新たな展開
関東学院大学
本間 英夫
十一月号の雑感シリーズは山下先生に担当して頂き、我々の大学の電気化学をベースとした工業化学科設立から材料・表面工学研究センターの開設に至る背景について、私とは違う視点から書いていただいた。読者の皆様には、本学の電気化学の強みと特色をさらに深くご理解いただけたと確信している。
これまでは、中村先生の遺志を受け継ぎ、小生がほぼ毎月雑感シリーズを書いてきたが、これからは山下先生をはじめとして、新研究センターの担い手の先生方に、教育、研究、技術やその他、色々な角度から述べて頂き、さらに魅力的なシリーズになればと期待している。
今月号では、本学の伝統である表面工学部門について再度回顧し、さらに新年号では新研究 センター設立の背景と二一世紀にふさわしい 魅力ある研究センターに関する抱負を述べる事にした。
表面工学研究所の設立背景
今から十年以上前になるが、本学の事業部から独立した関東化成工業の敷地に、大学と共同で表面工学研究所を構築する話が持ち上がった。それは、関東化成工業が誕生してから三十年が経過した年の事だった。
その三十周年を記念して発刊された記念誌には、当時の関東学院の理事長が、「関東学院大学は本年創立五十周年を迎えるが、関東化成工業が三十周年といっても、本学院の事業部であった時代を加えると、実質五十年である。私は、学校が事業を行っても良いという事を大事にし、産学協同の道を益々進んでいきたいと思う。特に、めっきの専門家である本学院の本間先生の新しい技術に大いに期待している。関東学院は研究のみならず、前向きに産学協同に乗り出していく所存である」と語られている。
この式典の数ヶ月前、小生は五十八歳であったが当時の関東化成工業の坂本社長と対談形式で歴史的背景と今後の技術のあり方について語っている。その内容に少し説明を加え、表面工学研究所を構築してきた背景を思い起こしてみた。
産学協同による「めっき」技術が原点
関東化成工業の原点は、関東学院の事業部時代に開発された「めっき」技術である。その第一歩は金属への「めっき」で、当時としては画期的な技術である「青化銅めっき」を中村実先生が開発され、工業化された。
これは、今で言う低コスト化技術の草分けであり、「めっき」の自動ライン化を可能にするものであった。この技術を基に、関東電気自動車工業(現 関東自動車工業)と自動車用バンパーへの「めっき」の取引が始まった。
次に、中村先生、斎藤囲先生(現ハイテクノ社長)を中心に、「プラスチック上のめっき」の工業化を世界に先駆けて成功させ、関東自動車工業を通じトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)との取引が始まった。この二つの偉大な技術が、関東学院の事業部によって生まれ、今日の関東化成工業の礎となっている。
この様に、「産学協同」がすでに半世紀前から実施されていた訳である。しかも、この二つの「めっき」技術は完全に世界をリードしていた。
「光沢青化銅めっき」の開発により、銅めっき後のバフ研磨を省く事が可能となった。また、「プラめっき」の開発には、私自身も深く関わってきた。当時、同志社の大学院を中退し、本学に戻った私は、プラスチックに「めっき」が出来ると言う事に感動し、後に関東化成のメンバーとなった先輩達と研究していた。「世界で初めての事をやっている」という自負心から、大学院時代や助手時代には、ワクワクしながら昼夜を忘れ、日曜日も無しに、実験に勤しんだものである。
中村先生が晩年よく話題にされていたが、開発期間当初は不良の山で、毎月百万円程度の赤字を出していたが、学院の創立者で理事長であった坂田祐先生にご理解を頂き開発が続行できたことが成功に繋がったとのことである。
しかも、「プラめっき」の技術は特許を取らず公表したのも、学校の校訓である「人になれ、奉仕せよ」の精神に基づいている。
現在、世界的に認められている「プラめっき」のキーとなる無電解めっきの理論は、中村先生が、東京オリンピックの年(一九六四年)、事業部の技術のトップであった齊藤先生(当時三一歳)を横浜国大の修士課程に送り込んだ事に始まる。
