阪神大震災26年~あの時の思い

関東学院大学 教授
材料・表面工学研究所 副所長
香西 博明

 最近、毎朝、NHK連続テレビ小説 宮城県気仙沼市の物語“おかえりモネ”を欠かさず見ています。
 そして、1つ、思い出す出来事があります。それは、6434人が亡くなった阪神・淡路大震災の発生から今年で26年を迎えました。あの日を思い出すと、いまもいたたまれない気持ちになります。まさか、あんな大きな地震が来るなんて、誰もが想像しなかったことでしょう。1995年1月17日午前5時46分、私は、実家の兵庫県宝塚市に帰省していました。“ゴーッ”という音と同時に突き上げられるように、家が激しく揺れました。私は、衝撃で飛び起き、停電の暗闇の中、無意識に洋服ダンスを押さえていました。耳にはバタン、ガシャンという音が1階から何回も聞こえてきました。揺れがおさまって、両親の寝室へ、“私達は大丈夫”と父の声が聞こえ、うす暗い中を、階段をおりて、周りを見渡すと、タンス、書棚は倒れていて、食器棚からは、食器が足の踏み場もないくらい砕け散っており、使用できなくなっていました。母もおりてきて、散乱した食器類を一生懸命に片づけていました。一緒に片づけながら、まだ家が揺れている気がして、とても怖かったことを思い出します。夜は、ろうそくの火の中、早めにご飯を食べました。ライフラインはすべて寸断されており、暖かい物を口にすることはできませんでした。家族全員が無事であることが、とても有り難かったことを今のように記憶しています。その夜は、全然眠れなかったのですが、ラジオを聴いていると、停電で映像を見ることができなったのですが、被害の大きさや、死傷者の人数がだんだん増えていくことに、とても信じられませんでした。
 次の日、私は、飲み物・食べ物を、阪急電車宝塚線が復旧したことを確認し、大阪・京都まで、リュックサックを背負い、往復何時間もかけて行きました。自宅を出て、阪急宝塚駅まで向かう途中、瓦葺き屋根は落下、木造屋根が倒壊しており、そして水道管の破裂、都市ガスの臭い等被害が甚大であることを目の当たりにしました。電気が復旧し、テレビを見ると、ボランティアの人達が、色々な地域から来ていることに驚きました。阪神高速道路の倒壊シーン、神戸市長田区の延焼など現地の衝撃的な映像は、26年経ても未だ記憶に新しく、おそらくこの後も忘れられることのない出来事となっています。そして、当時、携帯電話は普及しておらず、公衆電話に長い列を作っていました。今や国民の多くはスマートフォンを持ち、SNSが発達し、災害時にツイッター投稿が救助のきっかけになるという有り難い時代でもあります。
 阪神大震災をきっかけに、全国各地で防災対策が進みました。大震災当時、約1100の避難所に最大約31万人が避難しました。被災者の密集や寒さから体調を崩す人が多くいました。その後、国は災害関連死を防ごうと、指針を作り、衛生管理の徹底を呼びかけました。近年は、床の冷たさから体を守り、プライバシー保護にもなる段ボール製ベッドも普及し、避難生活の質の向上が図られています。現在、新型コロナウイルスの感染拡大で、改めて避難環境の見直しが迫られています。
 さて、私、その年の4月、福島市の大学に赴任し、自分は被災地とどのように距離を取ればいいのか。答えが見つからず、出発したことを思い出します。どんなに時がたっても1月17日は、忘れてはならない節目の日であります。宝塚市、84名の犠牲者を改めて追悼したいです。そしてそれぞれに思いを新たにし、災害に強い社会にできたでしょうか、災害で人生を変えられた人に優しい社会になっているのでしょうか。犠牲者の遺志を大切にするという思いを持ち続けたいです。神戸市にある「慰霊と復興のモニュメント」の銘板には、大震災が遠因となった犠牲者の名前も刻まれています。時間がたっても、悲しみは今もそこにあることを忘れてはなりません。毎年12月に行われている光の祭典「神戸ルミナリエ」も今年はどうでしょうか。
 95年は「ボランティア元年」と呼ばれ、がれきの片づけ、炊き出しや支援物資の分配など現場での直接の手伝いはもちろん、NPOが避難所の運営をサポートしたり、駆け付けたボランティアを把握し、人手を探している被災者につないだりする仕組みが、整備・定着して契機となりました。確か、阪神大震災以降、大災害の被災地で活動したボランティアののべ人数は、少なくとも480万人にのぼります。どの災害でも1万人超を数え、文化として根付いていることがうかがえます。だがいま、コロナ禍で人の移動は制限され、支援のあり方の見直しが迫られています。南海トラフ地震などの広域災害が起きればどこもが被災地になり、外からの応援は直ちには見込めません。地元の力を引き出し、生かす工夫を重ねてほしいです。一方で、地域のつながりは、より希薄になり、孤立している人が少なくありません。町内会や自治会は加入率が下降傾向にあります。内閣府の意識調査でも、地域の付き合いがあると答える人の割合は年々低下しています。26年たった今、新型コロナウイルスの流行によって、社会は再び困難に直面しています。他人と密接に関わる機会が減り、支援が届かず困窮する人が増えています。こうした中、暮らしを変えるという意識を持ち続け、新たなコミュニケーションづくりに取り組む市民の動きがとても必要であります。ボランティアやNPO活動は、東日本大震災で社会に根付きました。その後の災害でも生かされています。意識が変わり、自発的に行動しようとしている人たちのうねりは、まだ小さいかもしれません。しかし、一人一人ができることを実行すれば、共感する人は加わり輪が広がっていきます。その動きが積み重なれば、少しずつでも社会を変えていく力になるはずです。26年前のあの時、それぞれが抱いた思いを再確認し、行動して行きたいです。
 私も家族と話し合い。避難経路や防災グッズの確認など、できる限りの準備をしておくつもりです。
 最後に、神戸、芦屋、西宮、・・・に、訪れた人が震災の教訓を学ぶ場所になってほしいです。でもそれ以上に、地元の人々が懐かしいと思える場所になれば、・・・。そして、今後も規模の大きな地震が高い確率で発生することでしょう。「あの日」に学び「あした」を守る、阪神大震災、それぞれの思いで犠牲者をしのび、節目の日を新たな気持ちとして迎え、震災を知らない世代に震災を伝える活動をすることが大切であると考えています。

【追記】8月9日に開幕する全国高校野球選手権大会。周囲は、2年ぶりの甲子園ということに注目しがちであります。高校野球の聖地・阪神甲子園球場のグランドに立つ選手にどんな言葉を贈るのでしょうか。「甲子園に行けなかった先輩の分も」なんて思ってほしくないのです。憧れの場所・甲子園で野球ができるという喜び。それだけを感じて全力でプレーして、笑顔で存分に楽しんで欲しいと思います。頑張れ、高校球児!!