した。更には当時アメリカを中心とする海外研修を毎年行っていたが、その企画にも参加した。この海外研修を通じて、小生との交流が始まることになる。
お互いの出会いは大切で、その後、企業の経営、技術開発のあり方、関連企業との連携など、アメリカでの視察や我々との技術交流を通して自分の思いを膨らませ、将来の構想が構築されていったようだ。
まず彼は、これまでの町工場のイメージを払拭すべく、汎用品のめっきラインを電磁波シールドのめっきラインに変更することを始めた。さらには当時、小生の研究室にあったものと同じ分析装置をすべて購入し、勘と経験に頼っていた現場作業を、分析管理をもとにした安定した品質の物作りへと改革を進めていった。この改革の実現のためには、大学卒の技術を習得できるスタッフが必要と、積極的にリクルート活動もするようになった。
また彼は、学会の分科会の手伝いから始まり、学会の活動には積極的に参加し、表面処理の技術者の立場から編集や企画に携わるようになってきた。
したがって、日経の社説に紹介されたように、今では表面処理の業界をリードする、これからの企業の生き方を象徴する企業に成長してきている。
思い出と思い入れ
先月の中頃、4年に一度開催される表面処理の国際会議が韓国で開催された。学生にはいい経験になるので、研究室の大学院の学生のほとんど全員を参加させた。学生には個人研究費があるが、すべてをこの学会のためには使えないし、また研究所からも負担する体制になっていない。したがって、かなりの額、自腹を切ることになるが、ほぼ強制的に学生を参加させた。
小生はこの国際会議に対して思い入れと思い出がある。また、自身の経験から、若いときに海外の学会で発表することが大きな自信につながることを知っている。ほとんどの学生を参加させたのは、そのためである。
この国際会議は、1976年に第一回がイギリスで開催され、1980年に第二回国際会議が京都で開催されている。
思い出というのは、日本の京都の国際会議場で開催された第二回の国際会議で発表しなければならない状況に追いやられた?ことである。というのも、当時は学位を取得するために、少なくとも国際会議で二回以上発表しなければならなかったからである。
恩師の中村先生は、1968年ごろ学園紛争を契機に小生を残して大学を去ることになった。その際、電気めっきは整流器が必要であるのに対して、無電解めっきはビーカーと洗面器とバーナーと温度計があれば基本的な研究は出来ると、アドバイスを受けた。
それ以来、メインのテーマーとして無電解銅めっきを行い、それ以外に、大学の卒業研究で排水処理の研究を杉田の工業試験所でやっていた経験をもとに、学園紛争後、環境浄化に向けての研究は是非テーマーとしてやっておこうと、この研究も細々と進めていた。
当時は大型コンピューターが大手の企業に導入されたころで、先生は中小企業の表面処理企業の共同利用を考えられた。先ず勉強会から始められ、小生もFACOM230‐25の大型コンピューターの導入に当って、勉強するようにと、毎週、湯島にあるJAMFに通ったものだ。
それから数年後に、状況が大きく変わる。それは、京浜島の工場団地計画が東京都で推進され、中村先生が指導に当られることになったからだ。特に無公害実現のため、中村先生の構想のもと、現ハイテクノ社長である斉藤先生の綿密な節水の考え方が確立され、排水を集中管理する共同処理センターの実現に向けての研究が進められた。
したがって、京浜島の工場団地計画に伴う排水処理やリサイクルの研究が最優先のテーマーとなった。記憶もかなり薄れたが、1972年もしくは1973年頃から基本的な検討が始まり、大学ではイオン交換システム、各種金属の電解回収、総合廃水の沈殿処理などのテーマーで実験が進められた。
そして1977年の8月、上記の国際会議が開催される3年前に工場団地がスタートする。中村先生は大学を去られてから約10年間、大型コンピューターの導入と、その後の団地構想と、激務の日々を送られることになり、徐々に心疾患の病魔が襲う結果になった。
この団地の完成前後だったと思うが、先ず斉藤先生のドクターの取得、及び小生のドクターの取得に尽力していただいた。したがって、第二回の国際会議はドクター取得のための大切な会議であった。
発表の内容は無電解の複合めっきで、しかも当時団地のコンピューター制御に使われていたマイコン制御システムをこのめっきの制御に導入していたので、その結果も発表の中に入れた。その後にアメリカで講演することになるが、そのテーマーは無電解銅めっきの自動制御であった。
大学院のマスターコース修了後、十数年地道に研究していた内容、団地のリサイクル、排水処理の研究の手伝いをし、蓄積された制御システムのノウハウ、中村先生がこれからは無電解の研究をとのアドバイスをいただいたこと等が、ドクターの取得に繋がって行く。
京浜島の団地は、操業を開始してすでに30年を経過しているが、世界でも類を見ないクリーンなめっき団地として操業を続けている。団地内には空中配管された排水パイプを通して、各工場から送られた分別排水を集中処理するものである。
21世紀に入って、資源および環境問題はますます重要課題となり当時の研究を更に深化させる段階に来ている。
最後に、今回韓国で行われた表面処理国際会議に参加した、小生の研究室の学生から送られたコメントを載せようと思う。
『今回は、旅行費、滞在費など負担していただきまして、ありがとうございました。
初の海外での国際学会で、緊張や不安も多かったですが、ポスター発表は多くの人が質問に来てくださいました。
その中で、自分のポスターに足りない点の発見等、多くの良い刺激をもらいました。
英語力に関してはとても不安がありましたが、相手の聞こうとしてくれる姿勢もあって、自分が思っていた以上に通じたように思います。これらの経験から、これまでには無かった達成感を感じました。
また、先輩方がポスター賞を受賞され、改めて関東学院大学の研究の注目度を感じました。
これからは、もっと自分達の研究に自信を持って、明日からまた実験を進めていきたいと思います。』