関東学院大学との出会い

関東学院大学材料・表面工学研究所
山下嗣人

関東学院大学との出会い
 
 中学三年生の修学旅行で神奈川・東京を訪れた。江の島をバックに記念撮影し、「七里ガ浜の磯つたい、稲村ガ崎名勝の」と、バスの中で歌いながら鎌倉へ移動して、大仏、八幡宮、頼朝の墓、建長寺、いすゞ自動車の組み立てライン、羽田空港、プラネタリウム、翌日は皇居、国会議事堂、上野動物園、白木屋デパート、浅草SKD春の踊りなどを見聞したが、田舎の中学生には新鮮に映った。横浜・鎌倉・江の島への憧れと夢、景勝の地、ミッションスクール、物理教員の勧めなどが本学へ進学する理由であった。
私の出身地である長野県南佐久郡臼田町(現佐久市)は海抜700m以上の高地で、冬は寒いが夏は涼しい。空気が綺麗で雨が少なく、電波障害レベルが低いことから1500mの山腹に惑星探査機との通信を行う「臼田宇宙空間観測所」が設置されている。町には農村医学で国際的にも有名な佐久総合病院、函館と同じ五稜郭(龍岡城)がある。北に浅間山、南に八ヶ岳の名峰を望み、市の真ん中を信濃川の源流である千曲川が流れている。一月下旬には寒中休み、六月初旬には田植え休み、十月初旬には稲刈り休みがあり、四季折々の豊かな自然環境で育ったことが理系への道に進ませたのであろう。
小学校低学年の頃、生物学者の義理従兄弟から昆虫採集と標本つくりを習った。トンボの尾が折れないように松の葉を入れること、バッタの内臓を出して、ホルマリンに浸した脱脂綿を詰めることを学び、トンボの研究で受賞したことがある。理解はできなかったが、学芸会で「火山の爆発」を再現したこと、明治~大正時代の実家が薬種問屋であったことなど、化学との縁があったのかもしれない。
関東学院大学での横山盛彰教授との出会いが、私の人生を決めたことになり、来年三月の定年まで大学に勤めることになる。二年生の物理化学演習のある日、「君の出身は何処かね」と尋ねられたことに始まる。横山先生は横浜高等工業学校(現横浜国立大学工学部)助教授時代にドイツ、スイス、フランス、アメリカに二年半留学され、本邦に「電気化学」を紹介した人であった。文科省の意向により金沢高等工業学校長にご栄転、数年後の昭和二十二年、天皇陛下の行幸で金沢高専が選ばれたのは横山先生の手腕といわれている。横山先生は新制大学となる山形大学、山梨大学、静岡大学の学長を要請されたそうですが、お断りして金沢大学初代の工学部長を務められてご退官後、中村先生のご尽力により昭和三十六年四月に新設二年目の工業化学科教授として赴任されました。
 横山先生は長野県松本市のご出身である。長野県人は、「信濃の国」で知られているように県民意識が強く、横山先生は格別でした。父が教員であったことから、教員免許を取得していれば帰郷後に役立つと考えて、春休みと夏休みの夜間に開講していた教職課程を受講した。「人が人を教育する」教育の偉大さ、教育者の使命感に感銘を受けた。一級の免許があれば校長に昇格できる時代であったので、工学専攻科へ進学したが、工業の免許では採用の機会がなかった。同時期に横浜国立大学工学部の研究生となり、横山先生お弟子の鶴岡教授の下で、ニッケルのアノード溶解特性を研究した。この成果を発表した金属表面技術協会第三十七回講演大会が、私の学会デビューであり、表面技術誌の1970年1月号に初めて論文が掲載された。
その後、幸運にも技官を経て、文部教官助手となった。その頃の研究テーマは、銅の不動態化防止、カーボンと金属の接触腐食、亜鉛溶液中の微量カドミウムの優先分離、亜鉛負極の充放電特性などであったが、二十代の様々な体験は貴重な財産となった。
 昭和四十年代の後半には大気汚染が社会問題となり、電気自動車用電池の開発が急務で、亜鉛を負極とする二次電池が注目された。しかし、充放電時の樹枝状析出と不動態化現象を防止するという難題があった。これらの挙動を精査し、抑制すべき研究を行ったが、この亜鉛に関する研究が学位論文へと発展することになった。

