魅力ある工学教育を
関東学院大学
本間英夫
二つの工学系の国立大学で、表面処理の講義を依頼されている。ひとつの大学では大学院の学生向け半期科目である。一四、五週も足を運ぶのは大変であるし、先ずは自分の大学の学生に対する研究と教育が大切なので、ほかの大学の先生と分担し、しかも集中講義にしてもらっている。ぶっ続けで八時間講義する。と言っても、対話形式や、充分に休憩を取って、質問時間を設定するので、それほど苦にはならない。
もうひとつの大学では、特別講義のようなもので初日は、その大学の地域活性化事業の一環として、企業向けの開講科目、二日目はその大学の三年生向けの講義である。
両大学とも、茶髪やヒカリモノ?を身に付けていない。学生はおとなしい。受講態度がよい。概して高校までは、偏差値教育で言うところの上位者たちである。
私は講義を進めていく中で、いつもどれくらい理解したか、興味を持って聞いているかチェックするために学生に、必ず問いかけるようにしている。我々の学生時代の経験から、絶対に基礎知識として知っておかねばならないような内容を問いかける。ところが残念ながら期待に反してほとんど解答できない。
例をあげれば限が無いが、たとえば、唯一常温で液体の金属は?これは誰でもわかる。そこに金を入れると金が溶けてしまう。滅金、メツキン、これがめっきの語源の由来であるとの説があるのだよと。それではこの現象のことをなんと言うのですか?誰もアマルガムのことはわからない。そこでアマルガムを説明し、奈良時代の大仏像に金が被覆されているが、あれはアマルガムをコーティングしてから炭火で加熱し、水銀を飛ばして金をつけたのだよと。だから当時の作業に携わった人々が、水銀中毒で亡くなったり、麻痺したりしたはずだ。大仏が畏敬の念(尊敬と恐れの交錯した感情)で見られたのはこんなことも関係していたのだと。
ちなみに昭和四〇年代くらいまでだと思うが、虫歯の詰め物はアマルガムであった。その当時、歯医者が看護婦にアマルガム頂戴と言っているのを聞いて、こんなもの詰めていいのかなと、漠然と思ったものだ。当時、体の調子が優れなかったのはそのためだろうか。現在はすべてパラジュウム合金、レジンやアパタイトになっているのであろうが。
ところが、ロシアでは依然としてこのアマルガムが使用されている。理由はコスト。健康をある程度犠牲にしても、痛みから開放されたほうがいいとの判断か。話がすぐに拡散してしまい、顰蹙を買う。(ヒンシュク こんなに難しい漢字だとは)本論に戻ろう。
淡々と講義を進めては、学生も面白くは無いだろう。そのときのムード、理解度を見ながら、講義を続けるようにしている。
一ファラデーは何クーロン、すぐに答えが出る。それでは、一ファラデーでどれだけの金属が放電(析出)するのか?今度は誰も答えられない。
要するに、今の学生は断片的な知識をもっているが、総合力が無い。これは本学の学生も国立大学の学生も変わらない。大学受験を学力維持装置だと言う人もいるが、受験勉強の大きな欠陥が、露呈されているのである。彼らは試験ができたから、それでいいと思っている。ところが、総合的に考える力が備わっていない。また大学でも一点刻みで成績をつけている先生もいる。これでは学生が育たない。
数年前から、アメリカの教育に習ってシラバス(Syllabus)を取り入れ、授業の概要を今までよりも詳しく説明するようになってきた。これは、かつては授業が魅力的であろうが無かろうが、すべて教員の思い通りに進められてきた講義方法を、是正しようとの気運が盛り上がってきたからである。一部の大学では学生に先生を評価させたりもしている。しかしながら、依然としてその効果は出ていない。
学生の授業に対する意識を変える前に、教員側の意識や価値観を変えねばならない。私自身は、学生にここだけは暗記しておくようにとか、ここが重要だとかは講義で言わない。工学全般を学ぶ上において、いろいろな領域が相互に関連しており、断片的な知識では何の役にも立たないことを実感させるようにしている。
したがって、試験は細かいことを問うのではなく論述式にしている。それ故、いろんな切り口から解答してくる。こちらも答案をチェックして勉強になる。
