卯の年を迎えて

関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫

ウサギはピョンピョン跳ねるので飛躍の年との期待を込めて新年を迎えた。

先ず皆さんにお断りしなければいけませんが、70歳近くにもなるとお付き合いも多くなって、何度か年賀状を出すのをやめると言ってきました。本年からは、遠く離れて滅多に会うことのない旧友達に、互いの消息を伝えることに限定し、賀状をしたためることにしました。何卒ご容赦を願います。

先ずは過去から未来へ

大学の知の活用と叫ばれるようになってきたが、本学ではすでに半世紀前から産学協同が実施されてきていたことは、先月号でも述べた。今月号では、少し言い足りなかったところと、さらに新しく構築した材料・表面工学研究センターについて述べることにした。

これまで40年以上にわたり中村先生の遺志をついで、関東学院大学は産学協同のルーツであると、自分なりに精いっぱい推進してきたつもりである。

学園紛争の始まり

学園紛争が勃発する前の数年間、専攻科に始まり、翌年大学院の一期生としてさらには助手として、大学に奉職することになりプラめっきの研究を行ってきた。特に、ボスである中村先生が事業部の部長と教授を兼務され、小生が助手になった頃から学園紛争が始まり、助手が結束して教授会のメンバーに入り民主化していこうとの運動が始まった。

工学部で5、6名の助手がいたが、60名程度で構成されていた教授会で、海の物とも山のものともつかない我々が、教授会のメンバーになることには反対であると述べた。その意見に対して当時、教授会の中で学生運動に協力的というか推進派の若い先生方は、猛烈に小生を糾弾したものだ。

当時、中村先生の部屋には学長初め2、3の大学の役職者が、紛争の解決策に相談に来られていた。先生のもとで小生は実学的な研究をしていたことから、活動家の学生は、小生に向かって、自分たちの運動に反対している助手だと、名指しで「産学協同粉砕」「助手の陰険な策動に断固抗議する」と誹謗したものである。

紛争の激化

学園紛争はロックアウト、長期休講、ついには国道16号線の封鎖とエスカレートし、事業部は大学から分離しないと得意先に多大な迷惑がかかると関東化成として独立することになる。その頃から学生と議論しても平行線で解決に至らず、連日連夜教授会が開かれたが話し合いでは解決できなかった。そこで、中村先生は懐に辞表を携え、機動隊導入を教授会で唱えられ紛争は解決した。

先生は47歳の若さで大学を去ることになる。その時「俺はやめて中小企業のコンピューター導入をはじめ指導育成に当たる。お前は大学に残れ」と、その後先生のサポートの下、産業界ともフェアーな付き合いをしてきた。 これまで40数年間で研究室を巣立っていったOB(400名以上)のほとんどは表面工学分野で活躍している。

また、全共闘の指導的立場にあった学生の中には、かなりの工業化学科の学生が活動していた。当時は学生運動家、体連、ノンポリと分けられていたが、いずれの学生とも付き合ったし、学生運動に携わっていた彼らとは真剣に論議したものだ。

彼らの主張は活動家から教育を受けているようであり、どことなく借りものであったが、その時の論議が自分の生き方に大きく影響している。

特に産学協同を進める上において、学生達の大学は企業の下請け機関ではないとのアピールには小生も共感し、その後企業との連携において常に意識するようになった。

紛争が明けて

紛争が解決した後、運動に積極的にかかわっていた学生の大半が、卒研生として小生の部屋に希望してきた。彼らはそれだけ純粋で、とても優秀で発想力のある学生たちであった。

現在産業界の中で、まだ何人か現役で活躍しており、今でも彼らとは付き合っている。

OB会に集まると当時を想い出し、本人達にはあらかじめ話していいか確認し「助手の陰険な策動に断固抗議すると赤ペンキで階段の壁に書いたのは彼だぞ」とか、「下宿に遊びに行ったらヘルメットが壁にかかっており、バレたか!と照れ笑いしたのは君だったね」など、今では和気あいあいと、当時のお互いの熱い想い出を語り合っている。

