走馬灯(2006年晩夏、病室にて)

関東学院大学 カウンセリング・センター
所長 有田 匡孝

前書き

 毎日多くの方々が研究所においでになりますが、先日、大学の元カウンセリングセンター所長の有田匡孝先生(現 葉山ハートセンター)が訪問され、在職中に執筆されたエッセイをいただきました。
 誰もが精神的な悩みに直面し自分なりに解決していますが、このエッセイを読み終えて皆様にもお伝えしたいとの思いにかられました。
有田先生に転載の許可をいただきましたので是非ご一読ください。
 どうぞよろしくお願いいたします.

関東学院大学
材料・表面工学研究所
所長 高井 治


 今年の夏、思いもよらない神経系の難病で4週間程入院いたしました。
 医師としてではなく、一人の患者として治療に臨もうと白旗を掲げて入院いたしましたので、検査、治療中は不安や焦りもありましたが、長年の忙しさからは開放され、自己を見つめる物理的余裕も持てました。私の精神医学は門外漢で、心理学の素養もほとんどないのですが、これまでの経過をどの様に解釈したらよいのかと、甚だ我流ですが分析を試みました。そして、そこから導き出され得た結論は、「私こそ専門家のカウンセリングが必要だ」という事でした。
 以下は「迷える羊の告白」或は「医者が患者になった時」とでもお読みくだされば幸甚に存じます。
 私の専門は循環器内科です。
 循環器の生命線は救急医療で、携わるスタッフのほんの数分の決断が患者さんの生命、予後に大きな影響を及ぼします。突然の発症に対応するために24時間スタンバイのことも多く、心身共にかなりきつい職場です。ですが、元来気が短い私には、勝負が早いこの外科に近い循環器内科が性格的にあっていたようです。
 胸痛の患者さんが緊急で入院されて、診察と検査の結果から心筋梗塞と診断が下されます。治療は一刻を争います。心筋梗塞の治療は心臓カテーテル室で行われます。手術室と似たような部屋と思ってください。治療内容を簡単に説明しますと、患者さんの上肢の血管から細いワイヤーとカテーテル管を慎重に挿入していきます。医師はテレビ画面に映し出されたレントゲン写真を視ながら、冠動脈の閉塞部分を見つけだし、カテーテル管の先端についたバルーン(風船)で閉塞した血管部分を広げます。集中力と瞬時の判断が要求される手術です。治療が成功し、痛みと不安から解放されて、元気になられた患者さんの笑顔を拝見する時は医者冥利につきます。
 しかし、外来における診療はまったく様相が異なります。患者さんの病状を診察するばかりでなく、時間をかけて患者さんのさまざまな訴えを聞いて差し上げなければなりません。一言で言うならば、いわば人生相談の様なものです。
 心身症という病気あります。カウンセリング・センターでも診られる神経性食欲不振症(拒食症)などが典型的でしょうか。こころ(心)の悩みが、からだ(身体)に影響する病気です。統計によって程度の遣いはありますが外来患者の少なくとも20%位に見られる病気です。
 近年増加に傾向ある、うつ病の中に仮面うつ病といって心の病(元気がない、疲れやすい、沈んでいる、など症状はたくさんあります)が前面に出ないで(隠れていて)、身体症状が見かけ上の主な症状として出て来ることがあります(頭痛、胃腸の不快感、肩こり、不眠、体重減少など肉体症状は様々です)。実際はうつ病であるのに、見かけ上の身体症状という仮面をつけているのです。患者さんはまさか身体症状の奥に隠されている心の病とは思いも及びません。医師のほうも注意を怠って表に現れている症状ばかりにとらわれていると、患者さんの本来の病態を誤って診断してしまう恐れがあります。その結果、身体に出てきた症状の検査、治療ばかりに追われることになってしまいます。
 30年以上も内科臨床医をやっておりますと、 患者さんの訴えに隠れた心の病をみることはしばしばです。
 診療の現場で患者さんの訴えを忍耐強く聞くこと、そしてやさしい一言を掛けることによって患者さんが安心出来ることがよくあるのです。患者さんの笑顔を見ることは医師にとっての外来診療でのやりがいにもなります。診断・治療・検査などの医学の進参には日々目を見張るものがあります。しかし現代の検査優先、極論すれば、検査至上の医療で一番忘れ去られている領域は、心の問題ではないかと考えさせられます。