考える力の養成を
我々の時代は、ほんの一部の人を除いて自宅で勉強はしなかった。勉強するやつは「がり勉」と嫌われたものである。親も勉強しろとは言わなかった。学校で集中して先生の言うことを聞いていれば、解るはずだと。
唯一、五年生だったかローマ字を習う科目が当時採用され出したときだったのだろうが、朝起きてみると、ひらがなで教科書の内容を書き写したノートが机の上においてあった。それでも、いらぬおせっかいとばかりに、ローマ字には興味が無かった。
高校生の当時は、トラの巻が書店に出だした。そんなものを参考にするようでは本物ではないぞと、長考の末、代数や幾何の問題が解けたときの喜びはひとしおであった。
高校時代の友人のほとんどは、大学に進学したが(当時の進学率は一二%前後)、自宅ではあまり勉強はしなかったと思う。ただし集中力は皆、抜群であった。特にマージャンのときはよく徹夜をしたものだ。どこの親も、教育者の親も、しかりつけることは無かった。その連中がいろいろな領域で活躍している。
また、いわゆる優等生と言われていた友人で、官僚コースを歩んでいるのもいる。先日ニュースを見ていたら外国の要人と対談していた。
何をいいたいのか。中にはそれほど勉強をしなくても理解する子もいれば、ついていけない子もいる。現在、一割はできる子、三割はできない子といわれている。
できる子に比重を置けば九割が犠牲に、できない子に比重を置けば七割が犠牲になる。したがって、平均的な教育がなされているわけである。それでは、そのできる一割の子が将来的に社会でリーダーとして活躍するのか。三割のできない子は落伍者なのか。決してそんなことにはならない。
学業を終えてからの個々人による意識の問題である。高度情報社会においては、主体的に学び、研究、調査ができないといけない。そのための基礎力、応用展開力を身につけるような教育をすればいいのではなかろうか。
むしろ、もっと大切な問題は倫理に関する教育だと思う。若者の常識の無さだけが、いつも問題にされている。しかし、この一〇年の間に色々な企業倫理にもとる問題や、官僚や民間人の賄賂や、その他の不正は目に余る。道徳教育に対して戦後、日教組がナショナリズムの台頭につながると反対してきたが、基本的な倫理観は子供の頃から植え付けねばならない。
学校での勉学は一般には二〇歳の前半でほとんど終了する。あとはそれぞれの個人の問題である。如何に主体的に捉えていけるか、自分自身で切り開いていけるか。今までも、これからもここがポイントである。
デジタルデバイド
米国では情報機器を使いこなせるかで、サラリーやステータスに大きな格差がつくようになってきた。これをデジタルデバイドといっている。
先ず、個人にとって情報機器の一番基本形態はパソコンである。パソコンを駆使するようになるためには、なんと言ってもキーボードをブラインドタッチすることから始まる。キーボードの配列は、英語を文章化する上でアルファベッドの頻度からうまく配列されているのである。したがって、自己流でいつもタイピングしていると、キーイン速度は上がらない。中年以降の人でかなり情報機器を駆使する人であっても、律速はキータッチである。今まで英語嫌いであった人、パソコンを毛嫌いしてきた人は、デジタル社会での落ちこぼれとレッテルを貼られても仕方が無い。
しかしながら、あきらめてはいけない。企業内で責任の地位についているほど、これからは絶対にキーボード操作が出来るようにならねばならない。最近ではブラインドタッチを速習させるプログラムも出ている。まずはその第一関門を突破しなければならない。
私は今から三七、八年前にタイプ教室に通っていたことが幸いした。目的は英文タイプを習うという名目で、実はほかの目的?があったわけである。当時、英会話教室に通ったのも然り。そのような若い頃の邪心はあったが、一応はタイプをブラインドタッチで打てるまでになっていた。しかし、その後タイプを使うのは学会で使うスライドつくり位で、あまり必要性は感じなかった。英語で論文を書くときには集中的にタイプを使ったが、それでもその頻度は極めて少なかった。
