大地震当日の行動

関東学院大学材料・表面工学研究センター
本間 英夫

3月11日、誰もが経験したことのない観測史上最大の大地震。前日は湯河原で大学の一泊の懇親会に出席後、翌朝の地震当日、帝国ホテルで開催される表協分科会の経営者ミーティング(SYMTEC)に向かった。

地下鉄に乗り換え、都営地下鉄三田駅の手前で急停車、車両が妙に揺らいでいる。「地震がありました。しばらくお待ちください。」車両が10分ほどストップしていたが、不安げな表情もなく乗客は静まり返っていた。その間、何度も間欠的な大きな揺らぎが続いた。

そのうちに震度6点何がしとのアナウンスがあり車内は初めてざわめく。地下鉄の車両内では地上とは異なり揺れがかなり緩和されるのであろう。三田駅に徐行運転で到着したので下車し、時間に遅れるといけないとタクシーに乗り換える。その時点ではもう余震は来ないだろうと、それほど不安ではないような状況であった。

ところがタクシーに乗ってしばらくすると、ゆさゆさと余震が始まる。ビルの屋上の大きなアンテナは共振して弓のようにしなる。車の中は狭い空間だし、タイヤが緩衝して妙に不安はない。その時点で道路の両サイドの歩道にはビルから屋外に飛び出した人であふれている。センターラインの緑地帯にも多くの人があふれんばかりだ。ビル街では防災意識が高く、日頃訓練されているのであろうヘルメットを着用しているサラリーマンが多い。ほとんど車は動かないが、その間、何度も余震があり、ほんの数キロ先のホテルに到着するまで1時間以上かかった。

ミーティングが開催される時間をすでに1時間以上も過ぎており、ロビーは人でごった返し、エスカレーター、エレベーターはすべてストップ、3階の会場まではホテルの係りの人が誘導してくれた。すでに、幹事の判断でミーティングは中止となっていた。中止とともに何人かの幹事は帰ったと言う。全国から集まる会合であったので10人くらいは残留しており、さらに自分よりも遅れてタクシーで会場に来た人も数人いた。

携帯電話で連絡を取ろうとしても、全く電話が通じない。ワンセグでテレビを見ていると、刻々と入ってくる情報でかなり大変であることが分かる。交通機関のほとんどがストップしているので、今日はその会場で泊ってもいいとの判断がホテル側から出された。

その間も何度も余震が続き、天井のシャンデリアが大きく揺らぐ。ホテルの耐震性は保証されており緊急時の避難所に指定されているので1階のロビー、2階の会議室は避難してきた人でごった返す。折角、全国各地から表面処理関連の経営者が集まってきているので雑談で終わるのではなく、何人か話題提供してはと提案したが、そのような雰囲気にはならなかった。もう少しリーダーシップを発揮して、そのような雰囲気を作ろうとも思ったが、自分が主催している会議ではないので控えることにした。しかし、時間が経過する中で余震はあるが、ほとんど不安が無いので、短時間でも話題提供や情報交換をすればという考えが頭をよぎったが時間だけは確実に経過していった。そのうちに地方から来ていた経営者は、それぞれ明朝まで帰る為に新幹線や航空機の予約や、羽田近くのホテルの予約などインターネットにアクセスしていたので、話をする雰囲気は完全になくなった。8時過ぎからは、それぞれ東京近郊の人は自宅に帰るとか、地方から来ていた人は予約していたホテルに行くとか、それぞれ自分なりに判断し行動していた。

最後にホテルに残ったのは横浜方面では日本フィルタの社長と私、愛知県からの刈谷めっきの社長、富山県から来ていたユニゾーンの専務、京都から来ていたメテック北村の社長と事務局の寺沢さんで、ホテルで仮眠をとることに覚悟を決めた。エビナ電化の海老名君は自宅がそれほど遠くないので奥さんが車で迎えに来ると言う。10時ころ海老名君の奥さんがホテルの近くまで来れたと言うので、海老名君が私を自宅まで送るとの提案をした。奥さんの話によると彼の自宅からホテルまで2時間くらいだったと言うので、それから横浜まで高速に乗れば時間はかからないだろうと甘い判断をした。当初の提案は日本フイルターの社長と飛行機で羽田から帰る刈谷めっきの社長とが同乗し、刈谷めっきの社長は海老名君の自宅に泊まり、日本フイルターの社長と私を自宅まで送ろうと言うことであった。両社長はホテルの会議室で仮眠をとると固辞したが、遅くとも10時過ぎには帰れるだろうと同乗することになる。これが大きな判断ミスで海老名君の自宅までおそらく10キロくらいだろうが、4時間もかかった。これでは横浜まで送ってもらうのは、到底無理と判断し、泊めていただくことになる。仮眠をとり朝7時過ぎに羽田へ向かう刈谷めっきの社長を海老名君が車で送り、日本フイルターの社長と私の二人は、東横線の鈍行で横浜へ、そこで別れて私は京急線で自宅近くの駅まで行き、駐車場に置いてあった車に乗り換え、家にたどり着いたのは10時頃であった。帰宅困難者と言われた人は何百万人にも上るだろう。皆さんにはそれぞれの当日から翌日にかけてのストーリーがある。結果的にはホテルに残らざるを得なかった、ユニゾーンの専務と京都から参加していたメテック北村の社長はジタバタせず一番、いい判断をしている。ユニゾーンの専務に翌日電話したが、京都に着いたところで、これから前原経由で帰ると言う。ということはメテック北村の社長も無事京都に帰っている。東京近郊から来ていた社長連中では4時間以上徒歩で自宅にたどり着いた人もいる。非常時の適切な判断は難しい。こんな些細なことで多くの紙面をとってしまったことをご容赦願いたい。

