踏まれて伸びる麦
材料表面工学研究所顧問
佐藤祐一
♪山懐の段々畑 麦踏ながら見た雲は あれは浮雲 流れ雲 一畝踏んで振り向けば 風にちぎれて 空ばかり♪.子供のころ聞いたNHKのラジオ歌謡の一つ「麦踏みながら」で懐かしい歌である.麦踏は1,2月に行われる農作業で,青々とした麦を足で踏みつけることによって強く根が張り良い麦が育つのだそうである。
先月末世界中を駆け巡った小保方さんの「刺激だけで新万能細胞」のニュースを聞いたとき,なぜか私はこの歌を思い出した.近年にないスカッとした鮮やかな大発見,大発明である.
iPS細胞発明の時もニュースを聞いてうれしかったが,このときは少し内容が込み入っていて記事内容をよく読めば理解できたが,今その内容を正確に空で言えと言われても記憶力の鈍った頭では到底無理である.
それに比べて今回の快挙はマウスの脾臓から取り出した白血球の一種のリンパ球を弱酸性液に25分間浸し,その後培養すると,数日後に万能細胞に特有のたんぱく質を持った細胞(STAP細胞と命名された)ができたというあっけないくらい簡単な説明である.
万能細胞とは筋肉や内臓,脳など体を作るすべての種類の細胞に変化できる細胞のことである.このSTAP細胞をマウスの皮膚下に移植すると,神経や筋肉,腸の細胞になった.そのままでは胎児になれないように操作した受精卵にSTAP細胞を注入して子宮に戻すと,全身がSTAP細胞から育った胎児になったという.
紅茶程度の酸と言われても,温度,濃度,溶液の種類等々,この条件をみいだすまでには膨大な実験が行われたことであろう.私は特にこの発見のきっかけとなった実験結果の解釈とそこからのとんでもない発想につながったことを特に高く評価したい.
小保方さんはハーバード大学に留学中,再生医療につながる幹細胞の研究をしていた.いろいろな細胞になれる幹細胞は,普通の細胞より小さいという特徴がある.マウスの体からとってきた細胞の中から小さい細胞だけを選り分ければ,幹細胞を集められるのではないか.彼女は指導教授のアイデアに従い,細いガラス管を通して小さい細胞を選別する実験をしていた.内径0.03〜0.05㎜のガラス管を通すと,確かに幹細胞のような細胞が出てきた.
ところが,ガラス管を通す前の細胞の中には,幹細胞は全く見つからなかった.普通なら,あるはずなのに見つけられないだけ,あるいは私なら受け皿に幹細胞が付着し汚れて始めから汚れていたか,あるいはあとから空気中かどこからかの混入により汚染されたのかもしれないと考えるだろう.
しかし,彼女は違った.幹細胞が選り分けられるのではなく,細いガラス管の中に押し込められるという刺激によって,幹細胞のような細胞が“作られている”のではないかと考えたのである.以下,私の推定である.
彼女には運がついていた.もし,小さい細胞を選り分けるだけならば,ガラス細管の口径だけが重要であり,その長さは短くてもよいはずである.しかし,それでは刺激を受ける時間が短すぎる.また,ある程度以上長ければ,細胞の管内を通過する時間,すなわち,刺激を受ける時間が長すぎ細胞が死んでしまったかもしれない.
運よくちょうど幹細胞に変身できるくらいの長さ,通過時間だったのだろうか.あるいはガラス管の管径や長さをいろいろ変えて,幹細胞のできる数との間に相関性があるかなど検討し,最適の長さをみつけたのだろうか.
このような実験結果を細胞に対する刺激と考えたところがまず素晴らしい.そして,刺激ならば他の手段でも良いはずであると考えを飛躍させたとところも素晴らしい. その刺激を与える他の手段として,細胞に毒を与えたり,熱したり,飢餓状態にしたという.その中で最も効率よく作れたのが,弱酸性の液体に浸す方法,浸す時間は25分,細胞が死に瀕すると変身するのではと考えた.
常人には思いつかない素晴らしい発想の飛躍である.だが,当初,ネイチャーに投稿してもレフェリーに信じてもらうことは難しかった.いったん様々な組織になった細胞が,環境を変えるだけで幹細胞などに戻る(初期化)現象は人参などの植物では見られるが動物では絶対ありえない.何百年にもわたる胞生物学の歴史を愚弄しているとのレフェリーの厳しい意見もあったという.
常人ならここであきらめるのが普通であろうが,彼女は違った.自分の実験データに絶対の自信があったのだろう.1年にもわたって,レフェレリーの反論を補足実験で補い,ついに説得,あの1月30日のネイチャー誌の発表になった.その具体的なやり取りが知りたいものであるが,いずれ何年かあとで公表されるかもしれない.まだ,今回の発見はネズミの細胞についてである.たぶん,ヒト細胞での可能性を示す実験が彼女のグループを含めて世界中で猛烈な勢いで始まっていることであろう.