今から四十五年以上も前の事であり、今でこそ、社会人が修士課程や博士課程に入って技術開発を進めるようになってきているが、当時としてはほとんど日本では例を見ない事であった。これは中村先生が、すでに先進諸国と対等の関係で研究開発を進めていく必要性と、母校である横浜国大の電気化学のポテンシャルの高さを認識されていたからである。
齊藤先生が、無電解銅めっきの研究を通して見出した混成電位論は、後年世界中の注目を集める事になる。その論文の一部、銅錯体の配位数や安定度等の項目は、私が同志社から戻った後、本学の専攻科在学中に手伝っている。
この論文で理論付けられた「無電解銅めっき」技術は、その後の実装技術の発展に大きく貢献することになる。私はその翌年、本学に大学院が開設され工業化学科の一期生となった。また、当時事業部で働いていた多くの人たちは、本学院の夜学の高等学校や大学で学んでいた。
産学協同のルーツはこのように理想的な形で進んでいたが、残念ながら七十年安保闘争から、学園紛争が激化し、「産学協同路線粉砕」が掲げられ、これを阻止すべく、助手であった私はいつも矢面に立ち、学生と論議を重ねたが、いつも平行線であった。ついには中村先生が大学を去られ、事業部は関東化成として独立する事になる。
環境問題への取組み
この頃から、公害問題に対する取り組み方が変わってきていた。廃水処理からめっき工程をクローズド化する。つまり今で言う有用物質を回収してリサイクルする技術の開発である。
このころ、研究室での基礎研究を推進する為には、様々な道具が必要となり、それらの道具を作ってくれたのが関東化成の工機部であった。中村先生が設計した「京浜島めっき工業団地」は、これらの技術の集大成である。この様に、「めっき」に関わる技術では常に世界をリードしてきた。
世界中の「めっき」に関わる経営者や技術者が、中村先生、斎藤先生、私を通して頻繁に京浜島のめっき工業団地や関東化成の視察に来たものである。この様にして「産学協同」が関東化成工業を大きく発展させてきた。
最先端技術の開発および実用化
これ以降も、中村先生の指導の下、関東化成工業と画期的な開発を行なってきた。この頃から、コンピュータが盛んにもてはやされるようになってきていた。当時はまだ大型コンピュータが全盛で、様々な事を試みたが、行き着いた所はワンボードのマイコンであった。このマイコンに着目し、マイコンで制御されためっきラインの開発・実用化を行ってきた。
私が中村先生のアドバイスで「無電解めっき」に特化して博士論文を視野に入れて研究し始めたのはこの頃からである。
特に、『高速無電解銅めっき』の研究と、マイコンの組み合わせは私の博士論文の主要項目であり、数年後、関東化成の「KAP‐8」の開発に繋がり、この技術は、神奈川県の第一回工業技術開発大賞を受賞し、日本をはじめ世界各国で特許を取得することになった。
開発の過程では、セレンディピティー(偶然に運よく見つける才能)が、威力を発揮した。学生にはいつも実験を行うときはよく観察するようにアドバイスしているがセレンディピティー的なセンスは極めて大切である。「KAP‐8」と同時期に行なっていた「コンポジットめっき」の開発も、このセレンディピティーのセンスが発揮され、湯水のようにアイデアが湧き出てきたものである。このコンポジットめっきは現在よく使われている機能めっきの走りである。
このように、事業部時代を含め、常に「めっき」技術の最先端を走り、これらの技術を広く世間に公表し、汎用技術として役立っている。
「産学協同」のスタンス
私の基本姿勢は、関東学院の校訓にもあるように『人になれ、奉仕せよ』の精神で、研究開発した成果は広く公表すべきとのスタンスで取り組んできた。実際に大学で受けていた委託研究にしても、基本的にニュートラルな立場を貫くために、出来るだけオブリゲーションを少なくし将来、役に立つであろう技術開発に注力してきた。しかも、二十一世紀の日本の製造業を考えたとき、世界で生き残って行く為には、より難易度の高い、最先端を走る技術分野での研究開発が重要である。
坂本元社長は、研究開発には、ある程度の資金やスタッフが必要で、その意味では、特許の共同出願の様な事を考えて体制を整備しなければならない。そういう点では学校側の体制を含め変化は必要であり、共同で開発するにしても全てがオープンになっては、他社にアヘッド出来なくなり、企業として成り立たなくなるのではないかと