今回の震災がこれまでにない1000年に一度の地震だと言われるが、地震の被害だけであれば、乱暴な言い方であるが日本の建築技術が優れているので、それほど大きな被害にはならなかったであろう。ところが、時々刻々と入る報道で徐々に東北地方の悲惨な状況が伝えられ、津波、それに伴う原子力発電所の停止により世界で初めての大きな被害となっていることを知り戦慄を覚える。この様な危機的な状況がテレビやメールで知るにつれて早速、表協の学会が本学であることになっていたので、中止にすべきだと実行委員長である山下先生および表協の事務局に連絡した。その2日後に学会の講演会は中止になった。また、東北地方には沢山の我々の関連する大手の企業や中小の企業がある。メールや電話で連絡を取ったが全く通じない。4,5日後にやっと連絡が取れるようになったが、知り合いの企業数社では壊滅状態の工場があると言う。また、毎日多くの方々から安否の情報が入る。外国の友人(韓国、中国、アメリカ、イスラエル、ドイツ)からも見舞いや激励のメールが入る。生まれ故郷の幼馴染みから電話やメールが入り、この様な時に友情の厚さに感動を覚える。

ノー天気なたわごとを言うな!とのお叱りを受けるのを覚悟で記すが、東北の悲惨な状況、人間の英知の到達できない、自然の猛威この現実を冷静に受け止め、落ち着いたら、これから夢のある技術の提案を、少しでも日本の明るい未来を提案できる技術を最後の奉仕の気持ちで専念していくつもりである。大学の卒業式、入学式も中止になり3月27日までは休講になったが、研究センターは幸いにも地盤が強く、ほとんどダメージが無かった。そこで学生には自宅で怠惰な生活をするよりもセンターに来て、午前中は英会話を中心とした学習、昼からは実験の計画など話し合おうと連絡した。多くの意識の高い学生は早速行動に就いた。私自身、歳をとった。後、何年、生きられるか分からないが残された期間、研究と教育をベースに奉仕していく覚悟である。

今こそ強いリーダーシップを

政治不信、凶悪事件、うつや自殺者の増加、就職問題、格差社会、企業不祥事の数々、さらには、経済的にも、世界的な大不況に喘いでいる最中、今回の大災害が起こってしまった。この困難な状況を打破して、夢と希望と勇気を与えるには、組織の長はもちろんのこと、人を率いる全ての人が、強いリーダーシップを発揮することが重要である。今回の原発の危機対応に関して、傍観者である我々は何とでもコメントできるが、現場に従事している人たちは命をかけて対応している。しかし迅速で的確な対応となると有識者がコメントしているように管理社会の弊害が指摘されている。今回の大災害の起こる前、昨年12月の中頃に「マネージメント信仰が会社を壊す」という本が発刊された。発刊一カ月後にさらに増刷りされていた。管理され硬直化したマネージメントだけでは迅速な危機管理、また、これまでの経済情勢の混迷を解決できない。今まさに強いリーダーシップを発揮せねばならない。今回の原発も含め混迷を招いた原因は管理された社会でのリーダーシップのあり方に問題がある。他人を率いる立場になると、強いリーダーシップとそれを誠実に受け入れる従業員の強力な絆で結ばれた協力体制が重要である。企業においては、かつて右肩上がりの経済環境下にあって、あまりリーダーシップを意識しなくても成功してきた。これからは被災地を救う、国を救う、皆が一丸となってそれぞれの立場で何が出来るか行動をすべきである。一万人以上もの犠牲者、何十万にも及ぶ何もかも失った人たち、被災地の惨憺たる状況を知るにつけ政治家は早い段階で挙党一致のもと、政治的な駆け引きなどやっているような余裕はないはずだ。

日本で電力の原発の依存度は30%を超えており日本全体で56基?の原発があると言う。地震大国での原発、耐震性は絶対に大丈夫との安全神話が脆くも崩れた。今回の事故で原発反対との声が出ているが、既存の原発をストップすることは出来ないし、これからも資源の無い日本では原発の依存度を低下させることはできない。絶対ということは言えないが、今回の経験を生かしてさらに安全な原発を進めねばならない。その間、日本は海洋大国で海底には次世代のエネルギーと言われるメタンハイドライドが100年分くらい埋蔵されていると言う。ニッケルの豊富なマンガン団塊やレアメタルなど海底資源の開発を含め、今回の経験を生かして日本の技術力の底力を発揮してもらいたい。我々も表面処理や材料の領域で微力ながら貢献していくよう努力する。