亜鉛電池の研究‐学位論文への挑戦

 関東学院大学工学部工業化学科専任講師に着任した昭和五十四年頃、日本化学会秋季大会で発表したことがご縁となり、また、横山先生のお力添えもあって、東北大学工学部応用化学科で学位論文を指導していただくことになった。将来は学位を与える立場になるので、審査は厳しいと言われた。
外国誌に論文が掲載されていたので、英語の試験は免除された。ドイツ語のそれは最後まで分からなかったが、文献を引用していたことが幸いしてなかった。学位論文審査会への出席は化学系の教授のみであり、重苦しい雰囲気であったことを覚えている。学位を早く欲しいのなら、東工大の○○教授、九州大学の○○教授を紹介します。しかし、本当に勉強したいのなら、東北大学には幅広い分野の専門家がいるので良いですよ、とも言われたが、私の選択は正解であった。
過電圧が大きい領域での亜鉛に関する実績は横浜国立大学時代の研究で十分にあったが、電池は休止期間が長いので、電極/電解液界面での挙動と、休止電位近傍(3~4mV)における析出(充電)・溶出(放電)特性を調べることになった。運よく1mV単位で電位走査できるポテンシャルスイーパーが発売されたので、正確な電位‐電流曲線を解析することができた。次に交流インピーダンス法を用いて、電極反応を解析することになったが、国産の装置はなく、横浜国立大学院生が学会誌の解説を参照して作製したアドミッタンス装置を用いて、研究することができた。周波数を変化させて、その応答成分を表に記録する。その数値を基にインピーダンス軌跡を描き反応過程を解析するには多大な時間を要したが、「電気化学反応の安定性」という基礎電気化学分野の課題を解決し、休止電位近傍から、広範囲な電位域における電極反応過程を解明することができた。
二つの装置と学生の協力によって、「亜鉛の電極反応に関する工学的研究」の論文が完成して、工学博士の称号を得ることができた。これにより、研究者として認められるようになり、以下に述べる亜鉛に関する国のプロジェクト研究へと展開した。

国のプロジェクト研究への参画

 昭和五十五年新エネルギー総合開発機構により、新型電池電力貯蔵システムの研究が始まった。大容量の蓄電池システムにより、電力需要の少ない夜間(オフピーク)の電力を電気化学反応によって貯蔵し、電力不足が懸念される昼間に放出する電力需要平準化(ロードレベリング)機能を有するシステムのことである。五種類の電池が研究されることになった。
私は某社から再委託された亜鉛‐臭素電池の基礎研究を担当した。八時間の充放電を行うと、電解液の濃度は0.7~3.5モルに変化する。錯化剤や添加剤が含まれてはいるが、充電終期の亜鉛濃度が1モル以下になると、デンドライト析出になりやすい。亜鉛イオン濃度の変化に対応して、電流を制御する方法を提案した。1000kw級電池の実証試験が九州電力で実施され高い評価を得た。夏の電力不足が心配されると、この電池が話題に取り上げられる。自然エネルギーの蓄電用としても期待されている。
 昭和五十七年、本四連絡橋児島‐坂出ルート内の斜張橋ケーブルの防食を担当した。鋼線をコンクリートで固め、塩化ビニール樹脂で覆う工法が計画されていたが、コンクリート内では、鉄と亜鉛のどちらが適切か判断することになった。セメント模擬溶液中では、洗剤に類似した安価な界面活性剤の防食効果を見出したが、砂利や砂が混在したコンクリート内では亜鉛めっき鋼線に直接インヒビターを付与する防食法が有効であり、この工法が採用されている。
 亜鉛を負極とする一次電池には自己放電を防止するために水素過電圧の大きな水銀(亜鉛アマルガム)が使用されていた。しかし、公害問題から、水銀未使用亜鉛負極が求められた。Zn-Pb-In-Al合金の自己放電特性を交流インピーダンス法による水素電極反応の電荷移動抵抗から評価を行った。

文部科学省私立大学学術研究高度化事業・戦略的研究基盤形勢支援事業

「次世代高密度電子回路技術を視野に入れたナノスケール構造体の創製技術の開発の研究」が平成十七年度文部科学省私立大学学術研究高度化事業に採択され、「電気化学的手法によるマイクロからナノスケールの構造体の作製と超高密度配線への応用」を担当した。微小凹凸部への添加剤作用機構の解明、平滑な銅箔と樹脂基材との接着機構、電気化学的手法によるニッケル-リン結晶質/非晶質系多層膜および傾斜組成皮膜の作製と特性、機能発現機構の解明、皮膜の物理・化学的特性評価を行った。
平成二十四年度からは、私立大学戦略的研究基盤形成支援事業がスタートした。最新の分析機器を屈指して、「有機系添加剤複合効果の電気化学・結晶構造学的解析、環境調和型高機能化薄膜作製技術の開発」の研究に取り組んでいる、高度な分析装置が導入されたことにより研究は著しく進展している。
文科省の研究事業に二回採択されたことは、本学表面工学分野のポテンシャルが高いことを物語っている。

名前の由来

父の教え子さんに付けていただいた私の名前には、名字の「山下」がイメージされている。「山の下には水があり、林があり、大小の生命が誕生する聖地であり、次から次へと嗣(つ)がれている自然の美しい大地の場所であり、遠くは里あり」
と。長男である私には「あとつぎ」を意味する「嗣」の一文字をとって命名されている。
 実印を作ったときのコメントには、「生年月日から、長男の方であり、多少神経質な面もありますが、物事に熱中し、一つのことを成し遂げる方です。欲を出さない遠慮深い面もあります」と書かれている。五十一歳以降は「大成する頭領運」。外格数五は「福寿運」、繁栄成功の大吉数であり、「諸事中庸を得て、社会的にも信用され、多くの人を率いる指導者として、力量・風格も充分で、たとえ不運の生まれであっても一代で家を興す人です」とある。子供と孫の名前も外格数を五としている。
本学との出会いと運の良さ、これまでの歩みを顧みたとき、名前に因るところが大きかったものと、今は亡き名付け親に感謝している。
与えられた課題には誠心誠意をもって対応し、より優れた成果を挙げるよう常に努力してきた。退職後も新たな夢と希望をもって、社会に貢献しようと考えている。