 カウンセラーの方々も同様ではないでしょうか。相談者を前にして、相手との目に見えないコミュニケーション(全体の雰囲気、声の調子、表情、目の動き、しぐさなど)、いかにしたら上手に相手との信頼関係を築けるか、こころを聞いてもらえるかがまず勝負ではないでしょうか。それに成果はすぐには出ないでしょう。長期間の闘いになるかもしれません。目に見えない数値に出ないアナログの世界(検査数値などはデジタルの世界)です。カウンセラーの方々の日頃の御苦労は十分察せられます。
 先の心身症に関連して聞きなれない言葉ですが、身心症(これは私の造語?ですが)もあります。慢性の身体の病気が心に影響するというものです。
 以下は私の個人的なことで誠に恐縮ですが、実は昨年末から右手指の巧緻性低下、筋力低下、右母指球筋萎縮などがあり、当初は整形外科で頚椎の病気ではないかと診断され、頚椎を固定するカラーを2カ月間着装しましたが一向に効果が表れない為、神経の病気ではないかと大学病院の神経内科を受診しました。今年の3月に検査の為に入院し、その結果、末梢神経障害に頚椎症か運動ニューロン疾患が加わった疑いがあると診断されました。運動ニューロン疾患と聞いて私はパニック状態になりました。30年以上も前の話ですが、医者になりたての頃です。長野県のリハビリテーション病院に大学から派遣され、そこで脳血管障害後遺症や神経疾患の症例を多く見ました。研修医の指導にあたられていた運動ニューロンの大家で、当時の信州大学医学部神経内科教授の塚越先生から「運動ニューロン疾患(物理学者のホーキンズは類似疾患です)は進行が早く、最後は全身の筋肉が障害され呼吸筋麻痺でなくなる悲惨な病気だ」、などとよく聞かされていました。この病気は今の医学では原因も不明で治療法もありません。当時から運動ニューロン疾患は恐ろしい死の病という意識があったので私は萎縮した右母指球を見つめて、このまま麻庫が進行したら、仕事が出来なくなってしまうのではないか、あと数年のうちに死んでしまうのではないかなどと思い込んで疾病恐怖症、不安神経症に落ち入ってしまったのです。(この思い込みというのが私の性格のキーワードです。森田療法でいうところの自己中心的なとらわれ、認知行動療法でいう認知の障害;認知のゆがみによる非現実的、不適応的な自動思考、特に恣意的推論による結論の飛躍、先読みの誤りで物事は必ず悪い方向に進み、この病気は絶対に治らないと決め込み思い込むこと。フロイト流精神分析よりこの認知行動療法は究めて森田療法に近いと思われます)
 日常生活においては起床時の歯磨き、洗面、髭剃り、箸を持つ等の動作に伴う倦怠感があり、手指の痛みで食事をとるのがめんどうなこともあります。仕事上ではパソコンのキーボードを打つのがつらい、字を書くのがつらい、重いものが持てない、両肩の凝りと痛み、しびれなど症状となって表れて悲観的なことばかりに神経が集中していました。不安から不眠状態に落ち入り、まるで自分が重症の身障者になってしまったかのようです。その頃は、父の看病そして死の看取りなどの不幸も重なり、まさしくうつ状態でした。今でも睡眠剤、安定剤などは手放せません。症状が出始めて8ヶ月を過ぎましたが一向に症状は改善されず、また病気を受容できないこともあり、いらだち、焦り、不安感等が募り、妻にも同じ事をグダグダとこぼすようになりました。負けず嫌いの私にしては珍しいことです。さすがに妻も今回は尋常ではないと感じたのでしょう「性格もあるでしょうが、医者としての経験や知識があるばかりに自分の病気を悪い方、悪い方へと思い込んでしまって、それにあなたはいつも自分のこととなると中途半端でいけない、紺屋の白袴、医者の不養生と言うでしょう、今度ばかりは素直に患者の立場になって、すべてを主治医に任せて入院なさい、下駄を預ける事も大事ですよ」と強く諭され観念して、大学が夏休みに入り何とか仕事も一区切りついたので、7月末より素直に入院した次第です。