それがワープロを個人で購入できるようになった。特に二年前から中村先生の遺志をついで、この雑感シリーズを毎月書くようになってからは、使わざるを得なくなった。自転車に乗ることを覚えてしまったら絶対に忘れないと同じように、四〇年近く前に覚えていた手の感触は忘れていなかった。
今では文章を書くときにも下書きをしない。パソコンに向かって考えながら、あるときはハイスピードで、あるときは長考しながら書いている。
e-メールも一日におよそ二〇件くらい入ってくる。最近の習慣は朝起きたらまずは、パソコンを起動させメールを確認する。大学に入ってくるメールも自宅に転送するようにしているので、返事を出す必要のあるものはその場で出してしまう。それから大学に向かうが、研究室につくと早々に又メールを確認する。大学ではパソコンはつけっぱなしで、サーバーの中身を一五分おきに呼んでくる設定にしている。したがって、メールが入ったらすぐに返事を書くようにしている。電話で対応していたかなりの部分がメールに置き換えることが出来るので、学生との論議や研究の打ち合わせに十分時間を割けるようになってきた。
二〇件のメールの中で個人的に必ず返事を書かねばならないものはおよそ一五、六件である。今までこの件数分、電話をしていたことになる。電話では用件だけで済ますことは出来ない。どうしてもほかの話をしてしまい、一〇分から一五分は話すことになる。したがって、メールでやり取りをしていなかった一年前までは、一日に二時間以上電話をしていたことになる。
一度にマルチに電話を受けることが出来ないので話中でお互い何度も電話をかける必要があった。その点メールは効率が良く、しかも失念することが無く確実である。どうしても肉声で話さねばならないときだけ、電話で話せばよいし、会って話せばよい。
現在、大手の企業ではほとんどイントラネット、インターネットの構築がなされたようであるが、セキュリティの問題から全従業員が必ずしも使えるようにはなっていない。エレクトロニクス関連の企業や商社は別として、今まで秘書に任せていた役員の多くは、自らキーインするのが億劫で依然として電話で対応しているのではないだろうか。
若手の技術者の中でもメールの有効性を認識した人は、会社内で使えない場合は自分でプロバイダーと契約している。彼らは職場で使えないのでいつも帰宅してから、しかもテレ放題とかの時間帯(午後十一時半から)にインターネットサーフィンとかで、あちこちのホームページを覗いたり、チャットしているようである。
したがって、次の日は寝不足で仕事に注力できない。職場で彼らが有効に使うことが出来るようになれば、仕事の効率は向上するであろう。
デジタルデバイドの話題がほんの入り口の話になってしまったが、コンピューターアレルギーなどとはもう言っていられない。今まで理屈をこねて否定していた人たち、特に中年以降の人たちは、もうそろそろ取り残され負け組になるであろう。
若者たちはデジタル化の中で育ってきたので、使える人と使えない人との格差が大きくなってきている。例えば、コンピューターのソフトのインストールを見ていると面白い。自分からいとも簡単にマニュアルも見ないでインストールする若者、いつも聞き役に回って自分でソフトを入れる自信の無い若者、全く関心を示さない若者と完全に一種のデジタルデバイドが進んでいる。彼らが世の中に出たら、情報機器を駆使できるのは結局、一部の人間だけなのか。
小学校のときから、ごくあたりまえの道具としてキータッチ、インストール、各種ソフトを用いた遊びやプログラム学習をやる環境を整えねばならない。現状では先生方がパソコンも使えないので、遅々として進んでいないようだが、教育界もデジタル人間を意識して採用する必要がある。
英語教育もやっと小学校から始めるとか、第二外国語にするとか論議されてきているが速く取り組まないと、日本だけが英語を駆使できない、一部の人しかデジタル機器を使えない民族として負け組になってしまう。
表面処理の業界の中で執拗にコンピューターを拒みつづけている役員が多いが、何をなすにも最初は厄介で効率が悪い。そこであきらめてしまっては何にもならない。時間と忍耐が必要である。そのバリヤを飛び越える努力をしなければならない。