コンソーシアムの走り

事業部から独立した後も、本学の経済学部出身の遠藤さん(現在84歳)が社長をされていた頃は、経済成長が著しく、関東化成は活気があり、表面処理分野では日本のリーダー的存在であった。

大学では小生の研究室、産業界では中村先生を中心としたグループとの間で、日本初の世界に発信できる技術をとの意気込みで、リサイクルを中心としたコンソーシアムを構築し技術開発を進めてきた。

さらにはワンボードマイコンが市場に出るや否や、中村先生はそれに目をつけら、自動制御に活用するようになる。センサーの開発では、物理量のセンサーは当時からかなり使われていたが、化学量のセンサーの開発を我々の研究室で手掛けることになる。

また、廃水処理、無電解銅、無電解ニッケルなどの自動制御用のプリント基板は、関東化成で作成した。当時の大学院に進学していた学生と一緒にアセンブラや、マシンランゲージを習得し、また制御関係の専門学校を出た新進気鋭の技術者のもとでプリント基板を自作したものである。

小生も当時プリント基板の図面を見ながら回路をたどり、はんだ付けをしたものだが電話がかかってくると集中力が途切れ、どこまで部品をはんだで固定したか分からなくなるので、「先生はやらなくても俺たちでやるよ」ということになった。また制御プログラムのアイデアを皆で出し合い、毎日楽しく実験を行ったものである。

学位取得まで

これらの研究成果は1980年京都で表面処理の国際会議が開催され、そこで初めて英語で発表することになる。内容は小生のドクター論文の一部になった無電解ニッケルコンポジットめっきの自動制御で、下手な英語で発表したことを今でも鮮明に記憶している。

さらに、その次の年だったと思うが、無電解銅めっきの自動制御と題して、アメリカのセントルイスで開催された国際会議で発表した。その時は「本間、緊張するといけないぞ!」睡眠不足になるといけないからと、先生が常用していた睡眠薬ハルシオン(ハルシネーションは幻覚という意味)を飲んで寝ろと、またこの薬は酒を飲んでも大丈夫だと言うので、前日少し酒を飲んでからベッドについた。しかし、神経質な小生は眠れないどころか、幻覚が一晩中続き、発表時間になっても、のどが渇き大変な経験をした。話は戻すが、学園紛争後から一貫して研究してきた無電解銅めっきの高速化、および析出膜物性に関する研究もドクター論文中ではメインテーマーであった。

新規プリント基板製造工場建設

このドクター論文が中村先生の目にとまり、鋭い先見性のもとで「本間これはいけるぞ!」とプリント基板の新規製造方法をベースにした工場を、新たに関東化成の中に建設することになる。ビーカースケールでしか実験をしていなかったので、正直内心ひやひやであった。当時の学生と小生は基礎実験を、関東化成の技術者はぶっつけ本番のようなスケールアップ、無電解銅めっき液のコンピューターによる自動制御、特にプリント基板はめっきだけではなく、回路を形成する際のレジスト印刷技術の確立が急務であり、短期間のうちに形が出来上がって行った。これが電気めっきを用いないオール無電解めっきでプリント基板を作成する世界初のアディテブプロセスで80年代を制するとKAP-8と名付けられ、世界的に注目されるようになる。

残念ながら当時開発に携わった技術者の多くは関東化成を退職し、開発当初を語れるのは小生と斉藤先生しか残っていない。その頃から米国のIBM,ベル研の技術者をはじめ、イギリス、ドイツ、韓国、シンガポール、台湾、その他、全世界からひっきりなしに、東京の京浜島のめっき団地、関東化成および小生の研究室に訪ねてこられ、お互い研究開発について情報交換した。さらには、イギリス、アメリカ、韓国からこれまで10人以上の技術者が長期研修生として滞在したものである。特に、現在プリント基板の世界的なメーカーにまで成長した韓国の大徳電子の金社長は、今から30年近く前に3年間大学に籍を置き、関東化成および中村先生のオフィス、アズマで研修を積んだのである。