  

強いリーダーシップと社員の絆

本日は3月19日、今回被災で大打撃を受けた東新工業の山崎社長からのメールをほぼ原文のまま紹介する。素晴らしい強いリーダーシップと従業員それぞれの一丸となった対応である。

この度の大地震に際し、先生初め皆様には大変なご心配をお掛けし、また暖かい励ましや援助のお話しを頂き深く感謝申し上げます。私もいわき工場に滞在中に地震に遭遇致しましたが、幸い社員、その家族にも1人の怪我人もなく、お陰様で全員の無事を確認できました。いわきの社員のうち、社員4名が津波で家を失っております。

また、いわき工場の工場長の実家が、岩手県山田町にありご両親、奥様のご両親共に数日間連絡が取れませんでしたが、全員の無事が確認でき安心しております。因みに、ご両親は車で山に逃げる途中に津波に巻き込まれ、5キロ流されたそうですが、幸いに引き波の時に大木に引っかかり助かったそうですが、目の前で何人もの方が引き波につれて行かれたそうです。工場の状況は工場の天井の一部が剥がれたり、事務棟の一部がかなり被害を受けていますが、生産設備については断線等が若干あったものの復旧できております。廃水設備には全く異常はなく、廃液の流出、配管の割れもなく何よりでした。三進さんの設備が良かったのか?世間様に顔向けできない状況は回避されたことで皆一安心でした。地震翌日の土曜、日曜には8割以上の社員が出社してくれ、徹夜で復旧作業を進めてくれました。当初、水もないガスもない(電気は切れませんでした)状況で、少なからずどの家も被害がある中で復旧を進めてくれた社員には、ただただ頭が下がるのみ、感謝の言葉もありません。幸い、農家の者も数名居り、井戸水があったり、山の湧き水があったりと、厳しい状況の中で、毎日大量のおにぎりを炊き出ししてくれたり、水を大量に持ってきてくれたりと大変に助かりました。改めて、社員の絆や愛社精神に頭が下がりました。因みに未だに水道は復旧していないので、殆どの社員が未だに風呂に入れないばかりか洗面も満足に出来ない状態です。

皆さんもご存知のように福島第一原発の事故により、当初22日までの休業予定を今月一杯としております。いわき工場の位置は、福島第一原発から42キロの場所にあり、屋内退避30キロ圏内に在住する社員も数多く居ます。これも、水がないために井戸水を持っている社員が連絡を取り合って、持って行ってくれていますので助かっています。コネクターメーカーからは21日からの操業を求められていますが、私の使命として社員を危険に晒す訳にはゆきません。然しながら、早急に復興し稼がないことには、家を失った社員の生活を再建出来ないことも事実です。このことは奇麗事ばかりでなく、毎日いわきの社員に感謝の言葉と共に伝えました。いわきでは流言デマが流れ、放射能の知識がないばかりにパニック状態に陥っていることも事実です。当社では、清川さんに頂いた情報、先生に頂いた情報を社員に流し安心させてはおりますが、町全体を包む空気がそれをも駆逐する勢いで、不安ばかりが広がっているようです。一昨日より、めっき用の治具、在庫品をいわきから脱出させる社員に横浜に運んでもらっており、横浜では各メーカーの要請で不眠不休での加工が続いています。横浜の社員にしても、計画停電のために朝3時起きで、徒歩で通勤と言う者も数多くおり、誰も文句も言わずに休みもなく対応してくれ、これまた頭が下がるばかり、感謝の言葉もありません。横浜本社は、近くに横浜市大病院があるため停電はありません。小さいお子さんがいる者、避難命令地域の家族から優先に横浜に疎開させており、会社の近くのアパートマンションは、現在東新村?と化しています。

私もいわきの工場がひと段落付いた15日の夜中に、一般道を使いながら10時間かけて戻って参りました。途中の北茨城辺りの港町は津波の爪痕で地獄のような光景でした。先ほどいわきから到着した社員の話では、いわきではガソリンはもちろん、食料も底をついてきており、お店は何処も閉まっており、水道は出ない、給水所に行くにもガスがない、30キロ圏外でも放射能が怖くて外に出ないと、まるでゴーストタウンのような状況とのことです。この地震で危機管理の重要さ、社員の有難味、皆様のご芳情を感じ入った次第です。被災された方、避難所で厳しい生活を強いられている方もまだまだ沢山いらっしゃいます。一日も早く物資の供給が開始され、原発の安全宣言が出されることを祈っています。私共もこの状況に負けず頑張ります。最後に手前味噌で恐縮ですが、地震時に私がいわき工場に居たこと、陣頭指揮で社員を落ち着かせたこと、社員の安全、家族の安否を第一に優先することを常に宣言したこと、あらゆる原発情報を流してあげたこと、そして日頃から一枚岩の結束を謳い社員間の情報共有と絆が強かったこと、ある意味体育会系の上下関係がきっちりしており、指揮命令系統が出来ていたこと等が良い面に働きました。やはり、経営者は社員のため、その家族のため、そして地域、社会のためとの姿勢を日頃から実践することが、非常時の結束を生むことが実感させられました。