 今は検査、検査の連続です。原因ははっきりしませんが、幸い思い込んでいた運動ニューロン疾患ではなさそうですが、いずれにして難病の免疫性末梢神経障害というややこしい病気のようです。神経疾患は治療法の少ない難病が多いのです。最近はやっと積極的にこの疾患とともに人生を乗り切らねばならないと考えられるようになってまいりました。どうして今回の疾病を、実際よりも悪い方へ悪い方へと思考して、落ち込んでしまったかといいますと、実は、私は若い頃から疾病恐怖、死の恐怖などによる不安神経症の傾向がありました。これは育った家庭環境と青年期における苦い思い出の双方が関与していることと自己分析しております。
 話は高校3年生の受験の直前に遡ります。年も開けて、受験を間近に控えた1月でした。机を並べて一緒に勉強していた私の一番の親友が突然学校に来なくなってしまいました。病気で入院したとの知らせを受け見舞いに行くと、彼の母親から「腎臓の病気で1年は持たないだろう(尿毒症)と医者に宣告されてしまった」と涙ながらに伝えられました。その言葉を聞かされた当時の私の精神状態をはっきりとは思い出せませんが、親友が死んでしまうなんて、驚きと、理不尽さと、怒りと、悲しみ、死の恐怖、喪失感などが複雑に入り混じったパニック状態で、生まれて初めての深い絶望と挫折感を昧わいました。
 その年は両親の手前見かけ上の受験をしましたが、そんな不安定な心理状態の中ですから、大事な追い込みの時期というのに勉強も手につかなくなり、当然第一志望の大学には不合格。浪人時代は予備校には行きましたが常に漠然とした不安がつきまとい、将来への希望も見失って勉強にはまったく身がはいらない状態でした。 親友は発病から1年後の1月、「腎結核による尿毒症」で亡くなりました。尿毒症と診断した医者の誤診でした。誤診による親友の死を無駄にしてはいけないとの正義感であったのでしょうか、ともかく(思い込み)から唐突に医者になろうと決心し、将来は外交官になろうなどと志していた私は文系志望を急遽理系受験に方向転換しましたが、間際から準備しでも医学部に合格するはずもなく、結局その年の受験も不合格でした。この思い込みも今なら衝動的で自分中心的なとらわれだと分析できます。もともと子どもの頃から病院の消毒の匂いや白衣は好きではありませんでした。また病気や死が怖くて到底医師には向いているとは思えません。そんな私の方向転換に両親は驚き反対していましたが、そのうちに何とか国立か公立の医学部ならと受験を許してくれました。文系の勉強しかしておりませんでしたので二浪時代は理系の勉強で大変な思いをしました。精神状態は極限に達し、常に悲壮感が漂っていました。
 幸運にも翌年の春には医学部に入学を果たせましたので、浪人時代の不健康さから脱出して少し身体を鍛えようと思いボート部に入部しました。ところが入学早々、大学の健康診断で尿に蛋白が出ていると指摘され、実際の程度は軽かったのですが、小学校の4年生のときに急性腎炎に罹り、一ヶ月あまり自宅療養したことを思い出しまして「本当は慢性腎炎なのだろう。親友と同じでどうせ30歳までには尿毒症で死ぬのだ」と、またここで短絡的な思い込みをしてしまいました。ですから学生時代は自暴自棄気味で授業はよくさぼりました。遊ぶでもなく勉強するでもなく悪友達と銀座などをうろつき回っていました。現在の医学部でしたら落第間違いなしです。20歳の頃ですから今よりはもっと強烈な生への欲望があります。医学の勉強だけでは心が満たされず、どうせ短い命なら出来る限りになんでもやろうという考えのもと、立派な人間になるためと称して、極めて観念的に宗教書や文学書を読みあさり、自分を高めるために自己改造などと称して無駄な抵抗を試みていました。ですが、あるべき理想の姿と現実のギャップとの乖離による葛藤、焦りはひどく私を悩ませ、煩悶の解脱を求め、焦れば焦るほど、もがけばもがくほど泥沼の深みにはまってしまっていました。そんな中で森田療法の本に行き当ったのでした。これで救われると思いましたが、弱冠二十歳では機が熟していなかったとしか言いようがありませんが、その当時は中途半端なままの理解でした。その後も人生でつまずいた時、行き詰まった折には森田療法関連の本を読みました。また今回も病と向かい合い、今まで何度も手にしたことのある森田療法の本を開き、その内容の素晴らしさを再認識いたしましたので、ここに若干述べさせていただきます。