もしヒト細胞の初期化が成功すれば,再生医学分野に大きな可能性が開けてくることであろう.興味本位の心無いジャーナリズムが彼女のプライバシーを侵すようなしつこい取材を続け,その研究時間,研究環境を妨害するようなことは絶対あってはならない.
私のこれまでのささやかな経験でも,ある程度評価された論文は多かれ少なかれ,雑誌に公表されるまで難産だった.たとえば,使い込んだニッケルカドミウム二次電池に現れる電圧降下,したがって,使用時間が短くなり,ついには使えなくなる「メモリー効果」原因究明の時がそうだった.
当初,アメリカのNASAが人工衛星に使用していたこの電池のメモリー効果の原因は負極のカドミウムが充放電により溶解,析出を繰り返すとカドミウム金属からひげ(デンドライト)が成長し,セパレータを突き破って,正極のニッケル極とセミショート(短絡)するためとの論文を出していた.したがって,その後現れた負極に水素吸蔵金属を使用するニッケル水素二次電池ではメモリー効果が表れないとする論文も現れたが,やはりこの電池にもメモリー効果が表れた.
メモリー効果の原因はニッケル極,または別のところにあると考えられたが定かでなかった.われわれもこの原因究明に注力し,メモリー効果の原因は充放電を繰り返すとニッケル極が過充電され,ニッケルの平均原子価が3.6位のγ-オキシ水酸化ニッケル(γ- NiOOH) (正常時は2価の水酸化ニッケル(β-Ni(OH)2)と3価のオキシ水酸化ニッケル(β-NiOOH) 間の往復) が生成するためであることを見出した.
この化合物は電位が低く電気抵抗が大きいため放電電圧が低下すると解釈した.ある年の電池分野の討論会で発表したら,当時の日本電池(株)や湯浅電池(株)の第一線の研究者たちから自分たちも永年研究しているが,X線回折でもγ- NiOOHは見いだされない.実験データは信用できないとコテンパーに批判された.
それから2年間くらいかかって,やはり原因はγ- NiOOHである.この化合物は集電体に近い表面から離れた深い部分から生成するのでその生成量が少ないと表面からのX線回折ではγ層までX線が到達できないため検出できないこと,表面から少しずつ電極を削って薄くしていくと電極の深い部分,つまり集電体に近い部分に生成したγ- NiOOHが検出できることを検証した.そして,メモリー効果が起こっても浅い(時間の短い) 充電と深い放電を繰り返すことによってγ- NiOOHが消滅し,電池性能が回復することも証明,いまでは電池分野で受け入れられている.
また,別の話,今から40年くらい前,東芝に勤務していたころ,クーロスタット法という電気化学的な迅速腐食速度測定装置を発明した.特許を申請したところ容易に類推される技術であると特許庁から却下された.
何回か特許庁に通い,審査官と面接,そのもととなったアメリカ電気化学会投稿時のレフェリーのExcellentというコメント付き手紙を提示して審査官を説得し,ようやく特許は成立した.しかし,東芝には半期100億円以上の売り上げが見込めないと製品化しないという不文律があった.
我々は何とか製品化したいといろんな展示会でPRしたところ,北斗電工(株)という電気計測機器メーカーが製品化してくれることになった.ローヤリテイは10%,ただし,技術的対応は東芝が行うという破格の好条件で数十台売れたころ,本社のトップから腐食防食研究などという利益にならない開発部隊は解散せよという指示のもと,数人のメンバーは別のグループに組み込まれてしまった. そのため,技術的援助を受けられなくなった北斗電工はこの製品の製造を中止した.東芝の主要事業である発電プラントの冷却系統には多量の水が使用され,金属の腐食防食技術は非常に重要な基礎技術であるにもかかわらず,トップの短絡的思考で腐食研究部隊が解散させられたのは非常に残念であった.
話がそれてしまったが,小保方さんの快挙はいずれノーベル賞であろう.その時まで長生きしようと勇気が湧いてきた.
「後記」
以上今月号には、神奈川大学名誉教授で我々の研究所の研究顧問をお願いしている佐藤祐一先生に執筆していただいた。小保方さんのSTAP細胞の発見に至るまでのパイオニア的な研究者の姿勢をご自身の体験とも重ねて書かれているが、研究に携わってきた人には大なり小なりおなじ経験をしている。
ハイテクノの社長である斎藤先生は今から50年以上前になるが、ホルマリンを還元剤とした無電解銅めっきの反応の局部アノード反応で水素が出ることを発見された。当初は指導教授からそんなバカなことがあるかと一喝されたのは有名な話である。私自身もどちらかと言うとパイオニア的に色々アイデアが思いつき研究に着手してきているので何度も同じ経験をしている。
本間