その後エレクトロニクス領域はすさまじい勢いで製品群が入れ替わり、新技術が展開され、評価道具は“金食い虫”ともいわれ、中小企業ではこの分野で積極的に投資し、利益をあげていくことはなかなか困難を伴うようであった。

転換期の判断

現在、プリント基板の製造方法の主流になっているビルドアップの研究会が、エレクトロニクス実装学会で立ち上がり、幸いにも小生が委員長として標準化に向けて会議を重ね、その一年後からビルドアップ工法はプリント基板製造の主流になっていった。この工法では無電解銅めっき技術が要素技術としてキーになるので、大手企業から関東化成でこのプロセスを導入して協力していただけないかとの要請があったが、すでに関東化成ではこの領域から撤退を余儀なくされ、技術開発よりも、生産性の向上に力点を置かねばならなかったようであった。したがって、その時期から小生は関東化成には出かける頻度は少なくなった。しかしながら、今から10年くらい前になるが、先月号に記したように、これでは会社の将来性に不安があると危機感を持たれるようになり、大学と協同で研究所を立ち上げようと言うことになったのである。生みの苦しみというか、実際に立ち上がるのには提案があってから3年も経過することになる。当時の学長が言っていたが「あの時先生(本間)が大学院の委員長として評議会のメンバーでなかったならば、現研究所の設立はまだまだ先であっただろう」と、十一月号の雑感では大学の事業部から関東化成の生い立ちに至る背景、および研究所の設立経緯を述べた。

新研究所の構築

さて、今回立ち上げることになった新研究センターも、時間がかかる事は重々覚悟を決めていた。今回センターを立ち上げるに当たり賛同いただいた産業界の経営者の多くは、真の意味での大学の独創的な研究に注力し、その成果を業界のために披露し、また実際にビジネス化できればと期待されている。

実際これまでに多くの新規プロセス、新規めっき浴開発を行い産業界に貢献してきた実績があるので、これからの日本の先端産業にとって欠かせない表面処理技術を中心にさらに幅を広げていきたい。したがって、これまでのウエットプロセスだけの研究開発だけでなくドライも視野に入れて材料開発に注力することにより、益々高度な技術をグローバルに展開していく研究環境を作っていく覚悟である。

これまで表面処理業界が手掛けてきた、装飾めっきの時代は終わり、色々な機能を付加しなければ、何の価値もない時代になった。これからは、ドライや塗装、コーティング、熱処理の技術を融合させて、センサーや高密度、最薄化などの社会のニーズに合った研究に切り替えなければならない。関東学院は、新しい未来志向、国際化の中で、よりオープンな研究機関に生まれ変わらなければ、価値のない研究機関となってしまう。

当面は今回構築した材料・表面工学研究センターでは基礎から応用、また北久里浜に8年前に設立した研究所では実用化と棲み分けることになったが、実際には基礎・応用さらには実用化まで一貫した本格的研究所の設立こそが、今一番社会に求められている。

18歳人口だけをターゲットにした大学教育から一歩先んじて、社会人の高度技術者の養成機関の機能を持たせれば、本学として特色のある研究所の構築になる。今回の賛同企業の多くは、短期的な成果を求めていない。これまで企業との連携スタンスは、マラソンレースで30年以上のお付き合いである。

本学は日本における唯一の表面工学に注力した産学協同のルーツであり、これからも大学にとってモデルとなるような研究所が構築できるように努力していきたい。すでにオフィスは整備され、実験室に評価道具がそろい、学生は生き生き研究に勤しんでいる。今一番気になっているのは、小生はもう歳だから愛をベースに学生を育て、また産業界から信頼される後継者をと願っている。