 森田療法で有名な森田正馬先生は、1874年(明治7年)高知で生まれました。名門の県立第一中学に入学しましたが、心臓神経症や脚気、腸チフスに罹り、また不安神経症、疾病恐怖症で苦しみ、落第を数回繰り返しています。熊本第五高等学校の時期は比較的落ち着いた生活のようで寺田寅彦などとの交流が記されています。その当時の日本は西洋医学の黎明期であり、現在とはまったく異なり今日のような診断、治療法などは開発されておらず、特に精神科領域においては、神経質などの神経症は神経衰弱(今時、こんな病名はありませんが)にひとくくりにされる時代でした。そんな彼が長年の病気を治したのは、東京帝国大学医科大学在学中の神経衰弱、脚気で薬を飲んでいた26歳の頃、大学での進級試験が迫るも体調が悪く試験を受けられるかどうか思案していた時期でした。そのころの日記に「久しく父より送金なくして余は甚だしくこれを恨み憤り、父に対する面当て半分に自ら死を決して服薬を廃止し、思い切り試験の勉強なしたり。然るに意想外にも脚気および神経衰弱症にさほどの影響もなし。試験は以外の成績にて195番中25番なり。」、当時脚気は原因がわからず恐れられていた病気で、彼は本当に死を賭したのでありましょう。この経験が後の森田療法の原点となります。いわゆる恐怖突入であり、必死必生、背水の陣であります。長い間の父親との確執。教育、強制、期待への行き違いなどの怒りでありましょう。そのときの父に対する怒りは、自分自身の中にある生への欲望と変化して、内面からわきあがる力を感じたのでありましょう。彼は病気に逃げ込まずに親への依存を断ち切り、あとはどうにでもなれ、煮ようが焼こうが勝手にしてくれ、といった破れかぶれの気持ちであったのでしょう。まさに背水の陣であります。後年、このときに神経衰弱の正体を見たと書いています。
 以上、簡単に森田正馬先生の略歴を延べましたが、どう贔屓目に見たって落ちこぼれの学生で、現在の偏差値教育の下でしたら、とても医者にはなれなかったでありましょう。ですが、その後の彼は日本人で独創的な治療法を編み出した医師として、日本のみならず世界でもその名は知れ渡っているのであります。
 森田療法では、神経質素因のある患者は生の欲望が強く、その裏返しとしての劣等感、死の恐怖、不完全感などの症状に悩み、その症状は取り去ることが出来ない自然の感情であるが、それを取り去ろうとしないでじっと(あるがままに)目の前の目標に向かうしかない。たとえば赤面恐怖症(最近は減ってきているようですが)を例にして考えてみましょう。赤面恐怖症は従来治療法がなく、森田先生もその治療法の開発に相当苦労を重ねた結果、独創的な治療を編み出しました。
 たまたま友達に顔面が赤いといわれたとします。普通の人はこれを無視するか放置します。しかし神経質素因のある患者は生への欲望が強く(赤面しない自分)を理想(かくあるべし)としていために、内省的で、負けず嫌いで、他人に敏感になるために赤面が気になり、観念として自分の努力で治すことができると錯覚し、何とかしようとはからい、あくせくする。つまり赤面という当たり前の現象をあたかも免疫反応のように異物を排除しようとし、とらわれ煩悶する状態です。
 これを有名な(思想の矛盾)といいます。一度(思想の矛盾)にとらわれるとますます注意は顔面に集中し(精神交換作用)とらわれから抜け出せなくなります。そこで森田は(事実唯心、あるがまま)に赤面という不安はそのままにして、逃げることなく仕事なり学業に専念しろといいます。
 対人恐怖で言えば神経質者は観念的であるから(完璧な人間、非難されない)人間になろうという理想に向かいます。でも現実は『事実としては』人は不完全な人間であり、人には好き嫌いがあるために誰にでも好かれることは有り得ません。しかし観念として人に好かれよう、そして(いい人、立派な完璧な人間)を演じ、この思想の矛盾にとらわれ、結果ますますその人のありのままの自己を窒息させてしまうのです。
