現場経験に基づく考え方

関東学院大学 材料・表面工学研究センター
本間英夫
研究員 梅田 泰

今月号では、3月から研究センターの研究員として正式にスタッフとなった、梅田君の自己紹介と彼の20年以上にわたる現場を中心とした技術で培われてきた考え方を紹介する。以下は彼の書いた文章に少しだけ手を入れた。

いつの時代も若い威勢の良いリーダーが求められている。近頃の若い人を見る時、彼らが未来に対し、意外に悲観的な考えを持っている人を多く見かけることがある。その反面、私たちの時代では、えられなかったようなグローバルな大きな夢を持っている人も少なからずいる。

このような状況はいつの時代も同じとよく聞くが、私の10代であったいまから40年位前は、ご飯もろくに食べられない中で若者が未来について考えていた時代であり、現在の豊富に腹が満たされた状況の中とでは、考え方に大きな差が出てくるのだと思う。しかし、これからの若者にも自信を持って未来に向かって歩いて貰いたい。そして幸せな生活を掴んでほしい。大きな幸せを掴むチャンスは全ての人に与えられているはずである。私は知識が豊富な訳でもないし、十分な資産があるわけでもないが、幸せを大いに感じている。幸せを感じながら生きるという点について今迄の私の経験について話をすることでその一助となればと思う。

私の生まれた昭和32年の横浜は、まだ戦後の残骸が少し町に残っており、町の中心部には駐留している米兵や、その家族の多くが華やかに闊歩していたころであった。まさに日本における占領軍の全盛期である。日本人は、その姿を見ていつかはあのアメリカ人たちのように豊かな生活が出来るようになりたいと希望を持っていた。自動車、芝生の青々生えた大きな家、立派な電化製品(三種の神器 テレビ、冷蔵後、洗濯機)を持つことが大きなステータスだった。戦後の日本人は豊かになることを全ての人が目標に頑張ったのである。その甲斐あって昭和四十年代には多くの人が立派な家電とある程度の豊かな生活が出来るようになり、国力もついてきて、生活はそこそこ立派になってきたが、住宅はウサギ小屋のようと、外国からは揶揄されてもいた。戦後の復興からこのように豊かで安定した生活が定着してきたかに見えたが、昭和四十七年にオイルショックが起こり、日本経済は大きく方向修正を迫られることになった。石油の供給が減るのではないかとの憶測から、全ての生活用品の生産が出来なくなっては困ると、トイレットペーパーまで買い占められ、世の中から消えてしまい大混乱となった。その後はさらに経済は拡大し、土地や株への投資熱から山林の土地までが値上がりするというバブル経済となり、それを抑制すべく金融引き締めにより、1990年には日本経済のバブルの崩壊が始まり20年以上の景気低迷、大きな回復が無いままに2008年リーマンショックの影響を受け、大きな経済危機を迎えた。その際も日本国民はその都度の山を乗り越えてきた。

私個人は昭和53年に労働省の職業訓練短期大学校を卒業し、埼玉の自動車向け亜鉛ダイカスト部品を中心としためっき工場を皮切りに、横浜の防衛関連の航空機や飛翔体の制御部品などをめっきする工場、その後、父親が経営する半導体部材のめっき工場に23年間働いた。トータル28年間めっき作業に従事した。その中で特に23年間働いた半導体部材工場では、引っかけ冶具作業から製造部長、開発部長を経験したことで、今の研究職と言う私の新たな人生を得られたことに感謝している。仕事では失敗することも多かったが、皆と力を出し合って完成させた仕事にはいつも喜びがあり、次の仕事への自信となった。あるとき自分の仕事の採算を強く気にするよりも、得意先の利益を考えることで大きな信頼を得られることに気が付いた。全ての仕事がそうではないが、それまで以上に利益が上がる経験をした。また、職場においては私本人が同じ気持ちで事に当たっているときは他人(部下)の失敗も自分の失敗として理解できるが、頼みっ放しの仕事では相手に不満ばかりが残ることに気が付いた。

開発業務に携わったときは、開発技術や、資金の調達や人材の確保についても経験をした。開発と言えども、テスト品の納期があり、会社に何度も泊まり、二日で36時間作業などと言うようなことを繰り返し、多くの新しい製品を生み出して行った。その中で、生みの苦しみのないものは仕事の寿命が短く、途中で大きな問題が発生し、苦しむことが多かった。製品の生みの苦しみはいつも体力勝負のようなところがあり、もうこれ以上は出来ないと思ったところで、ポッと新しいアイデアが浮かび、解決に結びつくことが多かった。いつもやりぬいた後に答えが見つかるのだ。途中で諦めたものは、次からはなかなか取り掛かることが出来なくなってしまう。製造の不良の問題や、開発の生みの苦しみ意外に人間関係の悩みも多く経験した。量産で成功した際に、利益を開発費に配分してくれると約束したことがあった。しかしながら最終的に利益が出た際に、経営側からその部署だけ利益が出ても配分する訳にはいかないとか、利益が出ている部署を自分の担当から外されてしまうなどの処置をされてしまったこともあった。その当時は約束と違う事に腹が立ったが、これは経営側だけが悪いということだけではなく、私自身が相手にうまく理解を得られるような言動が出来なかったために最終的にこのようなことが起きてしまったと解釈している。

このようなことを経験している人が今読んでくれている人の中にもいるのではないだろか。自分だけの論理を通そうとすることで相手は反発し、力あるものはどうしても押さえておかなければならないと思ってしまう。うまくコミュニケーションが取れていればこのような誤解も生まれなかった筈である。新しい商品を世の中に提供することは、大きな苦労があると思うが、スタッフ、得意先と製品完成の際に必ず大きな喜びを分かち合うことが出来るはずである。是非若い人たちは開発という渦の中に飛び込んで常に自分への新たな世界を模索してほしい。

今年3月11日午後2時46分に東北、東関東を襲った千年ぶりと言われる大地震により、近年経験をしたことのない想像を絶する大規模な被害が齎された。死者、行方不明者を含め二万六千人の尊い命が失われ、四十万戸以上の住居が地震と津波の影響で破壊されてしまった。被災者はもちろんであるが、国民全体が大きな悲しみに包まれた。今回の被害は通常の建造物だけでなく、原子力発電所にも大きなダメージを受けたために、大きな範囲で放射能汚染の影響があり、国民の不安はただならず状況にある。しかし、こんな状況の中で国家間の協力だけでなく、外国の個人からも被災地への心温まる支援があり、人間愛を感じることによる大きな心のよりどころを感じた人は少なくなかったと思う。私たちは今回の被災に対し多くの問題にぶつかるだろうが、これからの日本を創造し、問題を皆で解決していく必要がある。そのためには解決していくための能力だけでなく、一歩前に足を踏み出す勇気が必要になってくる。一歩足を踏み出すことで大失敗をしてリスクを抱えてしまうかもしれない、だがリスクを回避するために何もしない人がいたとしたら、それは人間として正しい事なのだろうか。何もリスクを冒さずには大きな改革はありえず、前に進むことは出来ないと思う。そんな時代を乗り越えて行く若者に単なる技術的な対応だけでなく、メンタルや体調管理についても提案をしたいと思う。

以上梅田君の現場経験に基づく考え方を書いてもらった。彼は開発業務の先頭に立ってきていたのでセンターでは大きな戦力になっている。