私の考え方には少し異論を唱えられた。また、企業と学校の契約と言う形で、成果を共有していく体制や、共同研究・委託研究を積極的に進めるには、スタッフや資材を充実させる事が必要ではとの提案があり、関東化成の三十周年を記念して研究所構築の計画が大きく前進する事となった。
「技術の関東化成の再構築」
以下に対談の内容をそのまま紹介する。
〈坂本〉今、先生は数多くのテーマに取り組んでおられますが、二十一世紀へ向かって関東化成が取り組むべきテーマについてご指導下さい。
〈本間〉日本の製造業の活き残りの道は、先程話しましたように、より高度な、難易度の高い最先端技術という事になります。「めっき」の分野でも、大きな市場が期待出来ます。昨年(一九九八年)、米国IBM社が採用を発表したダマシンプロセスは、半導体の回路形成を従来のアルミ配線から銅めっき配線へ換えて、高速化を図ると言うものです。
又、半導体と基板の接続方法でもめっきが有力視されています。従来のハンダによる接続から、半導体へめっきでバンプを形成、あるいは基板側へめっきでバンプを形成する方法です。このように、「めっき」技術の最先端は現在の所、エレクトロニクス分野で大いに注目されています。
そして、これらの技術は、ドライめっきの延長線では困難なレベルになっています。ウェットの技術が無ければ実現出来ません。そこに関東化成の持っているポテンシャルの高い「めっき」技術の活躍する場があり、関東化成にはその能力が充分にあります。
当然、私も含め、学校とのタイアップで開発する体制を関東化成もより強固に推進される事を期待しています。
中村先生がかつてこんな事を言っておられました。『ハイテックめっきが無ければローテック』。まさにその言葉通りの世界になってきています。
〈坂本〉「めっき」がハイテクの世界で見直されている訳ですね。関東化成も開発部隊の体制を見直し整備いたします。そして、これから「技術の関東化成」を改めて構築したいと思います。
それともう一つ、忘れてはならない事があります。自動車の世界でもそうですが「環境」でハッキリとした意思表示が絶対条件となっています。
〈本間〉昭和四十年代から「めっき」は公害の元祖みたいに言われて来ました。
その中で、様々な環境対策を実施してきました。産業廃棄物としての処理から工程内のクローズド化、そしてリサイクル化にもいち早く取組んできました。
今後、更に注力しなければならない課題として、環境にも、働く人にも優しい薬品・工程などの開発です。研究室では、今までもこれからも常に、その事を意識して取り組んでいきます。
インテリジェント&クリーンな「二十一世紀のめっき工場」
〈坂本〉近い将来、「二十一世紀のめっき工場」を造りたいと思いますが、その時のコンセプトはどのような事でしょうか。
〈本間〉「インテリジェント化」と「徹底的なクリーン化」です。優秀な人材と大胆な投資によりこれらは可能です。特にクリーン化技術は雰囲気だけでなく、ろ過技術等も考えるべきです。関東化成は人材的にも、技術的にも、充分にその力を持っています。チャレンジして下さい。
以上のように関東化成の三十周年に際して、大学と関東化成の間での産学協同の再構築の必要性から、その三年後(二〇〇二年)、関東学院大学表面工学研究所が開設された。
多くの企業から御支援頂き、研究成果に関しては、契約企業には研究会などを通して討議し、その基礎技術を取り込んで発展した企業は何社にも上る。学生が中心となって研究してきた内容は、広く公に公表してきた。
しかしながら、リーマンショックを契機に、今まさに産業界は変革の時を迎え、大学も大きく変わらねばならない。
幸いにも大学の研究機構の御尽力で、昨年十二月に横浜市と大学との間で産学連携の協定が結ばれた。それを契機に、三十社以上の企業から賛同を頂き、横浜市の工業技術支援センター内に大学の新研究センターを構築する事となった。
十月二五日に、賛同頂いた企業向けにキックオフミーティングを開催したが、百名近くの方々に出席いただいた。
これからは、大学の「知」の活用がキーになるが、産業界との信頼関係をベースに、より緊密に連携し、「ものづくりは人づくり」高度な技術者の養成の場として、また、魅力ある基礎から応用に至る研究所に育てていきたい。