 私の今回の病気の経過を考えてみます。
 現実(事実)は、手が不自由で日常生活や仕事が十分に出来ない。しかも症状は一向に改善はしません。が何とかパソコンは打てます。そこで生まれつきの敏感さのために適応不安があり、(症状は進行するのだ、病気で死んでいくのだ)と思いこみます。その裏の心理として身体は完全であり、手指はきちんと動かなくてはいけないという強烈な理想(かくあるべし、完全主義、生の欲望)が隠されているために、何とか早く治そうとあせり、理想を追い求め、現実を受け入れられず、思想の矛盾にとらわれてしまったのです。そこで森田療法の登場です。森田療法では、不安の裏にある強烈な生の欲望を感じ、自覚し、逃げることなく仕事をしなさい、うれしいときには喜び、悲しいときには悲しみ、これを(純なこころ)といい一番大切だと言っています。幼い頃からの(かくあるべし)の教育のもと他者の視線を感じ、自然な自分を見失い、装うことの虚構や、からくりにはめ込められて自らを窮地に追い込む神経質者は純な心を取り戻せ、(自然に従順になれ、境遇に素直に従え)とも強調しています。
 森田正馬先生は若いころから気管支端息、肺結核などの病弱な身体で、喘息発作、肺炎、原因不明の大量下血で何回も死にかけています。私生活でも長男を20歳で失い悲嘆にくれ、さらに61歳のときには妻も失っています。そんななかでも慈恵医科大学精神科教授として、教育、診療、研究をされ、自宅を神経症患者のための入院施設として開放し、森田療法の真髄の治療に全力を注ぎ、多くの青年を有意な人間に育て上げました。そして「人間は狭い殻に閉じこもっていなくて良いのだよ、硬い仮面を捨てなさい。その人の奥に潜むあるがままの生きる欲望、生きる希望を信じてください。本来備わっている感情を殺すな、こころを欺くな」と訴え続けたのです。人間性に無限の信頼を置いた方で、真の教育者、医療者であります。
 私も3年半前から偶然のきっかけで大学で教えておりますが、慣れないせいか、年齢のせいか学生達の真意を充分理解できずに悩んでいるのが正直なところです。今回の入院中に感じたことは、森田先生の教えは神経質者や患者だけではなく、広く学生達にも応用できる理論であると確信いたしました。多くの学生は暗記が得意なようで、あまり物事を深く考えていないように見受けられます。教育の弊害、受験の失敗体験、推薦入学などの影響で受験時代真剣に勉強してこなかったなど様々な理由が有るのでしょう。自分でわからない所を必死になり勉強し、わかったときの喜びを味わうことの達成体験が少ないがために、勉強したところでどうせわからないからとか、勉強はつまらないと、最初からあきらめているような印象を持ちます。考えることによりはじめて知識が知恵となり、真に社会に通用する有用な人間になれるのだということを森田先生は教えてくれています。森田先生の言うところの、(誰にでも備わっている欲望、知識欲、自ら理解することの苦しさと楽しさ)を学生から如何に引き出せるか、それが私の役目でなかろうかと感じております。
 最後になりますが、この頃は殺人、汚職、談合、捏造、いじめ、閉じこもり、ニート、などと目を覆いたくなるような事件や現象が毎日といっていい程報道されております。
 先頃は奈良の高校生によるショッキングな母子放火殺人事件がありました。継母と異母兄弟のいる家庭環境で育ち、父親の医者になれ、しっかり勉強しろという厳しい期待に添えきれず悩み、衝動的な行為には走ってしまった様です。
 観念的な理想像を押し付ける教育、他人との競争、虚栄心などの表層的な面ばかりが重視されて、彼の抑圧された生の感情、心の叫びはどこにも届かなかったのでしょうか、現代は親も教師も周囲の人々も誰もが、他者には無関心な時代なのでしょうか。
 「あなたは生の感情をあらわにしても社会から排除されることはない、自分の心の底にあるありのままの自分を信じなさい」、東洋的なまなざしや慈しみのある森田先生の励ましの声が響いて来ます。おりにつけ本校の学生達にもその声を、言葉の真の意味とするところを伝えることが出来ればと思っております。